皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~   作:Core472256

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白紙の地図

執務室の天窓から差す朝の光は、どこか冷たかった。

 

外では衛兵の号令が響き、宮廷の朝は粛々と始まっている。だが、この部屋だけは、まるで空気が重力を増しているかのようだった。

 

机の上には、昨日までに山と積まれた報告書が横たわる。どれも軍部や官僚が作った“秩序”の象徴。そこには、彼らの価値観と常識が詰まっていた。

 

だが、俺にとっては――これは封印だ。

 

「余が、壊すべき封印だな」

 

低く、自分にだけ聞こえる声で呟く。言葉は自然に「余」となっていた。

意識しているわけではない。ただ、そのほうが今のこの身に馴染んでしまっているのだ。

 

「……何かご命令でしょうか、陛下?」

 

側に控えていた文官が、こちらを伺うように訊ねた。俺が無言のまま書類を睨み続けていたせいか、どこか怯えたような表情だった。

 

「いや……まだ考えているだけだ」

 

言葉にすると同時に、胸の奥で何かが軋んだ。

 

――まだ考えているだけ。

 

その一言は、逃げにも等しい。

だが俺はまだ、「改革を宣言する皇帝」として踏み出すには、内心の迷いを拭い切れていなかった。

 

視察で見たもの。泥まみれの補給線。馬鹿げた楽観。兵士たちの硬直した顔。

 

(これが現実だ)

 

そして、それは紙の上の戦略図では永遠に見えないものだった。

 

 

午前十時。執務室にクレメンス内務国家秘書官*1と、上級将官ファルケンハイン*2が呼ばれていた。

 

クレメンスは相変わらず無表情を崩さず、ファルケンハインは軍服姿のまま静かに立っていた。二人とも、俺の発言を待っている。

 

(クレメンス――前にも感じたが、やはり表情が読めない)

 

彼の顔は常に静かだ。まるで“政府機関”そのものが歩いているような、冷たい整合性に満ちている。

口元も眉もほとんど動かさず、言葉の抑揚も最小限。だが、その沈黙の奥にある観察力だけは鋭くて厄介だ。

 

「……貴官らには、先日の西部視察報告の件で再確認したい」

 

声を出した瞬間、ファルケンハインの眉がかすかに動いた。昨日、鉄道省を巻き込んだ再点検命令を出したばかりだからだろう。

 

「この帝国が次に戦火に包まれたとき、勝敗を分かつのは弾薬や戦略ではない」

 

ファルケンハインが僅かに身じろぎする。

 

「勝敗を分けるのは、持ちこたえられるかどうかだ。民衆の生活、物資の流通、冬を越すだけの備え。それらを最初から整えておかなければ、いずれ軍は空腹で負ける」

 

「陛下、それは……あまりにも“長期戦”を前提としすぎでは――」

 

ファルケンハインが続いて口を開いた。

 

「失礼ながら、我々の予測では、仮に衝突が起きたとしてもフランス軍の主力を制圧するにはニ、三か月もあれば――」

 

「ニ、三か月で戦争が終わった例など、我が国にあったか?」

 

ピシャリと遮った。空気が一瞬止まる。

 

「普仏戦争は、半年を要した。ナポレオン戦争は十年以上。戦争とは、想定通りに進むものではない。余はそれを知っている」

 

その言葉に、クレメンスが小さく反応した。静かに視線を上げ、俺の顔を注視している。

 

(……まただ。あの目)

 

確信には至らないが、彼は探っている。俺という存在の正体を――

 

 

 

 

「では、お言葉の通りに、補給線の再配置を再検討させましょう」

 

ファルケンハインは渋い表情ながらも、否を唱えなかった。

 

「さらに、演習計画も再編成せよ。塹壕と野営地の実地建設を含め、長期戦下での想定を加えるように。兵の動きではなく、生存を軸とした演習だ」

 

「生存、ですか……」

 

「そうだ。生きてこそ、兵士は戦える。誇りでも、忠誠でも、腹は膨れん」

 

俺の声が、どこか冷たく響いたのを自覚した。

 

(これはもう…俺じゃないな……)

 

この言葉は、日本人としての感覚ではない。戦争の中枢に立つ者の視点だ。命を数字として扱う、覚悟のある者の言葉だ。

 

「……仰せの通りに、陛下」

 

ファルケンハインが一礼する。だが彼の姿勢には、すでに忠誠心よりも「恐れ」が混じっていた。

 

 

午後、政庁棟の一室にて、ドイツ帝国外務省国家秘書官ツィルシュキー*3を招いた。

 

外交線の再構築。次に手をつけるべきは、ここだった。

 

ツィルシュキーは神経質そうな細面の、いかにもプロイセン的な節度と格式を体現した男だった。動作は控えめながら、発言には芯がある――そういう人物だ。

 

(こういうのを、プロイセンエリートと言うんだろう)

 

身なりは完璧、所作は最小限。声に派手さはないが、言葉の選び方と速度に“訓練”を感じる。

数十年単位で「失言をしない」ことに命をかけてきた人間だ。

 

(でも、そういう人の方が、時に一番鋭いことを言う)

 

彼の言葉には、慎重さと裏腹の確信が宿っていた。遠回しに言っているようで、本心ではこちらの意図をきちんと読み取ってくれている。

 

「陛下、ベルギーに駐在する武官より報告がありました。近頃、フランス系の商社が幾つかの都市に拠点を置き始めております」

 

「……民間の仮面をかぶった軍の先遣隊かもしれんな」

 

「まさに、陛下のご指摘の通りでございます。特にリエージュ方面では、仏製の馬具や馬車部品の流入が顕著でございます」

 

「それが動いた時、この帝国はどう応じる?」

 

ツィルシュキーは静かに息を吐いた。

 

「外交的には……難儀ですな。現状、我が国が動員を示唆しただけでも、英仏が反応を強めるでしょう。特に英国は、ベルギーに対する関心が極めて高い。彼らにとって“中立”は道義ではなく、ロンドンの生存戦略でございます」

 

そこだ。そこが、最も危険な盲点だった。

 

「ベルギーには予備の大使館経由で警告を送れ。“中立を保つ限り、我が国は保障を尊重する”と」

 

ツィルシュキーが驚いたように目を見開いた。

 

「陛下……それは、まるで……戦争を避けようとしておられるような――」

 

「余が恐れるのは、敵国の弾丸ではない。“味方の愚かさ”だ」

 

その一言で、ツィルシュキーは完全に沈黙した。

 

 

夜、再び一人執務室に戻る。誰もいないその空間で、ようやく肩の力を抜いた。

 

(今日、俺は明確に二つの未来を変える選択をした)

 

一つは、軍内部の戦略基準。もう一つは、外交の布石。

 

どちらも全体で見れば小さな変化かもしれない。だが、確かに運命の流れに石を投げた実感がある。

 

「……それでも、これが正しいかは分からない」

 

窓の外に目をやる。ベルリンの夜景が、滲んだように広がっている。

 

俺は皇帝だ。帝国のすべての矛盾と希望が、この身に降りかかる。

 

それでも――

 

「白紙の地図を、少しずつ塗り替えていくしかない」

 

誰にも聞かれぬように呟いた声が、静かに消えた。

 

*1
クレメンス・フォン・デルブリュック。内務国家秘書官(在任:1909〜1916年)、かの有名な帝国宰相ビューローやベートマン=ホルヴェークの側近。地方行政、警察、鉄道、郵便など国内統治を幅広く担当。保守的だが実務派。心なしかビスマルクに顔が似てる。

*2
エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン、プロイセン戦争省の上級将官で後の参謀総長(在任:1914〜1916年)。1911年時点ではまだ完全には表舞台には出ていないが、軍政面で急速に台頭しつつある実力者。現実主義者で、軍と内政の連携にも関心を持つ。皇帝と接触する数少ない高官の一人。濃い顔のイケメン

*3
ハインリヒ・フォン・ツィルシュキー。ドイツ帝国外務省国家秘書官。過去には有名なオットー・フォン・ビスマルクの息子であるヘルベルト・フォン・ビスマルクの個人秘書を務めた経験もあり、またモロッコ危機を含む複雑な外交交渉に関与し、後には駐オーストリア=ハンガリー帝国大使となる。外務省の代表としてウィリアム皇帝の旅行にも同行した。




1911年4月
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