抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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一五話

 ノックの音に返事をすると、あさり先生がひょこりと顔を覗かせた。彼女はドアの隙間に細い体を滑り込ませて、後ろ手に閉める。缶コーヒーを二つ持っていた。

 

「またこんな時間まで資料整理ですか? もう、いけませんよ~」

 

 先生は散らかっている机をわざわざ整理してから、俺のとなりに座った。

 

「すみません、いつも」

「俊くんが頑張っているのは私も知っていますからね」

 

 なんて、優しい言葉(定型文)。美鈴からこまめに掃除してもらっているのだけれど、毎日発信される膨大な情報や流行を追っているうち、机はいつも定食屋の洗い場みたいになる。

 あさり先生は缶コーヒーを開けず、棚からファイルを取り出した。整えられた紙とファイルを照合してファイリングしていく。穴が空いていないやつは、半分に折りたたんで穴を開ける。

 

 春風みたいな優しい態度に罪悪感が募った。目つきも手つきも、とても夜とは思えない。桜の下で日向ぼっこをしているみたいだ。太陽はどこにあるんだろう。

 ……俺はあさり先生を一度突き放しているのに。

 

 私のことは気にしないで作業を進めてください、なんて態度を取られたら――というか過去に言われたことがある――反応の仕方が分からない。

 

 先生は不意に顔を上げて、「どうかしましたか?」と俺にほほえみかける。

 

「缶コーヒー……冷めちゃいますよ」

「冷たいほうが好きなんです」

「それなら冷たいのを買ったほうがいいんじゃないんですか? あったかいのが冷めたら……風味とか、変わりません?」

「その風味の変化が乙なんですよ~」

「……でもいつも、お昼ごはんはホットコーヒーですよね?」

「俊くんは優しいですよね」

 

 会話のボールが見当違いな方向に飛んでいき、思わず「え」と口ごもる。あさり先生は俺に一太刀浴びせただけで、それ以降は沈黙を貫いた。優しい眼差しで作業を続けた。

 

 ころころ転がっていくボールを走って追いかけるまねはしなかった。相手がその気なら、もう一度話してくれると思った。

 唐突に、涙のような言葉が聞こえた。

 

「……怒ってもいいんですよ。邪魔だ、って」

 

 

 いたたまれない空気のまま作業を続けて、二二時を回ろうとするころ、パソコンを閉じる。結局缶コーヒーに手はつけなかった。

 あさり先生は細い缶を細い指で包んで、「冷めちゃいましたね」とおかしそうに言う。

 

 二人で一緒にプルタブを起こす感触に、唯さんとの酒が蘇った。あの日もこれくらいの時間だった。

 一口飲んだだけで分かる。まずい。あったかいコーヒーが冷めると、まずい。先生は顔色一つ変えずに飲んでいるから、先ほどの言葉の真偽は判断できなかった。

 

「もう、そんな顔して。どうして先に飲まなかったんですか」

「なんだか……悪い気がして」

 

 俺がじぃっと缶を見つめていたからだろう。あさり先生は楽しそうにきらきら笑った。無理している感じがした。

 

 黙って座っているより、なんとなくでも足を動かしたほうが気まずさが紛れると思って、散歩に誘う。あさり先生はとても驚いたような顔をしたけれど、二つ返事で了承した。

 歩幅も足取りも、活動拠点だろうが外だろうが何も変わらなかった。今日も同じ一歩であることに、進歩しない自分への苛立ちと、これまで通りに努力ができることへの安堵が押し寄せる。

 

「こんなふうに夜道をのんびり歩くことなんて、珍しいです」

 

 あさり先生はまるで初めて公園を訪れた大人のように、落ち着いて自然を見回す。

 

「俺はわりとありますよ。息抜きで……今日みたいに」

「ここも散歩コースですか?」

「美鈴さんのプロデュースをするようになってからは」

 

 虫の鳴き声が数日前よりも耳に響く気がした。夏が深まったな、なんて思っても、緑が深まったかどうかなんて気にしていないし、そもそも気温の変化も数字しか追っていないので実際が分からない。

 

「警備員さんの見回り頻度を増やしてもらったほうがいいんでしょうか」

「なんでですか」

「そしたら俊くんが早く帰ってくれそうですし」

「えぇ……駄目ですよ。ここっていろんな資料があって便利なんですから」

「だから~!」

 

 あさり先生の明るい声は、虫の演奏会にずかずか踏み入っても決して下品な感じはしなかった。星空まで届きそうなくらい澄んだ声をしていた。

 

「それで去年みたいなことになったらどうなっちゃうんですか! 今はもう……一人じゃないんですよ」

「最後には一人になります」

「秦谷さんと二人三脚をしているんですよ」

 

 あさり先生は今にも泣きそうな顔で俺を睨みつけた。

 

 

 さっきは取り乱してしまってすみません、と言われたのは二度目で、上手に返答ができなかったのも二度目だ。

 あさり先生は空気を悪くした責任を取るように、普段以上に表情をころころ変えた。先生が無理して笑うたび、虫の鳴き声が遠のいて闇が濃くなる。胃がすり切れる思いをしているのは一体どちらなのだろう。

 

「いつも通りで大丈夫ですよ」とできるだけ優しく言うと、彼女は悔しそうに頷いてから、頭を下げた。

 俺の言葉が彼女の心をいくらか軽くしたのは事実みたいで、空気がちょっとだけマイルドになった。

 

 

 唯さんとの思い出の場所に来れば多少は素直になれるかもしれないと思ったけれど、ちっともそんなことはなくて。ただ夜道に人を誘っただけの人になった。

 

 

 ライトアップされていない講堂は、異様な雰囲気でそこに佇んでいる。誰の力も借りなければ立ち上がることのできない巨大な怪物。地面に倒れ伏した巨人。

 

「お酒が飲みたいです」

 

 星空と、まっくらな講堂のてっぺんの境目が綺麗に分かった。あさり先生は意外そうに「好きなんですか?」と俺を見る。

 

「まったくイメージがありませんでしたが……あ! まさか、家では飲んだくれていたり?」

「おいしさなんて分かりませんよ」

 

「でも」と記憶を遡る。「一度ここで飲んだんです」思いのほか優しい声になった。

 先生は今度は無理して笑うことなく、「そうなんですか」と夜に似合う声を出した。

 

 そのときの素直さが戻れば、あさり先生を悲しませずに済むのかな、なんてことを考えた。

 

 

 しばらく黒い塊を眺めたあと、先生は「夜に見るとまったく違って見えます」と感慨深そうに呟く。

 

「ここでみんなライブしているんですよね。レッスンの成果を……」

 

 あさり先生が「目標に向かって」とこぼしたのは、まったくの偶然だと思う。目標、と俺は繰り返した。大事な部分に言葉が引っかかった感じがする。

 

 今の俺は、傍から見ればパントマイムをしているのだろう。透明なものに振り回される滑稽な人。

 姉と妹との約束を覚えているのなんて俺一人きりだし、俺がそのことを誰にも打ち明けていないのだから、当然だ。

 

 でも、自分の道を自分で定めることは、難しい。

 自分の肉体を制御するのには、気力がいる。

 だから人との約束で道を定めて、苦しみで体を制御し続ける。単に楽なほうに流されているだけなのかもしれない、と思うと、俺は今まで何をやってきたのだろうと別の苦しみに襲われた。

 

「悩んでいる顔です」

 

 あさり先生は半歩横にずれた。

 俺の体はこわばった。声は硬直を引きずったような感じで、微妙な抑揚で空気を震わせる。

 

「アイドルって……すごいですよね」

 

 自由自在に自分の肉体を操って、しんどさなんてまるで感じさせないで。背中に羽でも生えているみたいにステップを踏んで回る。

 アイドルに憧れる人がいるのも分かる。あんなふうになれたらきっと楽しい。人類が月に憧れたのだって、もしかしたら肉体の軽さを実感したかったからかもしれない。

 

 あさり先生はたっぷりと考える時間を与えてから、「はい、すごいです」と星空を見た。

 

 

 何かに全力で打ち込むためには、それ以外のすべてを切り捨てなければならない。人はこういう生き方を不器用とか要領が悪いとかへたくそとか言うけれど、俺からすれば、いろんな物事に手をつけたあげくどれも中途半端に終わらせて器用を名乗る連中のほうがアレだと思う。

 

 生きるって、そういうことじゃない。

 

 苦しむことこそが生きることだ。苦しみの中でもがき続けることを、生きるって指すんだ。

 やりたいことだけやって、それがやりたくなくなったら別の目標へと進路を変えて。そんなことを繰り返していたらどこにもたどり着けない。

 

 そのことに気づいたとき、俺は生きるという大きな的の中心を射抜いた。圧倒的な鋭さと威力でもって突き刺さり、決して抜けない。抜いてはならない。

 

「プロデューサーもすごいんですよ」

「俺は……」

 

 すごいだろうか? いいや、すごくない。

 

「秦谷さんのファン、順調に増えているみたいですね。さっき見たときよりも、今だって」

 

 やめてくれ。優しいだけの言葉を、俺に浴びせないでくれ。

 

 優しい言葉は……優しいだけの言葉は、このつらい現実を生きていくためには毒だから。水や潤いを求めているんじゃない。からからに干からびていても頑張る理由を求めているんだ、と思う。

 やっぱり、分かり合えない。

 

 あさり先生は青白く発光する端末をそっとポケットに仕舞い、そして外の暗さを味わうみたいに深呼吸した。

 

「あさり先生から俊くんに問題です」

 

 俺の考えていることなんてちっとも伝わっていないんだろうな。

 両腕を腰に当てたあさり先生を見て、思う。この人は優しい。優しいけれど、潤いがいきすぎたら腐ってしまう。

 

「プロデューサーが頑張っているところって、どこで評価されると思いますか?」

 

 俺は考えるふりをして、たっぷりと時間をかけてから「どこでしょうね」と優しく打ち返した。

 

「宿題です。お家に帰ってから考えるように」

 

「分かりました」と返答。考える過程にこそ意味がある問いだからこそ、こんなふうな問いかけをしたのだろう。

 俺の返事に満足したらしい先生は両手を打ち鳴らし、「さぁ」と弾んだ声を出す。

 

「明日も一限から授業が入っています。息抜きをしたからと言って、夜遅くまでここに残るのは禁止ですよ」

「……ちょうど帰ろうと思ってましたよ」

「とか言って家で作業する気でしょう!」

「そりゃまぁ。明日は曇りですし」

「先生の目の前で堂々とさぼり宣言ですか!?」

「いえ……午後から……あぁー……元気があれば、いきます」

「朝から来てください!」

 

 ぷりぷりするあさり先生は、楽しそうだった。こんなふうに思いのまま表情を変えられたら、世界がもう少し明るい色に見えるのだろうか。

 

 家に帰っても結論は出なくて、あさり先生に白旗のラインを送る。気にかけてもらえている事実に感謝すべきなんだろうけれど、見限られたほうが楽なことだって、ある。

 でもあさり先生を邪魔者扱いなんてできない。与えられていると思うのなら、ある程度の返礼をしなければならない。

 

『俊くんが頑張っていると思えば俊くんは頑張っていますし、私が頑張っていると思えば、私の中で俊くんは頑張っているんですよ』

 

 そのあとダメ押しのように『ファイト』のスタンプが送られてきた。また……新しいのを買ったのだろう。おやすみのスタンプも、見たことがないものが送られてきた。

 スマホの充電をする気力もなくて、ヘッドボードにぶん投げて眠りについた。

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