皇帝陛下に憑依中 ~ドイツ皇帝として歴史に抗う~   作:Core472256

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改革の開始
黄昏の書簡


「通行は許可しない、か」

 

皇帝の手元にあるのは、ベルギー王国からの正式回答文書だった。

四月に発せられたドイツ帝国側からの牽制書簡。

“いかなる大国とも軍事的通行協定を結ばぬこと”を求めたのに対し、半年を経てようやく届けられたのがこの応答だった。

 

「中立国としては、当然の言い回しですな」

 

外務国家秘書官ツィルシュキーが書簡の文面を読み上げながら、薄く苦笑した。

 

「“陛下の憂慮は理解し、中立の義務を固く守る。いかなる交戦国の通行も認めない”――あえて言えば、理想的すぎる返答です」

 

「理想的な言葉ほど、現実から遠い」

 

ベートマン=ホルヴェーク宰相*1が低く言った。

相変わらずの温厚そうな顔立ちに、抑制された口調。

言葉に角はないが、それでも重みを感じさせる。

それゆえに強い。だが、頼るには芯がない。

彼はそんな人間だ。

 

「半年の間に、ベルギーが何をしていたか。

我々の照会には口頭の理解しか返さず、文書を避け続けその裏ではフランスとの鉄道連絡計画が進み、英国との防衛協議が動いていました。」

 

デルブリュックが控えめに補足した。

 

「国内の新聞でも、ベルギー東部での軍備増強が報じられております。

またフランス人将校がリエージュに滞在していたとの報告も」

 

「では、これは中立を宣言した書簡ではない。“中立を誓わざるを得なかった書簡"だな」

 

皇帝は書簡を手元に戻すと、静かに机上に置いた。

 

「我々に対して誓ったのではない。世界に向けて、中立であるという外見を示したにすぎぬ」

 

ツィルシュキーがわずかに身を乗り出し、低く呟いた。

 

「……それがベルギーの限界か、あるいは――誰かにそう書かされたのかもしれませんな」

 

ツィルシュキーの言葉に誰も即答しなかった。

その“誰か”が誰であるか、全員が理解していたからだ。

 

「英国か、フランスか。あるいは両方か」

 

皇帝は目を伏せた。

 

「だが、余が気にしているのはその裏でもない。この半年の間――我らが備えたかだ」

 

ミュラーが一歩前に出る。

 

「それに関連して、兵站統合室の立ち上げについて報告いたします。

現在、帝国鉄道局と軍政局、財務局間で調整が進んでおり、今月末には連絡会議体の形式で試験運用を開始可能との見込みです」

 

「各邦国との調整は?」

 

「バイエルン王国鉄道とザクセン邦鉄の連携には時間を要しますが、平時輸送の効率化を名目とすることで、現在軍事色を薄めて承認を得る方向で進めております。ただ帝国邦国の主権にも関わる問題のため、一部ザクセンやバイエルンから反発が出ています」

 

デルブリュックが口を挟んだ。

 

「商工会議所との接触は開始済みです。

ただし、民間側は"動員準備ではないか"との不安も抱いており、対応には慎重を要します」

 

「では、民間には言え。これは戦争のためではない。戦争を起こさせないためだと」

 

皇帝はそう告げると、手元の地図を広げた。

西部国境線、物流の要衝――コブレンツ、マインツ、トリーア。

そしてその外側にある、ベルギー東部の地名に、長く視線を落とす。

 

「我々が見ているのは、文字ではない。誰が、何を、どこで、どのように備えているかだ。

それを見誤れば……次に動くのは、我々ではなく、他国になる」

 

室内に一瞬、重い沈黙が落ちた。

 

その沈黙の中で、ファルケンハインが進み出る。

 

「陛下。兵站統合室に加え、工業界との調整にも本格的に着手いたします。

特に東部工業地帯の鉄道資材生産と、軍需部門への転用能力――これを把握しておかねば、輸送線の再構築は不可能です」

 

「よかろう」

 

皇帝の声は静かだった。

 

「余は国を守りたい。だが、そのために国を追い込んではならぬ。

軍の動きではなく、国の動きとして備えよ。……それが、余の命だ」

 

ミュラーはその言葉に深く頭を垂れた。

彼の脳裏には、すでに次の行動が描かれ始めている――

このままでは、軍部が黙っていない。

そして皇帝は、それをわかった上で動かそうとしている。

 

ベートマンは黙したままだった。

 

その背後で、ミュラーは静かに手帳を閉じた。

まだ片付いていない案件があった――午前中、控えの者から報告を受けていた名が脳裏をよぎる。

 

「(……モルトケか)」

 

彼の来訪は、決して軽いものではない。

それを受け止めるには、準備が要る。

 

ミュラーは一礼して部屋を後にした。

廊下の奥に、もうひとつの応接室が静かに待っている。

 

 

ベルリン・午後

 

 

執務棟の奥、ミュラーは手帳に記録をつけていた。

皇帝の命により各省を跨いで調整する兵站統合室の進捗、民間との接触状況、軍政局の反応――

どれも、ひとつ狂えば帝国全体の流れを変えかねない要素だった。

 

そこへ控えの者が声をかける。

 

「モルトケ将軍がお見えです。通されますか?」

 

ミュラーは筆を止めた。

 

「……通せ」

 

ほどなくして、ヘルムート・フォン・モルトケが姿を見せた。

柔和にも見える眼差しに、一種の頑なさが宿る。そんな印象を、ミュラーは彼に対して初対面の時から抱いていた。

名家の重圧、伯父の名、そして陛下の変化に振り回される現場の声。すべてを背負いながら、彼は決してそれを口にしない。

参謀総長という立場が、年齢以上に彼を老成させていた。

 

「副官殿。陛下に、直接申し上げたい件がある」

 

ミュラーは視線を向けた。

 

「ご用件を」

 

モルトケは椅子に腰を下ろし、軽く息をつくと、言葉を選ぶように口を開いた。

 

「今回の輸送改革――

参謀本部としては、あくまで政府側の構想として静観する姿勢を取っている。

だが、方面軍区からは懸念の声が出ているのも事実だ」

 

「兵站の平時統合が、軍の独立性を損ねると?」

 

「そう取る者もいる。動員計画に関わる動静が、軍政局や財務省、さらには民間に触れるとなれば、本部としても、軽々には受け入れがたい」

 

ミュラーは静かに頷いた。

モルトケの語るそれは体面ではなかった。軍としての防衛本能だ。

 

「……陛下は、軍を制限したいわけではない。軍の外に逸脱させぬ枠を築こうとしておられるだけだ」

 

モルトケは短く黙し、視線を逸らした。

 

「本部内でも意見は分かれている。私としても、今はまだ判断しかねている。

現状では、容認も支持もせぬという立場を取らせてもらうほかない」

 

「それが、参謀本部の総意か?」

 

「……総意など、どこにも存在しない」

 

皮肉とも言えるような言葉だった。だがその言いぶりは、むしろ苦悩の裏返しだった。

 

「結局のところ、誰もが決めあぐねているのだ。政府も軍も。

だが陛下が明確な意向をお持ちであるなら、参謀本部は妨げとはならない――その程度には、割り切るしかない」

 

「つまり、“陛下の責任で進めるならば止めはしない”、と」

 

モルトケは曖昧に頷いた。

 

「……判断の結果は、時が示す。

だが、いずれこの構想が本部か政府か――どちらかを割ることになる。そのことだけは、お伝えしておきたい」

 

言い終えると、モルトケは軽く礼をして立ち上がった。

ミュラーは黙ってその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

 

 

数時間後、会議室には再び顔ぶれが揃っていた。

ベートマン=ホルヴェーク、デルブリュック、ツィルシュキー、ファルケンハイン――

そして皇帝。

 

ツィルシュキーが後を引き取るように進み出る。

 

「本日午後には、スイス経由で英国への非公式連絡を手配します。

陛下は中立国の主権を尊重される方針を堅持しているという事実を、事前に布石として伝えます。

――中立を守る用意があるのは、ベルギーだけでなく、ドイツも同様だと」

 

皇帝は頷く。

 

「よろしい。ベルギーに曖昧な返答をさせた者たちに、先手を見せてやれ」

 

ツィルシュキーが一礼し、席に戻る。

 

その隣で、ファルケンハインが立ち上がった。

 

「陛下、軍政局としては今回の兵站再編に関し、一部の部局から強い反発が上がっております。特に物資統制を陸軍以外に預ける形への抵抗が顕著です」

 

「予想の範囲内だ。問題は――超えられるか、だ」

 

「……軍政局として、抵抗は覚悟いたします。

ですが、それを乗り越える価値はございます。

この体制が完成すれば、我々は“総力”をもって対処できる」

 

皇帝は静かに頷く。

 

「そうであろう。だからこそ、やらねばならぬのだ」

 

視線を交わした一同に言葉はなかった。

そしてこの場で語られなかったもの――戦争の二文字だけが、全員の頭上を覆っていた。

*1
ドイツ帝国宰相(在任:1909年~1917年)。温厚かつ中道的な官僚出身で、ヴィルヘルム2世の信任を受けた実務家。国内融和と外交的安定を志向する一方で、軍部との対立や第一次世界大戦の勃発に苦慮し、戦中に辞任。帝政末期における“現実主義者”として評価されることも多い。




1911年10月

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