抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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☆一八話

 いきなり立ち上がったはいいものの、言葉はまったく続かなかった。

 

「認めません」

 

 わたしは、重い石をくくりつけられて深海に突き落とされた人のように、ただ沈んでいくことしかできなかった。体も心も沈んでしまって、どうにか浮上しようと足掻くけれど、一向に体が光へ向かうことはなくて。体内から酸素が抜けていく感じに、さらに深い闇を知る。海底に広がる砂へ横たわるほかないの? そんな……そんなことはないはずだ。

 

 手を伸ばしても届かないことがつらい。

 最愛の人から突き落とされたことは、もっとつらい。

 

「ですが、俺はもう」

 

 プロデューサーのことを、今でもとなりにいると信じている。

 でもそれを信じているのはわたしだけみたいで、プロデューサーは違っていた。彼はわたしの背中を眺めることしかできないと勘違いしていた。

 

「厳しい……と思います」

 

 脱落者のプロデューサーは、やっと苦役から開放された奴隷みたいに晴れやかな表情と声をしていた。

 そんな顔で拝む朝日は綺麗ですか。勝利をもぎ取った祝杯はおいしいですか。

 

 遠ざかる背中に手を振る態度が苛立たしかった。だって今まで一緒に歩いてきたのだから。そういう……かけた時間や労力の分だけ親しくなれる、絆、みたいなものがわたしとプロデューサーには芽生えていると思っていた。

 

 それなのに、どうしてそんなことをするの?

 

 拳が震えていた。奥歯を噛んだ。全身を巡る血液が焦げついていた。

 

 でも、感情的になったら取り返しがつくなくなる気がした。もうすでにめちゃくちゃだけど、さらに荒らすのはかろうじて思い留まる。

 今年のN.I.Aが終わるまではわたしのプロデューサーでいてくれる決心なのだから、その間に改心させれば元通りになる。などと無意識のうちにストップがかかったのかもしれない。

 

「デュオに転向して……その相手は、まりちゃんですか」

「はい」とプロデューサーは俯いた。

「プロデュースは……」

「麗さんに引き継いでいただこうと」

「なんで?」

 

 暗く、重い声がどろりと吐き出される。

 

「どうして……?」

 

 私の声は苦悶に打ち震えていた。

 

 思い切り泣きつけば魔法が生まれたりしないのだろうか。泣き喚いて、困らせて、それで今日をなかったことに……。

 刀を振り下ろすほうだって確かにつらいだろう。でも、実際に血を流すのは、斬られたほうだけなのだ。プロデューサーの感じている痛みは本物でも、血が流れることはない。

 

「俺よりも適任がいますよ」

「あなたが一番適任です」

「……性格の相性で言えば、俺が適任かもしれませんね。能力で言えば――」

「言わないで」

 

 半ば叫んでいた。あ、わたしってこんな声も出せるんだ、なんて一周回って冷静になる。その頭が、焼けつくような喉の痛みを自覚させる。

 

「それが答えなんじゃないでしょうか」とプロデューサーは冷笑した。

 

 あのとき止められていたら――。

 

 何度そう思っただろう。変形して元の形に戻らなくなったものを眺めるのは、痛い。心臓の内側からナイフが出てくるような痛みを、わたしは知っている。

 

「あなたと離れることに……あなたの中からわたしが抜け落ちていくことに、わたしは耐えられません」

「耐えたくない、の間違いですよ」

 

 プロデューサーはすっかり後戻りできなくなった罪人のように、どこか穏やかな顔をしていた。

 

「人は壊れても生きていくことができる。壊れながら生きることができる」

 

 プロデューサーは、自分の体がすでに冷たくなっているものと盲信していた。その考え方を崇拝しているようにさえ見えた。

 

「プロデューサーはまだ生きているんですよ」

「えぇ、生きていますよ。俺は」

「じゃあ……どうしてそんな、もう死んでしまったみたいに」

「いいえ」とプロデューサーは断言した。「俺は生きています。ちゃんと生きていますよ」

 

 語尾まで釘で縫い留められている。プロデューサーのほほえみを動かすだけの力がわたしにはないのだな、と確信した。

 騙すような形であなたの家に入り浸るようになったわたしでは、心の扉を開くことができない。わたしは、かたく冷たい平板に額を押し当てることしかできない。

 

 わたしなんかじゃ。

 

 そんなこと思ったのは初めてだった。

 

「事情を説明しても?」

 

 プロデューサーは黙るわたしをよそに話し始めた。

 

「ふさわしい人、というのがいるように思います。才能のある人や実績の伴った人は、そういう人といるべきなんです。神様は右利きで、でも世の中には、右手で製作された人間と、左手で製作された人間とがいる」

「わたしは……」

「あなたには才能がある。それは美鈴さんにも自覚があるでしょう」

 

 こんなところで自分の言動が仇となるなんて思うわけがない。わたしは言い返せなかった。

 

 虫の鳴き声が頭の中で反響して大きくなる。頭の中で大きな音が反響する感じはステージで何度も経験してきたのに、質感が違った。今日だけは不快だった。同時に、この音を聞いているのは世界で自分だけなのだという寂しさに襲われた。

 

 知らない。聞きたくない。やめてほしい。

 

「明日もう一度話します」

 

 気がつけば手を振りほどかれていて。怒りと不甲斐なさと悲しみに引き裂かれ、壊れてしまいそうだった。自分を壊してしまいたかった。

 

 冬に自分の心だけが異様に熱を持って感じられるみたいに、その日のわたしには、なぜだか手のひらだけが熱く感じられた。

 

 

 わたしはその日、深い闇のさらなる深みを求める人のような足取りで帰宅した。どれだけ経っても、衝撃を、体の外側でしか受け止められなかった。

 

 

 

 翌日は、昨日までの晴天が嘘のような雨模様だった。アスファルトを叩く雨の歌は、私の心にも低く響き続ける。

 

「またいつもの顔か、俊」

 

 わたしがレッスン前に拠点にへ向かうと、なぜだか唯さんに先を越されていた。扉の開閉音になんだろうとか思っていたら、これだ。奈落に続くトンネルを歩いているような気分になる。

 

「昨日はすみません。それに運転まで」

「いいさ、別に。いい顔(・・・)だったしな」

 

 盗み聞きするつもりはなかったけれど、わたしは思わず壁に背を向ける。わたしの想像の中で、唯さんはプロデューサーの頬を触っていた。

「まだひりひりします」とプロデューサーが言った。

 

「いいことだな。ちゃんと効いているんじゃないのか」

「そんな薬みたいに……」

「実際のとこ薬だろうに」

「効く人と効かない人がいます」

「屁理屈を」

 

 少ししてから、彼女の「まぁ、跡にはなっていないらしいな」という声が聞こえる。パイプ椅子を引く音が続いた。

 

「あれからちゃんと眠れたか?」

 

 親身な声だった。いつもはもっとはきはき話すのに。女を売っているわけでなく、心配の感情が根もとにあるのは分かり切っている。それでも、嫉妬心が網膜に焼きついているわたしには、すべてがそのように見えた。

 現に脳内の唯さんは、まるでベンチに並んで座るみたいな距離感でパイプ椅子を並べている。

 

 プロデューサーの声はくぐもっていて聞こえなかった。それほど間を置かず「まさか立ち去られるほどとは思っていませんでした」と続く。

 

「美鈴さんは大丈夫だったんでしょうか」

「まさか連絡してないのか?」

「しましたよ。でも『大丈夫です』とだけ。一応今日も顔を合わせる約束は取りつけているんですけれど……どうなることやら。SNSの運用はいつも通りに続けていて、無理をしているんじゃないかと思って……心配です」

「無理させているのはお前だろう」

 

 ひときわ鋭い口調だった。前までの口調が穏やかだったからそう感じたのかもしれない。

 

「お前の勝手でそうなったんだ。どの面で心配している」

「それは……はい」

「……まあ、秦谷なら大丈夫だろう。レッスンを平気で何度もサボるくらいには図太いんだからな」

「意外と繊細ですよ。見せないだけで」

「で? 私は今、その繊細なアイドルをいきなり突き飛ばしたど阿呆の顔を見に来たんだが」

「俺は平気です」

「みたいだな」

 

 プロデューサーにも、人間関係がある。

 

「まったく……大馬鹿者が」

 

 昨日のわたしに、まりちゃんがいてくれたように。不器用に心配を向けてくれるところまでそっくりで。

 じく、と胸が痛んだ。手を当てると、命の呼吸が感じ取れる。肺が吸いこんだ続きの世界はほんのりと塩辛かった。

 

 悲しかった。また手が離れていくのだな、という実感が苦い感触を伴って私の全身に満ちる。

 

「傾けられる感情を過小評価しすぎるんじゃないのか? おそらくお前はそんな傾向にある」

「実際今までそうだったんですから」

 

 唯さんは大きなため息をついた。

 

「どうするんだ、これから」

 

 傷だらけの野良猫に語りかけるような調子は、狂った秒針のリズムを聞くみたいに、思わず耳を塞ぎたくなる気持ち悪さを味わわせてくれた。

 

「どう……しましょうか」

「聞くまで私はレッスンに行かないからな。ははは! トレーナー不在のレッスンなんて前代未聞だな!」

「笑ってていいんですか……」

「いいわけがない。だから答えることだ。なんでもいいから」

 

 あの唯さんがプロデューサーを逃がすわけがない。どくん、と心臓が跳ねた。

 絞首台に上ったわたしは、目隠しの先にある、蜘蛛の糸みたいに垂れ下がった麻縄と終着にあるリングを見ている。あるいは拘束されて、ギロチンの刃が重力に従って落ちてくるのを待っていた。

 

「どうにかして納得してもらうほかないでしょう。俺の仕事を減らしていく形で麗さんにシフトしつつ……うまくできないか考えてみます」

「絶対にそうするのか?」

 

 一人の命がかかっていることなどつゆ知らず、二人は静かに言葉をかわす。

「仕方ないやつだな」と口にする唯さんは、わたしが見たこともない表情を浮かべているに違いない。

 

「あいつが努力していることは、最近の様子を見れば伝わってくる。アイドルに本気なのだと嫌でも思い知らされる。それならせめて、最後まで本気で向き合ってやることだ」

 

 プロデューサーが唯さんだけに甘えるのは、どうして?

 理解できない。納得いかない。わたしには拳を握る力すら残っていない。

 

 わたしがプロデューサーよりも年上で……年上の……魅力にあふれる人だったのなら、あそこに立てた?

 そんなわけない。あさり先生すら弾き返されたのだから。それならどうして唯さんだけなのか、まるで見当がつかなかった。人としての魅力は比べられないけれど、女性としての魅力は、要因ではないと思う。

 

 なんて。わたしはすぐに魅力を比べようとする。魅力で勝っていることが人のとなりに座る条件だと思っている。

 

「もうちょっとここにいるか? ぎりぎりまで」

「いえ、平気です。唯さんにも準備があると思いますし」

「……そうか。それならいい」

「ありがとうございます」

 

 懐から拳銃を取り出す仕草なんて見せずにいきなり自決して。わたしに傾けられる心配は迷惑だから、わたしには心配する権利すら渡してくれないの?

 あなたの担当アイドルはわたしなのに、親しげな会話を盗み聞くことしかできないなんて……惨めだ。

 

『どうして?』は埃のように降り積もり、心の悲鳴では掃除することができない。泣き跡にこびりついたゴミを必死で拭う。舞い散るだけで一向にきれいにならない綿埃を吸いこみ、咳が出そうになる。慌てて口を覆った。覆うというよりも、窒息すればいいと思って押さえつけた。

 

「帰りは――」

 

 わたしが走ってその場をあとにしたのは、唯さんと顔を合わせたくなかったからだし、プロデューサーの返事を聞きたくなかったからだし、発作的な衝動を発散させるためでもあった。

 

 

 一日の終わり、日常をすべて片づけてベッドに横たわると、どっと疲れが押し寄せる。目に見えない存在が馬乗りになって、わたしの両肩を押さえつけていた。

 疲れていることだけは確かだったけれど、記憶は朧気だ。当時の体と心が現実を拒絶していたから覚えられなかったのだろう。

 

 そんな日がしばらく続いた。

 

 わたしが猛然と唯さんを照りつけても、唯さんからの反射がまったくないものだから、かえって申しわけなくなることもあった。

 相手してほしい人からまったく相手されないせいで現実に張り合いがなく、余計にアイドルにしか打ちこめなかった。

 不安定に揺れ動く感情は、震えるというよりも大きな波動を打ってわたしを苦しめた。最後に空を見上げたのは、その空の遠さみたいに、はるか過去になっていった。

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