俺と美鈴は日中にほとんど顔を合わせなくなっていた。そんな暇がないのだ。
俺がレッスンの様子を見に行ったときや、レッスン終わりに美鈴が拠点へ顔を出したときに少し話すくらい。この他には、ときどき彼女が俺の家で待っていることもあった。
美鈴は嬉々として手毬の世話をしているのだけれど、どうやら麗さんに役目がシフトした部分もあるようで、不満らしい。そんなことをこぼす日や、不貞腐れているような日もあった。
つつがない日々と多忙な日々が共存するのだということを、美鈴はこの年になるまで知らないと見えた。
「昔を思い出します」
レッスンの休憩時間、美鈴はあがった息を整えながら遠いところを見た。壁際で体育座りをする彼女は骨董屋に置かれた精巧な人形のように、こぢんまりとかわいらしく、しかし圧倒的な存在感を放っている。
俺が水を渡すと、汗の滴る白い喉が上下した。人形よりもはるかに生き物めいた赤さの頬を、彼女はタオルで拭った。
「わたしにはもう……仲間という仲間がいないところだけが、違っています」
美鈴は自分のとなりをとんとんと叩いて示す。
「プロデューサーは……プロデューサーです」
美鈴の指示に従うと、彼女は物憂げな表情を浮かべた。
「汗をかいていなければ、もっとくっつくこともできたのに」
「人目を気にしてください」と言おうとして、踏みとどまる。美鈴をプロデュースするようになってから、歯止めがより強固になった気がする。余計なことを言わないせいで美鈴としては不満たらたらなのかもしれないけれど。
汗をつけるのを嫌がってか、美鈴はシャツをちょんちょんと引く。
「プロデューサー。最近、わたしのことを蔑ろにしていませんか? 無視だなんて……」
「どう反応しても地雷が反応するので、動かないでいるだけです」
「でも、無視をするのはよくありません。会話を最初から投げているのですから」
「担当アイドルとのコミュニケーションは大事なんですよ」と美鈴はつらつらと述べる。
ごもっともな言葉に何も言い返せず、せめてもの反抗として深いため息をついた。
美鈴はおかしそうに笑った。口もとに添えられた手が、膝を抱くようにして結ばれる。
「のんびりと、平穏に。でも、少しだけ早足で。わたしらしくないペースでしょうか」
「
「ふふ……はい。そう言ってくれる人は貴重です」
美鈴はタオルを首にかけて立ち上がる。瞳と姿勢は凛としていて、未来まで伸びている感じがした。
「続きを。レッスンが終わって汗を流してから、拠点にお邪魔しますね」
○
スマホを操作する指が下から上へと空転する。SNSのアカウントは順調にフォロワーを獲得していた。
美鈴本人に任せて正解だったな、とつくづく思う。手毬以上に危険思想の持ち主な気がするが、彼女は人前でそれをほとんど見せないし、また思想が感情の起伏にあらわれることもないので、安心できた。
麗さんとうまく連携を取ってもらえれば安泰だろう。
「それはそれとして……か」
一人きりになると、たちまち思考が押し寄せてくる。荒波に打ちつけられながら佇む巨大な岩みたいに、凪が訪れるのをじっと待った。波が打ち寄せるたび、少しずつ何かが
「美鈴の魅力を知ってもらうために」
俺に何ができるだろう。
最近の俺は、秦谷美鈴を見つめているのか、それとも秦谷美鈴というアイドルの皮を被った誰かを見つめているのか、分からなくなりつつあった。それが悲しいことに思えて仕方なかった。小さなころ思っていたプロデューサーは、そんな人間でも職業でもなかったのに。
夢を描き続けた人間がやがて理想と現実とを混同させてしまうみたいに、もしかしたら、プロデューサーは理想のアイドル像と実際とを混同させてしまうのかもしれない。なってみなければ知り得なかったことだ。
秦谷美鈴というパッケージを見つめている? いやいや。そんなことはない。……そんなことはない、はずだ。
断定に伴う自信はぐらぐらと揺れ動く。基礎部分をおろそかにした家はたやすく倒壊してしまうのに、補修できない。
「プロデューサー?」
名を呼ばれ、我に返る。背筋を正したら、今まで体重を預けられていたことを非難するように背もたれが鳴いた。腰骨の音が美鈴への返事となった。
「またあれこれ頭を悩ませて……有名になっていますよ」
美鈴はまっすぐ俺のところまで歩いてきて、目の下を親指でなぞる。シャワーを浴びたあとらしく、水気に含まれた甘い芳香が意識に弾けた。
「忘れ物に気づいて、夜遅くに学園に戻った人のお話を聞きましたか?」
「……いえ、何も」
「徘徊する男性の霊を見たらしいんです。なんでも外を歩き回っていたとか」
仕方がないとでも言うみたいに美鈴は目を細める。
「SNSでバズって……最終的に、わたしのプロデューサーであることが明らかになって終わりました」
「炎上……ではないんですね?」
「はい。むしろ笑い話というか、心配の声が多いでしょうか」
美鈴のスマホに映っているのは確かに俺だった。こんな歩き方をしていたかななんて思っても、そもそも自分の歩き方なんて知らないのだから考えるだけ無意味だ。
「まさかこんな形で有名になるなんて……思っていませんでした」
独り言のような呟きに、「わたしもです」と美鈴は頷く。
美鈴からスマホを受け取って動画を繰り返し再生した。動画に自分が映っているのは変な感じだった。今まで見る側だったからだろう。
「気持ち悪いな」
「え……?」
口の中でだけぶつけたつもりが、空気を震わせている。戸惑う美鈴に「いえ」と言った。
うやむやにするために自分のスマホを触る。スリープする前TLに表示されていたのは、美鈴のリツイートだった。
俺という人間の人間性を抜きにした場所で、俺の知名度が上がっている。知らない人の中で、知らない俺が増殖している。気持ちが悪かった。
幽霊という、皮。
あぁ、そうか、と思う。
きっと映像に自分を映していたら耐えられないのだ。増殖する自己に。それよりかは自分ではない別の何かが増殖したほうが理性を保てるのだろう。
魅力的な皮を売ることに、中身など関係ない。すべてを皮で覆ってしまえば、ジッパーの隙間から漏れ出る腐敗臭に気づかない。それは楽園ともアイドルとも呼べる気がした。
「亡霊なんて……」手近な紙を触り、眺めるふりをする。「本当に死ねたら幸福でしょうか」
背後に立った美鈴は肩に手を乗せた。
「地獄も案外、ここと同じかもしれません。……それならば、きっと、生きていたほうがいいです」
「……俺が地獄に行くことには否定しないんですね」
「だって、自分が天国に行く事実に耐えられなさそうですから。プロデューサーは」
美鈴はそう言って笑った。
○
俺たちの間で、時間は静かに過ぎ去った。時間はやがて日々となった。
ちょっとやそっとじゃ川の流れが遮られないように、人生は未来へと一定の速度で流れ続ける。もっとも水底に堆積物が溜まって流れが薄くなる不快さは徐々に増していった。
俺は美鈴の何を見ればいいのだろう。見ているのだろう。こんなことで悩むような人間が、はたしてプロデューサーにふさわしいのだろうか。
俺の目は曇っていないと思う。しかし、現実が曇っているのならどうすることもできない。
「美鈴さんは……美鈴さん、ですよね」
その日は物理的に世界が曇っていて、俺は自分を律することができず、レッスン終わりの美鈴に言葉をぶつけてしまった。
「美鈴さんなのに」とさらに繰り返してしまい、それは美鈴の不安を強く煽ったらしい。
「プロデューサー?」と美鈴は俺の目をまじまじと覗き込んだ。そのまま俺の両頬を両手でそっと包んだ。「あなたの秦谷美鈴ですよ」
「……別に俺のでは」
「なぜまじめに返すのですか? しかも、そこだけ」
頬をむぎゅっとつままれ、変な顔になった。ほほえんだ美鈴は視線をさまよわせ「俊さん」と言ったあと、続きが思い浮かばなかったのか、曖昧に笑ってごまかした。
○
日を追うごとに俺の神経衰弱はひどくなった。それと対を成すように、美鈴と手毬は順調に駒を進めた。
午前の講義を終え、密閉された空気から逃れるように教室を転がり出る。近くの椅子で休んでいると、最近になって話すようになった人がとなりに座った。
「順調ね」と麗さんはSNSを追っている。手毬と美鈴の公式アカウントは今日も盛況だ。
麗さんによって厳格に管理されている手毬の公式アカウントは、美鈴のツイートによく反応を返す一方で、あまり自分からはツイートしないアカウントだった。
告知が主。一見すると近寄りづらいアカウントは、しかし美鈴とはかなり気楽にやりとりをしているようで。そのギャップが人気を博している。
麗さんはぴたっとスクロールをやめ、スマホから顔を上げずに言った。
「巷では初星潰しというのが横行しているらしいわ」
「……極月の人たちですよね」
もちろん知っていた。
「ですが二人にはなんの影響も……。今のところは、ですけれど」
「当たり前よ。二人の実力はもちろん、優秀な人材が揃っているのだから」
「それは……どうでしょうね」
麗さんは俺の曖昧な返事を取り合わず、浮かない顔で「でもFINALはどうかしら」と口にする。
「いろいろと見ていたらさすがに自信が揺らいできたわ。いけると思う?」
「はい」
冗談半分の問いだったのかもしれない。俺の即答に、彼女は少なからず面食らったようだった。丸くなった目が元に戻るまでには多少の時間を要した。最終的に麗さんは「信じているのね」と目を細める。
「そりゃまぁ」
「……でも、私たち以外の誰も、二人がトップアイドルになることを信じられなかった。だから私たちが今の二人のプロデューサーなのよ」
塵に埋もれた原石を見つけるのがプロデューサーの仕事で、光り輝くことがアイドルの仕事。麗さんはそんなふうな口ぶりで言葉を続けた。
「取り合いにもなっていないわ」
「俺は成り行きでプロデューサーの真似事をしているにすぎませんよ」
「そうなの? でも……じゃあずいぶん、それにしては美鈴ちゃんに信じてもらっているのね」
「なんか……噛み合って」
性格の歯車がたまたま合致して、なんとなくここまで一緒の旅路を歩いた。それだけなのだ。彼女の向かう先と俺の向かう先が同じであるとは思えなかった。
「いま信頼関係が築けているのなら、それでいいんじゃないかしら」
麗さんは優しげな指使いで液晶をスクロールする。手が止まった先にはあったのは、手毬の写真。
「俺は彼女のことを最初から信じていますよ。きっと一人でもトップアイドルに上り詰めるだろう、と」
「……私はここ最近だよ。手毬ちゃんにその可能性を見出したのは」
麗さんの暗い声には、ありありとした自嘲が滲んでいた。
「それまでは到底信じられなかった。私は……ある程度の実力を見せられなければ信用できないのでしょうね。その点では君のほうがずっとずっと見る目がある。それくらいの隔たりよ」
「よしてください。そんな大層なものじゃ」
「私からすれば事実なんだけどね」
返す言葉に窮して、沈黙を噛みしめる。
そのあと麗さんが振ってくれた雑談に乗り、ひとしきりの会話を終えたあと、俺は用件を切り出した。
「実は……夏のN.I.Aまではソロで活動してもらって、そのあとは、デュオのほうがいいんじゃないかと思っているんです」
「手毬ちゃんと?」
「えぇ」と頷いた俺の言葉には、妙な軽さと弾みが宿っていた。「それで……プロデュースを引き継いでもらえたらと」
「待って」と麗さんは立ち上がった。「君はどうするの?」
俺は肩を竦めた。麗さんは俺を睨む視線を強くした。理由を聞き出すまでは逃がしてくれないのだろうな、と思った。
「退学届を出します。そのあとのことは未定です。実家に帰って……いや、帰るかどうかも定かじゃないな。場当たり的に生きてもいいかもしれません」
「どうして……」
「どうしてでしょうね」
どれだけの夜を考えて過ごしても、結論は出なかった。
可能性があるとすれば、いったん死にたいのだと思う。肉体的にではなく精神的に。
それでそのまま屍として生きてみたい。あるいは別の分野に魂を捧げたっていい。可能性は無限大だ。
生き返れば可能性の扉は閉ざされ、いずれ再び、精神的に死ぬ瞬間まで開くことはない。
俺の力ない笑みから、麗さんは本心を掬い取ることができなかったのだろう。「会長直々に引き止めると思うけどね」と話頭を転じた。
「だって君は私よりも素晴らしい目を持っているから。放っておかないわ。原石を見つけ出すプロデューサーを見つけるのは、会長の役目なのよ」
「アイドルの人間性を信じずに、能力だけを信じて。それって……正しいことなんでしょうかね」
顔を上げた先には、掲示板があった。カラフルなポップに彩られたフライヤーはぼんやり霞んで、細部が見えない。
麗さんは深いため息をついて、椅子に戻った。
「……それが理由? そんなことが理由?」
あぁ、怒っているのだな、と思う。それもそうだ。
だが俺は我関せずで話を続けた。
「アイドルをパッケージとして見るようになったら駄目でしょう。生きているんですよ。彼女らだって」
「本気で言ってるの? 美鈴ちゃんの信頼を裏切ってまで、そんなことで悩むことが重要? ましてや離れるなんて――」
信じられない。彼女がそれを口にする前に、俺は「人の信頼なら何度も裏切ってきた」と遮る。俺が人を睨めつけるのは、珍しい。
「美鈴さんの信頼を裏切ることによって、俺は彼女を傷つければいいですか? 俺の記憶に彼女の傷ついた顔を刻み込めばいいですか?」
「でも君が離れることによって――」
「目先の問題を理路整然と片づけられる能力を持つ人は、平気でそんなことを言う。自分がどれだけ残酷なことを言っているのかも知らずに」
麗さんの瞳が、表情が、怒りで燃え上がった。でも言葉は返されなかった。
「俺は……平均以下の能力しか持たない」
そんなふざけた理由で――という糾弾が聞こえてくるようだった。俺はそれを鼻で笑った。
努力の質と量は、上に行けば行くほど重要になる。もちろんもとの素養だって。
トップアイドルという山は高く険しい。俺はもう高山病を発症しそうだ。自分が足を引っ張ることによって美鈴の邪魔をしたくなかった。
実際に登ってみたら案外頑張れるかもしれない、きついだけで発症しないかもしれない、なんて気休めの言葉は、絶望に打ちひしがれる人間には毒にしかならない。そういうのは小さい成功を何度も積み重ねた人間のための薬だからだ。
俺の人生の責任を取れるのは俺だけで、であれば、美鈴の感性が壊された責任を取らされるのも美鈴自身なのだ。俺はその前に撤退すべきだと考えた。
麗さんは俺の話を黙って聞いていた。顔はどんどん険しくなっていった。けれど、俺の説明に一定の理を発見したらしく、最後には深いため息をついた。
「美鈴ちゃんを納得させられたら、私が責任を持ってデュオのプロデュースをする。こう言わせたいのかしら」
俺は物足りないような顔をした。
麗さんはその反応を見越していたらしく、眉根を寄せた。その裏には、呆れと……侮蔑があったように見えた。人の道を正そうとする怒りもあった。
「もしもデュオに転身して美鈴ちゃんが落ちぶれたら、私の腕が悪かったってこと? あなたの選択が間違っていたってこと? どっち? それに、美鈴ちゃん目線で『勝手に担当が変わった』みたいな事態にはしちゃ駄目よ」
ちゃんと話し合って。
同年代のものから発せられたとは思えない、大人じみた、まともな言葉だった。こういうところに滲む経験の差が、何よりも俺を傷つける。
人として正常な経験を積んでこなかったのだと思い知らされる。
学生時代は勉強が正義みたいな面をしておきながら、社会に出た途端にコミュニケーション能力が必要とされるのはなぜだろう。森林から氷河へとマップが変わるのはなぜなのだろう。森林に適応してきた人間が、いきなりそんなものに適応できるわけがないのに。
「美鈴ちゃんがアイドルについてどう思っているのか一度聞いてみたら? 十人十色の答えがあってもいい問いだと思うの。だからあなたが自分の考えをちゃんと伝えて、それでもしも美鈴ちゃんを納得させられたら、私が責任を持って引き継ぐわ」
そうしなきゃ駄目、と麗さんは言い切った。
「君は……それが嫌だから私に話を通しにきたってわけではないのよね? あまりにも無責任だもの。深く関わっているのなら、傷つく覚悟も、傷つけられる覚悟も持っているはず。人間関係というのは、そういう覚悟の上に成り立っているものなの。自分だけ逃げるなんてことはしないわよね?」
自分の考えを話せば、相手からも応酬があるに決まっている。
麗さんの言葉は夜がどれだけ更けようとも頭から離れなかった。脳のしわにべったりと貼りつく気持ち悪さに歯を食いしばりながら、ベッドに倒れこむ。湯船に浸かったばかりの体は火照っていたけれど、綺麗になった感じがしない。
もはや昨日となってしまった美鈴とのやり取りは、彼女からの言葉で途絶えている。俺は通知でメッセージを確認したまま返信できずにいた。まったくなんでもないやり取にもかかわらず。
スマホを天井灯にかざして逆光で内容を見えなくしようとしたけれど、液晶はアイドルみたいに発光しているものだから、叶わない。ため息がこぼれた。世界の嘆きを全部吸い込んだみたいに重苦しい吐息だった。
美鈴は納得しない。
推定ではなく、断定。
頂点に立つ能力を持っている人が、俺のせいで実力を発揮できない。そんなときに俺は、罪悪感以外の何を感じればいいのだろう。