皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~   作:Core472256

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歯車は動き出す

――諦めた。いや、受け入れたと言うべきか

 

目を覚ましたあと、この夢から覚めることを願った時期が、確かにあった。

ずっと心の奥底で「もしかしたら戻れるのでは」という甘い期待がくすぶっていた。

だが、ここが俺の現在であり、ヴィルヘルム二世として生きるしかない。

 

ならば、やることは一つ。

この帝国が落ちぬよう、命を懸けてでも可能な限り手を打つ。

 

「――ミュラー*1を呼べ」

 

王宮執務室の窓辺に立ち、そう命じた。

穏やかな晩夏の風が、カーテンをゆっくり揺らしていた。

 

数分後、入室してきたのはゲオルク・フォン・ミュラー――海軍軍人出身の高官だ。

年の頃は五十をやや過ぎたあたりで軍服の襟元は几帳面に整い、所作には癖も無駄もない。

無表情に見えて、眼鏡越しの視線だけがわずかに動く。

 

(……相変わらず、読めない男だ)

 

声を荒らげることはない。だが、言葉の一つひとつに重みと線引きがある。

この国の中枢で、俺の話を“話として”聞いてくれる、数少ない存在の一人だった。

 

「帝国予算に手を入れたい、と仰いましたな?」

 

ミュラーの声音は、いつになく慎重だった。

書類の束を持ち込んでいるあたり、ただの顔合わせではないと読んでいたのだろう。

その慎重さは、臆病ではなく、“責任ある判断をする者”の態度だ。

 

「財政の構造を軍主導に寄せすぎている。物資調達は民間経由が大半だが、現場との連絡は断絶している。それを――繋ぎ直す」

 

「まるで、戦時下のような構想ですな。陛下」

 

「違う。これは戦わずして備えるための構想だ」

 

ミュラーは数秒、視線を地図の一点に落とし、そして皇帝を見た。

 

「……陛下。いつから、そのように考えるようになられたのですか?」

 

答えに詰まった。

 

いや、答えはある。ただ――言葉にするのが怖いのだ。

自分がここにいることを認めるのが。

 

 

「……夢を見た。帝国が滅びる夢だ。今の私はそこに戻れない。だからやる。たとえ何も変えられなくても、俺は……」

 

言葉の途中で、喉がひどく乾いていることに気づいた。

拳を握りしめる。弱音だ。これは。

ヴィルヘルム二世が、口にしてはならないものだった。

 

だがミュラーは、黙って肯いた。

 

「ならば、それを戦略としましょう。……帝国の将来のための備えとして」

 

話はすぐに実務へと移った。

第一段階は、兵站改革。

・帝国鉄道の軍部運用枠を一部国有に再転換

・軍需物資輸送の専用ルートの整備(民間と分離)

・軍司令部と鉄道局の連絡調整役として「兵站統合室」を創設

 

「名目上は行政再調整。だが中身は、戦時対応予備機関ですな」

 

「外務省と陸軍省にも根回しは必要だ。特にモルトケ(小)は警戒するだろうが、軍の“外"から始めることで牽制になる」

 

ミュラーは静かに頷いたあと、ふと眉を寄せた。

 

「ただ……陛下、これを本気で進めれば、官僚も、貴族も、軍の一部も必ず反発します」

 

「分かっている。俺がやろうとしているのは、現状否定に近い。痛みが出るのは当然だ」

 

「そして、それは陛下ご自身にも痛みを伴います」

 

言葉の真意は、よく分かっていた。

支持を失うかもしれない。孤立するかもしれない。

それでも、進むべき道だと信じるしかなかった。

 

「余には始めた責任がある。なら、どれだけ無様でも、歩かねばならん」

 

その一言で、ミュラーはようやく口元を緩めた。

 

「……ようやく、本物の皇帝になられましたな」

 

そう言ったミュラーの口元に、珍しくわずかな笑みが浮かんだ。

冗談にも見えたが、その声音には確かな敬意がにじんでいた。

 

(おそらくこの男は、最後まで俺を“見極めよう”としていたのだ)

 

だからこそ、今のその言葉は――本心だ。

 

翌日――

 

王宮内の一室で急遽開かれた非公式の打ち合わせには、少数の責任者が顔を揃えていた。

その場で、皇帝自ら計画を提示し、意見を求めた。

 

「これまでの陛下なら、ここまで踏み込まれることはなかった」

「……やはり何かが変わった」

 

小声で交わされる言葉の端々には、驚きと、困惑と、そして僅かな敬意があった。

 

反発もあるだろう。いや、これからが本番だ。

宮廷内での駆け引き、軍部内での牽制、経済界からの突き上げ。

 

だが俺はもう逃げない。

 

この国が落ちるのをただ見届けるくらいなら――

その運命を、俺が変えてみせる。

 

 

皇帝の変化は、静かに、だが確実に王宮を巡っていた。

 

ミュラーを通じて動かされた予算調整は、まず内務省の一部から困惑を呼び起こし、鉄道局と陸軍省の間では「管轄侵犯ではないか」との密かな文句が出始めていた。

だが、それでも躊躇しなかった。むしろ、内側の摩擦すらも――道具として使う構えだった。

 

午後遅く、皇帝は単身で、内務国家秘書官クレメンスと会った。

実直で知られるこの男は、皇帝が近頃急速に仕事を始めたことを率直に歓迎しながらも、ある懸念を隠さなかった。

 

「陛下の動きは、陸軍省だけでなく財務局や商工会議所の懸念も招いております。あまりに先走っておられると」

「先など、走ってみなければ分からぬ」

「……それでも、走る先が崖ではないかと、皆恐れております」

 

クレメンスの言葉は穏やかだったが、芯の強さを含んでいた。

 

「この帝国にとって、必要なのは“前進か維持”か。陛下の問いかけは、いま多くの官僚に突きつけられております。……そして多くは、答えを出せずにおります」

 

 

その夜、皇帝は書斎で一人、黙々と地図を見つめていた。

経済と軍事と外交――それぞれの線が交わる地点が、どれだけ少ないかを、改めて痛感する。

 

軍部は補給線を軽視し、外務省は近隣諸国との協調を棚上げし、財政はバラバラに割り振られている。

一本のロジックで帝国を支えるには、まずは結び直すことから始めねばならない。

 

「皇帝陛下が何を目指しているのか、もはや分からん」

「改革? 本気なのか? それとも……」

 

噂は既に士官学校や下級官僚のあいだにも広がっていた。

ある者は期待し、ある者は恐れ、ある者はただ観察している。

 

そうしたすべての声が、ガラス越しに聞こえるような気がした。

皇帝は、ふと椅子にもたれたまま、額を手で覆った。

 

自分は、本当にこの国を救いたいのか?

それとも、ただ運命に"抗いたいだけ”なのか。

 

答えは出なかった。ただ、逃げ道がなかった。

だから進むしかない。それだけだった。

 

翌日、ミュラーから報告が届いた。

予算再編案に対して、軍部高官から非公式の意見書が提出されたという。

 

「皇帝陛下の介入は、軍の独立性を損ねる虞あり」

「戦時における迅速性を損なう可能性」

 

想定通りの反応だった。むしろ、予想より控えめとも言えた。

 

「では、これを足がかりにしよう」

「軍内部に賛成派を育てるぞ。次の閣議には、彼らを列席させる」

 

それは、帝国の中枢における初めての“陣取り合戦”だった。

 

ミュラーは控えめに問う。

 

「陛下、そこまでして……お一人で、すべてを背負うおつもりですか?」

 

皇帝はわずかに口元を歪めた。

 

「余がやらねばならぬのだ。誰も、やろうとしなかったからな」

 

言ったあと、彼自身がその言葉の重さに押し潰されそうになる。

だが、もう戻れない。

 

書類の山に視線を戻しながら、彼は一つ、深く息をついた。

 

机上には、鉄道予算の再検討案。外交日程の組み直し。

補給廠再配置に関する計画書。

そして――議会向けの、法案草案の下書き。

 

視界が、少し霞んだ。

 

この国はまだ、何も変わっていない。だが、歯車は着実に動き始めていた。

 

*1
ゲオルク・アレクサンダー・フォン・ミュラー。ドイツ帝国海軍の提督で、皇帝ヴィルヘルム2世の側近。1906年から海軍官房長官を務め、皇帝と最も近い距離にいた軍人の一人。軍事だけでなく政治や外交にも関わり、皇帝の相談役として重用された。私的にも皇帝と親しく、孤立しがちなヴィルヘルム2世にとって数少ない理解者だった。




1911年8月
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