抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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二一話

 Campus mode!!を仕上げたらしい美鈴は、その日、学園を休んだ。直前のレッスンやオーディションを見る限りでは、彼女からの返信の通りと言えた。

 

『ですから、あとは英気を養おうかと』

 

 これはあくまで美鈴基準での話だけれど、彼女は今日まで十分に努力をした。他がなんと言おうとも、彼女は今日まで、彼女の歩幅で努力をしてきた。だから俺はそれ以上の立ち入りを避けた。今は進入禁止の看板を跨ぐ必要がないのだ。

 

『一週間ほどずっと休んで、本番に転んだりしませんか。そこだけが気がかりです』

『……FINALの前日に通しで一度だけ』

 

 渋々、みたいな文面だった。暗に自分の目で見て確かめろ、という圧なのだろう。美鈴は自信満々らしい。

 

 あくまでFINALはオーディションだ。負ければ大舞台でライブはできない。けれど、俺は彼女が勝つと信じて段取りを進めていた。最終確認のあとなら、かろうじて前日に時間が取れるだろう。その日にやりたいことを前倒しに進めれば確実に時間が取れる。

 

 片方には自信が。もう片方には信頼が。

 

 俺の心境は、ゴールテープが見えて最後の力を振り絞るランナーに似ていた。

 

 スマホアプリのカレンダーをいじっていると、「まだやってるのか」とノックもなしに扉が開く。ビニール袋を掲げた唯さんは、俺を見て愉快そうに笑った。

 

 

「ちょっと付き合え」なんて乱暴さで拠点に押し入った唯さんはそのまま宴会を始めた。これはきっと彼女なりの気遣いなのだろうな、と俺はすぐさま裏の事情を汲んだ。

 

「トレーナーなんて生き物はもともと面倒見がいいんだ。そういう人種じゃなきゃやっていけるわけがないだろう?」

 

 口もとに缶ビールがあるせいで、とても面倒見がいいとは思えないけれど。唯さんは断言する。彼女はそれ以上続けなかった。

「そうですね」と俺も一本目を口に運ぶ。彼女とサシで飲んで以来、打ち上げ以外ではついぞ知ることのない味だった。そもそも一人でいるときに思考を鈍らせようと思えない。

 

 唯さんの話は、キャッチボールの途中でボールがふいと透明になったようなものだ。しかし俺は空中で見えなくなったそれをしっかりと捕球した。要するに「聞いてやるから吐け」と伝えたいらしい。

 

「……チューハイとかハイボールのほうが飲みやすいって聞きましたけど」

「最初はビールだろう。それにこれから別の場所にも行くしな」

「どこか行くんですか」

「まあな」

 

 ヘビが心臓に巻きついたような感触は、おそらく間違っていない。これは俺も連行される流れだ。

「どこですか」と腰を上げた俺に、唯さんは「まあ待て」と手を掲げる。

 

「最初はここだ。そう焦るな」

「……焦っては、いないんですけどね」

「私からすれば急いでいるがな。生きることに」

 

 俺は仕方なく安物のパイプ椅子に引き戻されてあげた。

 

「考えをまとめる時間くらいはくれてやる」

 

 ビニール袋の中には六缶パックの他に、さきいかやドライソーセージなどが入っていた。唯さんはそれを満足気に取り出すのだった。そして糸でぐるぐる巻きにされた獲物を眺めるクモのような、陰湿で、大人びた微笑を浮かべた。

 俺には、狐の嫁入りとよく似た、爽快と不快とが一挙に押し寄せた。

 

 

 美鈴の心の矢印は全体に向いている、というのが俺の考えだった。

 

 相手の行動を制限せずに、自分の魅力一本ですべての欲求を書き換えたい。そんな欲求には相手を鎖で繋ごうとする意思がない。相手は相手の意志で、鎖に繋がれることを志願する。

 それが美鈴の傲慢の裏にあるものだと俺は考えた。そしてそれは、彼女から世界全体へ向けて発されるエネルギーだった。

 

 

 一方で、俺に芽生えた欲求は異なっていた。

 

 前もって伝えておきたいのは、これは俺に芽生えた傲慢の裏を考えた結果だ、ということで――。

 

「私相手に弁解を繰り返したところで、太刀筋が鈍ると思っているのか? お前は」

 

 唯さんはいつの間にか机を片づけていた。そして頬杖をついていた。

 余裕たっぷりの笑みに、俺はため息をつくことしかできない。

 

「それなら、もっととっ散らかったことを話しますよ」

 

 自分のふてくされた口調ってこんなに気持ち悪く脳を揺さぶるのだな、と頭の冷静な部分が呟く。これは俺にできる最大限の脅しだった。他人の見苦しいところなど可能なら見たくないはずだ。

 しかしその考えは、笑みを深めた唯さんの「言ったな?」という言葉のもとに斬り伏せられた。

 

 二缶目を勢いよく開けた俺に、唯さんは「食べながら飲め」とさきいかの袋を差し出す。

 

「……しょっぱいです」

「秦谷の料理よりもか」

「そりゃまぁ。……美鈴さんの料理ってかなり薄目ですから」

 

 俺は、もう限界だからどうにか手を引こうと――たとえそれが後ずさりのような、後ろ髪を引かれる別れだとしても――考える一方で、彼女に添う方法も考えようとしていた。

 だが……できない。俺は自分が甘えを抑制することができないと踏んだ。際限のない甘えは、一種の攻撃だと思う。

 

 考え続けたすえに、逃れようのないドツボからヘドロが吹き出したのだ。

 

 すなわち俺の傲慢さは、個人に向くようにできているのだ、と。

 

「個人に?」

「えぇ」と俺はうなだれた。

 

 隠し事や罪を告白するとき、最初の一口がどうにも重いけれど、その点を乗り越えたらあとは坂を下るように自然と話すことができるようになる。俺の胸には、自然の流れに身を委ねる安堵が広がりつつあった。

 

「内側に向く、と言い換えても差し支えありません。特定の人の心を、自分にだけ向くように制限させたいんです」

「それは……」

 

 唯さんは珍しく、慎重に言葉を選んだ。野生動物が火を見るような怯えと好奇心には、下卑たところなどないように思われた。

 

「支配欲、じゃないのか……?」

「そう言われるのが嫌だったんですよ。だから言わなかった」

 

 支配なんて。人がしていいものではないと思う。支配された側は当然苦しむだろうけれど、外部から与えられる苦しみは、決して人生ではない。ましてや生きる意味でもない。俺はその苦しみを他人に与えたくなかった。

 この苦悩が、俺をさらに苦しめた。

 

「相手の気持ちを無視して、俺は鎖を繋ぎたがっているんです。そんなの許されていいことじゃない」

 

 これが俺のすべてだった。そして、美鈴には到底こんなこと話せない。やりきって離れるか、それとも苦しめ抜くかの二択だ。であれば当然離れるし、美鈴に話すことで解決策を模索しようとも思わない。

 

 俺の欲求が美鈴から断られるのが怖いわけではない。

 俺は、俺がその欲求を口にしたとき、美鈴からくだされる評価に怯えているのだ。口にしたら最後、元の形には戻れないから。

 

 

「あなたを傷つけることを話してもいいですか」と俺は不意に顔を上げた。

 唯さんはまったく酔っていない顔のまま「ん?」と片眉を上げてみせる。

 

 見つめ合ったまま、しばらく黙っていた。虫の声のおかげで気まずさはなかった。

 

「さっさと吐け」

 

 唯さんはくしゃっと笑った。そして空っぽになった二缶目をからからと振った。

 

 俺は……人を傷つけると分かった上でその発言をする自分を許せるだろうか。でも、唯さんにじゃないと言えない。善性も醜悪さもさらけ出せる相手と出会えたことは、とても幸福なことだった。

 

 

 唯さんは俺の中で、美鈴ほどは優先順位の高い相手ではないから、距離感が近すぎる人に抱く申しわけなさを抱かないのだと思う。

 

 

 人は全員に気を遣うことができない。だから、この人にはそれなりに気を遣って、この人のことは絶対に傷つけたくなくて、この人のことはどうでもいい――といった、無自覚の選別をしている。

 無自覚の選別に意識が向いた俺は、唯さんの立ち位置に気がついたとき、胸が塞がる思いがした。

 

「俺は……唯さんのことを一番に置けないんだなって」

 

 自分から突き放しておきながら何を、と言われるかもしれないけれど、失恋にも似た痛みがあった。

 

 俺が失恋というワードを口にした途端、唯さんは大声で笑った。その残響が消えぬうちに俺の頭を抱いて、小さく「ありがとう」と言った。

 俺は唯さんの意図が分からなかった。疑問を口にしようとしてもくぐもった声しか出せず、しまいには唯さんから「くすぐったいだろ馬鹿」と叱られた。

 

 このときの唯さんには、蝋燭の火みたいな頼りなさと、立派な大人みたいな頑強さとがあった。

 

 

 俺の手を引いて学園を飛び出した唯さんは、「二○分くらい散歩に付き合え」と命令した。唯さんの口ぶりから察するに、目的の店は彼女の行きつけらしかった。

 唯さんの行きつけという響きから、俺はそこが賑やかな大衆居酒屋か個人居酒屋のどちらかであると踏んだ。

 

「なんだそれは」と唯さんは不服そうだったけれど、同時に愉快そうでもあって。

「いずれにせよ賑やかな場所な感じがします」と俺はごまかした。

 

 夜風に当たりながら、唯さんは出し抜けに「私からもいいか?」と告白した。

 

「……美鈴のライブが終わったあとから、ずっと考えていたんだ」

 

 俺がいいと言う前に、唯さんは口を開く。俺の手首を掴んでいた手がするりと移動して、絡まる。唯さんは恋人繋ぎをした。手はこわばっていた。

 

「私には分からないことだから、教えてほしいんだが……。一度成功したあとの、二度目の成功への重圧が苦手なんだろう? その……恐怖、みたいなものに抗う苦しみは、お前にとっての生きることじゃないのか?」

「苦しければいいってものではないんです」

 

 そう言って、俺はまたためらった。唯さんは目ざとく見つけて、ぎゅっと手を握った。

 

「もうこの際だ。話せ。なんでもさらけ出せるだろ」

 

 俺はゆっくりと、自分の中に沈殿した汚泥をすくい取った。

 

「苦痛には……二種類あるんですよ」

 

 期待と重圧とによってもたらされる苦痛や、その恐怖に伴う苦痛。

 自分を内側に張り詰めさせて、どんどん追い込むことに伴う苦痛。

 

 名称は同じでも中身が違う。外側(他人)からもたらされるか、自分一人だけで自由自在に傷つけるのか。俺は後者を好んだ。

 

 唯さんは呆れ返って「お前はわがままだな」と呟いた。

 

 外側から徐々に削られていくような苦痛より、内側から自壊していく苦痛のほうがいい。なぜならそれは、幼少期を支えてくれた生き方だから。

 

 苦痛に他人を介在させてはならない。

 

 他人が間に入ったら鈍くなってしまうし、相手だって苦しめてしまう。それに俺は相手の人生を苦しめていいだけの価値のある人間ではない。この境遇を呪うつもりはなかった。俺は自分の無価値を受け止めて、抱きしめて、歩くことを決めている。

 再起が望めない老齢の樹木だろうが、地に足のついた巨大な樹木でいたい。

 

 

 一方で、俺は美鈴のプロデュースを通して自分の限界にも気づきつつあった。このまま美鈴のプロデュースを続けては、俺が耐えうる負荷を超えてしまう恐れがあったのだった。

 

「やめられるのなら、やめたいのか」

「だって……。このままじゃ、美鈴さんに迷惑をかけてしまうから。というか今もうすでに……」

 

 唯さんは地鳴りのようなため息をついて、「今だけだからな」と腕を組んだ。生きている人はこんなにもあたたかいのだ、と命の灯火を分けてもらっている気がした。

 

「人間関係は……日々微細に動いていく。互助的だろうが、違かろうが。お前はその微細さを煩わしいと感じるたちだろう。お前の言った外側にはきっとそういうものも含まれているはずだ。だったらどうにもならないぞ。もう人里におりてくるな」

 

 話の内容に反して、唯さんの口調は穏やかだった。やがて赤提灯が見えてきて、「すでに人がいるだろうから、続きはまた今度だな」と唯さんは離れた。彼女のぬくもりが恋しかった。心なしか美鈴よりもあたたかく感じられたからだった。

 

「いい大人というものはな、さっきの私みたいに、適切な場面で相談したり質問したりできる人を指すんだぞ」

 

 唯さんは言い聞かせるように言って、店へと分け入った。

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