皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~ 作:Core472256
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執務室の天窓から差す朝の光は、どこか冷たかった。
外では衛兵の号令が響き、宮廷の朝は粛々と始まっている。だが、この部屋だけは、まるで空気が重力を増しているかのようだった。
机の上には、昨日までに山と積まれた報告書が横たわる。どれも軍部や官僚が作った“秩序”の象徴。そこには、彼らの価値観と常識が詰まっていた。
だが、俺にとっては――これは封印だ。
「余が、壊すべき封印だな」
低く、自分にだけ聞こえる声で呟く。言葉は自然に「余」となっていた。
意識しているわけではない。ただ、そのほうが今のこの身に馴染んでしまっているのだ。
「……何かご命令でしょうか、陛下?」
側に控えていた文官が、こちらを伺うように訊ねた。俺が無言のまま書類を睨み続けていたせいか、どこか怯えたような表情だった。
「いや……まだ考えているだけだ」
言葉にすると同時に、胸の奥で何かが軋んだ。
――まだ考えているだけ。
その一言は、逃げにも等しい。
だが俺はまだ、「改革を宣言する皇帝」として踏み出すには、内心の迷いを拭い切れていなかった。
視察で見たもの。泥まみれの補給線。馬鹿げた楽観。兵士たちの硬直した顔。
(これが現実だ)
そして、それは紙の上の戦略図では永遠に見えないものだった。
◆
午前十時。執務室にクレメンス内務国家秘書官*1と、上級将官ファルケンハイン*2が呼ばれていた。
クレメンスは相変わらず無表情を崩さず、ファルケンハインは軍服姿のまま静かに立っていた。二人とも、俺の発言を待っている。
(クレメンス――前にも感じたが、やはり表情が読めない)
彼の顔は常に静かだ。まるで“政府機関”そのものが歩いているような、冷たい整合性に満ちている。
口元も眉もほとんど動かさず、言葉の抑揚も最小限。だが、その沈黙の奥にある観察力だけは鋭くて厄介だ。
「……貴官らには、先日の西部視察報告の件で再確認したい」
声を出した瞬間、ファルケンハインの眉がかすかに動いた。昨日、鉄道省を巻き込んだ再点検命令を出したばかりだからだろう。
「この帝国が次に戦火に包まれたとき、勝敗を分かつのは弾薬や戦略ではない」
ファルケンハインが僅かに身じろぎする。
「勝敗を分けるのは、持ちこたえられるかどうかだ。民衆の生活、物資の流通、冬を越すだけの備え。それらを最初から整えておかなければ、いずれ軍は空腹で負ける」
「陛下、それは……あまりにも“長期戦”を前提としすぎでは――」
ファルケンハインが続いて口を開いた。
「失礼ながら、我々の予測では、仮に衝突が起きたとしてもフランス軍の主力を制圧するにはニ、三か月もあれば――」
「ニ、三か月で戦争が終わった例など、我が国にあったか?」
ピシャリと遮った。空気が一瞬止まる。
「普仏戦争は、半年を要した。ナポレオン戦争は十年以上。戦争とは、想定通りに進むものではない。余はそれを知っている」
その言葉に、クレメンスが小さく反応した。静かに視線を上げ、俺の顔を注視している。
(……まただ。あの目)
確信には至らないが、彼は探っている。俺という存在の正体を――
「では、お言葉の通りに、補給線の再配置を再検討させましょう」
ファルケンハインは渋い表情ながらも、否を唱えなかった。
「さらに、演習計画も再編成せよ。塹壕と野営地の実地建設を含め、長期戦下での想定を加えるように。兵の動きではなく、生存を軸とした演習だ」
「生存、ですか……」
「そうだ。生きてこそ、兵士は戦える。誇りでも、忠誠でも、腹は膨れん」
俺の声が、どこか冷たく響いたのを自覚した。
(これはもう…俺じゃないな……)
この言葉は、日本人としての感覚ではない。戦争の中枢に立つ者の視点だ。命を数字として扱う、覚悟のある者の言葉だ。
「……仰せの通りに、陛下」
ファルケンハインが一礼する。だが彼の姿勢には、すでに忠誠心よりも「恐れ」が混じっていた。
◆
午後、政庁棟の一室にて、ドイツ帝国外務省国家秘書官ツィルシュキー*3を招いた。
外交線の再構築。次に手をつけるべきは、ここだった。
ツィルシュキーは神経質そうな細面の、いかにもプロイセン的な節度と格式を体現した男だった。動作は控えめながら、発言には芯がある――そういう人物だ。
(こういうのを、プロイセンエリートと言うんだろう)
身なりは完璧、所作は最小限。声に派手さはないが、言葉の選び方と速度に“訓練”を感じる。
数十年単位で「失言をしない」ことに命をかけてきた人間だ。
(でも、そういう人の方が、時に一番鋭いことを言う)
彼の言葉には、慎重さと裏腹の確信が宿っていた。遠回しに言っているようで、本心ではこちらの意図をきちんと読み取ってくれている。
「陛下、ベルギーに駐在する武官より報告がありました。近頃、フランス系の商社が幾つかの都市に拠点を置き始めております」
「……民間の仮面をかぶった軍の先遣隊かもしれんな」
「まさに、陛下のご指摘の通りでございます。特にリエージュ方面では、仏製の馬具や馬車部品の流入が顕著でございます」
「それが動いた時、この帝国はどう応じる?」
ツィルシュキーは静かに息を吐いた。
「外交的には……難儀ですな。現状、我が国が動員を示唆しただけでも、英仏が反応を強めるでしょう。特に英国は、ベルギーに対する関心が極めて高い。彼らにとって“中立”は道義ではなく、ロンドンの生存戦略でございます」
そこだ。そこが、最も危険な盲点だった。
「ベルギーには予備の大使館経由で警告を送れ。“中立を保つ限り、我が国は保障を尊重する”と」
ツィルシュキーが驚いたように目を見開いた。
「陛下……それは、まるで……戦争を避けようとしておられるような――」
「余が恐れるのは、敵国の弾丸ではない。“味方の愚かさ”だ」
その一言で、ツィルシュキーは完全に沈黙した。
◆
夜、再び一人執務室に戻る。誰もいないその空間で、ようやく肩の力を抜いた。
(今日、俺は明確に二つの未来を変える選択をした)
一つは、軍内部の戦略基準。もう一つは、外交の布石。
どちらも全体で見れば小さな変化かもしれない。だが、確かに運命の流れに石を投げた実感がある。
「……それでも、これが正しいかは分からない」
窓の外に目をやる。ベルリンの夜景が、滲んだように広がっている。
俺は皇帝だ。帝国のすべての矛盾と希望が、この身に降りかかる。
それでも――
「白紙の地図を、少しずつ塗り替えていくしかない」
誰にも聞かれぬように呟いた声が、静かに消えた。
1911年4月