今日も雨が降っている。梅雨に入ったせいだ。わたしたちの関係はこじれていくばかりで、プロデューサーの顔色が優れないのは天気のせいなのか人間関係のせいなのか、わたしには判別がつかなかった。
決して険悪なわけではないのだ。でも重篤さ、みたいなものが常にわたしたちを取り囲んでいて、ときどき危篤な病人が息を吹き返すような活動の強まりを見せるだけで、病気自体は治らない感じがはびこっている。
「今日も……勝ち上がりました。一位です」
「途中から見ていました。さすがです」
前までは褒め言葉が慈雨みたいに心へ染みたのに。いまとなっては、わたしをやんわりと拒絶しているような響きで耳を打つ。
「はい」と自分でもなんだかよく分からない返事をしていた。
プロデューサーはこのごろさらに自分を追いこんでいるみたいで、倒れないまでも、ふらふらしているところを目にするようになった。たとえば階段の手すりにしがみつくように歩いたり、椅子から立ち上がったあと背もたれに手を乗せていたり。
わたしの食事は「おいしい」「おいしい」と食べてくれているから、わたしの安心はその一点によって支えられていた。実際は安心なんて穏やかな気持ちではないけれど。
「運転、大丈夫ですか?」
車に乗りこんでから尋ねた。プロデューサーはバックミラー越しにわたしを見つめる。
「疲れているようでしたら、少し休んだあとに学園に向かっても……。今日はこのあと、もう予定がありませんでしたから」
「慣れた道ですから、大丈夫ですよ」
疲れていることは否定しないのに、プロデューサーは木みたいに一人で立とうとするから。むやみに揺らしたくなかった。それで果実がぼとりと落ちてきたとしても、わたしはそれを喜んで口にできない。
重たい空気の車内のまま車は進む。たったー、たったーとワイパーが奏でる単調な音を聞きながら、窓を滴り落ちる雫をぼんやりと眺める。傘の隙間から見える人たちの顔色にも、わたしたちと同じような灰色のフィルターがかかっている気がした。
世界全体が停滞して見えるのは、きっと前線のせいだけじゃないだろう。
「N.I.Aの期間中は、商店街も賑やかだと思っていました」
「……雨ですからね」
「ええ」
プロデューサーは赤信号で止まるたびに眉間を揉んだけれど、運転は危なげなかった。
学園について車を降りても、肺を満たす空気は灰色で。これは完全に歩みを止めてしまったわたしたちの関係だ。複雑というよりはむしろ明快だけれど、明快に暗いのだからどうしようもない。
「そういえば引退のこととかって」
相合い傘をしたこともあった。でもいまは、数センチに大きな崖くらいの隔たりがある気がする。傘を斜めにしてプロデューサーの顔色を窺っても、彼はじっと前方を見ている。
「わたしがそんなに引退を望んでいるように見えましたか?」
「いえ、そんな」
間に漂う空気が重いせいか、話題も自然とそういったものが多くなった。絞られた自然光が精いっぱい照らす学園はほの暗くて、傘によってわたしたちの声もくぐもってしまう。さすがに今日はランニングをしている生徒などいなかった。
「アイドル像はなんとなくでも決まっていますから、あとはもう、終わりのビジョンと思って」
「生き方を定めたからと言って、終活を始める三○代の方を、わたしは見たことがありません」
学園はとても静かすぎて、世界中にわたしたちしかいないんじゃないかと疑いたくなるほどだ。
「それよりも売り出すアイドル像について煮詰めたほうが、とっても有意義ですよ」
プロデューサーが何かを言うより先に「あ」と補足する。
「一緒に組み立てる話なら、他には、家の間取りなどどうでしょう」
プロデューサーは取り合わなかった。
「相続人のいない家についてなんて、考えたくありません」
ちゃんと言葉を交わしているのに、まるで遠くの星でも見ているみたいな感傷が込み上げてくる。喉もとまでせり上がった感情はそのまま痛みとなった。手を握られる距離感で、頭だって撫でてもらえる距離感なのに、星だ。
最後に頭を撫でてもらえたのは、いつだったろう。少し前に迫ったとき、心ここにあらずといった感じで撫でてくれた気がする。
「以前……賀陽燐羽さんのお姉さんが引退したあと、どう思いました? 憧れがいなくなったあとです」
拠点に戻って少ししたころ、プロデューサーはまったく関係のない引き出しを開けた。わたしはファイリングの手を止めて過去に飛んだ。
わたしは……きっと、アイドルに憧れたわけではないのだろう。ただ、まりちゃんの視線が欲しかっただけで。それが転じて欲望となり、アイドルになるための原動力となった。原動力はいまも変わっていない。
だから、賀陽継という太陽が分厚い雲に覆われたその日も、あまり変わらなかった気がする。もちろん感情は波立った。でもそれは、まりちゃんや、りんちゃんに打ち寄せたほどの強い波ではなかった。
思い返せば。むしろ逆に、チャンスだ、とさえ思っただろうか。これで太陽の代わりになれる、なんて。でもそれは、わたしじゃなかった。別の恒星があらわれた。
わたしは所詮、撮影スタジオに無造作に置かれた太陽の模型でしかなかったのかもしれない。
たっぷりと時間を置いてから、プロデューサーはパソコンから顔を上げる。わたしと同じように、どこか遠くの一点を見つめていた。
「引退の痛みを減らしてあげるのが、優しさなんじゃないかって思うんです。一ヶ月後に引退しますと発表するよりも、一年後のライブで引退しますと発表したほうが、きっといい」
プロデューサーは机に積まれたファイルの中から一つを引き抜き、そっと開く。あれはキャンパスモードの資料をまとめたものだ。
「事務所としてはなかなか事情を話すわけにはいかないでしょうけれど、せめて一年くらいの猶予を持たせてあげたい。ファンとしてはきっと、心の整理がつくまでの一年があったほうがいいのかなと思って。そういう……気遣い? が、引退という『突き放された痛み』を和らげてくれるんじゃないかと思うんです」
わたしに対して、「もちろん腐ってしまう場合もありますけどね」と苦笑を向けた。
「最近は全部、急すぎます」
その呟きは、誰に当てられた手紙なのだろう。白紙のような気もした。
わたしは紙コップにインスタントコーヒーの粉を入れた。ブラックと、カフェオレ。短冊状のぺらぺらが折り重なるようにゴミ箱に落ちる。薄い紙コップは熱をよく通し、除湿の効いた室内に乾いた熱狂をもたらす。
そっとプロデューサーの机に置いて、となりの椅子に腰を下ろした。「わたしは」と口にする。
「アイドルが身勝手に引退を発表するのと同じように、ファンも勝手に離れていくものだから、そういうものと思っていました」
この人は、どうして、わたしがみんなの心を奪えることを信じられるのだろう。無垢な信頼を向けているからこそ、わたしという背骨がなくなったファンのことを心配しているのだと思う。
「わたしは……みんなの心をわたしで満たしたい」一拍置いた。「そのあとのことまでは、考えていませんでした」
他人のために自分の青を捧げて焦がそうなんて思えなかった。
照れ隠しに笑って、カフェオレを一口。当然熱かった。きっと舌先が火傷した。口に含むことさえできなかった。
「心を奪ってわたしだけにして……プロデューサーは、そのあとに背負わなければならない重圧や期待を恐れているのですね」
人のことを誰よりも信頼し、誰よりも案じている。
「そんなの、やってみなければ分かりませんよ」
ちらととなりを見ると、コーヒーが半分ほどまで減っている。
世の中には、なんとなく苦しい、みたいなものがあってもいいと思う。無理に言葉を当てはめなくたっていいと思う。
コーヒーを飲む所作は、言葉の隙間を埋めるためにも、痛みを求めるためにも見えた。わたしの喉には存在しない隆起が浮かび上がり、沈む。
「夢の終わりは……案外すぐ訪れるものですよ」
「寝て起きたら地球に隕石が落ちていることだってありえます」
吐息が黒い水面を揺らす。
プロデューサは、言葉という枠の中に思考を閉じ込めて、それで漏れてしまった分は見えないものとして扱っているのかもしれない。できるだけ取りこぼさないように、言葉という籠を大きくする努力をしているのかもしれない。
なんとなく苦しい、を乗り越えた暴挙だ。そんなもの。
「俺は」とプロデューサーの声が空気を震わせた。
「その隕石を……少しでも早く予告してほしかった」
プロデューサーの表情は、俯いていて見えない。でも椅子に磔にされた彫刻みたいに、長い年月をたった一人で過ごしているのだと思った。劣化し、ひび割れ、ところどころにカビだか苔だか分からない変色がある。
一種の防衛本能として、自ら苦しむ手法を思いついたプロデューサー。原因が明確だったほうが、同じ苦しみでも安心できたのかもしれない。だからいまは明確を求めがちなのだ。
わたしは彼の暗闇ごと抱きしめてあげたかった。そうして絶望と深淵が油断したら、一息に殺してやりたかった。そうすることでしかこの人は守れない。
「ある日突然、歩いていた場所が荒野になったんだ」
夜光に誘われてふらふらと飛行するチョウみたいに、弱々しい羽ばたき。力ない言葉。
「それでも努力を重ねることしか俺にはできない」
それなのに、どうして魂が震えるのだろう。
プロデューサーのまねをして紙コップを傾けた。当然熱くて、一滴を流し込むことすらままならなくて、熱い一滴は口内でべしゃりと潰された。これが、わたしたちの違いだ。
りんちゃんに泣き落としを試みるまりちゃんの動画がバズったのは、ちょうどそのころだった。
まりちゃん、りんちゃんとカフェで話して、その帰り。いまの自分ならプロデューサーと違った話ができるかもしれない、なんて思い立った。おおかた吉兆を感じたのだろう。二人との関係がなんとかなったように、いまならプロデューサーとも、と。
「……本当に大丈夫なの?」
二人の心配を振り切って、わたしはプロデューサーの元を訪れた。いつもは車の窓から見る景色に溶け込み、いつもほど重くはない足取りで拠点へ。
傾いた陽が木漏れ日に砕け、葉の影とダンスしている。風で葉が揺れると白い光もひらひらと揺れた。わたしはそれをできるだけ踏まないようにして歩いた。
突然まりちゃんの声が響き渡った。
廊下を見回しても、当の本人はいない。よくよく声を聞いてみると、それはわたしが何度も耳にした泣き落としだった。音源はわたしの向かう先。
プロデューサーが……?
窓から入り込んだそよ風に身を震わせる。直接冷房の風に打たれるみたいだった。わたしが体を小さくしている間にも泣き落としは進んでいって、佳境を迎えた。
文字に起こせば馬鹿げている――それでもまりちゃんは真剣だったし、そんなところもかわいいと思うけれど――言葉のなにを求めて、プロデューサーはそれを聞いているのだろう。
また、わたしとは違う人を見ている。
腹が立った。悲しかった。惨めだった。
拳を握ったわたしをそよ風が包み込んだ。どうせ慰められるなら、もっと確かなぬくもりが欲しい。
二度、三度。
心のよりどころとしている曲を真夜中に何度も聞くみたいに、泣き落としが繰り返される。
わたしは抑えがたい感情をぶつけるみたいにしてドアを開けていた。プロデューサーはすぐに再生を止めた。わたしは張り詰めた沈黙を蹴破った。
「なにが……プロデューサーの心を揺さぶったんですか」
わたしではどうすることもできなかったのに。
「どうしてプロデューサーは……いつもわたし以外の言葉に、人に……!」
椅子に座るプロデューサーの両肩を思い切り揺らした。プロデューサーがわたしに与えた悲しみの分だけ強く、何度も。
「なんで――」
突如としてわたしを襲ったのは、抱擁だった。
ぐいと乱暴に引かれたと思ったら、背中を強く抱かれて、プロデューサーの鎖骨が顎に当たった。なんて安心する暗闇のぬくもりなのだろう。服の香りを肺いっぱいに吸いこんだら涙が流れた。わたしはこの瞬間まで涙を忘れていた。
こんなふうにわたしを好き勝手できるのにしないところが、もどかしくて、同時にわたしを深く傷つけた。
泣き止んだわたしに、プロデューサーはインスタントコーヒーを作ってくれた。「あ」と聞こえたと思ったら、どうやら癖でブラックを二つ作ってしまったらしく、スティックシュガーの滑る音が聞こえる。
差し出された液体はいつもより深まった夜だった。
「俺……向いてないんですよ。そんなふうに感情を向けられるの」
重い、しんどい、つらい。そんな言葉を使わないようにする懊悩は容易に見て取れた。
「重いですか」
「……まぁ」とプロデューサーは目をそらした。
反省はしている。それでも。それでも……!
唇を噛むわたしを一瞥して、今度プロデューサーは顔ごと背けた。
「太陽があるのなら、どうしても影だって生まれてしまいますから」
「今の話でも怯まないんですか」
ちゃんと笑えたのが嬉しかった。
泣いたおかげか気分が晴れている。
相手を否定することは自分の考えに反するから、「俺には向いていない」とだけ伝える。そうすることで、相手の角度をやんわり変え
知ったことではないと大暴れできたら、どれだけ気持ちいいのだろう。わたしは……まだ、まりちゃんのようにはなれない。
「あなたのために、わたしは何ができますか。わたしはただ、あなたをもっと甘やかしたくて、依存してほしいだけなのに……!」
「人に甘えたら、あなたに甘えたら。俺は自分を許せなくなる」
どちらも強情だから、当然結論なんて出ない。
わたしはわたしの方法で、唯さんの場所を奪ってやると決めた。迷ってあたりをきょろきょろしたり、ときには引き返すことだってあるかもしれないけれど、やってやる。
アイドルじゃないときのわたしはへたくそだけれど、やるしかないのだ。あなたの前でまでアイドルでありたくない。でもプロデューサーにとって、わたしはアイドルだ。
プロデューサーは「俺の前でも無理にアイドルでいる必要はないんじゃないかと思って」と言ってくれたけれど。
何気ない記憶を掘り起こしているときにばったりであった言葉は、きっと誰かさんの約束のように、覚えられてはいないだろう。あれは……話のはずみで飛び出たものだったから。でも、それでも、わたしにとってはハート型のライターだ。
アイドルってなんだろう。光り輝く生き方を指すのだろうか。それとも職業を指すのだろうか。プロデューサー一人のなんにも変えられないちっぽけな存在なのに、わたしは……。
「プロデューサー」
わたしは、わたしの中身をプロデューサー好みに調理できなかった。まりちゃんに合わせた言い方ならいくらでも思いついた。
「覚悟しておいてください」
教わった文法。受け売りの言葉。そんなものしか思いつかなくて、他人の服を着るくらいならいっそ裸の心でぶつかってやると決めた。表現を生業にしているわたしには、なんにもなかった。恥ずかしかったけれど、手が離れることに比べたらなんてことはない。
消えてなくなりたいと思うのは、すべて取り返しがつかなくなってからでもいいはずだ。