原作では『H.I.F優勝 → 学園長から授与される〝一番星〟の称号』です。N.I.A優勝はN.I.A優勝で、学園長などから特別な称号を授与される、などといったことはありません。しかし物語の本筋とはあまり関係ない部分と自分は考えたため、そのまま進行します。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
「まずは……ライブを。段取りは整っていますから」
オーディションを突破した高揚のためか、俺と美鈴の間に立ち込めた霧は、わずかな間だけでも晴れたらしい。彼女の見据える先ははるか彼方の天空で、けれど、俺はそれを地べたから見上げることしかできない人間なのだ。
あまりにも太陽が近すぎたら、あくびによって生まれた涙は乾いてしまう。まばゆさによって眠気だって吹き飛んでしまう。俺は高みで昼寝できない。高所から見下ろそうとも思えない。
彼女の優勝は、俺の決心をより強固にしただけだった。
○
ライトアップを今かいまかと待ち焦がれる小さな灯火。照明の落とされた会場には、無数のペンライトの光だけがあった。推しを推す彼ら彼女らの胸には、秦谷美鈴だけが刻まれている。
その光の海では、自分だアイドルだと考えることなく、太陽を目で追うだけの存在になれるのだろうか。そうして忘れて見失って、何が残るというのだろう。
イントロ少なくいきなり駆け出すような曲が始まった瞬間、どっと会場が鼓動した。曲に合わせて光が踊り、反響が重なり合っていつまでも心を離さない。
夢に見ていた光景は、突風のような衝撃とともにやってきた。
頬を耳へと抜けていく風の中、俺は一人で立ち尽くしている。周囲には、誰もいないのだ。
「――」
俺は、一人の女性の名を口にした。爆音によってかき消されたけれど、むしろそれでよかったのかもしれない。あまりにも浮気症すぎた呟きだったからだ。
でも、現実はいつだって夢を黒く塗りつぶす。
俺の家族は……星のない夜空を空と認めなかった。気持ちは分かる。地面に足をつけて歩いたほうがよっぽど堅実なのだから。それが普通の人の定めなのだから。
子どものころ特別だったはずの自分は、塵に汚れるにつれ普通へと成り下がっていく。ワイプで抜かれた彼女は……塵に汚れながらもアイドルを目指した異端児にすぎない。
これで心置きなく辞められるなぁ。
画面ではなく、カートの上で踊る彼女をわざわざ見ながら、思った。口にした。
美鈴も麗さんも納得させることができなかったけれど、デビューした生徒ということで三組に替えてもらい、事務所と専属契約を結んでもらえばいいだろう。そうすれば俺よりもいい人がつくはずだ。
○
撤収し、打ち上げを疲れているからと断り、後日お礼参りをする旨を伝える。
ライブ会場を出てすぐ、美鈴は「それで」と切り出した。関係者の声が夜に紛れて聞こえてくる中、彼女はまっすぐ俺を見上げる。
「お願いを……聞いてください」
漫画だったら見開き二ページをでかでかと使うような別れは、案外あっさり訪れた。真夏の夜風は蒸し暑さを孕んでいて、服の隙間から体に染み込んで気持ちが悪い。
「まずは二人で……慰労会をしませんか。互いに、これまで全力を尽くしてきたましたから」
俺は彼女をあらかじめ予約していた店に案内した。美鈴は処刑を前にした善良な王妃のように怖気づいていたけれど、やがて重々しい一歩を踏み出して車に乗った。
懐石料理を前にしてかたまる彼女に、やわらかく「そこまで畏まらなくても。経験と思ってください」と言う。せめてもの
厳格なルールに従うつもりはなく、例外的にお造りや主食の寿司を除いてすべて先につけてもらっていた。スタッフの出入りを最小限に留めたほうが話に合っていると思った。
「もし何かあればこちらからお伝えします」
最後に寿司を持ってきたスタッフに伝えると、和室は閉ざされる。冷房の心地よさと畳の香りとが無条件に安心を誘う。
目の前に整然と並んだ料理の軍隊は彩り豊かで、新鮮で、見るからに高そうで……それでも食欲はそそられなかった。たった一人で戦争に挑むみたいに、心はこれからの出来事を恐れている。
とりあえず利休箸を取る。小鉢に入った野菜は、ひたすらに冷たい。
気まずさをごまかすように「三組に移籍するなどは」と口走り、箸を止めた。それから「美鈴さんの話がメインでしたね」と言い直す。
黙々と、そしてゆっくりと。呪いにでもかかった人みたいに動いた美鈴は、ほんの少しだけ食事を進めてから、やっと口を開く。
「分かっているはずです。わたしのプロデューサーなのですから」
別れ話をする男女のようだった。熱々のうちに店を予約して、そして時期が来るころにはすっかり冷え切っていて。俺と美鈴を取り囲む諦念がそのように感じさせるのだろう。
「できませんよ」
美鈴は俯き、「はい」と言った。彼女が再び口を開いたのは、それからしばらく経ったあとのことだった。
「どうして……ですか?」
「ご説明しました」
俺の言葉に、美鈴は再度「はい」とうなだれる。美鈴が自分の意思で食事を口に運んでも、箸はしばらく中空で停止して、彼女はまるでその意思を拒むように唇を噛む。
今、彼女の胸は俺で満ちているのだろうか。
支配欲と自分で定義し、唯さんからも指摘された欲を思う。俺もまた唇を噛んでいた。だって……自分を認めてくれた人は、自分だけのものじゃないと嫌だろう。
抗いがたい欲に苦しむことも、俺の求める道なのかもしれない。はたして本当に? 美鈴と一緒にいたいから自分で新たに道を制定しただけではないのだろうか。迷いに右往左往して、あげく立ち往生することが自分の生き方なのか、俺は判じかねた。
「どうして」と美鈴は叫んだ。苦悶に表情が歪んでも、美貌は決して崩れなかった。
「言うことを聞くと約束したのに……! わたしにはあなたしかいないのに」
魚の脂が舌で溶けた。噛むと言うよりも舌と上顎で押し潰すような動作で刺し身が小さくなる。できるだけ厳かになるように時間を置いて返答した。
「以前お伝えしたとおりですよ」
「どうしていまになって、以前お伝えした通りの一点張りなんですか」
張り詰めた弦のように一本調子な声と、尻すぼみになる声。
俺はじっと美鈴を見つめた。彼女も見つめ返した。二人揃って、瞳の中に言葉が浮かんでくるものと思っている。あるいは、瞳の中に映った世界に答えがあるものを思っている。答えは胸にしかないのに。
「感情ってたくさんあるべきだと思うんです」
出し抜けの言葉。美鈴はわずかに眉を上げた。
「複雑な感情をかんたんな名前に落とし込んだら、他のものが落ちてしまう気がするんです。かんたんな名前に集約されなかった部分、というか」
ありありとした戸惑いを浮かべる美鈴は素直だと思う。白無垢な彼女に黒いインクを落とすことはきっと違うし、首輪をはめるのも論外だ。
「そうかもしれません」と美鈴は力なく笑う。「そんなに多くのものを持っていたら大変だから、名前をつけてかんたんにして、落とす。いずれ落としたことすらも忘れてしまう。でも……」と美鈴は刺し身を醤油に泳がせた。手で受け皿を作って口に運び、じっくり味わう。
「生きていたら、落とした不純物をまた拾うことだってあります。今度はその不純物に名前をつけて、また別の……漏れた何かを落とすんです。型抜きみたいに。そうしてどんどん、自分の中にあるクッキーの形を増やすんです」
それを繰り返すことが、生きることなのだと言う。
「……プロデューサーの部屋、汚いじゃないですか」
先ほど俺が意味の分からないことを言ったせいか、美鈴は意趣返しとばかりに意地悪く笑う。
「荷物でごった返しているんです。これは片付けの基本ですけど……小分けにして、数日に一回捨てることを選ぶ、ですよ。そのほうが部屋を綺麗に保てるんです。あれもこれもと取っておくことや、複雑であることは、正義ではありません」
「……それがきっと、賢い生き方なんですよね」
でも、賢く生きることで自分の信念を見失うくらいなら、一生愚かなままでいい。へたくそなままで構わない。
俺がそれを口にする前に、美鈴は仕方なさそうに笑った。
「上手に生きる人よりも、わたしはきっと、そんな人に心惹かれるのでしょうね」
帰りの車内で、美鈴は「わたしだって」と漏らすように呟いた。バックミラー越しの彼女は自分のつま先を見ていた。美鈴はあれからずっと黙り込んでいたけれど、それは決して気まずいとか話したくないとかいうわけではなく、脳を跳ね回る思考に形を与えるための時間だったのだと思う。
「わたしはアイドルですけど……アイドルじゃないわたしは、こんなにへたなんです」
「アイドルじゃない……わたし?」
「わたしは、アイドルを職業と思っている部分があるのだと思います。でもまりちゃんもプロデューサーも、わたしにとっての職業を、生き方みたいにしていて」
アイドルでない美鈴は――。
雷が直撃した。美鈴はこれから先どうやって歩いていくのか、アイドルの道以外の道をどうやって歩いていくのか、まるで見当がつかない。
彼女もまた、アイドルの道以外を見つけられないこちら側の人間なのかもしれない、と俺はそのとき初めて気がついた。
目の前の信号が赤に変わる。車はゆっくりと減速した。
「好きなひと一人も振り向かせられない、惨めな女の子なんです。アイドルの道に進まなかったら……どうなっていたのでしょうね」
アイドルという生き方。
プロデューサーという生き方。
アイドルという
人向きな努力、揺るがぬ信念、周りとの
後ろからクラクションが聞こえ、慌ててアクセルが踏み込まれる。
美鈴の悲しい言葉は、俺の下顎を思い切り蹴り上げた。
太陽のどぎつい白さが目の裏側まで突き刺さってくるようで、ぼーっとしているうちに今度は踵落としが降ってくる。べしゃりと鼻先が潰れる音は、どこか他人事のようでもあった。ぽたぽた赤い血を垂らしながらなんとか起き上がり、自分よりも短い影の女に顔を向ける。今感じた痛みはすべて想像上のものにすぎなかったけれど、現実味を帯びていた。
どちらが何かを言うまでもなく、俺の家に向かった。
「散らかっていますよね」
鍵を回す間際になって、美鈴はようやく口を開いた。
「今は美鈴さんの部屋のほうが散らかっているかもしれません」
「……わたしはちゃんとしています」
むっとした口調は鍵の回る音に遮られた。何度も過ごした自分の家でしかないのに、美鈴がいるだけで華やいで感じられる。少しくらい家賃が高くても住んでしまいそうな感覚には名称がなかった。
部屋を片付けているとき、俺は美鈴にプロデュースの延長を打診した。頃合いを見計らったかいあって、湖に石を投げこんだときのような波紋はない。すんと静かに受け止められた。
「え……?」
美鈴は最初、現実を見間違えたような反応を返した。それから慌てて確認を取った。俺の言葉が翻されることを恐れるような様子だった。
美鈴は自身の願いが叶ったことを知ると、飛び跳ねて喜ぶのではなく、深い水底に横たわって自分を包む水の感触を味わうように、よかったと繰り返した。
実際のところ何もよくない。問題を先延ばしにしただけなのだから。
休憩のとき、俺は麗さんに電話をかけた。
「一種の償いのためです」
コーヒーミルに豆を入れていた美鈴がちらっと遠目に俺を見る。俺は気にせずに話を続けた。
「年度末までは続けることにしました。そこから先のことは、半年かけてゆっくり考えることにします」
『そうやってずーっと……ずるずる引きずっていけばいいんだけどね』
麗さんは電話口で満足そうに笑った。事務的な話が数分続き、スマホを伏せると同時にマグカップを手にする。立ち上る湯気とエスプレッソの香りに神経が和らいだ。美鈴も同じことをして口もとを緩めている。
「今起こっている問題は……俺の性別が違っていれば、なんともなかったのかもしれませんね」
考えても詮ないけれど、考えずにはいられない。
男と女ほど単純な関係はない。同時に男と女ほど複雑な関係もない。愛情だ友情だと考えて明かした夜、カーテンの隙間からこぼれる朝日は俺に深い絶望を与える。時間の経過は、たったそれだけで鋭利な凶器となってしまう場合がある。
美鈴はマグカップを唇に押し当て、傾ける。飲むと言うよりも唇を湿らせるような動作だった。
「そうすれば一緒にお風呂に入ったり、一緒の布団で眠ったりしても、許されたのかもしれませんね」
おかしな歌を口ずさむみたいな口調だった。やがて明日まで吹き抜けていく寂しい夜風の歌は終わった。
「アイドルとしてのわたしと、秦谷美鈴は、同じであって違います。秦谷美鈴の恋はこれでいいのだと、わたしは背中を押してもらいました」
きれいな表紙で綴じられるための恋をしているわけではないし、ずっと偶像のままでもいられない。偶像という点で宗教の神様と同じでも、アイドルは所詮、人間だ。
「アイドルとしてのわたしは、確かにその領域にたどり着きたいのです。でもいまここにいるのは、一人の人間にすぎません」
俺は会話をぶつ切りにするように「送っていきますよ」と口にした。美鈴は不快感などおくびにも出さず、「準備してきますね」とほほえみを返す。
美鈴のいなくなった私室は静かだった。しかし頭の中では思考と声とが雑多に跳弾して、ちっとも静まる気配がない。狭い和室の牢に閉じこめられた俺の思考はじっとしていられずに、鉄柵を打ち鳴らしたり、夜行性の動物が朝を恐れるみたいにうろうろしたりしている。
どのようにして寮についたのかは一切覚えていないけれど、車を出る間際に美鈴の言ったお願いだけはちゃんと覚えていた。彼女は俺に呼び捨てを要求した。逆に、たったそれだけしか要求しなかった。