遊園地の広場で体操を教えているときのこと。参加した子どもの一人が転んで、泣いてしまった。
俺はそれを頭の片隅で認識したまま、ぼーっとしていた。青空に響く泣き声は子どもらしく透明で、そこには涙以外の何をも認めることができない。
今日もうまくいかないが、それでもあの子は生きているのだな――などと、俺は同情とも共感ともつかない憐憫を向けた。
アイドルだったら失格だ。うまくやらなきゃ明日も未来もないのだから。
「――大丈夫!?」
自分を追い越して子どもに向かう女性スタッフと中央から駆け寄る美鈴を見て、やっと我に返ったほどだった。
泣き喚く子どもは、かろうじて腕を擦りむいただけの軽症だった。アスファルトではなく草むらに倒れ込んだのが幸いだったのだろう。
その子が落ち着くまでの間、少しの休憩となった。
「大丈夫でしょうか……?」
美鈴は俺のとなりに並んだ。炎天下のなか動いたせいで頬がきらめいて見えた。
彼女の視線の先には、女性スタッフに付き添われる子どもがいる。美鈴はスポーツドリンクを飲み終えても、その子に心配の眼差しを向けていた。
俺は空のペットボトルを受け取り、代わりにタオルを手渡す。居づらくなって燃えるゴミのほうへと足を進めた。
戻ってきて早々、美鈴は俺を見上げた。
「なにを考えていたのですか?」
「……なに、とは?」
「わたしは……プロデューサーは気配りができる人だと思っています。あの子が転んだときも、まっさきに駆け寄れたのではないでしょうか」
美鈴は落ち込んだように「わたしはあの子の名前を知らないんですね」とこぼす。そして「それなのにわたしが気がつくまで騒ぎが起こりませんでした」と続ける。彼女の口調には俺を非難する色がまったくなかった。
彼女はむしろ、俺に共感を示そうと努力しているように見えた。それがちくちく心を刺してくるのことに気がつかず。
「ですから、なにかを考えていたのだとすぐに分かりました。その内容を……教えていただきたくて」
窺うような上目遣いに、俺はすぐさま目をそらす。
いずれ離れるのであれば話しても問題ないだろうか。暗雲に飲まれてからというもの、俺は以前より彼女に心を見せていた。これはきっと心を開いているのではなく、情報として分け与えているにすぎないのだけれど。
ともかく肉体を切って見せる決心をした。
「子どもは……肉体の痛みで泣くんですね」
遠くで涙を拭う子どもが、よたよたと両親へ手を伸ばす。
ずいぶん話が唐突だと思ったので、「大人は精神的な痛みで涙を流す場合が多いですから」と付け加えた。
美鈴はぽかんとしていた。その様子がとてもかわいらしかった。
「子どもと大人の間には、人生経験みたいな名前の緩衝材が詰まっているんだと感じたんです。何もないように見えても、それはおそらく透明なだけで、確かに存在しているのだろうと」
虚無を積み重ねたところで虚無だけれど、肉体の痛みに涙を流させないようにするだけの力があることで、ほんの少し肯定できる気がした。
俺たちは休憩時間中、それきり言葉をかわさなかった。美鈴の立ち位置が半歩分くらい近かった気がした。
子どもは心と体の中にあるバネを目いっぱい使って、躍動する。木も目いっぱいに両腕を広げていた。
ラジオ体操第二の最後みたいに、両腕を広げて胸を開き、青空に肺腑をさらけ出すことをいつからやらなくなったのだろう。
アイドルはこんなことを思わないのだろう。ステージでもレッスンでも、全力で動いているのだから。大人になるにつれ、心と体は全力を忘れる。諦めることに慣れていく。それがこの世界の常識だ。
「また会いましょうね~」と美鈴が親しみやすい笑みを浮かべて手を振っている。
子どもたちは体格以上にあまりある元気に振り回されているみたいだった。ベビーカーと追いかけっこをするみたいに、追い越し追い越されをする小さな子どもは、手のひらからきらきらを振りまくみたいにして腕を振る。無条件に人を笑顔にする光の粉は子どもに特有のものだった。
「こらこら、あんまりはしゃいだらまた転んでしまいますよ……もう。ふふ」
俺はそういう夢の欠片を集める仕事をしているのだと思った。
俺の心は限界を訴えていたけれど、一方で、まだやれるんじゃないかと自分に抵抗を強制する裁判所みたいなものがあったことも事実だった。
「お疲れ様でした、美鈴さん」
「はい。プロデューサーも……ですよ。これから、ですよね?」
美鈴は、さっそく動き始めたスタッフへと目を走らせる。
「えぇ、まぁ」
「待っていますから、終わったら声をかけてくださいね」
一歩足を踏み出したら、最後までやりきらなければならないのだ。ブレーキやハンドルなどとうに捨てた身の上なのだから。であれば車輪が外れるまで進むべきだし、それが叶わないにしても、決めた場所までは進まなければならない。
まだ苦しむ余地があるのだ、と俺は思っている。思うことができる。思わなければならない。乾ききった血糊は足もとまで続いている。
平均にたどり着くための俺の
言葉に宿った重みみたいなものが、まるで違う。
撤収を終え、待っていた美鈴に「待たせた罰として観覧車に乗ってください」と言われた。よく見ると、最後の受付時間の締め切りまで一○分を切っていて、汗だくで疲れ果てていた俺は一も二もなく引きずろうとする細い腕に抗えなかった。
○
傾いた夕日を見ながら、わたしは「乗れてよかったです」と言った。一五分揺られるみたいだから、観覧車の位置的に三分くらい無言だったのだろうか。
息を整えたプロデューサーはタオルで額を拭い、力なく「はい」と答える。
わたしがその話題を取り出したのは、ひとえに雑談のつもりでだった。今日は家族連れの方々とたくさん話して、そういえばプロデューサーの口から家族の話題を聞いたことがほとんどないな、なんて不意に思ったのだ。
話の種は、プロデューサーにとって猛毒のようだった。
「プロデューサーの家族のお話って、ほとんど聞いたことがありませんね」
よければなにか思い出話を――と言いかけて、絶句する。ほとんど一瞬だったけれど、プロデューサーの表情から色が抜け落ちたように見えた。姉や妹がいると教えてくれたときも、こんな顔をしていたのだろうか。
プロデューサーは取り落とした感情を慌てて拾い直し、「そんな大層なものはありませんよ」と受け流す。彼の言葉で『話したくない』の意。
ああ、ほら。自然な流れで顔ごとすっと目をそらした。何度も経験したことだから、手に取るように分かる。夕日を見ているようで、何も見ていない。
腰を浮かせてとなりに座ると、彼は「汗をかいていますから」と抗議した。
「わたしだって……においます?」
「いえ、そういうわけでは」
「でしたら――」
「でも、そういうわけにもいかないでしょう」
プロデューサーはわたしの背中を押そうとしてためらった。
その隙に私は主導権をかっさらう。会話よりも対話を得意とするプロデューサーには、押し問答を繰り返すよりももっと的確な対処法がある。
それは話題を捻じ曲げてやることだった。
「プロデューサーはいままで、家族から褒められたことがありますか?」
ずっと疑問だった。褒め慣れているのに――というよりも頭を撫で慣れている感じがした――褒められ慣れていないところが、とても。
わたしが彼に甘い言葉を囁きかけると、プロデューサーはそっと受け取りを拒否する。差し出されたプレゼントボックスをやんわりと押し返すみたいに。その様子はまるで、どうやって受け取ったものか分からないからひとまず拒んでおく、というスタンスに感じられて。
「認められたこと、でも構いません」
沈黙に畳み掛けても、返答はない。
まじめなこの人は、提供された話についてつい考えてしまうから。私はそこにつけこんだ。あまり使いすぎると対処法を学ばれてしまうから、ここぞというときのために取っておいたのだ。そしてもう一つの隠し刀を抜いた。
「五秒以内に答えてくださらないのでしたら、わたしは……わたしの好きに解釈しますね」
瞳は遊園地を飛び越え、ビルが林立する夕景を映す。コンクリートジャングルにいるときは窮屈そうに見える夕日が、今日ばかりは意気揚々と世界を照らしている。
「いい景色ですね」と言ったけれど、プロデューサーは床を見つめていた。
心の中で秒数をきっちり数え、加えてかなりの猶予を与えた。
世界を静寂が満たしている。二人分の汗のにおいが、言葉のかわりにわたしたちを繋いでいる。
「ないんですね」
「ないわけでは……ないん、ですよ」
自社商品をまったく信じていない営業みたいな信頼。ぐらぐらの断言。もうひと押し。
「心にまったく残っていないのなら、ないのと同じではありませんか?」
「まったく残っていないのは、違います。あるにはあるんです」
「じゃあ」とわたしはプロデューサーに迫った。プロデューサーの正面に移動するとき、たいてい肩を掴んでいる気がする。今回だって。
正攻法で迫ったところで口を割らないのなら、魔法を使ってしまえばいい。観覧車に乗ってしまった時点で、プロデューサーはわたしの術中にはまっていた。
「いまだけ」
口先から言葉が迸った。
「この観覧車から降りるまでの間だけ。あなたにつきまとう過去を口にしていいんです」
もう、後半に差し掛かっている。時間ってどうしてあっという間なのだろう。人と過ごす永遠ってどうしてこんなに短いんだろう。
「わたしが許しますよ」と言って、再びとなりに座った。誰かさんの心みたいにかたい座面だった。ここで「大丈夫です」なんて言わないあたり、誰かさんの解像度が高いような気がして得意だった。でも、本当は不安で仕方がない。
「まったく心に響かなかっただけなんです」
プロデューサーはとうとう口を開いた。景色はずいぶん……狭くなってしまった。それでも私は聞いた。聞くことができた。
「ただ……ほんとうに、それだけで」
わたしは、この人になんと言葉をかけられるだろう。
「自分以外の誰にも大切にされなかった約束があって、それを抱えて歩くのは大変ですし……なにより、約束を公園の燃えるゴミに捨ててどこかへ歩いていくような人の言葉なんて、響かないですよ」
そういうのじゃない。そういうのじゃない。
プロデューサーは暗示をかけるみたいに首を振った。わたしの言葉はどうやら見当違いらしかった。
「人の言葉を素直に受け取れない自分も嫌だったし、すべてを忘れて無責任に歩く人も嫌だった。全部嫌だったけど、俺はその人たちとの約束に縋りついて生きるほかなかった」
そのほうが楽だから。
楽と忍耐と苦痛と我慢の境界線がない人なのだ、と思った。
進むならまっさらな道より険しい道がいいけれど、理解してくれる人は少ない。自分を崖際に追い込んでこそ生きている実感が湧く。
そう思わないと自分は努力できない。努力を続けたところで平均には程遠いのだから、追い込まないわけにはいかない。
砂浜ですぐに波に飲まれて消えてしまいそうな……弱々しくて歪な足取りでも、いまの生き方をやめるわけにはいかない。
いまの生き方がいまの自分を形作っているのだから、それを途中で否定してしまっては、自分のこれまでを否定することになる。
雁字搦めで身動きが取れない。
一人で撹拌し続けた思考は、ボウルの中で長い間かきまぜられた卵みたいに均一な色をしていて、でも、どれ一つとして結びつけられないほどぐちゃぐちゃになっている。
プロデューサーは、強すぎる思念に突き動かされている。
涙腺がきつく絞り上げられ、わたしはどうにか堪えようとして俯く。
プロデューサーからあふれた涙は瞳よりも大きいんじゃないかと思ってしまうほどで、それはきっと、いままで重ねてきた我慢の数なのだと思った。
出涸らしになるまで絞り取りたい。その涙でわたしの心を潤してほしい。
プロデューサーはわたしから支えられるようにして観覧車から転がり出た。
出る間際、「でも、俺にはもっと許されない罪がある」とプロデューサーは言った。ぼそっと言った。しかしついに続きを話さなかった。当たり前だ。……観覧車から出たのだから。
わたしは女子寮に戻ったあと、なんとなく空を見ていた。
窓に映る室内は女の子にあふれていて、目を凝らすとかろうじて三日月が見える。薄い雲の向こう側でぼんやりしていた。
マーブリングみたいな優しい虹色が、三日月を中心に円形に広がっている。風も、虫の鳴き声も、月すらも優しい夜に、なんて残酷な現実が振り下ろされたのだろう。
窓の鍵に手を伸ばして、冷房が効いているのだった、と思い直す。
「りんちゃん、元気でしょうか」
ローテーブルで勉強中のまりちゃんを振り返る。まりちゃんはヘッドホンを外して私を見上げた。おおかたCampus mode!!を聞いていたのだろう。
「何か言った?」
「りんちゃんのことで……一人の夜を過ごしていますから、寂しくないのでしょうか、と」
「もともとそんな感じだったでしょ。そこに私たちがまざっただけだし」
それは……その通りだけれど。でもせっかく仲直りできたというのに、いまだ別の学園にいるのだ。そういう契約だから、それを果たすまでは、と言って。心配にもなる。
安心を覚えるほどの義理堅さに思わずほほえんでしまうことと、それでもなお心配することは両立するはずだ。
心配の表情を変えないわたしを見かねて、まりちゃんは「大丈夫だよ」と言葉を重ねる。
「だって燐羽だし。約束を守り抜くのは知ってるでしょ? また戻ってきてくれる」
そんな約束したかな、と考えて、でも約束したほうに期待しようと考えを打ち切る。
「そんなに心配しなくても……ココアでも飲んだら?」
口にしてすぐ、苦り切った顔をするまりちゃん。自分が飲みたくなってしまったのだろう。
これ見よがしにマグカップに注いで対面に座ると、ぷんと横を向いてしまう。そして物欲しげな横目を向けて、頭を振り、ヘッドホンをつける。
「また何か話したいことあったら教えて」
わたしはすでに課題を終えていたので、暇なときはまりちゃんが勉強する様子を眺めた。親友に横を向いてもらうことはできたけれど、もう一人のほうはうまくいく気がしない。
わたしたちはすでにFINALを見据えて調整をしていた。精神的に不安定になりつつあると言っても、わたしはアイドルだ。だから
あとは寝るだけで、部屋の両端につけられたベッドに座る。話し足りないわたしの意図を察して、まりちゃんは「明日も早いから」とわたしと同じように膝を抱える。
誤解されやすいけれど、これは「明日も早いからもう電気消すよ」じゃなくて、「明日も早いからできるだけ早く話して寝よう」が正解。検定三級の問題。
「わたしには……負けられない理由があるんです」
あんまり長く引き止めるのも悪いと思って、すぐさま口火を切った。
「だからFINALで優勝するんです」
わたしはアイドルでしかないから。だからそれを利用してみせる。
あの人にとってのわたしは……所詮は――所詮なんてこと思いたくないけれど、仕方なく使っていると言い訳して――担当アイドルでしかないのだ。もしかすると、人として見てほしいのかもしれない。いま言いながら思った。
帰り道の車内で、わたしはとある約束をとりつけた。弱った人につけこんだと言われればそれまでだけれど、普段から強情すぎるのだし、これくらいしたって構わないはずだ。
「FINALで優勝したら……なんでも一つ、いうことを聞く」
口にしただけなのに、疼きにも似た甘い快楽が全身に流れる。プロデューサーとしてプロデュースしてもらわずとも、一緒にいられる夢みたいな関係をわたしは知っていた。
もちろんプロデュースを続けてもらうつもりだけれど。
先走る思考に慌てて蓋をする。
「自信がないんです……優勝する自信はあっても」
わたしの挑戦的なほほえみを、まりちゃんは「ふぅん」と迎え撃った。そしてため息をつく。
わたしは頑張って睨みつけたけれど、まりちゃんの「分かってないなぁ」って顔に迎え撃たれてうろたえる。やわらかなマットレスは、わたしがたじろいだのに合わせて不安定に揺れる。硬質な壁に背中を押しつけることで固定させた。
「当たり前のようにFINALで私に勝つって思ってることも癪なんだけど、その前に。もっと重要なことがあるね」
言葉が切れるまりちゃんは、そこで一度言葉を切った。
「美鈴の好きってその程度なんだ」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りだけど。そんなふうに約束を盾にしないと頑張れない程度なんだって言ってる」
「いくらまりちゃんでも、それは――」
「なに」の一言でわたしは黙らされてしまう。彼女は睨むこともなく、ただまっすぐわたしを見据えていた。
「私は悪いなんて言ってない。アイドルと恋愛のペースが違うなんてザラにあるでしょ。だから気持ちに振り回されたっていいと思う。わざわざ約束なんて」
まりちゃんはそこで言葉を打ち切り、最後には鼻で笑った。
失礼なことをされたのだと思う。でも、言い返す気力も強さもなかった。
問題を翌朝に投げつけるように、まりちゃんは「もう寝よう」と部屋の電気を落とす。布団をかける音が聞こえた。わたしたちを取り囲む暗闇が、そっくりそのまま気まずさだった。
「なんていうか……」
ものすごく言いづらいことを伝えようとするみたいに、歯切れの悪い声。
「美鈴はさ、一回ちゃんと失敗したほうがいいんじゃないの。そうじゃなきゃ分かんないこともあるよ。吹っ切れないと分かんないっていうか」
まりちゃんの勇気には敬意を払えるけど、でも、わたしはできればその痛みを知りたくない。
「おやすみなさい。ありがとうございます」
きっとわたしに背を向けて、壁と向き合うようにしてまりちゃんは眠るつもりだろう。手に取るように分かった。わたしも同じことをしていた。
心優しい親友に、最大限の賛辞と布告を。
「敵に塩を送ったら自分が負けやすくなってしまいますよ?」
「何言ってるの? 本気でもない美鈴に勝ったところで意味ないからやってるんだよ」
どうしてみんな……そんな高潔なことができるんだろう。その強さが、わたしとは違ったベクトルの強かさと打たれ強さが、とても羨ましい。