距離感は間違いなく間違っているのだが、俊は線引を弁えているように見えた。さしもの美鈴も堅牢な牙城を前に攻めあぐねている。
唯から見て、俊と美鈴との関係はそんな感じだった。
「まったく……世話が常態化しているのはどうにかならないのか」
ダンスレッスンの休憩時間にたまたま俊と顔を合わせて、そのまま自販機の近くで立ち話。目の下のクマが濃くなると彫りが深くなったように錯覚するのだな、というのがここ最近の唯の気づきである。
そんなもの気づかせるな、と俊を睨めつけても、彼はどこ吹く風だった。
ブラックコーヒーを味わったあと、俊は人質となった姫のために仕方なく母国を裏切った騎士のように、苦しげに言った。
「合鍵を握られていまして」
唯から漏れるのはため息ばかりだ。
「どうしてそんなことになったんだ……」
「いろいろあったんです」
「なきゃ困る。そんなほいほい合鍵を差し出すプロデューサーがあるものか」
「いえ、他人の家の鍵を回す感触が好きなんです、みたいなことを言われて、それなら仕方ないかと思って渡したら返されませんでした」
「そんなものを信じたのか……?」
「はい」と俊はきまり悪そうに顔をそらす。
疑うべき理由がないのなら、基本的に相手の言う通りにする、というのが俊の基本方針だ。そしてその責任は、できるだけ自分で取ろうとする。ある意味では他人を信じているし、ある意味では他人に期待をしていない。俊はビルとビルの間を命綱もなしに綱渡りをして、しかも疾走しているような人間だった。
「そのうち撃たれるぞ」
「週刊誌にですか」
「……まだそこまで注目されていないのかもしれないが、美鈴がトップアイドルになれば否応なしに人目を集めるようになる。あれはそれだけのアイドルだ。今から気をつけておくに越したことはない」
「仰る通りです」
「その点でお前は、迂闊と言わざるを得ない」
どんどん体が小さくなっていく俊に、言い過ぎたか、と後悔する。だが事実だ。
「なんとか鍵を返してもらうことはできないのか? 諭すとか……説得するとか」
「美鈴さんですよ?」
「……それなら、いきなり鍵を変えるのはどうだ」
「一ヶ月くらいレッスンをサボると思いますが」
唯のため息は深く重かったが、俊が思い詰めているように見えないせいで、いくらか霧は晴れた。
二人とも今の関係を居心地のいいものに感じているのかもしれない。だから無理に改善しようとは思わないのかもしれない。
「あさり先生みたいなことを言いますね」
じっと缶の中の暗闇を見据えて、俊は言う。小さな隙間に投影された過去が、唯の脳内にも流れ込むのが分かった。
「……いい指導者には、やはり共通する部分があるようだな」
「それだったら今のあさり先生は駄目な指導者になってしまいますよ。だからやめましょう。あの人はいい人です」
でも、枯れた花って何をやってももう二度と戻らないでしょう?
俊は唯の目を見ない。コーヒーを持った手を円形にぐるり、ぐるりと回す。見えるわけもないのに、中心に生まれた渦が再び平坦な液面になっていくのを眺めている。黒く淀んだ瞳がコーヒーで作った義眼としか思えなかった。人が浮かべるものとは思えない昆虫みたいな暗さに、どうか義眼であってくれ、とさえ唯は思った。
「今はもう。諦められたというか。『元気?』とか『心配してるんですよ』とかって声はかけてもらえるんですけど。俺がだめだめで。俺のほうがだめだめで。引きずり込んじゃうって思ったから距離を置いているんです」
「……なんだそれは」
「なんでしょうね」
はは、と俊は力なく笑った。彼が笑うところを唯は初めて目にした。
天井灯を眺める死んだ魚のような目。缶コーヒーを握る、腕相撲で誰にも勝てなさそうな手。薄らぼんやりと佇む姿は蜃気楼みたいだった。
「それに、スクープに撃たれる前に拳銃で撃たれそうな気もします。嫉妬とかで」
「……お前は面倒事にモテているようだからな。お前自身も面倒くさい」
結婚相手くらいさっさと選んだらどうなんだ。言いかけ、やめる。愛美から散々言われて嫌な思いをすることが多いのだ。だからこそ踏みとどまれた。
一方で、でも数多く抱えた面倒事とか厄介事とかの中で、一人だけと結婚できたらそれはそれである意味楽だよな、と考える彼女もいた。日本は一夫一妻なのだし。
これまで何度もそうしてきたんですよと訴えかけるみたいに、俊は苦い液体を一息に飲み干した。そして「ふぅ」と吐息した。それ以上の感想も動作もなく、あとにはまっ平らな沈黙が訪れる。
ごおぉ、という自販機の稼働音が幾重にも重なって、体の内側で低く鳴り響く。
「美鈴さんに――あぁいえ」
ぽろっとこぼれた本音が穴蔵に引っこむ前に、唯はがっしりと尻尾を掴んだ。
「なんだ。何を言おうとした」
「……俺だって、悩んでいるんですけどね」
俊は肩を竦めて唯を見た。悩んでいるという言葉も口調も本物だったのに、表情だけ無邪気に笑っていて、まるで「悩むときは満面の笑みを浮かべること」とプログラムされたロボットと話しているみたいだ。
知らない顔。
まるでアイドルが知らない一面を見せたときに、もっと見たいと思ってしまうような魔性の力に、心臓を鷲掴みにされた。あぁ、そうか。これは限界のシグナルなんだ、と訳もなく思う。
唯は目を見張った。手を伸ばしかけ、ことねが自分を呼ぶ声に、現実が衝突してくるのを感じた。
その日も例のとおり優歌と愛美とお喋りしていたら遅くなって、居酒屋にだらだらと流れ込んだ。
「生~!」
愛美が何度目かも分からない注文を叫ぶ。ハリと艶のある「生」を聞くたびに、いつでもボーカルトレーナーに転身できるよな、と思う。
「私もお願いしまぁ~す」
愛らしい声――だが確実に通る声――で注文を追加する優歌は、ぽやぽやした笑顔を浮かべていた。酒焼けをしたことがないというのだから、おそらく優歌が一番酒に強いだろう。
車道を歩道をとふらふら進んだ話は、美鈴ちゃん最近よくレッスンに来てくれるよね、と草むらに分け入る。
唯は美鈴が新曲をもらったことを、俊から伝えられていた。いや、伝えられていたなんて唯の願望が作り出した幻だ。きっと本当は話の流れで話してくれたに過ぎない。
ただ、年がら年中暗い家に心を封じこめておくような男から、一定の秘密を明かしてくれる程度には親しい間柄なのだと示してもらえた気がして、嬉しかった。
「実はその理由なんだが――」
理性の制止を振り切って、口が回る。酔いも回っている。
アルコールが当時の感情を何倍にも増幅させていた。だからうっかり口にしてしまった。
プロデューサーを詰めようという話の経緯は、その場にいた唯にもさっぱり分からなかったが――おそらく酒の勢いだ――翌日の昼休みに顔を突き合わせた三人は、確かな意思のもとプロデューサー科の方向へ足を伸ばした。
「実際のところどうなの? やっぱり新曲をもらえたのが嬉しくてレッスンに来るようになったのかしら?」
廊下で俊を無事に捕まえ、そのまま通路脇に連行する。彼は唯たちを見た途端にそそくさと逃げ出したが、愛美が「俊ちゃ~ん」と刺したので動けなくなった。
美鈴がどうしてレッスンに来るようになったのか分からないから、とりあえず俊で憂さ晴らしをしよう。あわよくば理由を聞き出そう。そんな目論見を伝えられても俊は動じなかった。真剣に考え込み、ぼとりと言葉を落とす。
「いえ、それは考えづらいでしょう」
俊の言葉は重くかたく、容易に動かせない感じがした。昨晩の結論はプロデューサーの一言で呆気なく切り捨てられ、三人は顔を見合わせた。
「どうして?」と愛美が詰め寄る。
俊はまた考え込んだ。美鈴の行動原理を予想しているようにも、事実を口にしていいものか逡巡しているようにも見えた。
会話のテンポを度外視した俊の様子に、優歌と愛美は面食らったようだった。少なくとも二人の前では
特別という響きには力がある。耳に入った瞬間に、靴が数センチだけだとしても浮き上がるような心地がする。
音と音がちょうどよく重なる瞬間。リズムに体が乗っかる瞬間。一心不乱に自分の体を操作して、最後まで踊り切れてぴたっと停止する瞬間。
そういうときと、よく似ている。
四人の周囲はアイドル学園らしい雑多な音で彩られていたが、四人の内側には静寂が満ちている。愛美はそんな沈黙をそっと開く。
「お昼ごはんを食べながらでもいいかしら?」
「そうしましょう」と優歌が手を合わせた。「安くて量も一杯で、ほんとみんなの味方って感じですよね~」
俊はさっと目をそらす。
予想通りとはいえ、仕方のないやつだな、とつい手を差し伸ばしてやりたくなるような愛嬌があった。見た目は痛々しいというのに、仕草一つひとつに人懐っこさが滲んで、そういうものに理屈抜きで弱いのだな、と唯は思う。
アイドル科や普通科の生徒も利用する食堂では、しばしば席の争奪戦が繰り広げられる。それが嫌なものは弁当を持参して中庭で食べたり、屋上などの他の場所に学食を持っていく。
プロデューサー科で話し込んでいた四人は敗れ、せっかくなら外に食べに行くと話がまとまった。
向かった先は個人経営の食事処だ。ときどき三人で食べに来る場所で、店主ともホールのおばちゃんとも顔なじみだった。
カツカレー、温玉うどん、唐揚げ定食、焼き魚定食。
愛美の「お姉さんが奢ってあげるわ♡」という言葉に対し、俊は遠慮がちに「焼き魚定食を」と答えた。
俊は肩身が狭そうで、なんだかこちらも萎縮してしまう。飲み会とかにもきっと慣れていないのだろうな、と思う。
人に世話をしてもらうことにも――もしかしたら。だとすれば付け入る隙があるのだろうか、なんて思って、自分の浅ましさに嫌気が差す。唯のため息は人知れずテーブルの木目に吸い込まれた。
四人がけのテーブルの向こう二人を見て、俊は「エネルギッシュですね」と困ったように言った。少しの間を置いて唯を見たが、唯にはそれが、自分もそう思われているのか、それとも同意を求められているかの判断ができなかった。
二人でいるときと会話のペースが全然違っていて、それに彼も戸惑っているのだろうか、なんてどうしても邪推してしまう。
「この職業は体が資本なのよ! 俊ちゃんもしっかり食べないと駄目よ? それだけで大丈夫なの?」
「昼は食べない日もあるくらいですから、これだけでももう多いくらいです」
「最近の若い子ってみんな少食ですよね~。ときどき生徒さんたちとお昼を一緒に食べるんですけど、こーんな細い子なのに、『今はダイエット中だから~』って言うんですよ? もぉ~、信じられません」
誰にともない昼食への抗議を終え、話題は元の場所へ立ち返る。申しわけなさそうな俊の雰囲気は、彼が考える時間の長さに応じて、段々と霧が晴れた。
「美鈴さんは努力家です」
考えていたせいもあるだろう。結局、俊が最後に食べ終わった。そして唐突に音を発した。考え始めてからの彼は一切口を利かなくなり、三人の会話に耳を傾けることもなかった。
「ですから、できないと思えばちゃんと努力する。レッスンへ行くようになった背景には、そのような理由が隠されているように思います」
「……美鈴ちゃんは、努力家なの?」愛美は俊を見つめて、神妙な顔で問いかける。
彼は間を置かず頷いた。
「美鈴さんは努力を手放すことができない。どれだけ影に隠れがちであっても、ライブにかける情熱は、ユニット活動当時からまったく衰えていないように見受けられる」
努力を手放すことができない。聞き馴染みのある言葉が組み合わさった、聞き慣れない文章。それと口調。
唯が考え込んでいる間に、話は次の展開を見せた。
「月はいつだって輝いています。どれだけ雲がかかる日が多かろうと」
「それなら約束してほしいんですけど――」
なんとか、レッスンを休まないでいる今の状態を継続させられないか、と優歌は俊に頼み込んだ。彼は一向に頷かなかった。
まるでとなりに巨大な岩が生成されたみたいに、俊は唯と美鈴以外には融通が利かなくなるときがある。
「確約はできません。それに美鈴さんはおそらく断るでしょう。しかし、できない曲が目の前に現れたとき、彼女は本気で練習する。ライブに対してはいつでも真剣ですから。それだけは確実だと思います」
そこまで理解しているのか。気づくと同時、じゃあ逆に、美鈴からそこまで理解してもらえているのだろうか、と心がざわつく。
(でもそれなら、どうして俊は……昨日、あんな表情をした?)
唯の目に映る俊は、成仏しきれなかった白骨死体みたいな重々しい不気味さをばらまいて、静かにそこに存在していた。
休憩のために店を出てすぐの自販機でお茶を買い、食後の雑談に耽る。いつものことだったので、おばちゃんは呆れはしても嫌な顔はしなかった。俊は午後から休講らしいので、三人に捕まっていても問題がないらしかった。
四人の雑談は例に漏れず横道へそれ続けて、芸能関係の話や流行りの美容グッズなどのに行き着く。雑談とはいえ情報交換のようになってしまうのは、もはや職業病みたいなものだろう。
誰々の演技がよかった。歌声がよかった。踊りがよかった。流行のファッションは。ポーラから新しい日焼け止めが出たんだって。この間ツイッターで見た美容情報なんだけどどう思う。などなど。
昼休みであることを忘れて次第に白熱する雑談に、俊はどこからかノートを取り出して、真剣にメモを取り始めた。だからいつもリュックを持ち歩いているのか――。
「え――」
最初は唖然とした三人だったが、俊がときおり見せる意志の強さを感じ取って気にしないことにした。血走った目に閃光が走ったのを、唯だけは見逃さなかった。
歴史によってささくれが目立つようになり、まるで叫び声でも漏れ聞こえそうな木目を無視し、俊はノートと向き合う。
そうしているうち高校の放課が迫って、四人は席を立った。話を聞けば、俊も美鈴に用事があるらしく一緒に帰ることになった。
仕事中でも気軽に行けるような場所から学園への、たった少しの移動時間。眠気を誘う傾き方に、影が身長と同じくらいの長さになる。前方でのびのびする優歌と愛美は、唯と俊に意識を向けない。今しかない、と思った。
となりを歩くシャツの裾を――そっとじゃいけないと思って、それなりの力で引いた。手首ごと握り直した。
「何を言おうとしたんだ、昨日」
俊は歩調を緩め、唯と視線を交差させる。
「……なんだと思います?」
俊を何時間も拘束してしまった罪悪感があったし、純粋な興味もあった。
いつもの夜道を歩いているとき、普段はカーテンが閉め切られている家に、うっすらと明かりが灯っているような。発見への好奇心と、生命の気配に吸い寄せられた。
「分からないから聞いているんだ。昨日、思い詰めたようなことを言っていただろう」
本当は立ち止まって問い詰めたいところだが、距離が開けば優歌たちから感づかれる。歩くほかなかった。
「そうですね」と俊はいつものように考え込んだ。ようやく口を開くころには、高等部の分かれ道がすぐそこまで迫っていた。
「美鈴さんが他の方の世話をしているのを見ると、俺も所詮は……その一部にすぎないんだろうなって思ってしまって」
待てばいずれ結論を出してくれる。美鈴は俊に対して、きっとそういう信頼を抱いている。美鈴について唯が理解できることがあるのなら、その程度だ。
「では、今日のレッスンもよろしくお願いします」
俊は即座に拠点へと進路を変えた。なんだか悪いことをしてしまっただろうかと思ってラインを送るも、「さっきは失礼しました」と返されておしまい。扉が閉まって、鍵の回る音がはっきり聞こえた気がした。