抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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☆二二話

 飲み会は胃がすり切れるもの、という先入観があったのだろう。俊は気遣いのいらない飲み会は初めてらしく、唯の目から見て明らかに挙動不審だった。昔テレビで見た、虐待されていた動物が保護施設に入れられた様子を思い出すほどだった。

 

 

 唯の知る限り、俊の交友は極めて狭い。同期会などと題されたプロデューサー科の集まりが掲示板に貼られていても、その前を通り過ぎる俊は目もくれなかった。それを疑問に思って聞いたことがあるのだが、打ち上げのときはつき合いで少しだけ参加するのが通例らしい。

 

「別に不評ってわけではないんですけど、ちょっとビジネスライクすぎるというか。話してみると面白いし、責任感のある人なんだってのは分かるんですけどね……地盤が築かれてなくて」

 

 というのは麗の談だ。とはいえ彼女が俊のことを悪く思っていることはなさそうだった。

 

 

「トレーナーの間で話題になっているのよ~。手毬ちゃんと美鈴ちゃんのどっちが優勝するのかしら! って!」

 

 突如として愛美が唯の思考を踏み荒らす。

 声のしたほうを見れば、せっかく俊のとなりを陣取ったというのに、いつの間にか彼はテーブルの対面へと連行されており。

 

「手毬ちゃんが優勝するでしょって意見ももちろんあるんだけど、私たちは――」

 

 愛美はそこで声を切った。そして優歌と酔いを隠しきれない緩んだ笑みを交わし、「そういうことよ」と俊に笑いかける。

 ほぼ断言しているようなものだが、フラットな立場で教えたいという矜持が彼女から続きを奪い去ったのだろう。

 

 これはあくまで贔屓目なしで実力を評価したときに天秤がどちらに傾くかという話なのであって、公言しても問題ないと唯は思ったが、結局見守ることにした。ビールを口に含み、最後の一つになった唐揚げに箸を伸ばす。飲みこんで肉汁までしっかり味わったあと大皿をテーブル端に寄せた。

 愛美は声を落として「そもそも」と話を変える。

 

「初星の二人がFINALを独占している時点で、100(じゅうおう)プロの一人勝ちなのよね」

 

 俊は目で愛美に問いかけた。

 

「だってほら、いくらデビュー前の子たちとはいえ、同じ学園の二人がトップ争いをしているってことでしょ? それはつまり確かな指導力と実力を持った人材が揃っているってこと。これからに期待できるわ」

 

「確かにそうですね」と相槌を打つ俊は全体的にこわばっていたし、どこか無理をして話を合わせていそうだった。

 

「来年度の新入生はきっと多いし、人の数が多いってことは当然、才能のある子だって多い。そういう意味で……一人勝ち」

 

 愛美の口調は音符がつきそうなほど弾んでいた。自分の手でたくさんの生徒を育てられる喜びが表情にも滲んでいたが、欲望が叶うことに気持ちがいきすぎているのか、悪巧みの成功を祝っているように見える。

 自分のレッスンを受けた生徒が脚光を浴びるのは唯とて嬉しかったし、プロデューサーとは別の視点から宝石を磨けることも、唯がこの仕事を続ける理由の一つだった。

 

「人員の拡充が図られるかもしれませんしね」

「ちょっとは仕事が減るのかしら~。そしたらこんなふうに集まりやすくなるわね!」

 

 酒臭い二人に両どなりを占領された俊は顔を引きつらせ、視線だけをさまよわせて停止していた。よく見るとほとんど食事をとっていないのではなかろうか。目が合った気がして、唯は仕方なしに立ち上がった。

 

「そういうわけだから、もうすでにうち(100プロ)は勝ってる」

 

 俊の背後に立ち、くしゃっと頭を撫でてやる。唯とは髪質が違っていて、男の髪なんだな、と思う。

 美鈴が背伸びをして頭を撫でている様子はこれまで何度も見てきた。立って話すときは見おろされるし、座っているときも同じくらいの目線なので、つむじまで見えるのは新鮮だった。

 

「気負うなって話なんだが……やれるだけやってこい」

 

 

 やっと戸惑いと緊張が解れてきただろうかというころ、俊は帰る決心をした。飲み始めて一時間が彼の思うほどほどらしい。

 唯がスマホを伏せると、すぐに愛美は「なんて言ってる~?」と楽しげな声を出す。

 

「別に連絡が来たわけじゃない。時間を見ただけだ」

「あらそうなの? てっきり何か話しているものだと思っていたわ~」

「……あいつは返信までに時間がかかるやつなんだ」

 

「ふぅん」と「あらぁ」とが重なって、唯は顔が熱くなった。声音もそうだが、二人の顔がよくない。獲物をいたぶる肉食獣のそれなのだ。

 

 言わなければよかったと後悔するのもつかの間、愛美が「あんまり飲ませたつもりはないけど、本当に大丈夫かしら?」とまじめに切り出す。

 手に収まるお猪口には、上品な大きさの器とは裏腹になみなみと日本酒が注がれている。

 送りたいならいいわよ、と暗に言っているのだ。唯は首を振って答えた。

 

「大丈夫だろう。下戸ではないからな」

 

 ふらふら家に帰って……おそらくそのまま倒れ込むようにして寝る。推測を語ると、愛美と優歌は意外そうに眉を上げた。

 

「ずいぶんと詳しいのね?」

「まるで一緒に飲んだことがあるような口ぶりですね」

「しかも家まで送っちゃって!」

 

 高さの違う声の連撃。二人は揃ってテーブルに手をつき、身を乗り出す。

 

「え~意外です。俊さんってあまりそういった席に参加しているイメージがありませんし……ましてや送ってもらうくらい飲むなんてぇ……」

「今日みたいなイメージよね~。ちょっと何があったのよ唯ちゃん!」

 

 年甲斐もなく――あるいは年相応なのか? きゃっきゃ騒ぐ二人に呆れの視線を返し、唯は手を振る。蚊でも追い払うような仕草だったが、あいにく二人は蚊ではなかった。

 

「そんなことしなくたっていいじゃない! お姉さん……相談に乗るわよ?」

「私も聞きたいです! お二人と違って浮ついた話もありませんし……」

「おい! 私は浮ついてないぞ!」

 

 反論を強めれば、「またまたぁ」とにやにやが向けられる。酔った人間にとっては、睨みなど子猫の威嚇にしか感じられないのだろう。

 

 尻を浮かせていた唯は座布団に座り直した。

 

「……あれは違う。そういう感情じゃない」

 

 静かに語り始めると、二人も唯にならって腰を落ち着ける。濃密な霧がいきなり発生したみたいに、大人の飲みが始まった気配がした。

 

 壁を隔てた先では、いくつかの宴会が催されていた。しかし店内の喧騒は霧を突き破るだけの力がなく、小さな和室には、薄いベールを通ったような遠鳴りが届くばかり。

 先ほどまで自分たちもあんな感じだったのだな、と唯は思う。そのときに浮かべていた笑顔はシャボン玉みたいに夜空に飛んでいって、弾けてしまった。

 

 愛美はお猪口を一息に煽って、憂いのある瞳で中空を見やる。彼女が一番大人だった。人生のいろいろを経験しており、こんなときにも率先して口を開いてくれる。

 

「そうやって選別しすぎたら……いつか本当の恋とか愛とかまで捨てちゃうんじゃないかしら」

「だがあいつには……相手がいるだろう」

 

「だから駄目だ」と続けた唯の口調は苦しげだった。

 それきり唇を引き結んだ唯の顔を、愛美は「そうね~」と見つめた。

 

「世間的に見たら、駄目かもしれないわね」

「私たちが生きている場所はどこだ。野生動物ではないんだぞ」

「でも奪うのだって立派な手段なのよ? 彼自身まだ揺れているのは見て分かるじゃない。そのうちにかっ攫うのだって罪ではないわ」

「罪では、な。罪の範囲は狭すぎるが、悪の範囲は広いものだ」

 

 愛美は「まったく頑固ね~」とお猪口を持ち上げ、中身がないのを思い出したらしく酒瓶へと手を伸ばす。一足先に動いてくれた優歌に礼を言い、日本酒を味わった。

 

「そうして優しさと優柔不断をこじらせたら、未亡人と間違われるようになるわ」

 

 対面の唯を見据える愛美は、真剣そのものだった。いつも大げさなくらいに表情を変えて場の空気を和ませてくれる彼女は、この場においても空気を牛耳っている。

 

「唯さんもどうぞ」

 

 優歌の注いでくれた日本酒を口もとに持っていったのは、ひとえに視線を遮るためだった。威厳さえ感じられる目の前の女王は、本当に自分の知るビジュアルトレーナーなのだろうか。スイッチ一つで人格が入れ替わるみたいで不気味だった。

 

「私から見て……美鈴ちゃんは子どもっぽくて、俊ちゃんはどっちつかずで、あなたは大人すぎるわ」

「俊がもう少しどちらかに偏っていればこんな話はしなくて済んだわけか」

「か、あるいは……唯ちゃんが子どもっぽくなるかね。そうすれば今ごろロマンスのまっただなかにいたんじゃない?」

 

 そんなことを言われても。唯はお猪口を運んだ。ちびちび飲んでいたはずがあっという間に空になってしまい、優歌がすかさず瓶を傾ける。

 

「私の恋愛観を話してもいいかしら?」と愛美は言った。

「ぜひぜひ」と優歌が手を合わせる。「唯さんもじゃんじゃん聞いたらどうですか? 私もたくさん教えてもらいます」

 

 にこ、と。あえて軽く振る舞うお調子者の生徒みたいだった。腰を浮かせて大皿料理を取り分け始めた優歌に、唯は「そうだな」と相槌を打った。

 

「恋人って育成ゲームみたいなものじゃない?」が講義の冒頭だった。訝しむ二人をよそに、愛美は笑みを浮かべて話を続ける。

 

「最初から完璧な子なんているわけがないんだから、私たちはそこから人を育てる。レッスンみたいにね。恋愛も同じで、育てがいのある異性を――特に、誰の息もかかっていない異性を――自分好みに育てるって思っておけば楽勝じゃない? そこから新しい学びを得ることだってあるし、そうすれば自分の成長にも繋がるかもしれないわね」

 

 でもそれは、自分がある程度の経験を積んでいるからこそできる意見だ。自分は愛美と違い、さほど恋愛に習熟しているわけではない。

 喉もとまでせり上がった言葉を濾過して、唯は愛美に伝えた。愛美は「当たり前よ~」と手の一振りで笑い飛ばした。

 

「私だって最初は無理だったもの。でもそれならこうも考えられるわ。相手好みの色になれるって。自分が相手を好みに育てていくのなら、逆もまた然り。その過程まで楽しんじゃえばいいわ。あぁ、私は今、相手の好みに調教されているんだぁ……って。なんだかぞくぞくしない?」

 

「わぁ」と口もとを覆ったのは優歌だった。彼女は愛美と同様、酒を飲んでも頬が赤くならないが、今ばかりは紅葉を散らしている。

 

 だが、自分は。

 唯は奥歯を噛んだ。口を開けば逆説の接続語ばかりがあふれ出てきそうで、こらえるほかない。せっかく愛美が厚意で話してくれているのだ。無下にしたくなかった。

 

 まずやってみること。口は二の次――なんて生徒に教えているくせに、ほとほと呆れてしまう。

 

 そんな唯の内心を見透かしたように、愛美は「みんな、慣れないことには二の足を踏んでしまうものよ」とほほえむ。

 

「あなたは少し、対等な人間関係を意識しすぎてはいないかしら。もちろん恋愛関係は一対の大人が結んだ関係ではあるけれど、そこには愛があるのだから、多少の不平等だってあってもいいはずよ。その代わりに自分も相手の不平等な部分を受け止めないといけないけどね。こう考えたらある意味では対等な人間関係と言えるわね」

 

 唯の中で、対等な人間関係とは、踏み込みすぎないことと言えた。相手の内情に深く入り込みすぎると、自分と相手との間にある天秤がどうしても傾いてしまう。自分はあまり内情を話さない人間だから。

 その不均衡が嫌で、唯はこれまで一定の距離感を保った寄り添い方をしていた――はずだった。

 

 親身ではあるけれど、相手の問題を解決しようと動くことはない。考えを整理する手伝いくらいはするだろうか。踏み込むことは動的な優しさで、見守ることは静的な優しさだ。どちらが心地よいかはその人次第。

 

 どうやらそれは愛美に筒抜けなようだった。

 

「私たちの中では一番バランスがいいとも言えるけど、無理に全員に対してバランスをよくする必要はないじゃない? 生徒にはこれまで通り接して、俊ちゃんにはちょっとだけ見せてあげるとか。やりようはいくらでもあるわ。それで頼りがいのある男にしちゃえばいいわ」

 

「今も十分シゴデキだけどね」と愛美は茶化すように笑った。

 唯は愛美の明るい顔をじっと見つめた。

 

「私は……そんなに器用じゃない」

「だったら不器用にやりなさい」

 

 ぴしゃりと言い放たれ、目を丸める。

 

「器用じゃないことを言い訳にするのは、足があるのに歩かないのと同じなのよ」

 

 唯は不意に、「私は」と声を震わせた。今までその気持ちに蓋をしていただけで、愛美への反発で蓋が開いたのだ。

 

「一番にはなれないんだ……!」

 

 歩きたくない理由を、本当は誰かに聞いてほしいのかもしれなかった。

 俊の告白は間違いなく唯を傷つけた。唯はそれでもいいと思っていたけれど、本当なら、もちろん家に住む権利が欲しかった。でも、それは月を欲するようなものだから。

 

「一番になれないのなら……自分のせいで、自分のいいと思っていたやつが中途半端な気持ちを抱くのなら、何も言わないことが美徳だろう……!」

「美しいだけじゃ生きられないわよ」

「そんなの分かっている!」

 

 意図せず声が荒くなった。愛美を睨みつけても彼女は動じなかった。真剣に見つめ返され、唯のほうがたじろいでしまう。

 拳も声も震えていた。

 

「俊も秦谷も……美しいまま生きようとしているんだ。だったら私だって、美しいままでいようと思ってもいいだろう……? 意地汚く勝って、それからどうするんだ。暗黒な一点をずっと抱えてどうするんだ」

 

 唯はがっくりとうなだれ、弱々しく頭を振った。

 気がつけば唯のとなりに座っていた優歌が、そっと背中を撫でる。そして店員に小声でお冷を頼んだ。

 時が止まったみたいに唯は涙を流さなかったし、空気は張り詰めていた。

 

 沈黙を開いたのは優歌が刺し身を取り分ける音で、ちょうどタイミングよくお冷が届く。

 

「恋愛って難しいですね」

 

 まるで花の絨毯でも歩くみたいにふわっとした口調。優歌の一言で、黙る唯を除いた雑談が始まる。思い切り走ったあとに軽く歩いて呼吸を整えるような心遣いなのだろう、と唯は思った。

 

 

『すみません……風呂入ってて。いま大丈夫ですか?』

「……ああ。悪いな。こんな時間に」

 

 重い気分を引きずったまま、唯は社宅に引き上げた。そのまま手が動くままに俊へ通話をかけたのだが、あいにく彼は出ず。折り返しが来たところだった。

 俊と通話をしたのは初めてだった。いつもは文面だけでのやり取りだし、何かあれば直接顔を合わせる。

 

『いえ、かけたのは俺ですよ』

 

 耳もとから聞こえる声は、唯の重苦しいトーンを察してか普段以上に落ち着いていた。ベッドで横になっているのも相まって、安心の波が理性の防波堤を一瞬で崩してしまう。

 

『何かあったんですか?』

「いや……その、だな」

 

 声が聞きたくなった。

 そんなこと言えるわけない。彼氏でもない男に。いま口を開いたら重々しいため息がこぼれてしまいそうで、唯はじっと我慢した。最近ため息ばかりだ。

 

 俊は無理に急かすことなく、通話口で黙っていてくれる。

 

「緊急の用事とかではないんだ……だから、そう畏まらなくてもいい」

『どちらかというと唯さんのほうが緊張してませんか』

「……わるい」

『どうしたんですか、本当に』

 

 俊から心配の言葉をかけられたのも、思えば初めてだった。弱ったときに聞く俊の言葉は、効く。鍵とかパスコードとかを度外視して、心臓に染みてくる感じがする。どれだけ扉をかたく閉ざそうとも無条件に自分は負けるのだ、と唯は抵抗を諦めた。降伏しても不快の念はわかなくて、むしろ甘い心地よさが脳を痺れさせた。

 

「少し……声を聞きたかったんだ」

『珍しいですね』

「……明日は槍が降るかもな」

『レッスンは中止になりますね』

「それは駄目だな。せっかくの時間を無駄にはできん」

『どっちなんですかまったく』

 

 多少落ち着いてくると、今度は愛美の語った話が影を落とした。優歌に対して、愛美は「そもそも何をもって好きとしているのかって人それぞれなのよね」と語って聞かせた。

 

 

 結婚している他人同士(夫婦)が何をもって一緒にいたいと考えているのか、唯は考えたことがない。そんなものは結婚しているからで、互いに好いているから結婚するのだと考えていた。

 

 だが愛美は唯の考えにやんわりと首を振る。

 

「性的な魅力、人としての魅力、感性の魅力、見ている世界への興味。いっぱいあるのよ? それに、その好きは必ずしも結婚(・・)という束縛(・・)で実現されなければならないの? 他の実現方法はないのかしら? それを二人で話して、模索することはできないのかしら?」

 

 耳が痛い話だった。もっと向き合えばいいのに――俊と美鈴に思っていたことを、そっくりそのままぶつけられた。当事者になってみると無理難題なのがよく分かる。

 

「たとえ俊ちゃんが籍を入れたとしても、相手が納得していれば、たまには街に出てもいいのよ」

 

 なんて愛美は口にしたけれど。

 

 できるか。不倫まがいの行為なんて。俊の奥さんがかわいそうだ。それに、自分が思いを寄せる人間がそんな輩であってほしくない。

 

(どうしようもなくないか……?)

 

 吐息が天井にぶつけられた。

 

「唯ちゃんが納得する形で締めくくる必要があるわ。たとえどんな結末になったとしても。恋ってとーっても拗ねやすくて、一つ扱いを間違えただけで嫉妬に変わったり、恨みに変わっちゃうから」

 

 諦めることも、人生経験の一つか。

 

 

 心の中でぼやいたとき、ふと俊のことを思い出した。先ほどからまったく物音がしない。まさか寝ているのだろうか。

 

「お前は今」ずっと考え込んでいたせいで、からからに乾いた声が出た。唾を飲みこんでから再度声を出す。「何をやっているんだ。ずっと黙って」

 

 まさか寝ているのか。そうだったらどうしよう。疑念が期待に変わる。

 

 ほんの少しの間を置いて――とはいえ期待が膨らむには十分すぎる刹那だった――遠くから『ファイルを見ていました』と返答がある。なんだ、と落胆しかけて、唯は一人ベッドの上でぶんぶんと首を振る。ぺちぺち当たった横髪が現実の痛みを教えてくれた。

 

「お前……まだ作業か……? まあ、そうだよな。近いからな」

『はい。ここが正念場なんです』

「お前はいつも正念場だろう」

 

 ちょっとの沈黙に不安が募った。

 

「集中できないなら、別に切ってもいいぞ。邪魔なら邪魔と言われたほうが楽だからな」

『俺は……邪魔なんて。絶対に言いませんよ。誰にも言いません』

 

 わずかな間に詰め込まれた逡巡には立入禁止の看板が立てられ、鉄柵と有刺鉄線で補強されていた。到底質問できる空気ではない。

 今日の沈黙は凶暴だった。

 

『今日の唯さんはしおらしくて……なんだか――』

「なんだか……なんだ?」

『いえ。なんでもありません』

 

 そのまま特別な言葉を交わすことなく、唯と俊はおやすみを交わした。

 

 表記された通話時間を噛みしめるように眺めた唯は、トーク一覧へと戻り、トレーナー三人のグループラインに謝罪を入れる。それから俊とのトーク履歴を開いて、数分眺めていた。

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