暗く長い、洞窟を歩いている感覚だった。
必死にもがいて、必死に努力しても、いつもその状況は変わらなかった。誰かに助けを求めようとしても、周りには誰もいなかった。ただ、冷たい暗闇あるのみ。ゆらりユラリと、ただわたしの身体が不安定に揺れ動くのみ。ふと洞窟の奥からヌメリとした蛇のような、ズシッとした泥のようなものが、わたしを捕らえようと身体に巻き付き、囁いてきた。
───ワタシハ独リ。独リハ淋シイ。
「違う! わたしは独りなんかじゃない!」
思考を覆い尽くしていく言葉の波を押しのけるように、わたしは叫ぶ。
しかしわたしの言葉は音ではなく泡となり、誰にも届かず弾けて消えていった。逃げても逃げても、その泥のような蛇は私に巻きついてくる。
脚に、腕に、体に、そして首に。
息苦しい。
嫌だよ、嫌だ嫌だ嫌だ!
どうしてわたしだけがこんな目に?
蛇によって私の首は締め付けられる。剥がそうとしても、息苦しくて力が入らない。わたしはギュッと、震える自分の身体を抱きしめる。手を伸ばしても伸ばしても、誰もこの手は取ってくれなかった。それどころか、皆わたしの手を払い除けた。知らないフリをした。今更、わたしに帰る場所などあるのだろうか。わたしの名前を読んでくれるひとなんて……
「……ニ、ベニっ!」
突如上から聞こえた、誰かの声。あの声はなんだろう。ベニってだあれ?
わたしは声の正体を確かめるため、ゆっくりと目を開けた。
「ベニっ!? あぁ良かった、やっと起きた」
目を開けると、正面には頭に「目」と書かれた布を括りつけた男が安堵した表情で覗き込んでいた。セツだ。
「どうしたんだい? 随分うなされていたようだが」
「いや………大丈夫」
布団から起き上がる。夢を見た気がするが、ぼんやりと「何か嫌な夢」ということしか分からない。
「そうかィ、ならいいんだが……もうすぐ飯ができるからな、身支度をしとくといい。そのままでは風邪を引いてしまう」
そう言うと、セツは奥の部屋へと行ってしまった。風邪という言葉で気がついたが、わたしの布団は汗でぐっしょりと濡れていた。そんなに汗をかくほど、怖い夢だったのだろうか。何も思い出せない。
「……まぁ、いっか」
怖い夢であったのなら、無理に思い出す必要もあるまい。わたしは急いでいつの間にか綺麗になっていた昨日の服に着替えた。
身支度と昨夜と同じような朝食を終えた後、セツの提案でわたし達はこの家から見て北の方へ向かうことになった。北の方が一番自然が多く、金木犀も多いはずとのことだった。
確かに、北の方はいかにも田舎という感じだった。田や畑が一面に広がり、それを取り囲むように森があり、さらにその森から続いて大きな山がこの地を見下ろしていた。農家をしているわたしのおばあちゃんとおじいちゃんの家の周りが、ちょうどこんな感じだったような気がする。そしてこの時期の田は先程登ったばかりの太陽に照らされて、わさわさと揺れながら黄金色に輝いている。そして朝にも関わらず、沢山の人影があった。
「やぁセツ、セツじゃないか! 今日は朝早いねェ。何かあったのかィ?」
「おはようさん。今日は森の方に行こうかと思ってねェ、少し急ぎの用なのさ」
「セツの坊や、早起きのついでにこれを持っておいき。いつも助けてもらっているからねェ」
「おぉ、こちらこそ、ばあちゃんいつもありがとな。じゃあ帰りに寄らせてもらうよ」
しかも、そのほとんどがセツの知り合いっぽい。沢山の声と野菜が渡されるのだ。なんというか、可愛がられてる……?
「アンタってさ、なんでこんなに人気なの?」
「人気というか、こんなところに来るモノ好きは俺ぐらいなのさ。で、爺さん婆さんに頼まれるがまま用事をこなしてたら、いつの間にかここら一帯と顔馴染みになっちまった」
「へ、へぇー……」
この男、わたしが想像する妖怪と全くイメージが逆なんだけど。悪さするのが妖怪なんじゃないの?
でも、ある意味納得する。昨日は得体も考えもわからず警戒していたけど、恐らくこれが彼の根本の性格なんだろう。にしてもどこまで底抜けにお人好しなのか………
「用事って、一体森に何しにいくんだ?」
「“金木犀”を探しにね。俺の姪が一目現世を見たいと言いだしてねェ」
「ほぉ、そのちびっ子誰かと思えば、セツの姪だったのか。いやぁ上手に化けてるねェ、服まであちらの服にそっくりじゃないか。現世に行くために練習したのかィ?」
「え、えっと……」
急に一つ目の妖に話題が振られて焦ってしまう。顔の半分は占めているんじゃないかと思うぐらいの大きな目は、わたしのことを全て見透かしてしまいそうだ。こんなにジロジロ見られたら、わたしが人だとバレるんじゃないだろうか。というかわたしセツの姪って設定聞いてないんだけど。
そうやって返答に困っていると、セツがわたしと話しかけてきた妖との間にスっと割り込んできた。
「済まないねェ、こいつ照れ屋なんだ。あまりジロジロ見ないでやっておくれ」
「おぉ、そうかそうか。そいつは悪かったなァ」
一つ目のお爺さんがニッコリと笑って謝ってくれる。視線が外れて少しホッとした。
「ところで一つ目のじぃさん、この辺りで金木犀を見なかったかい。噂でもいいんだ」
「うーむ、なんも聞いとらんなァ。すまんのォ。香りだけなら少しした気がするんじゃが」
「それだけあれば充分さ。探す気力が湧くからな」
「あぁ、そういえば……」
突然、一つ目のお爺さんの隣にいた奥さんらしきお婆さんが声を発した。そして驚くような情報をもたらしたのだ。
「今日を含めて三日後ぐらいに、嵐が来るらしいねェ」
「まぁ、待てってベニ。急ぐ気持ちはわかるが、怪我でもしたらどうするんだ?俺の後ろを歩く方がいい」
「アンタがゆったりし過ぎなんでしょうが!」
彼のゆうゆうとした態度にイライラしながら、わたしは森の道をずんずんと早足で歩いていく。昨日から思っていたが、この男、随分のんびり過ぎやしないか? 自分で「瞬きする程短い時間」とか言っておきながら、少しも焦りやしない。
「ベニ、お前が思っているより、森というのは危険な場所なんだぞ? せめてもっとゆっくりとだな、」
「あーもーうっさい! あんたの場合はどうせ早く歩くのが嫌なだけでしょうが!!」
まったく、妖という奴らは皆こんな感じにノロマなのだろうか。こっちは真剣なのだ。一大事なのだ。他人事だと思って!!
「ベニ、危ない!!」
「え?」
セツの叫び声が聞こえて振り返ろうとした瞬間、ガクッと視界が揺れた。ズルッと左足が滑った感覚。咄嗟に踏み留まろうと足裏に力を込めるも、力が入らない──その前に空中に投げ出されて、力の入れようが無かった。
それに気づいた途端、本能的に身体の爪先からゾクッと冷たい、嫌なものが走った。下から風がわたしの髪を吹きさらす。地面がエレベーターのようにスローモーションで上がっていく。何が起こったのかわからず、わたしの頭の中は他人事のように目の前で起きることを茫然と見つめていた。
「…………掴まえた!」
嫌な感覚はガクッという強い衝撃によって、一瞬で終わった。でも体は未だに空中へ。唯一右腕のみが上へと引っ張られて体を支えていた。
「ふぅ、危ないところだった……」
「…………セツ」
右腕のさらに上から声が聞こえた。見上げると、セツがわたしの腕を掴んでいた。
「待ってろ。今上げてやるからな」
セツのその一言で、わたしは改めて自分の今の状況を理解した。わたしはすぐ左にあった崖に気づかず足を滑らせ、間一髪でセツに腕を掴まれたのだった。理解した途端、ゾワゾワと今になって恐怖が再び嫌な感覚となって押し寄せてくる。
「ベニ、大丈夫か? 怪我は? どこも痛いところは無いな?」
「…………うん」
上げ終わった直後、セツが心配そうにわたしに聞いてくる。素っ気なくも肯定するわたしの返事に、彼もようやくホッと溜息をついた。けれどわたしは、後悔の波が止まらなかった。
もしも、セツが掴んでくれなかったら?
もしも、わたしがもっと周りに注意を向けていたら?
もしも、わたしがセツの言うことをちゃんと聞いて、彼の後ろを歩いていたら?
様々な『もしも』が頭の中に浮かんでいく。引き上げられて危険が無くなった後も、嫌な感覚はずっと残ったままだった。彼がいなかったら、わたしは今頃──
「だから言っただろう!?」
突然の叱り声にわたしはビクっと肩を固くした。
「森はお前が思っているより危険なんだ! 歩き慣れている俺でも慎重に歩かなくてはならないのに、初めて訪れたお前なら尚更だ! 今回はなんとか俺が助けられたものの、俺がもっと遠くに居たら? 今頃、お前は元の世界に戻るどころじゃない。また別の世界へ飛ばされるのだぞ? 唯一命の概念があるこの世界から、永遠に帰って来れぬのだぞ? だから心配なのだ。お前達人の子はせっかち過ぎるから!」
わたしは茫然とセツを見上げる。心配が一周回って怒りに達した声だ。口調も、心なしか変わっている。最初に脅された時の口調だ。もしかしたら、そっちが彼の素なのかもしれない。そんな関係のないことを考えながら。
「……おい、聞いているのか」
「……わたしのために、怒ってくれてるの?」
「…………はァ?」
関係ないことを考えていたせいか、思わず正直な気持ちが出てしまった。ハッと口を慌てて押さえるも、もう遅い。
そんなわたしのトンチンカンな言葉に、セツはハァと大きな溜息をついた。
「当たり前だろう? 人は脆弱なのだから。それに、俺が俺の為に他人を怒ってどうする?」
ったく、ヒトが心配しておるのに……とブツブツ呟く彼。その言葉が、わたしにとっては全然想像もつかない言葉で。今まで誰にも、言われたことの無い言葉で。
「べ、ベニ? どうかしたか? 俺の言い方が悪かったか……?」
「え? …………あ、」
セツがぎょっとした顔で話しかけてくる。
その顔でようやく、わたしは自分が涙を流していることに気づいた。
「だ、大丈夫。今更になって恐怖が来ただけだから」
「本当か? ……本当にそうか?」
「うん。だから、大丈夫」
急いで涙を拭う。セツは何か言いたげに口を開いたけど、すぐに口を閉じた。
「…………そうか。まァとにかく、これでわかっただろう。俺の後をしっかり付いてくるんだぞ」
すれ違いざまにポンポンとわたしの頭を軽く撫でると、セツはまた山の中を歩き出した。
結局、その日はなんの成果も得られず、彼も何もわたしに聞いて来なかった。