「……ここは?」
気が付くと、今まで見たことの無い景色だった。
わたしがいる路地裏の先には明るい提灯が数多く吊り下がり、ワイワイと様々な声や笛、太鼓が広い通りに鳴り続いている。まるでお祭りのような賑やかさだ。今まで都会でも人気の無い、廃れた路地裏に居たはず。しかしそこに似つかわしくない、馨しい金木犀の香りがしたから、気になって追いかけただけなのに。
そして異常なのは景色だけでは無かった。行き交う人々、いや人なのだろうか、皆何かしらで顔を隠し、様々な耳や尻尾、それどころか人の形を保っていないものまで……異形の者達で溢れていた。
「──おや?」
「ひぃっ……!」
その内の一匹がこちらに気付き、近付いてきた。恐ろしくて腰が抜け、わたしはその場に座り込んでしまう。
そいつは「目」と書かれた布で両目を隠し、ピンと三角に立った茶色の耳とフサフサとした丸い尻尾を生やし、青く渋い色の着物を着て、ニヤリと妖しげな笑みを浮かべている。背はわたしよりも頭一つ分ぐらい大きい。外見や声から察するに男だろうか。確証は無いが。
「お前さん、こんな所で何をしてるんだい? 面も着物も付けないで……もしかしてあっちから、」
「い、いやっ! 来ないで!!」
ピタリとそいつはわたしに伸ばした手を止めた。その隙に、わたしは言うことを聞かない膝に鞭を打って立ち上がり、元来た道を慌てて引き返す。
「…………あれ」
しかし後ろに道は無く、そこには無慈悲に壁が立っているのみだった。
「なっ、なんで!? さっきまでここに道が……」
「お前まさか、人の子か」
ビクッと心臓が飛び上がる。後ろを振り向くことが出来ない。ズシリと肩に何かが降りた気がした。
「何故こんな所にいる? ここは人ならざる者の集う場所。お前が来ていい所ではない」
「そっ、それは…きん、もくせいの香りが……し、た…から…………ろ、路地裏に入ったら…いつの間にかここに……」
声が震える。布越しでもわかる、痛々しいほど鋭い視線が背中に突き刺さる。このまま訳の分からないまま死ぬのだろうか。ふとそういう考えが頭をよぎった。
「──はぁ、“迷い人”か」
その声をきっかけに、途端に自分を取り巻く空気が軽くなった。振り向くとそいつはやれやれと頭をかいていた。
「突然すまんな。最近は物騒でなぁ……警戒しとくにこしたことはないからねェ」
「は、はぁ……」
急に態度の変わったそいつに戸惑う。もう恐れという感情は微塵も無かった。
「あ、あんたは一体……」
「おぉい旦那ァ! そんなところで一体何をしてんだィ?」
突然、男の背後から声がかかる。その声にわたしはまたビクッと体をはね上げる。
「いいやァ、連れが腹痛てぇって座り込んでしまったからね。調子聞いてただけさァ」
「そうかい? そいつは気の毒だァ……薬はいるかィ?」
「家にあるとさァ、連れて帰るわァ! ──ここは人通りが多い。場所を移すぞ。その面付けてついてこい」
男がわたしに狐の面を渡し、コソッと呟いた。
「そういや、お前さんの名前はなんだい?」
移動中、男がわたしに振り返る。
「わ、わたしはも──」
「おっと、本名はここでは言わない方がいい」
「……なんで?」
「ここでは日々が化かし合い。自分の本当の姿は他人に明かしちゃあ、危ないのさ」
なるほど、ネットみたいな感じかな。じゃあ本名からテキトーな名前を……
「……ベニ。ベニでいいよ」
「ベニか、良い名だ」
ニヤッと男がまた笑った。
「あんたは? それにここは? アイツらはなんなの?」
「お、おいおいちょっと待て! まずは一つずつだ」
コホンと男はわざと咳払いをすると、意気揚々と話し始めた。目を隠しているのに、随分表情豊かな奴だ。最初とは大違い。
「俺はセツ。刹那のセツだ。俺にピッタリの名だろう?ここはお前さん達の世界“現世”の裏側の世界で、“常世”という。よくは知らないが……人間界から溢れた者達が見つけたらしい。俺を含め、あいつらはそういう奴らさ。お前達は“妖”、もしくは“妖怪”と呼んだかな?」
「裏側の世界……」
聞いたことが無い。そんな世界があるだなんて、全く知らなかった。まるで物語の世界だ。しかしこうやって存在しているわけだから、男が──セツが言うのだから本当のことなのだろう。実感が湧かない。わたしは一体、これからどうすればいいんだろう。
「──大丈夫。心配しなくても、俺が必ずあっちの世界へ返してあげるから」
先の見えない不安から無意識に俯いていた顔を上げると、セツは優しい声でわたしを見ていた。
「…で、ここからが本番だ。こちらからあちらへ行くのは、実はすごい簡単な時期なんだ。運が良かったなぁ。だが、一年で一番短い時期でもある。なんせ“金木犀”だからな」
「金木犀?」
なぜ急に金木犀が? そういうわたしの心を見透かしたかのように、セツは続ける。
「お前さんはここへ『金木犀の香りを追ってきた』と言ったな? 実はそれが一番簡単な方法なんだ。二つの世界を繋げる道は迷路のようになっている。そこで調べとなるのが香りなんだ。金木犀はその中でも特に香りが強い」
「目印付ければいいんじゃないの?」
「道は神出鬼没、オマケに入る度に道が変わる。さっきお前さんが通ってきた道が壁になっていただろう?」
だから急に道が無くなったんだ。それにしても香りがヒントとか…なんとも面倒臭い………というか、行きやすい時期だからわたしがこうやって迷いこんだんでしょうが。一体どこが、運が良いのか。
「そして金木犀は香りが一番強い代わりに、花が小さく弱い。大体一週間、嵐が来ればもっと早くに散る」
「……えぇっ!?」
「まぁ要するに、時間があまり無いって訳だ」
「その、もし間に合わなかったら……?」
「次の道が現れるまで待つしかないな。二ヶ月といったところか……」
サーっと顔から血の気が引いた。
「ほ、他の方法は無いの!?」
「人の子であるお前さんが使えるもので、一番現実的なのはこの方法だけだ。他の方法は無いに等しいな」
その言葉にわたしは愕然とした。一週間だなんて、短すぎる。そもそも当てにしているのは植物。一週間ももつという確実性は無い。
「あっはっはっ! 確かに瞬きする程短い時間だが、今ならまだなんとかなるだろう!」
「な、何を呑気なことを……」
「いやいや、本当のことだぞ。お前さんはさっきここに来たばっかだ。まだそう遠くまで行ってないだろうからなァ」
「そんな動物みたいなもんなの?」
「元々、迷い人が現れるのは道を作っている妖に誘われて……ってことが多いからな。お前さんのは十中八九そいつが原因だ。少々気まぐれな輩だが。まぁでも、今夜はもう遅いから俺の家に泊まるといい。色々とあって疲れただろう」
「はぁ!? あんたさっき何言ったか覚えてる!? 時間無いんでしょ!?」
「なぁに、金木犀は今日咲いたばかりだ。一日ぐらい大丈夫さ。人の子は相変わらずせっかちだなァ」
この男、本当に信用して大丈夫なのか。わたしは訝しげな目を男に向ける。でも、この男を頼るしかないのも事実だ。全く知らない世界、どんな危険が待ち受けているかわからない。信用して付いていくしかない。本人は今くわァと情けなく欠伸をしているけれど。
「でもこの申し出は、お前さんにとっても良い事だと思うがね」
「なんで?」
「今からは妖が一番活発になる時間帯だ。お前さんは何も知らない人の子、しかも女だ。皆には珍しく映るだろう。お前なんか、すぐに揉みくちゃにされて取って食われるぞ」
わたしの方に振り向き、ニタリとセツが笑う。目が見えないぶん、その口調の変わりようと笑みはとても恐ろしく見えた。ゴクリと無意識に唾を呑み込む。
「わかったか? それじゃァ行こうかねェ」
次の瞬間にはカラカラと笑ったセツに、わたしは自分の唇をギュッと噛んだ。そして悟った。
わたしの命は、すでにこの者の手の上だと。
◇◆◇
着いた先は普通の、本当に普通の家だった。広くもなく、狭くもなく、昔ながらの日本の家だった。
「ちょっとそこで待ってろ。飯を持ってくるからな」
そう言ってセツは奥へと引っ込んでいった。わたしは一人、取り残される。
とりあえず何があるかわからないので、言われた通り座って待っておくことにした。
待っている間、見える範囲でこの家を観察する。
通された部屋はちょうど縁側から庭を挟み、外へ出られる場所だった。庭側の障子は先程入ってきたときにセツが開けており、少し欠けた月が高い所からジッと部屋の中を覗いている。お陰で電気も無いのにとても明るい。普段見ている月より、いささか大きい気がするのは気のせいだろうか。庭から見て左側の壁には小さな棚や低い収納などがあり、掛け軸が掛けられていた。なんか歴史の教科書でその写真を見た気がする。掛け軸に描いてある絵は……よく分からない。二匹の鬼みたいな人が向かい合わせに描かれているのだろうか。
他に部屋の中には何もなかった。もう見るものも無いので、わたしは観念して大人しくボーッと待った。
「おぉ、待たせたな。お前さんには少し物足りないかもしれんが……なんせ急なだったもんでな。まァ、食べられないことはないだろう?」
一時間ぐらい経っただろうか、セツが二人分の膳を持って来た。一人分の食事を乗せた、旅館でよく見る机のような台だ。乗っている食事はご飯に味噌汁に漬物、きんぴらごぼう、おひたし、焼き魚とシンプルな一汁三菜。
「……何をそんなに躊躇っている? 別に毒など入っていないぞ? 食材も至って普通のやつだ。もしかして、食べられないものでもあるのか?」
「え、い、いやー……」
ぎこちなく目を逸らす。見た目はすごく美味しそうなんだけど、やっぱり嫌な妄想が頭から離れない。だって相手は異形の者だ。普通がこちらの普通じゃない可能性もある。そもそもこんなにほいほい知らない男に気を許して大丈夫なのかどうか。
「ふむ……」
なかなか食べようとしないわたしに見兼ねたのか、セツはわたしのお膳に乗っている味噌汁を自分の味噌汁と交換し、わたしの目の前で食べた。
「うん、味は悪くない。むしろ上出来だ。……ほら、俺が食べても何ともない。何か食べないと、人は死ぬのだろう?」
セツが不安そうな声でわたしを見る。わたしが何か悪いことをしてしまっているみたいだ。思わずウッと唸ってしまう。
観念してわたしも味噌汁を手に取り、恐る恐る食べてみる。
「……あ、美味しい」
味は本当に普通に美味しかった。
「だろう?」
わたしの一言に、セツの声の調子が明らか嬉しそうに上がる。少しだけ、本当にほんの少しだけキュンとしてしまった。最初とはえらい違いだ。この妖、油断ならない……
結局ご飯を全て食べ、セツに勧められるがままその日を終えることとなった。
まさか女物の浴衣まであるなんて驚きだ。この男、なんでこんな物まで持ってるんだろう。しかもわりとこまめに洗濯してるっぽい。もしかしてヤバイ人? いや人じゃないけど。
でも身体は正直なもので、浴衣に着替えて布団に潜り込むと、途端に睡魔が襲ってきた。早く出口を見つけなくてはと焦っていたが、やはり慣れないことばかりで疲れていたらしい。
ウトウトとはっきりとしない頭で外を向くと、セツが縁側に座り、何処からか出した煙管を吹かしていた。その姿は何処か物憂げで、月の光に照らされできた長い影をわたしのいる部屋に落とし込んでいる。純粋に、その光景は綺麗だと思った。
「ん? どうした、眠れないのか?」
「……眠らないの?」
「さっきも言っただろう。本来妖が活発になるのはこの時間帯だ。眠くならないのさ」
そういやそうだった。幽霊とか、そういう類いの者だった。わたしは何当たり前のことを聞いているんだろう。
「──安心してお休み。夜は長い。俺達のような怖いものをやり過ごすために、人は眠るのだから」
優しく子供を諭すようにセツが言った。その声に誘われるように、私はゆっくりと瞼を降ろす。
彼の声は不思議と安心する、そんな声音だった。