皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~ 作:Core472256
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ベルリン王宮の
馬車はゆるやかに門をくぐり、雪解けの泥を巻き上げながら中庭に滑り込む。
視察から戻ったばかりの俺は、かすかな頭痛と全身の冷えに包まれながら、無言のまま馬車の扉が開くのを待っていた。
扉の外では、数人の侍従が整列している。完璧に訓練された彼らの表情には何の感情も浮かんでいないようでいて、その眼差しはどこか探るようだった。
(……気づかれてる。いや、“違和感”として残ってるだけか)
侍従たちの仕草は洗練されている。だがそのなかに、皇帝への絶対的な信頼ではなく、微かな――ほんの微かな距離感がある。
(以前のヴィルヘルムが、どれだけ傲慢だったかよく分かる)
「ご無事のご帰還を、陛下」
口にされる言葉は儀礼的で変わらぬものだ。しかし、ほんの一瞬、目が揺れた。
以前の俺――ヴィルヘルムとしての俺が見せていた横柄さや高圧的な態度、それに見合った傲慢な雰囲気、それが今の俺からは、微妙に欠けていると感じているのだろう。
(……そりゃそうだ。俺はただの日本人だったんだから)
この体に転生してから、まだほんのわずかしか経っていない。
だというのに、戦争の視察に出向き、将軍たちと会話を交わし、戦略に口を挟み……そのすべてが、地に足のつかない感覚の中で進んでいた。
“ヴィルヘルム皇帝”として振る舞わねばならぬと頭では理解している。
だが、それを心の奥底まで染み込ませられているわけではない。
◆
宮廷の回廊を抜け、重厚な扉を越えて執務室に入ると、既に内務省次官のデルブリュックが待機していた。
痩身で神経質そうな顔立ちの男だ。整った身なりの背広に身を包み、机の前に立ち、目の奥に観察者の光を宿していた。
「陛下、ご視察お疲れ様でございました。体調など、崩されてはおりませんか?」
「問題はない。……ただ少し、冷えただけだ」
俺は椅子に腰を下ろすと、机の上に整然と並べられた書類に目をやった。
すでに開かれたページには、視察地で撮影された現地写真が貼付されている。塹壕の形状、補給倉庫の配置、路面状況――俺が数時間前にこの目で見てきた現実が、紙の上に並んでいた。
「……これは、貴官が用意したのか?」
「はい。陛下が現地をご覧になられた以上、続く分析もお目通しいただくのが最善と考えまして」
少しも表情を変えずにデルブリュックは答える。
だが、どこか妙だ。こうした「先回り」は、本来なら歓迎すべきものなのに、今の俺には奇妙な寒気を伴って感じられる。もしかして、この男は俺の変化を見抜いているのでは――
(いや、まだだ。そんなことはない。たぶん、まだ)
不安を押し殺して、俺は報告書に手を伸ばした。
紙の感触が指先にざらつく。読み進めるほどに、あの視察で得た“感触”が蘇る。
補給路の幅、民家の密集、地元の反発、予備線の不備。
頭の中に浮かんでくるのは「戦略」ではなく、もっと直感的なもの――
“このままでは死ぬ”という、本能的な恐怖だった。
「……デルブリュック、鉄道省と陸軍省に通達を出せ。現地輸送網の再点検と、補給経路の統合見直しを至急行うようにと。計画書は三日以内に提出させよ」
「仰せの通りに」
彼は穏やかに一礼したが、その声には明らかにわずかな興味が混じっていた。
(また、一歩踏み込んだ……俺が)
本当は、これほど明確に命令することすら恐ろしい。
何もかもが綱渡りなのだ。
皇帝としての発言力があるうちはいい。だが、誰かが俺の異変に気づき、問いただした時――「お前は何者だ?」と問われた時に、俺は何と答える?
俺は、ただの日本人だ。
この国の血も、歴史も、民も、本来なら一片の責任すら持っていないはずの“よそ者”だ。
――にもかかわらず、今、帝国の命運を握っている。
(……本当に俺で、いいのか?)
視察では頭で動いていた。危機を見抜き、言葉を選び、戦略にくさびを打った。
だが、王宮に戻った今――静寂の中で、自分の正体に向き合わざるを得なくなる。
「……"まだ俺は、この現実を夢だと思っていたいらしい"」
そう呟いたとき、自分の中に残っていた現代が、また一層薄れた気がした。
反射的に、近くにいた侍従が微かに眉を動かすのが見えた。
まずい――と思い、すぐに誤魔化す。
「気にするな、独り言だ。」
平静を装ったが、背中には冷たい汗が流れていた。
口を滑らせれば、即座に異常者として排除されかねない。
そしてこの国には、まだ異常者に寛容な文化は存在しない。
(バレたら終わり。言わずとも分かる)
◆
夕方、ベルリン王宮の政庁棟の一室にて。
主計局長官ホルヴィッツ*1との会談が予定されていた。視察で見えてきた現実を、軍事以外の方面から支えるには、この男の協力が不可欠だった。
ホルヴィッツは頑固で知られる官吏で、財政に関しては容赦なく軍部と対立することで知られていた。
そして何より――陛下、つまり俺のことを警戒している一人だった。
(見るからに気難しそうな顔つきだ)
額に刻まれた深い皺、睨むように鋭い眼光。話す前から警戒心が滲んでいる。
身なりは質素だが乱れはない。彼の厳格さは、外見そのものに現れていた。
(この人には、取り繕っても通じないな)
そう思わせるだけの“迫力”があった。無駄話を嫌い、核心しか求めない――たぶんそういう男なのだろう。
椅子に腰掛けた彼は、書類の束を前にしながらも、じっと俺の目を見据えてきた。
その目には、問うような光があった。
(完全に試されてるな)
ああいう目をする人間は、信用の基準が理屈じゃない。
生き様とか、過去の蓄積とか、そういう曖昧な匂いで人を判断している。
(面倒だが、味方にできれば……これほど心強い人物はいない)
「陛下が、補給体系と輸送網を再点検なさるとは、意外でございますな。……いつもなら、こうしたことは“軍に任せておけ”と仰せになるはず」
言葉の端々には皮肉が混ざっている。
だが、その奥にあるのは、純粋な「観察」だ。皇帝の変化を、見極めようとしている。
「余は、学んだのだ」
俺はゆっくりと答えた。
「勝つためには、前線だけでなく、背後を見よ――と」
ホルヴィッツは目を細めた。
「……その言葉は、どこか別の誰かのようでもありますな」
「誰かの言葉ではない。……これは、余の決意だ」
一瞬の沈黙のあと、ホルヴィッツは僅かに口角を上げた。
まるで評価すると言わんばかりに。
「……して、我が国は何を変えるおつもりで?」
「まずは、鉄道輸送の再統合。それから、軍部による兵站軽視を是正する。勝利の鍵は、銃よりもパンにある」
ホルヴィッツは深く頷いた。
「その通りです、陛下。……ようやく、まともな話ができるようになられた」
皮肉か賛辞か。どちらとも取れる言い回しだった。
だがその一言は、俺の胸の奥で、確かに何かを支えた。
◆
夜、王宮の執務室に戻ると、外はすでに完全な闇に包まれていた。
雨とも雪ともつかぬ冷たい風が、窓硝子を叩いている。
ひとりきりの部屋。
かつては孤独な皇帝の象徴だったこの空間が、今の俺にとっては、もっと別の意味を持ち始めていた。
ここは、逃げ場のない"牢獄"だ。
机の上には、参謀本部からの封筒と、鉄道省からの報告草案。
どちらにも、修正と判断が求められている。誰もが「皇帝の決断」を待っている。
(……俺が動けば、戦争の流れが変わるかもしれない)
その重みが、肩にのしかかる。
自分はただの庶民だった。誰かに命令も出したことがない。
死ね と言えば、人が死ぬ。
前進せよ と言えば、兵士たちが凍える塹壕から這い出ていく。
それが、この地位の現実だ。
(俺には、その覚悟があるのか?)
――答えは、まだ出ていない。
だが、兵士の顔を、あの冷えた演習地の光景を、補給倉庫の中に放置された毛布を、忘れることはできなかった。
そして、ホルヴィッツのあの目――
「お前は、誰だ?」と問いながらも、なお見限らぬ目。
(……答えはまだ出ていない。でも、進むしかない)
それが、俺に与えられた宿命なのだとしたら。
それが、誰か一人でも救えるのだとしたら――
皇帝の椅子に、深く腰を下ろす。
「すべての責任は……この余が引き受ける」
言葉にして初めて、自分の中で何かが皇帝になり始めていることを知った。
そして、その裏で――
“現代人の自我”が、少しずつ剥がれ落ちている気がした。
(……まだ、戻れる。俺は俺だ。そう信じてる)
けれど、それがどこまで通用するのかは、もう誰にもわからなかった。
補給・輸送網の再構築において、軍以外で最も重要な協力者の一人。
1911年3月