抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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二七話

 美鈴は「ライブ配信をおこないたいのですが」と俺を見た。都心でもやっと残暑が立ち去り、夜の冷え込みが気になるようになったときのことだ。

 首もとの汗を拭く彼女に制汗スプレーを渡す。

 

「それは構いませんが……なぜいきなり?」

「新しいことに挑戦してみようと思って……」

 

 便利な言い訳を盾にされると、たとえそれが本心だとしても勘ぐってしまう。プロデューサー科で個人のライブ配信――人を集めるマーケティング方法や映像機材――についての授業は今のところ存在しない。

 しかし時流を考えれば必要ではないか、とあさり先生が頭を悩ませていることを、俺は知っていた。科に所属する中でも飛び抜けて若い俺と麗さんは話を振られたことがある。

 

 美鈴に上着を渡す拍子に、落ち着いた香りが漂ってくる。

 

「理想のアイドル像から離れていくものだと思って、今まで提案しなかったのですが」

「……まりちゃんも興味があるみたいで、最近だと、いろいろな方がインスタのライブをしています。他のプロダクションの人も、100(じゅうおう)のアイドルも」

 

 美鈴は上着を羽織るのではなく、胸に抱いた。薄い肩はきっと寒さに強くないのに、汗をかいた彼女はそれをそのままにする。

 

「アイドルとしての望みが変わったわけではありません。わたしは、わたしを見てくれた人すべての心を満たしてあげたい。ですが、絶対にステージで満たさないと駄目、というわけではないんです。むしろステージと普段との違いがギャップとして視聴者の方に映れば、強く心を掴めるのではないでしょうか」

「あなたは……それでいいんですか」

 

 ステージ以外でもアイドルと見られる事実が。その職業であり続けることが。

 

「お伝えしたとおりです。わたしは、新しいことに挑戦したいんです」

 

 ライブ配信の言動で……たとえば彼女の面倒見のよさでやられる視聴者も多いはずだ。そうなれば、心を満たすという彼女の望みが叶う。

 黙考して頷く俺の手を、小さな手が包み込む。

 

「それに、二人一組のイメージを今まで以上に持ってもらいやすいですし……りんちゃんが戻ってきたあと、仲直りをした姿を見せてあげれば、もともとのファンだってもっと戻ってきてくれるはずです。そして誰しもが期待を抱いてくれるはずです」

 

 三人のイメージがかたまったところで、満を持してユニット再結成の発表。

 

「そのほうがプロデューサーとしても楽なのではありませんか?」

 

 美鈴の言葉には強引なところがあり、ライブ配信がしたいと申し出られたときに覚えた違和感が実態を持つ。

 何かを企んでいるのだろうか、と俺は瞬時に美鈴を疑った。今まで離れようとしなかったのだ。急な親切の裏にはきっと秘密がある。

 

 そう、思ったけれど。

 

 もしかしたら見切りをつけられたのかもしれないし、美鈴が腹を括ってくれたのかもしれない。嬉しさと同時に込み上げたのは、胃がきつく絞り上げられるような痛みだった。自分勝手がもたらした痛みを彼女に見せる愚行を、俺は犯さなかった。

 

 俺は肩の力を抜いて返答した。

 

「初星学園としては初の試みですし、俺自身にもノウハウがありませんから、完全に手探りです。普段以上に要領が悪くなってしまうかもしれません。それでもよければ」

「平気ですよ。わたしもお手伝いします」

 

 唯さんとの話によって、美鈴と向き合う気持ちは強まっていた。だけれど、当の本人がそう望むのであれば、俺は主張を翻さないほうがいいだろう。ころころと考えを変えることは信頼の喪失に繋がりやすい。

 長期的な不信よりも、短期的な信頼を取りたかった。

 

 くしゅん、とかわいらしいくしゃみのお手本みたいな音が聞こえ、現実に引き戻される。

 

「着てはいかがです? 冷え込むようになりましたから」

 

「着せてください」と美鈴は臆せず言った。俺はため息をついたけれど、渋々「分かりました」と答えた。

 

「違いますよ。あなたのです」

 

 これにはさすがに、「自分のをちゃんと着てください」と言い返す。美鈴は含み笑いをした。

 

「風邪をひいたら、合法的にサボれますね」

 

 

 最初から雑談配信というのは美鈴の荷が重いし、かといってレッスン風景を見せるのも地味すぎるから、またの機会と見送って。

 選ばれたのはゲーム配信だった。もちろん雑談をしたりファンからの質問に答えたりもする。方向性の手探りという意味でも、ファンの反応を伺うという意味でも、なんとなく安牌そうなそれに決まったのだ。

 

 美鈴と一緒にいくつかをテストし、徐々にジャンルを絞っていく。美鈴と一緒に配信に出る手毬の意見も重要だった。

 

 ソフトは最終的に、N.I.A開催中、ゲームセンターで何度か遊んだことのあるレースゲームに決まった。ちょうど新型ハード(Switch2)が発売された話題のゲームだ。興味を持ってもらいやすく、これならば新規のファンも獲得しやすいだろう、と麗さんとの話で決まった。

 

 

 問題はライブ配信当日に起こった。手毬が熱を出したらしい(・・・)のだ。

 

『申しわけないわね……あれだけ何度も宣伝したのに……体調管理について、一度しっかり話し合うわ』

 

 苦虫を味わうような声音だった。電話口で謝る麗さんをよそに、必死で頭を巡らせる。土曜日の昼過ぎから配信予定だから、誰かしらに代役を頼むことは可能だろう。

 配信部屋で大人しくしている美鈴に、「初めてを一人で乗り切るのは心労があるでしょう。一緒に遊べそうな友だちに代役を頼みたいと思います」と意見を仰いだ。

 

 

 予定の空いている人が見つからないままじりじりと時間は過ぎ去った。美鈴は俺の体調を心配して、俺がいつも飲んでいる胃薬を買ってきた。

 

「大丈夫です。あなたの担当アイドルは常に期待を超えてきたのですから」

 

 ライブカメラをつける前に、美鈴は自信あり気にほほえんだ。ところがいざ配信が始まり、この試みについての説明をし終えたとき、思い出したようにこんなことをつけ加えた。

 

「プロデューサーは方方に掛け合ってくれたのですが、どうしても今日空いているお友だちがいなくて……初めてで不安ですから、今日は急遽……わたしのプロデューサーにも手伝っていただくことに決まりました」

 

 嘘の厚塗りは犯罪ではない。俺は美鈴に嘘つきのラベルを貼ることができなかった。加速するコメントをほほえみで見送り、アイドルの彼女は現実を掌握する。

 

「急な決定でしたから、実はまだプロデューサーの準備が整っていないんです……そのうちに皆さんから寄せられた質問――この間ツイッターであらかじめ募集していたものですね――にお答えしますね。プロデューサー、わたしが丸裸にされちゃう前に早く準備をしてくださいね」

 

 カメラに向かってファンサでウインクをする美鈴は、本番を味方につける得体のしれない化け物だった。

 

 

「――おや? みなさん、プロデューサーの準備が整ったみたいですよ。今から遊ぶゲームはもう知っていますよね? いえ、知らない方もいるかもしれませんね。わたしのことを初めて見た方もいらっしゃるでしょうし……」

 

 ここで配信画面を切り替え、ゲーム映像の空きに美鈴の顔をワイプ表示する。

 

「――プロデューサーも画角に入りませんか? 入ってください。せっかくですから。え……? まあ、わかりました……よし! ではさっそく、始めましょうか。ここからは質問に答えながら……あ。昨日のレッスンのこととかもお話できたらいいですね。そのうちレッスンの風景も配信しようと話していたところなんです」

 

 

 饒舌な美鈴に付き合い、俺は話を振られたときのみ会話に参加した。黒子に徹する努力は実り、幸い配信のノイズにはなっていないようだった。

 絶え間ない胃の痛みに苦しみながらゲームをして十数分が経過したころ、一つのコメントが流れた。

 

『越川Pいっつも最下位じゃね?』

 

 ふふ、と美鈴は口もとに手を当てた。自分の仕掛けた罠がうまく作動したことを喜ぶ子どもみたいな雰囲気だった。

 

「テストプレイをプロデューサーと何度もしたんですが、どのゲームもこんな感じなんです。わたしよりもずっと面白いことをするんですよ。カメラに写っていませんけど、曲がるときはこーんなふうに体を傾けているんです」

 

 画角から外れて戻る美鈴の動きにコメントがわく。カメラに収まった美鈴は目尻を拭う。

 

「それがもう……面白くて。笑いをこらえるのが大変なんです」

 

 視聴者を誘導したいらしい美鈴は、やがて対人戦をやめ、CPU対戦をする方向に話を持っていった。美鈴をワイプで抜きながら、プレイするのは俺、という布陣には視聴者も納得の様子だった。

 

『ドリフトが逆なんだよな』

『お助けアイテムのキノコが暴走アイテムになってるのなんとかならない?』

『芸術的落下走法』

『オープンワールド(落下だけは防げない)』

『デバック班かな?』

『俺たちには見えない道が見えている……?』

『無駄のないタイムロス、俺じゃなきゃ見逃しちゃうね』

 

 操作キャラの予期せぬ挙動に言葉が加速し、体を傾けすぎたあまり転倒すると『何事だ』と祭りになる。

 

「プロデューサー、口。口が開いていますよ」

「……距離が近いですよ、秦谷さん」

「プロデューサーはどうして画角に入ってくれないのですか。みんなそう思っています。さっきちらっと入ったのに」

「あれは倒れ込んだと表現したほうが正しいです」

「もうちょっとで膝枕でしたね」

「アイドルの発言としては不適切な気がしますね……」

「こうして話しているうちにどうして三回も落ちているんですか……?」

「ガードレールがないからです」

「さっきガードレールに激突して、そのまま反対側の海に突き進んでいったの見ましたからね。しかもキノコを使っていましたよね……?」

 

 俺の画面を映すようになってから、美鈴はよく笑った。ときおりお腹を抱える仕草も見せて、息苦しそうな様子さえ見せた。

 

 このときの俺には、冷ややかな羨望と熱を持った喜びとがあった。

 楽しさの極地で感じる苦しみは、さぞ愉快なものなのだろうな、と眺める自分。一方で、めったに見られない美鈴を引き出せたのなら、それはそれでプロデューサー冥利に尽きるな、と考える自分。二つは相反するようでいて、しかし板挟みにあうところがなかった。

 

「ちなみにわたしのプロデューサーは、運転免許を持っていますよ。ちょうど取って一年ほど経っていて……この間初心者マークを外していましたね」

『一生初心者のほうがいんじゃね』

『バナナないところでスリップするって』

『左折のたびに後輪こすってそう』

「ふふ……今のところは、なんと問題ないんです。それどころかタクシーの運転手さんみたいに丁寧なんですよ」

『洗脳されてない?』

『月って青色なんですよって言われてる気分』

「ちなみに火星の夕焼けは青色ですね」

『ここは地球なんだよなあ……』

 

 予定の時刻を回ったところで切り上げようとしたけれど、美鈴を含めた全員から請われて一時間引き伸ばした。

 

 先駆者を欲した初星学園にとって、美鈴の配信は予想以上の成果だった。

 

 それからというもの、混沌が学園を襲った。

 私室を映すのはNG。配信をする際は事前に申請をすること。寮の共有スペースでする場合は、寮の掲示板などに張り紙をすること。投げ銭があった場合は過不足なく申告すること。などと取り決めがなされ、会長が学園に配信用の部屋を作ろうとして止められる事態になった。

 

 

 一度目の配信以降、美鈴はゲーム配信に限らず様々な風景を見せた。俺はときたま美鈴と視聴者からゲームをせがまれて遊んだ。

 件のレースゲームはどんどん上達して、そのうち、俺の日常使いのSNSアカウントが特定された。ショトカの動画が数回バズったのだった。

 

「ずいぶん大きくなりましたね。プロデューサーのアカウント」

 

 美鈴は拠点に入るなりそう言った。見覚えのある縦スクロールの動作でSNSを見ている。

 俺個人としては喜ばしいことではなかった。有名になるのはアイドルであるべきだし、俺は自分が他人の中に多く存在していることに耐えられない。

 

「迂闊でした。まさかあんな零細アカウントから特定されるとは」

「意外とみんな、見ていますからね」

「最初はあんなにあたふたしていたのに、とてつもない時間をかけてうまくなっている様子が評判みたいです」

 

 美鈴はスマホから顔を上げないまま、「アイドルよりアイドルみたいですね」と寂しげに続けた。

 

「凡庸な人間がアイドルになることはありません」

「……プロデューサーにとってのアイドルとは、そのときどきによって生き方になったり職業になったりするのですね」

 

 嘲っている感じはなかった。相手の胸の内に眠る矛盾をそっとすくい取るような言葉だった。

 俺は薄々その矛盾に感づいてはいたけれど、使い分けているつもりはなくて、返答できない。

 美鈴はスマホをスカートにしまった。

 

「プロデューサーの目に映る越川俊は、希望の光を灯すことも、夢を与えることも、きっとないのでしょうね。ですが、才能を嘆きながら努力する普通の人は、ときとして偶像よりも近いアイドルになれますよ」

 

 

 恒例企画のようになった二人のゲーム配信では、新しいゲームをやるたびに、俺が才能のなさを見せつけた。第一回はあまりにもあんまりなセンスを見せつけられるため神回で、第二回は見違える成長を遂げているので神回、というのが視聴者間で囁かれるようになった。

 水を得た美鈴が麗さん――を始めとしてあさり先生や唯さんも裏で動いている感じがしたけれど――に掛け合い、俺の普段の仕事風景やゲームの練習風景を発信するようになった。

 

 車での移動中、美鈴は「褒められていますね」と呟いた。オフラインで何かを再生しているのか、それともエゴサーチをしているのかは、バックミラー越しには分からない。

 

「相変わらず下手なんですけどね」

「……それで失うような自信は、プロデューサーにはありませんよ」

「いきなり刺しますね」

 

 美鈴はくすりと笑った。彼女は段々と俺に躊躇がなくなりつつあった。

 

「わたしにはできない方法で世間と向き合っている姿が、物珍しく映るんです。こんなに長いあいだ一緒にいたのに、まだ知らない一面があったんだ、と」

 

 美鈴は車窓を流れる景色を見ていた。物憂げな表情だった。曇った窓に手を伸ばしたと思ったら、人さし指の先端を当てて……結局何も描かない。

 アイドルっぽさの宿ったかわいらしいコートやマフラーなどを厚く着込んでいるのに、心が震えているように思えた。

 

「自分と向き合うことに疲れたときは、こんなふうに世間の軽さに向き合ったほうが気が楽になるのかもしれません」

 

 俺はぽつりと言った。

 美鈴は「え?」と指先を窓から離す。質問ですと伝える人みたいに人さし指を胸もとで掲げていた。

 

「それは……今後も何かしらの活動を続けることを意味しているのですか? たとえば、プロデューサーではなく、配信者のようになると」

 

 正面の光はうるさい。まさしく都会の夜だった。季節が変わっても、ビルは毎日の象徴のように発光し続ける。

「分かりません」と俺は言った。それから前を見据えたまま「約束の日付けまでには時間がありますから」とつけ足した。癖でバックミラーを見ると、後方確認と合わせて美鈴の顔まで視認できた。街行く人となんら変わらない、平凡な無表情。

 

 

「あ」

 

 スマホを見ていた美鈴は不意に呟いた。信号が赤になったので俺は美鈴を振り返る。彼女と目が合ったとき、俺は外の寒さが体に流れ込んだような錯覚に陥った。

 

「困ってしまいました」

 

 美鈴はにんまりと笑った。

 

「困ってしまいましたね。大変です、プロデューサー……越川P」

 

 わざわざライブ配信のときの呼び名を口にするということは、それにまつわる出来事がネット上で拡散されているということだろうか。大変と口にしているわりに美鈴は楽しげで、ますます俺の不審を煽った。

 

「ファンの皆さんの間では……わたしとセットのイメージがすでについていたと思うのですが。ライブ配信中のわたしたちってこんな感じなのかな、と予想したイラストが一○万いいねにいきました。わたしとあなたはもう、ファンの間に限らずとも一心同体です」

 

 もとよりその傾向があったけれど、どうやら今回を皮切りに、美鈴は俺とセットのイメージを世間に持たせたいようだった。意地でも逃さない、と。ライブ配信をしたいと言ったのには布石の側面もあったのだろう。

 片頬を手のひらで押さえながら、美鈴は上品に困っている。

 

「世間のイメージから乖離したアイドルは、再び翼を得るまでに時間がかかってしまいます……助けてください、プロデューサー」

 

 唯さんからの言葉が楔となっていた俺はこのときすでに、心境に変化が兆していた。もしかしたら向き合えるかもしれないと揺らいでいた。美鈴にはめられたのだと合点がいき、いっそ愉快ですらあった。彼女の望みは初めから一貫していて、俺にはそれが尊いことのように思われた。

 

 懲役のように、初めは一定期間の償いのつもりだったけれど。無期懲役でも構わない。

 

「嫉妬などは……されないのでしょうか」

「嫉妬? なぜですか?」

 

 美鈴はしばらくぶりに黒い笑みを浮かべた。

 子どもじみた感情かもしれません――喉もとまでせり上がった言葉を、こらえる。言ってしまえば美鈴から聞き出されるだろう。そのため俺は沈黙で話を流そうとした。

 

 

 ガソリンのメモリが一つ減ったころ、スマホが着信を知らせた。留守番に切り替わると着信は切れ、再びコールが車内に鳴り響く。不審に思ったけれど、俺はひとまず流した。時間が遅いから、よっぽどの人でなければ明日折り返せばいいと思ったのだ。

 

 それが三回繰り返されると、俺はさすがに怪奇現象を疑った。

 美鈴がバックミラー越しにスマホを振っていた。

 

 つまるところそういうことだった。強情にはそれ以上の強情で立ち向かえ、と美鈴は学んだらしい。

 俺は渋々、「アイドルとの物理的な距離が近いわけですから、そういった距離()の近さを配信で見せすぎると、ファンが怒りを抱くのではと懸念したんです」と伝える。

 

 美鈴はくすりと笑った。先ほどまで鬼電をしていたとは思えないほど静かな笑い方だった。

 

「アイドルに限らず、推しは好きなひとではありません。もちろんそういった方もいらっしゃるかもしれませんが」

「頭では分かっていますよ。でも不安って、いつでも現実を歪めるじゃないですか」

「プロデューサーはファンのことを舐めすぎています。ファンは自分の感情を制御できないまま泣き叫ぶ赤ちゃんではありません」

 

 推しと友だちになってうまくいくかと言われればそうではないだろうし、推しと仕事の付き合いをしてうまくいくかと言われればそうでもないだろう。推しは、あくまで推しなのだ。だからいいのだ。

 自分の行動で相手の好感度が変わらない安心感が、ファンから見た推しにはあるのだと思う。アイドルは常に、それの逆風にさらされ続ける。

 

 美鈴は眼差しで俺を射抜いて、淀みなく言葉を続けた。

 

「もちろんこれも一つの見方にすぎませんが、わたしはプロデューサーよりもよほど現実を捉えていますよ。あなたはアイドルを見て、そのアイドル越しにファンを見るのかもしれません。もしくはビジネスとしてファンを見るのかもしれません。ですがアイドルとしてのわたしは、ファンを直視できる位置にいますし、プロデューサーを直視できる位置にいます」

 

 反論の余地なく完敗し、沈黙を噛みしめる。ファンのことを見ているつもりでも、感情は目の前の光景をたやすく歪めてしまう。

 

「俺は……推しというものが分かりません」

 

 生きがいを外部に求めたことがなかった。他人は他人で、家族ですらどこかその位置に置いていたふしがある。

 生きがいも推しも、実体を持つにはあまりにも曖昧な言葉だ。一つを当てはめなければまるで想像できない。

 

「越川Pが推しだという人もいますよ。わたしがファンクラブの会員ナンバー『1』ですけど。誰かから聞きましたか? 先日、ファンレターをどこに送ればいいのか分からないから、とわたしのにまざっていたんです」

 

 俺は心の底からなにかを推したことがないのだ。うまく理解するために学習を続けなければならないなと心のどこかが思い、頭はじゃあどうするんだと煩悶する。

 自分の聖域に他人を介在させたくないから、こうなる。でもいくら靴を揃えてスリッパに履き替えてもらったからといって、そう安々と招きたくないのだ。だから聖域となり得るのだから。

 

「推される感覚や推しを推す感触が分からなくても、きっとなんとかなります。うまく現実をこなす必要がどこにあるんですか? 案ずるより産むがやすしです。産むだけでいいんです。ペットや赤ちゃんみたいに世話をする必要もありませんし」

 

 美鈴は俺の思考を断ち切るように「せっかくですからいつかグッズ展開とかもしましょう。一緒に」と話を脱線させた。

 それからすぐに、「でもプロデューサーがそちらに力を入れたら、わたしと離れ離れになってしまいますね」と意見を翻す。

 

「プロデューサーは……片手間で配信をするからこそ、平気でいられるのかもしれません。それが常に配信に全力投球では、きっと失敗しますよ」

 

 美鈴はそう言って笑った。

 

「だから今後も、このような形で一緒にいればいいんです」

 

 何事にも全力で臨むけれど、あくまで片手間に注ぐ全力の距離感だからこそ、ちょうどいい。今まで自分を認めてあげられなかったけれど、そういうのも、いいと思った。

 俺たちは世間から見てアイドルとプロデューサーだけれど、別に実態が異なっていたところで構わない、と美鈴は堂々と宣言した。

 

「枠に囚われすぎですよ、わたしだけのあなたは」

 

 花がほろりと風にそよぐように、少女は華やいだ。

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