皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~ 作:Core472256
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新制度の導入が、帝国の中枢に異様な熱気を呼び起こしていた。
皇帝の名のもとに可決された兵站中央統制条例は、可決と同時に各地へ伝達され、次々と実行に移されつつあった――はずだった。
制度は“形”にはなっていた。
皇帝の
それぞれの代表者が集まり、一体運用が一部の
平時における戦時即応体制、輸送網の中央指揮、制度上の軍政的統制。
すべては「備え」のもとに整えられたはずだった。
準備はした。現場も一応は動いていた。
――だが、制度が"動いた"瞬間、それまで見えていなかったものが、次々と噴き出してきた。
命令が握り潰される。
地域鉄道局が「
軍需品の
輸送を通す見返りに政治的譲歩を要求する
命令を無視した現場指揮官、利権を守ろうとする部署――
法は通った。
制度も動いた。
それでも、帝国は従わなかった。
今、ベルリン王宮の一室では、現場の声が、その熱を次々と冷ましていた。
皇帝の主導により成立したばかりの「兵站中央統制条例」は、紙の上では美しく整っていたが、現場では混乱の火種となっていた。
王宮東棟、かつて王室の応接室として使われていた一室。
いまでは「兵站統合室」の臨時本部であるその部屋に、複数の男たちが集まっていた。
中央の長机を囲むのは、参謀本部、内務省、鉄道局、軍需省――帝国の物流中枢を担う実務官たち。
その顔ぶれの中に、ひときわ若く、だが落ち着いた気配をまとう男がいた。
「ヴェルナー・シュトルフです。内務省第三局より派遣されました」
整った容姿。清潔な金縁の眼鏡。声に無駄がなく、礼儀も破綻していない。
だが、その背筋の伸ばし方、机に並べた資料の端の揃え方には、明らかに中央省庁の官吏らしからぬ癖があった。
それを目にしたクレメンスは、思わず目を伏せる。
(やはり……あの時の若者だ。部内では異端とされていたが――いや、今もか)
会議の主催者であり、皇帝直属の副官ミュラーが口を開く。
「陛下におかれましては、ご
各位におかれましてもご多忙の折、ご出席いただき感謝申し上げます。
制度可決から一月。すでに各地で実施の段階に入っておりますが、状況は
その言葉とともに、分厚い資料が一冊ずつ配られる。
中には地方軍管区からの報告、鉄道局の現地職員の困惑、物資輸送の遅延、命令系統の食い違いといった“制度の反作用”が詳細に記されていた。
「第五軍管区では、補給列車の出発を鉄道局が承認したにもかかわらず、現地司令部が『自軍の命令を経ていない』として運行を差し止めました。
また、バイエルン王国においては、命令文そのものに対し『皇帝のご意向には敬意を払うが、連邦協定上、即時の従属義務は存在しない』との見解を示し、実施を明確に留保しております」
読み上げたのはシュトルフだった。
口調は淡々としていたが、目だけは資料の中の数字を追い、何かを探るように鋭かった。
皇帝は無言で資料を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……これは予想の範囲なのか?」
問いかけというより、自身への確認のような声だった。
ミュラーが応じる。
「いえ、想定以上です。
とくにどちらに従えばいいか分からないという鉄道現場の声は深刻です。
中央命令と現地軍命令が並立しており、判断が現場に委ねられてしまっている」
「つまり、制度そのものが空白を生んでいるということか」
皇帝の言葉に、誰も否定の声を上げられなかった。
――たった一枚の法案が、帝国全土の補給線を整えるはずだった。
だがその実、各地ではその法をどう解釈すればいいかで、指揮権と責任が揺らいでいた。
「報告にはこうもあります。とある軍管区では、物資が港で
皇帝は唇を噛み、資料の文字列の奥へと視線を落とした。
その胸裏に浮かぶのは、かつて学んだ戦史――第一次世界大戦。塹壕、飢餓、輸送の崩壊、数百万の死。
(あれは……止めねばならない)
外交で。制度で。帝国そのものを作り変えてでも。
だが、それでも戦争が始まってしまったのなら……
(そのときは、この手で勝たせるしかない)
既存の軍には任せられない。
未来を知らない者たちの判断では、また同じ敗北に向かうだけだ。
この世界でドイツ帝国は、敗れる運命にある――そう知っているのは、自分だけだ。
ならば、自分で“動かす手段”を持たねばならない。
鉄道、郵便、民需、軍需。
それらを平時から統制し、有事には即応できるように。
「兵站統合室」も「兵站中央統制条例」も、すべてはその備えだった。
自分にしかできないことがある。自分だけが知っている未来がある。
だから、俺がやるしかない。
――それが、未来を知っているというだけで世界を制御できると思い込む、転生モノにありがちな傲慢さに、どれほど酷似していたかも、この時の彼はまだ分からなかった。
◆
沈黙のまま、会議室の空気が冷え始めていた。
誰もが資料をめくり、数字と報告を追っているふりをしているが、目はどこか曇っている。
その中で、ただ一人、ヴェルナー・シュトルフだけが鋭く視線を走らせていた。
ページの端、通達の矛盾、命令系統の抜け。そこに偶然では説明できない、不自然なパターンが浮かび上がっていた。
「……シュトルフ。何か気づいたか?」
皇帝の問いに、若き官僚は手元の紙から目を上げた。
「はい。いくつかの混乱事例――特に命令の握り潰し、物資の滞留についてですが、あまりにも形式が整いすぎています。
それぞれが別管区の案件でありながら、似たようなタイミング、似たような文面、似たような責任の押し付け方が確認されました」
「つまり?」
「……意図的です。誰かが統一された形式で現場に混乱を仕掛けていると考えるべきかと」
場が静まり返った。皇帝の目が細められる。
「誰が、何のためにだ」
「断定はできません。ただ、内務省内部の連絡網からいくつか奇妙な指令ルートが見つかっています。
"現場の自主判断を尊重せよ"という名目で、中央命令の運用を
クレメンスが小さく息を呑んだ。
「柔軟化……? それは、制度の空白を拡大させろという意味では……」
「実質的には"中央命令に従うな"と言っているに等しいです。
しかも、それが内務省鉄道局を経由し、軍政局の意向と合わせる形で拡散していた可能性があります」
ミュラーが資料をめくりながら低く呟く。
「……軍部か」
「ええ。断定は避けますが、動いていたのは制度に抵抗を示していた一部の将官たちと見ていいでしょう。
制度が動かなくなれば、失敗の責任は陛下に帰すことができます。そして現場の主導権は再び軍へ戻る」
一瞬、室内の誰もが言葉を失った。
皇帝は椅子から立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ向かう。
手を背に組み、白いベルリンの空を見上げた。
「……制度の外で、制度を殺すか。連中らしい」
その声に、ミュラーが静かに続けた。
「陛下。裏で仕掛けていたのが軍政局であるならば、これはもはや行政的な摩擦ではありません。
制度に対する敵意。すなわち、皇帝陛下に対する敵意です」
「わかっている。だが、表立ってそれを口にすれば、この制度そのものが政争に巻き込まれる」
「巻き込まれるどころか、次の議会では予算ごと潰されますな」とクレメンスが静かに続けた。
皇帝は沈黙しながら、視線を床へ落とした。だが、その眼差しに迷いはなかった。
(やはり、そういうことか)
兵站統合室も、条例も、改革の構想も。
制度は組み上げられた。だが、それを動かす人間が変わらなければ、国は動かない。
そして変わろうとしない者たち――古い軍部、制度の権威にしがみつく者たちが、今、反発している。
未来を変えることは、既得権を壊すということ。
制度が受け入れられないのではない。受け入れたくない者たちが、意図的に歪ませているのだ。
「……よし」
皇帝は振り返ると、一歩前に出て言った。
「この制度は、もう中途半端ではいけない。
内部に敵がいるならば、制御しきるまで制度で潰す」
ミュラーの顔がわずかに引き締まった。
「軍政局と、やるおつもりですか」
「やるしかないだろう。彼らの自由が、国家の命を脅かすのなら。
もう一度失敗する余裕など、帝国にはない」
皇帝の声には怒気はなかった。
だが、その冷たさは、戦場に向かう覚悟そのものだった。
「……シュトルフ」
「はい」
「講義計画を進めろ。現場の教育。制度の訓練。命令系統の再確認。
制度を形だけでなく、現場の常識にまで叩き込む」
「承知しました」
「そして同時に、軍政局の動きを調査しろ。必要なら、反証を国会で叩きつける」
「……そこまで、踏み込みますか」
「制度が守るべき者を裏切るのなら、それは国家の根幹が腐っているということだ。
――そんな帝国を望んではいない」
その声に、誰も返す言葉を持たなかった。
だが、静かに立ち上がったクレメンスの姿が、それに答えていた。
そして、会議の終わり際。
誰にも気づかれぬように配られた、一本の匿名文書。
差出人不明。だが中身には、"軍政局による制度妨害の記録"と明記されていた。
すでに、静かな戦争は始まっていた。
――そして、帝国の中枢で生まれた制度が、
それを守る者と壊そうとする者とを明確に分け始めていた。
1912年5月
誰が正しく、誰が間違っているのか。
それは、見る者の立場によっていかようにも変わるのかもしれません。
皇帝は確かに帝国を守るために動いています。
けれど、その姿は果たして――。
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