雨の日にだけ出会える、謎だらけでミステリアスなお姉さんの正体について。 作:お姉さんに「キミ」とか呼ばれたいだけの人
夏の天気は変わりやすい。
まばらに見えた雲たちは、あっという間に群がって、層となり、天を染め上げる。黒く彩られた空は今にも泣き出してしまいそうだった。生温い風が頬を撫でつけて、雨の到来を報せるかのように去って行く。
アメリア・メア・メチルメルトは、そんな不穏な空気の中、極めて迅速に足早に家路を急ぐ。
普段であれば、側付きのメイドが車で迎えに来るのだが、しかし、彼女に所用が有るという事で今日はその限りでは無かった。
『学校で待っていて頂ければ遅くはなりますが迎えに行けるかと……』という使用人の言葉を、『一人で帰れる』とアメリアは突っぱねた。
そうして、一人で帰り道を歩いていたのだが、天気はすっかり一変し、雨模様の世界が孤独をより意識させる。
やがてぽつりぽつりと雨が降り始め、砂時計が落ち切るよりも早く、ザァーッと雨足は強まった。
雨で世界が冷やされていくのに呼応するかのように、アメリアの心もまた冷たくなっていく。
──ゴロ……ゴロ……ドーンッ!
とうとう雷などが鳴った時には、アメリアは濡れるのも、塗れるのもお構い無しにその場でへたり込んでしまう。
脱力した体でただ呆然と遠くを見つめる姿は、ゴミとして捨てられた
「あっ……あぁ……うぅ……」
アメリアはもはや一人では何もする事が出来ない。いつもは泰然自若とした振る舞いをする少女でも、雨の前では無力になってしまう。
全ては彼女自身の過去のトラウマに起因していた。
アメリアの頬をつぅーっと伝う水滴は雨垂れだったのか、はたまた涙だったのか。誰にも判りはしない。
「……えぅ」
声にならない声が漏れる。誰か救けて、そう願ったのかもしれない。アメリアらしくもない切なる想いは、けれど確かに誰かに届いていた。
「やぁ、こんにちは御嬢さん」
高い女の声音が耳に届く。赤い雨傘は、こんなに暗くて寂寥感に満ちた世界ですらはっきりと存在感を放っていた。傘の下から覗く黒髪は、東洋人の魅力であり、キューティクルがてらてらと光っては、誘蛾灯の如く人々を惹きつける魔力を秘めていた。
「こんな所で、傘も差さずに座り込んでいては風邪を引いてしまいますよ」
さあさあ、お入りなさい。差し伸べられた雨傘は、アメリアを雨風から遮ってくれる。しかし、それだけではない。傘としての機能、それだけではない何かがあるように感じる。
例えるなら、人の温かみのようなものが、その傘の下には宿っていたのだ。
「あぁ……えぁ……」
アメリアの引き締められた喉は、思うように言葉を出してくれない。
「────大丈夫、大丈夫だよ」
アメリアは、そっと抱き締められる。女の柔らかい体が彼女の全身を包み込んだ。冷え切っていた体に、眼前の女性の体温が移っていくみたいに、流れ込んで来るみたいに、温まっていく。まるで天日干しした、洗い立てのお気に入りの毛布に包まっているかのような癒やしがあった。
優しい香りが鼻腔をくすぐった。まさに遠い昔、安心を知った時に嗅いだ気がする匂いだった。
「……あっ」
「ゆっくりで良いからね」
背を摩る手付きは、赤子を寝かしつけるみたいに、どこまでも慈愛に満ち満ちていた。
アメリアはそこに、母性を見た。
幼き頃の母との思い出。今はもう写真の中にしか残っていない幸福の足跡。在りし日を切り取った、善性だけで構成された世界。
アメリアは、そういう幻想をずっと追い求め続けて来た。
「あぁ……」
くしゃくしゃな顔が、女性の衣服を汚していく。女はそれを気にも留めないで、つよく、やさしく抱き締める。
「……
つい、ぼそりと声が漏れる。
「…………!」
女は一瞬間驚いたように目を見開いた後に、顔を綻ばせた。
「……うん、うんうん。今この時だけは、私に甘えてくれて構わないよ。君が望むならママにでも何でもなってあげる」
言葉は続く。
「──だから、ね? 私の前だけは何も抱え込まないで、全部ぜんぶ吐き出しちゃお?」
女の甘言がアメリアの耳に絡み付く。どろり、ねっとりと。彼女の色香に酔う。あまく、くらくらと。
それはまるで沼に沈んで行く姿と酷似していた。これではもう抜け出せない。ゆっくりと堕ちて行く感覚に、けれど心酔する。嬉々として受け入れたその先に、楽園があるのだと信じて。
「ママ! ママ!」
そしてダムは決壊する。今まで溜め込んでいた、良い子ちゃんを気取った姿や舐められないように気丈に振舞っていた格好は、もはや脱ぎ去られていた。
現在の彼女は謂わば、幼子。アメリア・メア・メチルメルト五歳の姿と言っても過言では無い。
「そろそろ、移動しようか」
女は迷子の少女を導き始めた。
***
「びしょびしょだね」
場所を移して、アメリア家へ。あっちだ、こっちだと弱々なアメリアから住所を訊き出し、やっとこさ到着する。その間も、彼女は女の側を片時も離れはしなかった。
アメリアの家は、風音町には似つかわしく無い大きな洋風建築だった。元々はどこかの富豪の邸宅だったというこの家は、しかし売家として出されていた物で、長年買い手が付かなかった場所であった。それを最近になって風音町の拠点として購入したのがアメリアだ。
側付きのメイドと二人暮らし。そして、これだけ広い家に雨の日に独りというのは心細いかろうと女は得心した。
「お風呂、入ろっか?」
すっかり冷え切ってしまった体を温めるのには、入浴が最善だ。濡れた衣服も早く脱がねばならない。
「……一緒?」
女の腕にしがみついたままのアメリアが、上目遣いで訊く。心底甘え切った様子だった。
「それが良いなら、そうしようか」
勝手に使っても良いのだろうか……と女は躊躇うが、二人は何もかもを脱ぎ去って、洗濯機を回す。
女が陶器のような染み一つ無い白い肌だったのに対して、アメリアの体には服で隠れていた古傷の跡が少し目立った。裸になったからこそ解る事もある。その傷は彼女の生き様とも言えたのだ。
「広いね」
家が広ければ浴場も広い。女二人で使うには持て余してしまう程の大きさだった。さすがにこの広さで今から湯を張るのは時間が掛かってしまう。そう判断して、シャワーによる湯浴みで身体を温める方向にシフトした。
「痒いところは無いかな?」
「ううん、大丈夫♪」
女は甲斐甲斐しく世話をやる。ボディソープの泡を立てると、アメリアの全身を洗っていく。血行を促進して体温を取り戻せるように、按摩師の真似事をしながら、丁寧に揉み解す。
少女の肉体は瑞々しく、触れると柔らかい。それでいて戦うための筋肉が主張をしている。修羅場を潜り抜けて来た末に身に付いた戦闘力だった。
「くすぐったいよ♪」
キャッキャッとアメリアは楽しそうに体をくねらせた。女はその光景にびくりと反応する。
「……ごめんね」
幼児退行した女子高生と成人女性が一緒に風呂に入っている光景は、明らかに異常だった。これが二人の世界でのみ行われているから、まだ秘密性が確保されている。けれど第三者の目に留まれば……。
手早く髪を洗っていく。長い毛髪の手入れには根気がいったが、女は慣れた手付きで懇切丁寧に取り扱った。
されるがままのアメリアはというと、終始楽しそうに上機嫌だった。
「じゃあ、乾かそうね」
「えへへ……♡」
タオルドライからドライヤーまで、その時にはもうアメリアの身体も心もぽかぽかと満たされていた。乾燥を終えた衣服が、さらに体を温める。先まで雨の中で蹲っていたとは思えない仕上がりだった。
「……支えになれたようで良かったよ」
女はぽつりと呟いた。ソファの上でちゃっかりと膝枕をしてもらっていたアメリアは、不思議そうに女の顔を覗き見ようとする。しかし、大きな胸によってその行為は阻まれた。はたして、どのような顔をしていたのか。それは誰にも判らない結果となった。
けれど、女がアメリアの頭を撫でる手付きにただならぬ情が込められているのは確かだった。
「──申し訳ありません、御嬢様。帰りが遅くなってしまいました」
暫しの間、二人がゆっくりとした時間を過ごしていると、同居人が帰宅を報せる。
「……さてと、私の役目も終わりのようだね」
足音が近付いて来るのを感じ取りながら、身支度をしていく。
「また会える……?」
温もりが離れていく感覚に不安を覚えて、アメリアは女の衣服を掴んで離さない。
「私が必要な時が来たら、何が何でも駆けつけるよ」
そう言い残すと、女は玄関を目指して歩き出す。アメリアはもう引き留めようとはしなかった。
それは、平静を取り戻したからかもしれない。あるいは、再会を確信する何かがあったからかもしれない。
ただ去って行く姿を見つめ続けた。
「大丈夫ですか、御嬢様。雨が降っていたのに……お客様……?」
途中で、女とメイドがすれ違う。メイドは振り返って訝しげに女を見た。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
メイドは女の背に向かって声を掛けるが、女は後ろ手でひらひらと右手を振っては、何も言わずに玄関の戸を潜って行ってしまう。メイドはどうしてかその姿に目を離せないでいた。
「あの方は?」
暫し、女が去って行った方を見続けた後に、メイドは主人に彼女の正体を尋ねた。屋敷の中に通したという事は、少なくとも怪しい人物である可能性は薄かった。
しかし、メイドにとって不可解なのは女の放っていた独特の雰囲気だっただろう。手を伸ばせば伸ばすほどに離れて行き、やっとのことで掴んでも手から滑り落ちていくような何処か掴み切れない空気感を身に纏っているように感じた。
「あの人はそうね……私の“ママ”になってくれるかもしれない人よ────」
「は?」
意味不明な言葉を宣うアメリアに、メイドは呆れた声を漏らすしかなかった。
千家叶笑ちゃん「は?」
エタってません。待っていてくれた人がいたのなら嬉しく思います。