朝から称賛の雨が降りそそいだ。雨は冷たくわたしを濡らし、同時にそれは、恵みをもたらす。わたしはあふれかけた宅配ボックスから丁寧に一枚ずつフライヤーを取り出して広げるみたいにして、真剣に言葉に向き合った。
同じ作業に辟易した昼休み、わたしはチャイムの音が聞こえるやいなや弁当箱を持って屋上に飛び出した。
真上の太陽から逃れるように、よろよろと影を目指す。憩いの地は小さく狭い。太陽にあぶられた屋上は、そのうち溶けてしまいそうなほど熱かった。
『今日の放課後にでも、昨日のライブの反省点をまとめたレポートをお持ちします。レッスン室に向かっても?』
まったくまじめなプロデューサーだ。昨日いきなり意見を翻したと思ったら、真意を語らぬまま今日もこれまで通りに自分を追いこんでいる。
どうして話さないのだろう。
プロデューサーの家に入れてもらったはいいけれど、ただリビングに座ることを許されただけだ。他の部屋には家主の権限なく立ち入ることができない。扉の奥にプロデューサーは引きこもっている。
スマホを握る手に、力がこもった。
階段を駆け上ったせいか、いまだ心臓が騒がしい。足を止めた瞬間に汗が吹き出した。冷房の効いた室内が早くも恋しい。
そんな頭だったものだから、今日はサボってしまおうと一瞬で結論が弾き出される。手もとの端末に打ちつけた。
『いえ。放課後すぐ、わたしが拠点に顔を出します。そのときにでも。
もしやまた散らかしているのではありませんか?』
少し待ったけれど、既読はつかない。
スリープにしたスマホには、黒い画面にふさわしい表情のわたしが映っている。垂れ落ちたのは、汗だったと思う。
昼寝に最適な天気だけれど、あまりにも暑すぎるので外にいないほうがいい。となれば茶道室で冷房を効かせてのんびりしていよう。弁当を食べるだけで汗だくになった。初星学園から
そんなことを考えて金属扉を開けると、まりちゃんがいた。
「え」「あ」
オクターブの違う声に、昔が噴き上がる。わたしは地底から噴水みたいに噴き出てくる記憶が陽光にきらめいているのを呆然と眺めた。
階段から外に向かって、蒸された熱風が吹き抜ける。からっとした外の空気よりも粘着質だった。そんな風が「ただの思い出だ」と耳もとに囁きかけてきても、わたしからすれば嬉し涙が出るほどの宝物だったのだ。
「別に心配だったわけじゃない!」
まりちゃんは自分から答案用紙を広げた。そしてしきりに「たまたま」と繰り返した。腕を組んで壁を見つめて、黙り込むわたしをときおり一瞥する。
感情や幸福、努力といった人間を取り囲むすべては、その人の形に設計されていなければならないのだ、と思った。他人のサイズに合わせた服や靴を身につけるのは、苦しい。
まりちゃんはとうとう痺れを切らしたらしく、心配そうな声で「どうだったの?」とわたしを見上げた。まりちゃんは腕を解いて手すりを掴んでいた。
わたしは唇を引き結んだ。
話したくて話したくて仕方がない。いまにも耐えがたい衝動に飲みこまれてしまいそうだった。同時に、この苦しみは自分だけのものだ、ともわたしは思っていた。他人に悲しみや経験を伝えるまえに、まずは自分で骨の髄までねぶりたかった。
わたしはふるふると首を左右させる。
「そう」とまりちゃんは気落ちした声を出す。
「話したいんです……ううん。本当はまりちゃんに聞いてほしいんです」
言われたとおりに玉砕しちゃった、なんて。いつもの感じで言えたら、どれだけよかったろう。でもそのふわふわした口調に滲む感情までふわふわしそうだから、駄目だ。
わたしは「今は駄目です」と頑張って笑った。
まりちゃんは肩を落としたまま「影響されたんじゃないの?」と呆れた。
逆光でわたしがことさら暗く見えたのだろうまりちゃんは、わたしの肩を抱いて一緒に階段を降りてくれた。
踊り場をたゆたう陽の光に、寄り添う二人の影は踊る。
「どうにか……今年度はプロデュースを続けてくれるみたいです」
「それさ……先延ばしにしただけじゃないの?」
まりちゃんの言うとおりだ。現実から目を背ける弱さを、まりちゃんは持っていない。
「それで、理由は聞いたの? 急に続けるって言った理由。どうせあのプロデューサーのことだから、美鈴が
「……その場ではすぐに聞けなかったんですが」
「うん。それでもいいよ」
「夜に見た文面では、はぐらかされてしまって」
まりちゃんは重々しいため息をついた。「そういうとこじゃないの?」とわたしに追撃をかける。
「美鈴のプロデューサーだって――」
わたしは頭を振ることで彼女の言葉を遮った。別に知らなくてもいいし、はぐらかされたっていい。冬のうちにもう一度考えを聞こうと思った。
まりちゃんは不機嫌を隠そうともせずに口を噤む。
その日のまりちゃんは、別れ際になっても、わたしがサボろうとしていることを注意しなかった。それどころか「まあ今日くらいは休んでもいいんじゃないの。うかうかしてるうちに私が追い越すかもしれないけど」とぶっきらぼうに言う始末だった。
視界の端でまりちゃんはノートを取っていた。ローテーブルに置かれたスマホからは、昨日のオーディションのアーカイブが流れている。
ヘッドホンをつけて時の流れを拒絶し、過去に閉じこもろうとするさまは、わたしとよく似ていた。でも取り残されようとしているのか、それとも輝く明日を睨みつけながら過去に浸っているのとでは、天と地ほどの差がある。
丸まった肩をじっと眺めても、かけるべき言葉は見つからない。
「悔しいし、とても痛いんです」
わたしが口を開いたのは、湯船に浸かっているときのことだった。なかば独り言のような調子だったのだけれど、まりちゃんにはしっかり届いていたらしく、彼女は片眉を上げて続きを促す。
わたしの表情は対照的に沈んでいた。浴槽に肩まで沈めた体は軽く、膝を抱くことでようやく安定が手に入る。
「まりちゃんもプロデューサーも……どうしてこんなものを、味わおうとするんですか?」
本心からの疑問を口にすることには、勇気がいる。勢いづいて口にした弾みで、言わなきゃよかったかな、と後悔がよぎる。
まりちゃんは手の中にお湯をすくった。
「アイドルじゃないときの美鈴もわりとそんな感じだと思うけど。気づいてないだけで」
「……え?」
「器用だけど不器用っていうか」
「どうしてまりちゃんは、いきなりわたしをこき下ろしたんですか……? いま、慰める流れでしたよね」
戸惑うわたしをよそに、まりちゃんは顔をしかめる。
「知らないよ、そんなの」
まあ、確かに、まりちゃんにそういうのを期待するのはよくないのかもしれない。落胆を覚えると同時に、予想外によって肩の荷が軽くなったのも事実だった。
「美鈴はアイドルのことを職業だと思っているのかもしれないけど、私にとってのアイドルはアイドルで……生き方なんだ。たぶんそこから違う。美鈴はアイドルのときとアイドルじゃないときでもっとうまく使い分けたほうがいい」
「……どうして、わたしよりも」
わたしの感じていたもやもやを言葉にできるのだろう。何も相談なんてしていなかったのに。
「分かるよ。ずっと一緒にいたんだから。一緒にいなかったときも……見てた」
まりちゃんは手の中で揺れるお湯を見つめたまま、そう言った。
「あのプロデューサーと美鈴が関わってよかったかもって思ったこと、今までほとんどなかったんだけど。さっきみたいに弱音を話してくれるようになったのは、よかったのかもね」
しっとりと濡れ光るまりちゃんの肌に波が当たり、それは心にも漣をもたらしている気がした。
○
朝一、正門で俺を捕まえた手毬は、そのまま拠点まで案内させ、ぴしゃりと扉を閉めた。
「美鈴泣いてたんだけど」と振り返ると同時に腕を組む。
「なんでプロデューサーが泣かせてるの?」
「なんで、と言われましても」
何かしでかしたわけではないけれど、理由にはなんとなくの心当たりがあったので「何度も説明していました」と釈明する。
手毬の言い分は、そういう泣かせ方は駄目、の一点張りで話が進まなかった。
「曖昧な言葉を使ってごまかして、先延ばしにして、何回美鈴に期待させるの? 次こそはできるかもしれないって期待がどれだけ残酷なものなのか知らないの?」
そういう耳に優しい言葉は、ときとして何よりも人との関係を軽んじているから。
手毬はこんなことを言った。痛烈な批判にダメージを受けるより先に、俺は耳に優しいだけの言葉を自分自身で扱っていたのだろうか、と不安になった。
手毬は俺の言葉など耳に入れたくないらしく、一方的にまくし立てる。
「あなたが美鈴のことを大切にしようと思っているのなんて、見てればすぐに分かる。だから美鈴だってあれだけ執着してるんだと思う。それなのにさ、ほんと……どうして悲しませてるの? 大切にしたいなら泣かせない方法なんていくらでもあるでしょ? それとも一々黒板にチョークで赤で書かれないと分かんない?」
何が分かるんだ、と一瞬で発火したけれど、俺はその火を靴底で踏み消した。拳には熱の残滓が感じられた。
「ふぅん」と手毬は蔑むように睨みつけた。今までほとんど向けられたことのない感情は、はっきりとした敵意だ。
「そういう人なんだね。美鈴の話よりもずっと言葉の檻に閉じ込められて……出る気もないじゃん」
手毬は靴を打ち鳴らして俺に近づく。瞳の中で燃える火は天をも焦がす勢いだった。
「何が分かるんだって言えばいいじゃん」
「言いません。決して……」
ふらふらと手すりを探すような口調は、そっくりそのまま俺の心だった。後ずさってなんとか机の端に手をつく。四個連結した机が揺れるほどの勢いだった。
手毬は「なにそれ」と吐き捨てるように言った。
「私には何も分からないよ。でも、分からないなりに美鈴が悲しんでいるのは見てるし、思うこともできる。なんで分からないかな」
そんなふうに、自分の価値観に絶対的な自信を持つことは、できない。善意で
「自分の人生の責任を取るのは、いつだって自分ですよ。それが他人からもたらされた不利益であったとしても。だから俺はこれ以上、誰かに干渉したくないんですよ。俺は、自分の育て上げた人が周囲の人の心を魅了していき、人生の歯車を変えていく様子に耐えられなかった」
「アイドルってそういうんじゃない」と手毬は拳を握った。俺は握力測定みたいに、スラックスの側面の縫い目に沿わせるようにして拳を握ることが多いけれど、手毬は違っていて。ちゃんと胸の前でグーを作れる。
「……私にとってのアイドルは、そういうんじゃない!」
言うに事欠いて、手毬は繰り返す。荒れ狂う海の中で必死に言葉を掴もうともがいているように見えた。きっと手毬の中には、荒波に負けない強靭な岩があるのだろう。それが羨ましい。
「責任とかさ、いつまでうだうだ考えてるの? もう無尽蔵の人に影響を与えてる時点で自分には責任が取れない範囲まで来てるの。今さら。でも、それでもきらきらを振りまくって決めてるの。アイドルってそういうものだから。あとはファンが勝手に整理するよ。私だってしたよ。それなのに、アイドルでもないプロデューサーが何言ってるの? あなたの言い分は矛盾してる」
女子特有の圧力と、論理的に物事を解決できる人特有の明快な道筋。
矛盾を理屈で捻じ伏せたら、人間は機械と同じになってしまう。それは駄目だ。でも、肝心の声が出ない。誰かからこんなふうに叱りつけられたことがなくて、緊張して喉がからからだった。
「責任を取るなら、あなたが全部めちゃくちゃにした、たった一人だけに責任を取るべきでしょ? もう遅いの」
なおも黙り込む俺に業を煮やして、手毬は「言葉が通じないんだね、俊さんだっけ? は」と冷たく言い放った。彼女の熱が残る拠点は真夏にふさわしく、けれども俺は芯から凍えていた。
こういう子の割り切り方には敬意を払うけれど、何回見たって、嫉妬すら覚えられないほどの「自分には無理だな」という圧倒的な隔たりを覚えるばかりだ。相手を理解する気のない言葉として、住んでる世界が違うなんていうのがあるけれど、同じ人間で違う人間なんだから、世界も違って当たり前だと思う。
胸の前に拳を持っていっても、やっぱり弱々しく握られるだけ。
あとはひたすらに心臓が痛みを訴えていた。臓器に直接釘を打ちこまれて、それが拍動のたびにどくんどくんと痛みを送り出し、生きていることを実感した。
○
「まりちゃんに、相談があるのですが」
まりちゃんは神妙な顔でローテーブルから顔を上げた。ヘッドホンを慎重に外し「変なものでも食べたの?」と尋ねてくる。
私はにっこりと笑いかけ、天板にそっとマグカップを置いた。せっかくココアを作ってあげたのに、どうしてくれようか。
「今日のお夕食は、同じものを食べましたよね?」
「げ……! そういうつもりじゃなかったんだってば!」
「わたしのことをなんだと思っているのですか?」
まりちゃんはさーっと表情を青くした。視線をさまよわせたあとで「と、とにかく!」と前のめりに私を睨む。
「どうしたの!? 私これから自主練行こうと思ってたんだけど。せっかく自分の直すところ見つけたんだし」
「もうレッスン室は閉まっていますよ。明日にしましょう」
「やだ。外で軽く動いてくるだけだよ。そのあとシャワーでも間に合うでしょ?」
まりちゃんは壁掛けの時計に視線を走らせた。すっかり彼女のペースだ。このままではまずい。わたしは「恋愛相談です」と単刀直入に切り出した。
まりちゃんは目を剥き、わたしは正座の上で指先をしきりに動かす。
「れ、恋愛相談!? 私に!?」
「ちょっとまりちゃん! 声! 大きいです!」
「え、だって――!」
たとえ吐息まじりでも、まりちゃんの声はよく通る。なにせ大きなライブ会場を震わせるほどの歌姫なのだから、その声はカーテンも薄い壁もたやすく切り裂いてしまうのだ。わたしは倒れ込むように彼女の口を塞ぐしかなかった。
覆い被さるようにラグに身を横たえ、しばらくの沈黙を味わう。こんなふうに誰かと昼寝することを、わたしはずっと夢に描いている気がした。
「相手は……分かっていますよね? もちろん」
「でもあの様子だから……無理だよ」
まりちゃんは自分が失恋したように顔を歪めた。相変わらず優しいと思う。その様子にわたしは全身の力を抜き、ごろんと寝そべる。まりちゃんも同じように安らかな雰囲気になった。
「この間、プロデューサーから」
「……うん」
「プロデューサーが女性で、まりちゃんが男の子だったのなら、どうなっていたんでしょうって問いかけられたんです」
「ふぅん」と相槌を打ったまりちゃんは何やら考え込んだ。わたしは、まりちゃんが天井の白い光を眺めているのを見ていた。彼女の瞳を奪って……わたしはその勢いの着ぐるみを身につけて彼に突進したかった。
「二人が言いたいことは分かるよ。考えてることも」
まりちゃんはことのほか優しい声を出した。
「でも考えたってしょうがないから、走るしかないよ。どれだけ悔しくても、自分を許せなくても、自分自身を殺してやりたくなっても」
優しいけど、でもやっぱり、前に進むエネルギーのある言葉を、いつも胸に宿している。こういう黒さが、わたしの魂を震わせる。あの人と同じで。
「……それができないわたしに、勝ち目などあるのでしょうか」
まりちゃんはため息をついた。分かってないなぁ、とでも言いたげだった。
「
「でも……!」
わたしは首だけを起こしてまりちゃんを見つめる。ピントのぼやけた視界の奥には、二人分の私物がそれぞれ干渉しないように、ところどころぐちゃぐちゃにまざりあって存在している。
CDや雑誌をいれたカラーボックスは混沌の最たる空間だった。
「考えてしまうんです。プロデューサーの癖が移ってしまったのかもしれません」
「美鈴の能天気さをもうちょっと見習わせたほうがいいよ。相手の悪癖を愛せなくなったら終わりでしょ? 自分の風でそんなの吹き飛ばすくらいの気概がなきゃ駄目」
まりちゃんはそれくらいの気炎がある人だろうけれど、わたしには。なんとなく、プロデューサーが「自分は違う」と、まるで呪いが脳内でずっとこだましているみたいに言う理由の片鱗に触れた。確かにそれは心に深く突き刺さり、根を張っている。
わたしは思い立ったように身を起こし、テーブルの反対側にあるココアへ手を伸ばす。まだ熱を帯びていた。でもやけどするほどではない。ちょうどいい温度が食道を通りすぎる。ほうっと息をつくと、となりでまりちゃんも同じことをしていた。
「わたしは、恋愛を、こんな甘いものだと思っていました」
まりちゃんは目尻を下げた。
「大切な人を大切にしたいって気持ちは、性別によらないんじゃないかな。恋とか愛とかって考えるからややこしいんだよ。一生をかけて大事にしたいのなら、それでよくない?」
「……かんたんな言葉ですね」
プロデューサーが嫌う言葉だな、と思ったらくすっと笑ってしまった。
「かんたんだから余計なものを背負わせてないわけじゃないよ。余計なものまで全部背負い込んで、風呂敷に包んでいるからかんたんに見えるんだよ」
一本の矢が胸の真ん中を貫いて、わたしは言葉を失った。知らぬ間にわたしは一度ここで殺されたのだと思う。
そしてどうにか、「まりちゃんの話はいつも明快ですごいです」とほほえんだ。