彼女のN.I.A編は踏まえておりません事実をご承知おきくださいませ。
「しにた~い」と「いきた~い」の間ぐらいにある、名称のつけられない人生にぶら下がっている感じがする。押したら「ぴっがらがら」って感じで、自販機みたいにどちらかが転がり出てくれないだろうか。そうすればきっと楽なのに――なんて考えながら、そうできずに惰性で人生を延長させている。
美鈴と出会ったのは、大学から遠ざかることを覚え始めた二回生の春だった。大学に復帰したはいいものの、自分を消費しないように過ごす気持ち悪い日々。
さほど頑張っていないせいで着実に成績は落ちていたけれど、だからといってそこまで落ちぶれたわけでもない。命を削って注ぎ込んだ日々は何だったのだろうか。そんな問いが始終頭の中をぐるぐるしていた。
結局のところ、「努力の要領が悪い」の一言で片付いてしまう。いい加減認めたほうが楽になれるけれど、認めたら自分を支えている精神的な支柱が粉々になる気がした。
緑色の樹冠に散った桜を重ねて、ぼうっとしていた。薄い色をした空に、悩み事なんてないような綿雲が一つぷかぷか浮いている。あんなふうに生きられれば幸福の二文字も知らずに幸福に生きられるのだろう。
「おとなり……座ってもいいですか?」
数あるベンチの中でただ一つ人がいる場所に、初星学園の制服を着た女子は歩いてきた。攻撃力も防御力もなさそうだ。俺は彼女を見上げ、次いで彼女の影で濃くなったベンチの空きを見る。そして周囲を見た。ここに座ろうとする意味が分からなかった。
俺の困惑は表情と態度にありありと出ていたのだろう。少女は口もとに手を当てておかしそうに笑った。
「すみません……つい、珍しい方がいたものですから。いつもここにいるのはわたし一人だったんです。ですから、気になって」
「それは……悪いことをしました」
すぐにどきますよ――と腰を浮かせた俺の動きを遮るように、すっと影が横切る。拳一つ分ほどを空けて座った彼女は、中途半端な格好をする俺にほほえみかけた。
夜になる手前の、どこかの水底みたいな静かな青色。瞳だけでなく、姿や雰囲気のすべてが静かながら、強いなにかを訴えていた。
「せっかくですし、少しお話ししませんか?」
腰を戻した俺に向かって、彼女はさっそく「秦谷美鈴と申します」と丁寧に名乗りを上げた。
「越川
サイドポーチから財布を取り出し、クレジットカードに邪魔されながらなんとか名刺を引っ張り出す。片手で渡すべきか両手で渡すべきか散々迷い、最終的に財布を置いて両手で差し出した。もう何ヶ月もこの動作をやっていなかった。
デザインや配色の授業を受けたことはあるが、我ながら恥ずかしい出来栄えで。脇の下がぞっとするほど冷えこんだ。そのくせ汗が出ていた。
たどたどしさなら満点だ。自殺率ナンバーワンみたいな組み合わせの呪詛が耳から脳に流し込まれて、さらに営業スマイルまでかたくなる。
「まぁ……プロデューサー、ですか」
美鈴は俺の様子などどこ吹く風だった。目と口がかわいらしい大きさで開いている。
「一応」とごまかすように付け加えたが、美鈴は「プロデューサー科って書かれていますよ」と名刺を見ながら返答した。
「わたしは、そちらにはいませんよ」
思わず顔をそらした俺に、彼女はゆっくりとした調子で話しかける。
「……知っています」
「わたしの背後に誰かいますか?」
「いえ、誰も」
美鈴はスマホケースとスマホの間に名刺を挟んだ。そしてベンチに腰掛けて、うっすらと開いた目で太陽を見つめる。
「わたしはいつも、ここでお昼寝をしているんです。日差しが気持ちいいと思いませんか?」
なんて問いかけられても、俺は気の利いた言葉を返せない。花冷えで寒いくらいだ。今だって、熱された頬が日差しと風の冷たさを訴えている。
「高等部に上がってすぐ、このような場所を知ることができて幸運でした」
「人が……少ないですよね。日中は」
「ふふ、ええ。みなさん授業中ですから」
「そうかもしれませんね」
「そうです。そうなんですよ?」
よく話す子で、よく笑う子だった。でもお淑やかな雰囲気はまるで崩れなくて、どれだけ強い意志で自分を律しているのだろうと思った。
別々の影が似たような短さで伸びている。それぞれ美鈴らしい揺れ方で、俺らしい揺れ方で、風に揺れた。
「俊さんはどうして中庭に? 確かにこの場所は学園内ではありますが……あまりプロデューサー科の人がいるイメージがなかったものですから」
まさかサボっているところを人から見られても構わなかった、なんて言えるはずもない。これまでは自宅や近くの喫茶店、図書館なんかにいたのだけれど、わざわざ人からバレないように距離を取ることに疲れたのだ。なんと思われようと、もはや構わなかった。
春らしい風が吹いて、それは仄かな温度を帯びている。美鈴のほうから吹いたからかもしれない。
「人がいない場所を探していたんです」
「まあ、奇遇ですね。わたしもそういった場所を探すのが好きなんです」
おすすめの場所を聞かれ、堂々と敷地外を答えるわけにもいかず首をひねる。すると見かねた美鈴が「たとえば和室など」と補足をする。
「部活棟にあるんです。とても静かで……雨の日など、外に出られない日はそこで休んでいるんです」
相槌を打ちかけて、でも自分は入れない場所だ、と思った。期待するような眼差しに一瞬怯み、言葉を絞り出す。
「俺は……図書館や空き教室にいますね」
「日当たりのいい席にご案内していただいても?」
今度は美鈴が腰を浮かせた。小さなぬいぐるみが移動するみたいな軽さをしていると思った。
「誰かと出くわすので、行くならお一人でどうぞ」
「……そういえば、あなたは人のいない場所を探していたんでしたね。目的が達成されたみたいでよかったです」
「あなたは人ではないんですね」
「アイドルです」
「すごい。アイドルって妖怪とか魔物の類なんですか」
「放課後みなさんに言いふらしてもいいですか?」
「冤罪がすぎると思います」
美鈴は春風に歌を乗せるみたいに、声を上げて笑った。にわかに日差しが強くなった。天使の声を聞こうとした太陽がぐっと顔を地球に近づけたのだと思った。あたたかいを通り越して熱くなった空気は、ここ最近の季節みたいに気まぐれに体を殴りつける。
自分の肉体を制御するのには、気力がいる。季節の変わり目は気力が足りず、いつもどこかで力尽きた。振り絞っても最低限にすら満たない体が恨めしかった。
体だって頑張っているのだろうけれど、それは俺の心からすれば、頑張っていると叫んでいるだけで何もしていないのと変わりない。休学したとき、きっと体は心に対して同じことを思っていた。
美鈴もサボっている……のだと思うけれど、確証はなかった。経験からなんとなくそう思ったにすぎない。おそらく美鈴も俺に対して似たようなことを思っているだろう。
美鈴が瞳を閉じてしばらくしたころ、彼女は不意に体を起こし、俺に顔ごと視線を向けた。
「俊さんは……何も聞いてこないんですね」
「聞いてこない?」
「どうして日中にここにいるの、や……せっかく入学できたんだからもっと頑張ったら、などでしょうか。他にも、いろいろです」
「それは……」
言い淀み、考える。ちらつく過去に薄汚い大人の残影があった。あるいは、それは子どもや仲間に向けられた刃なのかもしれない。
美鈴の横顔をじっと観察する。凪いだ表情に傷の痕跡は見られない。アイドルにふさわしい美貌には、やはり影すらなかった。でも傷だらけの子どもに見えない人間ほど案外傷ついているものだと思う。
人というものは、お釈迦様も神様も世間様も存ぜぬうちに、健やかに狂うものだ。
俺はおどけて肩を竦めた。
「俺が言えると思いますか?」
「まさか……ふふ。講義中なんですか?」
「まじめにな人が日中に講義を抜け出してこんな場所に来るなんてことがあったら、槍が降ります」
「そうしたらレッスンするしかありませんね……憂鬱ですが」
「他の人は空を見て憂鬱になってますよ。後処理どうするんだろうって。車とか絶対パンクします。フロントガラスも粉々です」
「うーん……? そこじゃないと思いますが……?」
俺はなんとなく空を見た。太陽が瞼の裏側までを貫き、目を閉じても白い光が残っている。
槍が降ったらどれだけ幸福だろうと思った。それは俺が夢見ていた、自販機の小さく軽いボタンかもしれなかった。
「わたし、晴れた日はここでお昼寝をしていることが多いんです」
美鈴は誰もいない中庭を見回した。人の呼気にまみれた場所は、いま現在は美鈴のものだった。彼女は征服感を堪能しているみたいにうっそりとほほえみ、俺を斜めに見上げる。
薄明のスクランブル交差点を支配した子どもは、大人でさえ、きっとこんな表情になるのだろう。美鈴の心は弾んだ音を奏で、それは声音すら変化させた。
「ときどき、人と話したくなることがあるんです。話し相手になっていただけませんか? ちょうどいまは……一人でいる時間が多いですし」
「……槍が降らなかったら。それと気が向いたら」
彼女に感化されたのか、長年使っていなかった筋肉が動いた感じがする。ずっと昔に壊れたと思っていたけれど、整備不良でもしっかり動いてくれた。自然な笑みの形を思い出せないまま、美鈴と笑い合う。俺の笑みもこんな理想的な形をしていたらいいと思う。
「わたしとお話する気分になったらでしょうか。それとも、サボる気分になったらでしょうか?」
「さて……どっちでしょう」
「そうだ。せっかくならとっておきの場所もお伝えしておきますね」
美鈴は俺に和室の場所を懇切丁寧に教えてから、まどろみに引かれて落ちていく。
それきり俺たちの間には沈黙が満ち満ちた。弾力性のある春の空気が以前よりもあたたかく感じられた。
大学に申請して借りている車から膝掛けを取って戻り、そっと女子的な太腿にかける。こんな見た目でも太腿と呼ぶのが、炎上したアイドルをアイドルと呼び続けるような残酷さに重なる。部位の名称であり、人に夢を与える職業だから、どれだけあがいたところで呼び名が変わることはないのだと思う。プロデューサーだってきっとそうだ。
狭き門をくぐったとしても、自分は普通以下なのだと己を洗脳し続けなければ、足が止まってしまう。歩みを止めた俺は単なる愚物でしかない。努力する愚物のほうがずっといいに決まっている。
しばらく考え事をしてから、ペットボトル一本分くらいのとなりで別世界をたゆたっている美鈴を起こさぬように、そっと立ち上がった。