夏のはじまりを感じさせる、くどい程にギラギラとした太陽に熱された砂浜に、とある青年がただ一人ボーッと佇んでいる。
彼の名を、『ケルン』。
ケルンはかつて、船乗りとして漁業を営むことで生計を立てていた。だが、2年前の"とある出来事"をきっかけに船を失った彼は、新たな船を購入するために、この島の顔見知りが営む『野郎食堂』なるレストランを手伝う事で、お金を貯めて生活していた。
そして漸く彼は、2年の月日を経て最低限の購入資金を蓄え、中古の船を購入することに成功した。だから、彼の陸上生活もこの日で終わりだ。
2年間で世話になった人物達へ一通り挨拶を済ませた彼は、いよいよ出航を目前に控え、航海の準備で忙がしいはずの今、何故かこの辺鄙なビーチに足を運んだ。
特段思い入れのないこの場所の、一体何が彼を引き寄せたのか。それは彼自身にも分からない。
しかし、何故だか今この場所に来なければ、後悔するような気がしてならなかった。
そうは言ってもここは所詮、島のハズレの寂れたビーチ。
態々やってきたところで、特にすることはない。
わけもなく砂浜に腰掛けて、目の前に広がる大海原を眺める。
「⋯⋯⋯。」
ザザー、と、規則的に波に引きずられる砂の音に、無感動に耳を傾けていると、波の音とは違う、微かな異音を拾った。
「⋯?」
野生動物でも出たかと、腕で体を持ち上げながら腰を浮かせ、周りを見渡し─────
「─────あ、えと⋯。こんにちは⋯?」
数メートルほど離れた場所に、見知らぬ少女が、気まずそうな顔をして立っていた。
不意に目が合ったためか、咄嗟の挨拶が飛んできた。
こんな辺鄙な場所で、まさか自分以外の人間に出会うとは
「あ、あぁ。こんにちは。
もしかしてここ、君の溜まり場だったか?だとしたら邪魔して悪かったな」
「いや、そういうわけじゃ⋯。
こっちこそ、お休みのところを邪魔しちゃってゴメンね⋯!」
「別に寝てた訳じゃないし、気にするな」
「そ、そっか。良かった。」
「「⋯⋯⋯。」」
2人きりのビーチを、気まずい空気が支配する。
空気感に耐えかねたのか、はたまた単なる気まぐれか、少女が切り出す。
「それにしても、こんな島のハズレのビーチに人が来るなんて思わなかったよ。君はどうしてここに居たの?」
「特に理由は無いんだ。
だが、そうだな…。強いていえばこの場所に思い入れ、と言うよりは因縁があってな。」
「因縁?」
「あぁ。大体2年前、あまり記憶は無いんだが、船乗りをしてたところを嵐に攫われたみたいで、気づいたらこのビーチに漂着してたってことがあったんだ。」
ただそれだけなんだけどな、と続けようとしたところで、少女は驚愕と興奮に染めた表情で、彼の元へグイッと顔を近づけた。
「えぇ!?君もなの!??
実は私も、2年くらい前に海で遭難しちゃったみたいで、気づいたらこのビーチに漂着してたの!」
少女の予期せぬ言葉に、彼も純粋に驚きの声を上げた。
「おぉ…!?、驚いたな。まさかこんな偶然があるなんて。
もしかして君も、船乗りだったのか?」
「それが、ね…。私、遭難するよりも前の記憶が何も残ってなくて…。」
「何も?遭難の時の記憶だけじゃなくて、全部の記憶が抜け落ちたってことか?」
「そうそう、記憶喪失ってやつ。
だからここに流れ着いた時は苦労したよ…。自分の名前も、家も、家族も友達も、何にも覚えてないんだもん。」
「それは…、大変だったな…。」
「だから、今も何とかお金を稼いで生活しながら、時々このビーチに来るようにしてるんだ。ここに来れば、なにか思い出せる気がして…。
……そんなことより、君は船乗りだったんだね!船乗りって、どんな生活をしていたの?」
「あ、あぁ。船乗りと言っても、かなり小さい船だったんだが、時々漁をしたり─────」
「───、──?」
「────、────。」
どこかぎこちなさは残りながらも、2人の会話は初対面とは思えぬほどの盛り上がりを見せた。
…だが、それだけだ。
奇妙な共通点はあれど、所詮2人は今日知り合っただけの他人同士。
ケルンは、これ以上出航準備を遅らせる訳にも行かないと考え、会話のキャッチボールに終止符を打った。
「さて、俺はそろそろ行くよ。出航準備をしなきゃだからな。」
「うぇっ? もう行っちゃうの?」
「あぁ、悪いな。
船乗りとは言っても、定期的にこの島に戻ってくるから。その時また会えたら会おう。」
彼のキッパリとした別れ文句に、彼女は何かを言いかけて、辞めた。
「…。そっか、うん。…また、ね。」
またね、の声を合図にケルンは立ち上がり、手をヒラヒラと振りながらビーチを後にする。
1歩、1歩、また1歩と歩く度に、トス、トスンと砂を弾く音が辺りに響く。
が、それを掻き消すように、ザァー、と波の音が響き渡る。
1歩、1歩とビーチから離れる度に、ザァー、ザー、と。
彼は気づかない。波打ち際から離れるほど、波の音が増幅する違和感に。
彼は気づかない。歩く度に何かが頭から消えていく違和感に。
彼は気づかない。立ち上がった拍子にポケットから何かが落──────────
「──────ーい!ちょっと君!忘れ物だよ!」
不意に後ろからかけられた声に、霞かかったケルンの脳が急速に覚める。
「────ん?、あぁ、すまん。ボーッとしてたみたいだ。ところで忘れ物って?」
まだ僅かに霞む視界を集中させながら彼女の手元に目を凝らす。と、そこには
「これ!ネックレス、君が座ってたところに落ちてたよ」
それは、かつてケルンがここに漂着した時、いつの間にかポケットに入っていた真珠のネックレス。
買った覚えも貰った覚えもないそれを、彼は何となく今日この日までポケットに入れっぱなしにしていた。
「あぁ、すまん。立ち上がった時に落としたみたいだ」
ありがとう、と一言添えて彼はネックレスを受け取り───
「────もし良ければだが、このネックレス要るか?」
「……えぇ!?それってプロポーズ!?」
「違うわ。…だが、俺が持ってても宝の持ち腐れだしな。やるよ。」
「本当にいいの?…ありがとう!」
この島が属する中央諸島において、真珠のネックレスを送る行為は『プロポーズ』を意味する。
が、彼にそんな下心は無い。
彼は、再度差し出された彼女の手にネックレスを納めようと、右手をゆっくりと伸ばす。
記憶にないこのネックレスは、2年前の"遭難"について何かを思い出せるかもしれない、唯一のヒントであった。だが、間もなく新たな船出を迎える今、いつまでも過去の出来事を引きずる訳にも行かない。
ならば、過去への決別として、不思議な共通点をもつこの少女にネックレスを託してしまおう。
思考をめぐらせているうちに、ネックレスを握りしめた右手はいつの間にか彼女の掌の真上にたどり着いた。
彼は若干の名残惜しさを感じつつ、右手をゆっくりと開く。
真珠のネックレスが、キラキラと光を反射しながら、重力に従って彼女の手のひらへと。
ゆっくりと、ゆっくりと。
まるでスローモーションのように時間をかけて落ち、
やがて彼女の手のひらへ真珠が触れた
────瞬間
「「────────っ!!?」」
真珠から溢れるような、眩しいほどに煌めく白い光が2人の視界を包む。
その眩しさに反射的に目を瞑るも、その光は不思議と、瞼で遮られることなく2人の頭の中を苛烈に照らし続ける。
ケルンは眩しさを堪えながら、状況を掴むために恐る恐る、片目を開け────
目を疑った。
そこに広がるのは、見渡す限りの大海原。そして、その真ん中でポツンと漂う小さな帆船。そこには、紛うことなき"ケルン"が居た。
自分が自分を俯瞰している状況に混乱しながらも、彼は自身が今現実世界とは違う場所にいることを悟る。
すると、程なくして場面が切り替わった。
そこに映し出されたのは、"何か"を船に引きずりあげるケルンと、
「『人魚?』」
映像のケルンと己の心の声がシンクロする。
一体自分は何を見せられているのか。人魚などという架空の存在と出会った事などこれまで1度も────
「────っ」
思い出した。
彼は2年前のあの日、確かに人魚と出会っていた。
だが、それ以降の記憶が不自然に曖昧だ。
その思考に答えるかのように、映像は次の場面、更にまた次の場面へと、切り替わる。
「────……セリナ。」
場面が進むごとに、彼と"セリナ"の美しく眩しい記憶が、思い出が、じんわりと紙に広がる一滴の絵の具のように、またひとつ、またひとつと、真っ白に塗られた彼のキャンバスを色鮮やかに彩っていく。
セリナに人間の"料理"を振舞ったこと。
小さな帆船の上で他愛もない話を楽しんだこと。
水上マーケットに出向いたこと。
グレイに捕らえられたこと。
そして、
命を賭してでもセリナを助けたいと思うほどに、
恋をしたこと。
────
「────ふふっ、泣いてる。いつもの仏頂面はどうしたの、"ケルン"?」
「うっせ、お前こそ涙で顔がグシャグシャじゃないか、"セリナ"」
「じゃあ、お互い様だね」
互いの記憶を確かめ合うように、名前を呼び合う2人。
今この瞬間に記憶を取り戻したのはセリナも同様のようで、大粒の涙で顔を濡らしている。
2年ぶりの劇的な再会に、話したい事、聞きたいことは山ほどある。しかし、今を噛み締めることに精一杯で、気の利いた言葉が何も出てこないケルン。
その傍らで、セリナはネックレスを優しく握りしめながら、呟くように語り始めた。
「私、人間になったんだ。」
「あぁ、そうみたいだな。」
「だからこの2年間で、人間の色んなことを知ったんだ。例えば、人間の遊びとか、料理とか、『とある風習』とか。」
「…?」
"遊び"、"文化"と並列して、意味ありげに挙げられた『とある風習』について、いまいち要領を得なかったケルンは首を傾げる。
そんな彼の反応を見越していたかのように、セリナは1歩ケルンへと近づいて、続ける。
「そう、とある風習。
ねぇ、ケルン知ってる?真珠のネックレスに纏わる、『とある風習』を。」
「真珠のネックレスの風習?そりゃ当然だ。アレだろう?真珠のネックレスを送ることはプロポーズの意味があって、承諾の返事をするには真珠に────っ!?」
ケルンは風習の概要を口にしようとして、已の所で口を噤んだ。
何故セリナがこの話を唐突に持ち出したのか、彼には心当たりがあったからだ。
2年前、海賊に撃たれる直前、ケルンはプロポーズの意味を込めてセリナにネックレスを送った。当時、まだ人間の風習を知らなかったセリナは当然その意味を理解していなかったはずだ。が、今このタイミングでその話を切り出したということは───
セリナの思惑に気づいた彼は、仏頂面を赤く染めて黙り込んだ。
「ん〜?、承諾の返事をするには〜?真珠に〜?どうすればいいんだっけ〜??」
そんな彼の様子を面白がって、イタズラが成功した子供のようなニヤケ顔で、セリナはさらにグイッと顔を近ずけながら迫る。
「……っ。」
「ふふふっ、いつもの仏頂面はどうしたの〜?」
彼女はケルンをひとしきりからかいながら笑った後、少し改まった様子でネックレスを
────首にかけた。
「ねぇ、ケルン?」
「…?」
「私、人間になったよ。」
「あぁ、そうみたいだな。」
「ヒレの代わりに、足がある」
「あぁ。」
「だから、こんなことも出来る!」
「こんなこと?……うぉっ!?」
セリナは、両足で地面を勢いよく蹴り上げて、目の前のケルン目掛けて飛びついた。
突然の行動に対応出来なかったケルンは、彼女の勢いに負けて押し倒される。思わず目をつぶり、尻もちを着いて仰向けに倒れた。
「イテテ…急にどうし────」
急な奇行に困惑しつつ、立ち上がるために目を開ける────
と、目の前には、少し潤んだ目で微笑むセリナが、仰向けに倒れた彼に覆い被さるように、馬乗りに近い体勢で迫っていた。
重力に従って垂れる彼女の長い髪が、ケルンの頬をサラサラとくすぐる。
「ねぇ、ケルン?」
彼女の吐息が、まるで質量を持ったかのように触覚を刺激する。
「今から、あの時の"お返事"するね。」
セリナは、首から垂れる真珠を親指と人差し指で摘んで、妖艶にほほ笑みかける。
その表情は、普段の天真爛漫な彼女からは想像もつかぬほど濃密な色気を纏い、とても様になっていた。
そんな彼女を目の前にケルンは声を出すことも出来ず、ただ不器用に息を呑む。息を呑む音すら掻き消すほど喧しく鳴り響く己の心音に共鳴するかのように、顔に熱が集まる。
セリナはその様子を見て、どこか満足気に微笑みを深めながら真珠に口を近ずける。
10cm、5cm、3cm…、
真珠に唇が触れるその瞬間を見逃すまいと、無意識のうちに目が釘付けになる。
2cm、1cm、5mm…
セリナはほんの少しだけ唇をすぼめて、目を細める。
そしてついに、真珠に優しく唇が触れた────────
瞬間
─────グゥゥゥゥゥゥギュルル………。
「「 」」
この空気にあまりに不釣合いな、間の抜ける重低音が響いた。
重低音を合図に、数秒、数十秒、ビーチを静寂が支配する
ようやく状況を理解したケルンが、耐えられないといった様子で吹き出した。
「……ふっ、はははっ!
この雰囲気の中で腹の虫を鳴らすなんて、セリナは相変わらずだな」
「……ちちち違うし!?今のはお腹の音じゃなくて………鳥!そう!変な鳥の鳴き声だよきっと!!!」
「無理があるだろ」
先程とは打って変わって、顔を真っ赤にしてワタワタするセリナと、それを揶揄うケルン。
正しく形勢逆転である。
「もぅ…、かっこよく告白のお返事したかったのに…私のバカ…」
「まぁ、これくらいの方が俺達らしくていいんじゃないか」
「またケルンは適当なこと言って…。なんか締まらないから、ちゃんと言葉で告白の返事するね!」
もはや格好はつかないが、せめて告白の返事はスッキリと済ませようと、セリナは咳払いをしながら改まって真剣な表情を作る。
「…それじゃあ、言うね?
──私も、ケルンのことが、好────」
─────グゥゥゥゥゥゥギュルル………。
「………………」
「………………」
セリナの体がぷるぷると震え出した。
「……………/// もう!!!!!なんなのこのお腹は!!!!」
「っはっはは!期待を裏切らないな!
そんなにお腹が空いてるなら、今から街に戻ってメシでも食べるか?」
「うるさい!!!食べる!!」
「相変わらず食欲には忠実だな…
ほら、行くぞ。」
ケルンは一足先に砂を払いながらゆっくりと立ち上がると、少し屈んでセリナに手を差し伸べる。
「うん!」
セリナは手を掴むと同時、勢いよく立ち上がってケルンの横に並ぶ。そして2人は手を繋いだまま、街の方角へと向かってのんびり歩き出した。
「ねぇ、ケルン。私、『野郎食堂』に行きたい気分かも」
「奇遇だな、俺もだ。なら、一緒に『野郎食堂』に行こう」
「ねぇ、ケルン。…好き。」
「奇遇だな。俺もだ。 なら、一緒にまた船旅に出よう」
「────────」
「────」
ザア─
ザザァ───
2人は、賑やかな話し声と共にビーチから離れていく。
そんな、2人の新たな門出を人知れず祝うかのように、仲の良さげな2匹のイルカが大きく跳ねる。
着水と共に飛沫のカーテンが光を紡ぎ、一瞬の虹のアーチが二人の背中を優しく包んだ。
海は彼らを見送る祝福のリボンを翻し、絶え間なく押し寄せる穏やかな波が永遠の拍手を続けていた。
Fin