抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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二話

 それから俺と美鈴はちょくちょく話すようになった。顔を合わせる場所は中庭と決まっていた。ときたま和室に引っ張られそうになるのだが、「雨が降ったらそうしましょう」と流して、俺は茶道部の部室には立ち入らなかった。

 俺と美鈴が会うのは決まって晴れの日だったのだが、美鈴はまだ気がついていないらしい。

 

 美鈴は会うたびに洗濯した膝掛けを返したが、俺は線の細い彼女を案じて、勝手にかけ続けた。柔肌にはそよ風すら害になる、と心のどこかで思っていたのかもしれない。

 そんなある日、とうとう美鈴が新しい膝掛けを買ってよこした。

 

「新しいのを買ったので、よければ使ってください。寒がりだから持っていたんですよね……?」

 

 彼女には、俺が車を借りていることや、膝掛けをそこでの防寒に使っていたことなどを説明していた。これからの季節には必要ないとはいえ、秋に向けてもう一つ仕入れておく必要があったこともまた事実。

 俺は彼女が買ってくれた膝掛けを受け取った。俺が使っていたものと似た色の、男女ともに使えそうな地味な単色だった。紅葉が枯れ葉となって落ちたような赤茶系の色を俺は好んでいたのだ。美鈴はすっかりお見通しのようだった。

 

 

 美鈴は、俺が脇に寄せた膝掛けを甲斐甲斐しくかけてやり「たまには一緒に眠りませんか?」と問いかける。

 このころになると、俺は彼女が世話好きなのをよく承知していた。また美鈴も自ら公言していた。

 

「気持ちいい……のは、分かっているんです」

 

 一緒に寝たら心地いいのは分かりきっている。容姿端麗な子と穏やかな陽光が合わされば、憎悪すらまどろみに誘えるだろう。それでも俺は断った。

 美鈴はむっとした表情になった。夢現をたゆたう目が、ほんの少し非難の色を示す。

 

「たまにくらいお昼寝をしても、バチは当たりません」

「神様は天罰を与えないのかもしれないけれど、俺が俺自身に罰を与えてしまうんですよ」

 

「というと……」美鈴は不思議そうな顔をした。

 

「夢を見るんです。もしもの……夢が叶った(・・・・・)夢を。あるいは、約束が反故にならなかった場合の」

「いい夢ではありませんか?」

 

「まさか」と俺は首を振る。「悪夢に他なりません。だってどうあがいたって現実にならないんですから、これほど残酷なものは他にないでしょう」

 

 美鈴は視線を落とし、静かに考え込んだ。ローファーの少し先を見つめるときにはさしもの彼女も背筋が曲がるのだな、と思った。その曲線にすらアイドルらしい美が宿っている。

 俺と違い、彼女は姿勢がいい。どれだけ昼寝をしても体を痛そうにしていないのがその証拠だ。

 

「わたしは……夢の中でくらいは、もしもを思い描いてもいいのではないかと思うのですが」

 

 ようやく口を開いた美鈴の声は甘く、口調も穏やかなままだった。何一つ普段と変わらないまま、強烈な過去を叩きつけられている気がした。

 

「後悔の味をよく知っていますね」

 

 俺の言葉にはっとした様子を見せ、美鈴はまたしても俯く。艶ぼくろが顔全体に暗い影を落としていた。

 

「それはもう……食べ飽きてしまうほどに。おいしいからと進んで食べたわけではないのですが、気がついたころには」

「すべてが手遅れになっていましたか」

「ええ」

 

 物静かな顔に、どうしようもない諦めのほほえみを湛えて。焼き払われた家の残骸を見つめるみたいに、美鈴は穏やかな顔をしていた。

 

 どうしようもないんだな、とぼんやり思う。これはそういう種類の顔だ。でも諦めきれないから、ときおり家があった場所に戻ってきては、そこで数時間立ち尽くす。

 そんなんで決意がかたまるのだろうか。それとも決意が揺らがないようにするための儀式なのだろうか。

 美鈴の顔にはちっとも絶望が見えない。翳りがあっても、彼女は歩ける子だった。美鈴は強い子だった。

 

 

 右頬に寄せた飴玉を反対側に返して、でも舌では、いまだに残っている右側の甘さを味わうみたいな、仄かなざらつきを感じて。そこではきっと後悔と甘さの妖精が喧嘩している。その感触を口の中で転がしているうち、いつか飴が小さくなることを期待している。

 

「俺は普段……こんな話をしません。悪夢だ、なんて。意外と美鈴さんのことを近くに置いているのかもしれません」

 

 美鈴は下を向いたまま、口もとに手を当てた。

 

「ペットボトル一つ分の距離ですから」

「それは近すぎます」

「俊さんから言い出したことですよ」

「物理的な距離と心理的な距離は一致しないでしょう」

「もっと近い場所ですか」

「そこで距離が遠くならないあたり、さすがです」

 

 美鈴はくすりと笑い「わたしも」と空を見た。彼女と話すときの空は、いつも薄青い血に染まっている。

 

「ええ。これくらいの距離だと感じています」

「『これ』がどこにかかっているのかまったく分かりませんが、はたして美鈴さんにとって近い距離なんでしょうか」

「カメラのピントが合わないほどです」

「近すぎます。離れましょう」

「わたしは接写対応ですよ」

「人間に対して使う言葉ではありませんね」

 

 不服そうな美鈴を知らんぷりして、わずかに物理的な距離を開ける。だからといって心理的な距離が変わった感じはしなかった。

 

 

 美鈴が俺のことを誰かに言いふらすようなことはないだろう。そんな奇妙な確信が彼女を身近な存在に変えた。加えて美鈴は下世話な話をすることがないし、誰かの悪口を言うこともなく、ただひたすらに自分にまつわる感性とボケで会話を回してみせる。

 そこに信頼と安心が芽生えないほうがおかしいだろう。サボりに目をつむれば、彼女はアイドルとしても人間としても非常によくできていた。

 

 

 そうして時間を積み重ねていたとき、ふと美鈴は「俊さんは晴れた日以外は何をしているのですか?」と口にした。

 

「低気圧で死んでいる場合が多いです。曇りとか雨の日は偏頭痛で動けないときが多いんですよ」

「……まあ。お家の鍵があれば、わたしがお世話をしに行くというのに」

「恋人でもない男の家に上がり込むのはアイドルとしてどうかと思います」

 

 少し言葉が刺々しかったかと思い直し「女性としても、褒められたことではありません」と付け加える。

 美鈴は特段ダメージを負っていなさそうだけれど、彼女はそうした顔つきで飄々と傷だらけになっているのではないか、と俺は疑っていた。

 

 俺は……茨の道を歩いて傷だらけになった人に薬を塗るのが下手だとしても、自らが棘にはなりたくない。

 

「でしたら……いえ。なんでもありません」

 

 お湯に溶け切らなかったインスタントの味噌汁みたいに、しょっぱさがこびりついている。そこに意識を向けたところで、自分にできることなどたかが知れていた。

 そうは言っても美鈴のことを俺は気にかけたほうがいいのだろう。いや、気にかけたいのだ。少なからず近くに置いた人だから。そう設定した人だから。

 

 

 美鈴は俺とある程度特別な関係になりたがっている。そして俺と美鈴が在籍しているこの学園は――つまるところ、そういうことで。

 普段からぐいぐい来る彼女がここで言い淀むのは、それだけ自分にとっても重要な選択だからだろうか。

 

「わたしはこの道を、一人で歩くのだろうと思っています」

 

 揺らぐ決意をしっかり釘で縫い留めるように、美鈴は自分に魔法をかける。魔法にでも縋らなきゃ現実の人間に縋ってしまうのかもしれない。

 だが、いくつかの普通が重なれば、ときどきそこには魔法が宿る。たとえ現実だとしても。

 

 俺は大学内ではいつも一人だし、あさり先生以外との連絡はほとんどを絶っている。というか途絶えている。

 奇妙な話だった。誰の助けも求められないポジションにいる人間に担当アイドルができそうだなんて。

 

 話の接ぎ穂を失った美鈴の代わりに口を開く。

 

「……美鈴さんは曇りの日は何を? 以前、雨の日は和室にいると言っていましたが、曇りの日のことは聞いていませんでした」

「曇りの日は……レッスンを」

 

 俺はスマホを確認してから、「明日は絶好のレッスン日和らしいです」と美鈴を見る。彼女はぷいと顔をそらしてしまった。

 

「てるてる坊主を一○○個も吊るしたら晴れるでしょうか」

「いつか試してみてはいかがでしょう」

「千羽鶴のように?」

「あれと比べるのは酷ですよ。美鈴さんが言ったのは半分呪術です」

「まあ、なんてことを」

 

 終業のチャイムが遠くで聞こえ、にわかに騒がしくなる予感がした。俺がここにいるのは、ひとえにここが静かだからだ。人が来るとなれば話は別である。

 腰を浮かせて、ふと動きを止める。「俺は」と視線と言葉がふらふらした。

 

 俺は彼女に対して、すでに一定の好感を覚えていた。だから人ととの関わりを求める心が自制心を出し抜いて、俺に口を開かせたのだ。なんとなく波長が合いそうだから。

 たとえこれっぽっちの予感だとしても、人間関係を始めるには十分な気がした。

 

「俺は……薬を飲めば、曇りの日だって動けないことはありませんが」

 

 するとすぐさま手が差し出された。

 

「でしたら」

 

 視線と意思が交差した。もしかすれば、運命も交差したのかもしれない。

 立ち上がった俺の影が彼女に覆いかぶさっていた。やがて影の中心で結ばれた縁がほどける。逆光だから俺の表情は見えないだろうが、予想できているはずだ。俺はあまり笑わない。面白くない表情で、彼女に対して、真剣に向かい合っている。

 

「そのついでに、家の鍵も」

「ついでって言葉の軽さに反していろいろと重いので、お断りします」

「まあ……わたしが何から何までやってあげますよ? 低気圧の日など、動けないと言っておりましたよね?」

 

「お断りします」と首を横に振って、俺はその場を後にした。

 そして翌日、重たい体を引きずってレッスン室に赴いた。苦しいときに動くのは、生きている感じがした。

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