俺は誰の特別にもきっとなれない。どれだけ努力をしたところで、俺は自分の道を歩くためだけに努力をしているのだから、誰かをとなりに置くことなんてきっとできない。俺は所詮、一部なのだ。そう思わなければならないのだ。
はたしてそんな人間が二人三脚の代名詞みたいな職務を全うできるのだろうか。
「おかえりなさい、プロデューサー」
活動拠点の鍵が開いている時点で、おかしいと思うべきだったのかもしれない。俺を出迎えた美鈴は、普段よりも一層濃い負のオーラを撒き散らしていた。
「……何か嫌なことでもあったんですか?」
慎重に問いかけると、美鈴は「あらまあ」とでも言いたげにほほえむ。
「嫌なこと? ええ。そうですね。嫌なこと……と言っても過言ではありません」
「俺でよければ聞きますが」
「自覚がないのですか? あんなに堂々と見せびらかしていたのに」
「見せびらかす?」
少し間を置いて、「まあ、本当に自覚がないんですね」と美鈴は言った。そして「これはなんですか」とスマホのギャラリーを開いた。さながら浮気調査の証拠を突きつける妻のようだった。
「美女との食事」
と、と、と。爪が液晶にぶつかり、低い音を響かせる。
「数多くの目撃情報があるんですよ、プロデューサー。SNSって本当に便利です」
「それは、ですね」
「担当アイドルであるわたしを差し置いて……他の女性と食事をするなんて」
不誠実だと思います。
不誠実だと、思います?
鉤爪みたいな言葉が心臓に引っかかり、たまらず美鈴を見る。彼女は俺の内心に気づかず「釈明をしていただけるのでしょうか」と正面から迎え撃って出た。
話を聞き終えた美鈴は「そんなことが」と言葉を区切り、「わたしのために、いつもありがとうございます」と背伸びして俺の頭を撫でた。
「ですが一点だけ、訂正というよりも……補足することがあります」
美鈴は俺を見ていたけれど、脳内ではきっと別の光景を見ていた。
「ここ数日、わたしが毎日レッスンに参加しているのは……プロデューサーの推測通り、新曲をいただき、それを完璧にこなせるようになりたかったというのが一つと」
一呼吸と、ほほえみ。
「懐かしい歌声を聞いたら昔を思い出してしまって、早足になりたかったのだと思います」
急かされて仕方なく早足になって、迷惑に思っているはずなのに、楽しかった。
俺が感じたことのない現実は、ぬるついたテクスチャで全身を流れ落ちる。少しでも取り込んだら死んでしまうような劇毒に思えた。
「楽しいなんて……プロデューサーは」
美鈴は静かに、悲しそうに、俺の頭を撫でた。身長の都合で不可能だったけれど、背伸びをしてむりやり頭を抱こうとした。
そっと彼女を押しやり、美鈴の目を見て質問を投げかける。
この日の俺はセンチメンタルを引きずっていたので、美鈴に心を見せることをさほどためらわなかった。
「先ほどの美鈴さんは……不誠実、と口にしましたが」
加えて疲弊した心身では理性の鎖が緩んでしまい、ついつい原液のまま浴びせかけてしまう。
不快だったのか。不安に思ったのか。面白くなかったのか。悲しかったのか。気に食わなかったのか。
美鈴は目を丸めた。俺が噛みついてくることがよほど意外のようだった。しかしすぐさまとりなして慈愛の笑みを浮かべる。言葉の通じない怪物にも通じるほどの、続きをどうぞ、という寛容な態度だった。
しっかり理解しようとする態度が、
熱源の心臓がけたたましく鳴っている。このいらだちは、あさり先生にも感じたことのある懐かしい熱だった。
慣れない経験に不安が募って、それを覆い隠すために、攻撃性と警戒に塗装されたのだ。
怒りの原因究明はたやすかった。心理学の本を読み耽ったおかげだ。だからそれと同じように、美鈴の考えも分解しようとしてしまった。
これは、なるべく他人にはしないよう心がけよう、と決めた行動だった。これでは考えすぎる性分が悪化すると判断したからだ。
「不誠実……」と俺は二度繰り返した。「美鈴さんは……よく、事実提案をしますよね」
「事実提案……?」
造語なのだから、眉を寄せるのが自然な反応だと思う。俺もなぜそう言ったのかが分からない。
「不誠実というのは、あくまで、俺の現状を客観的に見たときに最も当てはまりそうな言葉というか。浮気者とかも似ていますけど」
「でもそこには、感情が伴っていないような気がします」そう言ったとき、俺は魂の入っていない鎧が動いているのを目撃したような気持ち悪さを覚えた。それが彼女の言葉の正体だ。
「美鈴さんはもしかすると、自分の感情を伝えるのが苦手なのではありませんか? あるいはその経験を積んでいないのではありませんか?」
彼女は、自分の感情が絡みそうになったとき、急に客観的になる部分がある。第三者目線の言葉を使うことで自分の気持ちを覆い隠そうとする傾向にある。
歌と踊りで人を魅了するアイドルにとって、自分の感情を自分の言葉で表現する素質は必要ない。借り物で完璧なパフォーマンスをすればそれだけで拍手喝采が巻き起こる。
だが美鈴は社会を生きなければならない人間で、人間には、アイドルとしての素質よりも先の素質のほうが何杯も重要だ。
美鈴は言葉を探すように視線をさまよわせた。
俺は畳みかけた。
「俺の前ではもっとぐちゃっとしても大丈夫ですよ」
「ぐ、ぐちゃっと……前にも、聞きました」
「あぁいえ。自分の感情を伝えてもいいと言おうとしたんです。美鈴さんはアイドルですけど、俺の前でも無理にアイドルでいる必要はないんじゃないかと思って」
「でもそれでは」と美鈴は言い淀む。あの美鈴が、珍しく俺に圧倒されていた。数秒後、彼女は手を胸に当てて、強い瞳で俺を見つめ返した。
「あなたは……さらにわたしを見てくれなくなるのではありませんか?」
今度は俺が返答に窮する番だった。さんざん脳内をさまよい歩いたあげく、「分かりません」と口にする。なんとも情けない答えだったけれど、嘘をつくよりもましだと思った。
「ですが、俺の前では感情を言葉にして伝えてもらって構いません。今までは表情と行動だけでしたから」
美鈴は「それなら」と迷うような仕草を見せた。
「悲しかったです。悔しかったです。寂しかったです。あなたが取られると思うと、耐えきれなくなりました。不安でした」
美鈴は自分の言葉で傷ついたように、「連続して並べたら、安っぽくなりますね」と言った。
「値段なんてつけられませんよ。そんな……水族館のお土産屋とか、物産展に陳列された商品とかみたいには、扱えない。感情ってそういうものです」
「安心させてください」
被さるように美鈴の声がした。美鈴は俺の手をなだらかな胸もとまで運び、祈るようにもう一度繰り返した。俺はたじろいで一歩後ずさった。美鈴の瞳が追いすがり、手が離れない。
「そう言われても……それなら。俺がプロデュースするのは、おそらくあなた一人だけですよ」
「また、そんなことを言う。どれだけ残酷なんですか。プロデューサーは」
それからおどけて「前世は連続猟奇殺人鬼か人たらしのどちらかですね」と言った。
俺たちは裏の意図を口にしなかったけれど、確かに感じ取っていた。
「まったく」と美鈴は静かに息をつく。
「わたしを甘やかして、あなたなしでは生きていけなくなったらどうするんですか。責任を取ってくださいね」
「甘やかしているつもりはありません」
「いいえ。べたべたに甘やかしているのですよ。くっついてしまいますね」
「糊じゃないんですから」
「正解は接着剤です」
「もっと駄目です」
引き剥がすときの痛みが倍増してしまう。天真爛漫な白い彼女は、そんなこと微塵も思っていないのだろう。
にじり寄ってくる美鈴の肩を強めに押さえる。眉間にしわができても、それはしわなんて名前をつけたら失礼なくらいにこぢんまりとしていた。
美鈴は……自分が傷ついていることに、ひどく無自覚なのだと思う。
俺は徐々に力を弱めた。美鈴が怪訝そうな顔をしたのは一瞬で、すぐにあくどい笑みになる。
「誰か一人がいなくなったとしても、意外と生きていけるものですよ。最初だけです。喪失感があるのは」
俺は小さな頭を撫でた。夜の果ては漆黒じゃなくて、きっとこんな色をしている。
「……わたしだけのあなたです」
「俺は誰のものでもありません」
帰り際になって、美鈴は満を持したように振り返る。背後にドアを背負い、俺を、俺の向こう側にある夕焼けを見ている。
「ライブ……楽しみにしていてください。存分に期待してください。でもいまは……少しだけ影が揺れています。ですから、衣装合わせのときみたいに『素敵です』とわたしの頭を撫でてください」
言われた通りにすると、美鈴は胸の中で「あなたからの言葉が一番嬉しい」と言った。そして颯爽と去っていった。