もう嫌だ!!聞きたくない!!」
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ある日、とある少女は外界への扉を閉ざした。少女は知っていたはずだ。目を背け、光を閉ざしても、その先に道は続かないことを。だがそれ以上に、少女は疲れきっていたのだ。周りからの期待、理想。それらを少女に押し付けた日々の喧騒に、少女の精神は酷く摩耗していた。
『分かっているんだ、本当は。こんな事したって、何の解決にもなりやしないことを。でも、もう嫌なんだ…こんな世界、疲れたよ…。
何のために私は産まれてきたの…?周りの思い通りに育って、示された人生を歩むだけ?…そんなの、私は求めてないよ…。』
かつて少女は、周りからの期待、要望に従って育ってきた。少女も「それが誰かを幸せにするためであって、誰かの期待に沿えるなら嬉しい」とも考えていた。
だが、他人に押し付けられた歓びは、果たして幸せと喚ぶのだろうか。自分を殺してまで得た歓喜は、本当に個の幸せなのだろうか。
『こんなつまらない人生を歩むくらいなら、もういっそ…。』
自暴自棄だった。夢も希望を見据えることが出来ない人生に生きる希望を見いだすことは出来るだろうか。恐らく大多数の人間が不可能だろう。少女も同じだった。希望もない人生に、もうそれ以上の価値を見いだせなくなっていた。
世には「人は生きる上では罪を犯さずして生きる事は出来ず、その贖罪として課せられる罰が生の苦しみである」という思想がある。では、人が感じる幸福の定義とは何なのだろうか。「幸せ」を感じれば幸福?そんな主観的な感情論では幸福を定義するに不十分だろう。
そこで私はこう考えている。生きる意味を見いだすことが出来ること、それが幸福なのだと思う。望む道があると言うのなら、正道は行かないのが吉だ。正道を歩み、己が理想を手に取れるのは、ほんの1握りの人間しかいないのだから。
『…。』
スマホの画面を見つめ、少女は体を起こす。そして立ち上がり、外界へと繋がる扉を開く。
光を見るのに疲れたのであれば、光を見る必要はない。光を見ずとも、己を存在させる場所は確かにあるはずだ。ないのであれば、作ればいい。己の居場所を。何も前を向き続けるのが生きる事の正解ではない。そのような事を続けようものなら、身体・精神の限界は、必ずすぐに来てしまう。
今の現代は少し行きづらい。物価高、労働環境。こんな時代に生きていればストレスも溜まるものだろう。でも、時には自分で自分を労ってみてほしい。こんな時代に、確かに地に足を付けている自分を。
時には目を逸らしたっていい。休養も生きる上で重要な要素の1つである。ただ、現状に甘えるのはやめるように。甘えは己を堕落させる要因であり、日常における敵である。適切な自分の甘やかし方は、覚えるようにするといい。甘え方は、間違えないように。
この事が、今の社会を生きる皆様の糧になることを、私は確かに祈っております。
私のこの作品が、確かに皆様の支えになる事を、切に願っております。