それで努力をやめるなら、いっそ生きることすらやめてしまえ。去年まではそう思っていた。自分を駆り立てる強迫観念がなければ、俺は生きていけない人種なのだと思っていた。
実際はそんなことがなくて、神が作った電気仕掛けの嗜好品は、今日も活動をやめていない。
天使が墜落してきそうなほど重い空模様だった。
頭痛薬が切れたらしい。眼球の裏側で鳴り響く痛みは根深く、抉り出せそうにない。体を引きずってレッスン室に向かうと、俺を迎えたのは、空よりも黒い笑みを浮かべた美鈴で。
「どうしてこなかったんですか? わたし、ラインも入れたのに」
「どうして、と言われましても。美鈴さんとは放課後に待ち合わせていましたよね?」
「そんなことはありません。それにSNSの反応はありました」
否定する美鈴に訳を聞くと、彼女は「スマホを見てください」とそっぽを向いた。そこには確かに、和室でサボっているのでいつでもどうぞといった趣旨のラインが入っており。俺はそれを知らなかったのだから、約束は無効だろう。
背伸びをして詰め寄る美鈴をやんわり宥めながら、自分の話を進めることにした。
「昨日いろいろと見比べたんですが……美鈴さんのパフォーマンスと、星南会長のパフォーマンス、あとはテレビによく出ている方のパフォーマンスを――」
「だからクマがひどいんですか」
「いくつかの改善点を洗い、トレーナーからアドバイスをもらっていただけたらと思います。これがそのリストです。合わせてレッスンメニューも考えていけたらと――」
「だからクマがひどいんですか?」
「顔が青いのはもともとです」
「クマの話をしているんですよ?」
リュックからクリアファイルごと取り出し、美鈴に渡す。昼休みに相談室のコピー機を長々と使わせてもらっていた。
美鈴は手渡されたファイルを一瞥しただけで俺に視線を戻した。そんなにひどいのだろうか?
「今日は……もともと大学をサボるつもりだったんです。家でぐったりしていると多少はましになりますから」
「でしたら、どうして」
「体調はましになっても、心には黒っぽい焦りが生まれますから」
ストレスが原因の頭痛や腹痛は、しんどい。痛みの他に、耐えることによって、体が外側からごりごり鑢で削られていくみたいに余裕が減っていく。
何もできずにベッドの上で横になっているとき、日が翳るのにかかった時間の分だけ、心身のすり減る音が心音に混ざり込む。耳鳴りにも似た音は、イヤーワームみたいに痛みのサビを繰り返す。
時間の経過は病院の待合室とか電車の移動中とかと同じなのに、何かを待っている、どこか目的地に向かっている、という実感が伴わないと、それは急に心を削り取る鋭利な機械になることがあるのだと思う。
何かをしないでいることが、何かをするよりも心をすり減らす結果になることがあるのだと思う。
「……よしよし」
美鈴は俺の頭に手を乗せて、ごわつく髪を撫で始めた。突然のことに思考も現実も止まる。俺は何も分かっていない顔で美鈴を見つめたし、美鈴も何も変なことをしていませんよ、という顔で俺を見つめ返す。
「プロデューサーは偉い。えらいえらい」
「――あー……お前たち、出てってもらっていいか?」
止まっていた時間を動かしたのは唯さんだった。呆れの滲む声を上げ、こめかみを人さし指でぐりぐりしながら歩いてくる。
「少し外で話してこい。そうすればお前の気分も美鈴の気分も晴れるだろう」
唯さんはそう耳打ちした。美鈴の咎めるような視線を手でいなし、全体に向けて「目に毒だろう。ここはレッスンに来たやつが使う場所なんだからな」と言った。そして美鈴を見た。
「お前は俊に付き添ってやれ。少しくらいなら見逃してやる」
レッスン室の扉が並ぶ廊下を抜け、少し開けた空間に出る。そこは共用の休憩スペースだった。
肉体の強度みたいなものが不足している感じがずっとしていて、俺はたまらず近場のソファに座り込む。意識して深呼吸をした。肺が膨らむだけで、体はいくらか楽になるのだった。
「大丈夫ですか?」と背中をさする美鈴が不意に立ち上がる。手には財布を持っている。
「購買で何か――」
「平気です」
「しかし――」
「購買の頭痛薬は弱いですし、ゼリーや飲み物も家にかなり備蓄してあるんです」
人の言葉を遮るとき、その人が傷ついたような顔をするものだから、俺も同じように傷ついてしまう。長いことその顔を見た覚えがなかった。どうにか見ないふりすることで言葉を紡ぐ。
「ですから……飲み物――水をください。お願いします」
美鈴は最後にはほほえんで返事をした。
走っても走っても遠ざかる電車には追いつけなくて、手を伸ばしても、その手は、長く伸びた影すら電車に届かなくなってしまう。その苦しみに、心臓が痛む。痛みに慣れることはなかった。
それを感じるときだけ、俺は生きているんだと思うことができた。大抵の場合、それは過度なストレスが与えられた日だった。長く忘れていた、痛みだ。
自販機の低く唸るような音が、頭の中で何倍にも増幅されて聞こえた。
戻って来る美鈴に、「あなたがレッスンを頑張っているものですから、休むわけにもいかず」と口を開く。
美鈴が座ると、ソファは俺よりも浅く沈んだ。水を手渡されて礼を言う。いったいどちらがプロデューサーなのだろう。
「しばらく横になっていれば治まるんです」
もちろん嘘だった。低気圧による頭痛は横になってもあまり変わらない。
「そんなに無理をしなくても……」
「でも俺は担当プロデューサーなんですよね。だったら休むわけにはいきませんよ」
「どうしてでしょうか?」
「じゃないと何もできないからです」
美鈴は、質問には答えてもらったけれど何も分からない、というような顔をしている。そこには不安も不満も見て取れた。
「美鈴さんは自分のペースで頑張っていますよね? だからです」
マイペースという言葉は、通常あまりいい意味では使われない言葉だ。けれど美鈴をあらわすためにはその言葉しかない。彼女は自分の頑張れる範囲で頑張っている。「マイペースとは努力をしないことではありませんしね」とつけ加えた。
生きることは可能性の迷路をさまよい歩くことで、暗中模索で歩き回る過程に努力や苦労といった名前が与えられているのかもしれない。俺はたぶん、そこに苦しみがないといけないんだと思う。
さすがにここまでは言わなかった。美鈴は分かったような分からないような感じで、豊かに困り眉をたたえている。
「今日は茶道部の活動がお休みの日ですから」
美鈴は俺に、茶道室でレッスン終わりまで休むよう勧めた。
「こまめに連絡を入れますから、起きているのでしたら返信してください。明日からの練習だとでも思って」
○
六時の感じにもたれて障子窓をうとうと眺めていると、青い香りのする
レッスン室に戻ると、ちょうど唯さんと美鈴が最後だったらしく、施錠の確認をしている。
「もっとサボっていてもよかったのですよ」
「まずはお前がちゃんとしろ……」
高さの違う声が重なり、二人はそれぞれを呆れるように見た。
勃発しそうな喧嘩を宥めるところから始まり、三人で一緒に館内の施錠を確認して回る。唯さんはまだ事務仕事が残っているような口ぶりで帰りが遅くなるようだ。
美鈴は「今日は車の運転は禁止です」と俺に厳命した。ここには唯さんからの口添えもあり、俺は仕方なく同意したけれど、駅まで少し歩く必要があった。美鈴は俺の予想通り、意地でもついてきた。
傘を弾く雨音がそっと歩き始める。
「本当なら家まで送り届けて看病したいところですが……」
「唯さんからしっかり釘を刺されてましたね」
美鈴は深々とため息をついた。梅雨前だというのに夜の空気は重く、どんよりと体にまとわりついてくる。同様に釘を刺された美鈴は、別の傘に大人しく収まっている。
「プロデューサーは……えらい、です。頑張っていますよ」
美鈴は俺の静止も聞かず、傘から腕を伸ばして頭を撫でた。俺が腰をかがめて頭を前にし、美鈴が濡れないように傘を傾けてやると、しめしめと「相合い傘みたいですね」と笑う。
このころから美鈴は俺の頭を撫でたがるようになった。それはたいていの場合、二人きりの空間に限られた。
二つ上に姉のいる俺はその感触を懐かしがったが、姉の話をした途端――これはおそらく他の女性の話をしたからだと思われる――美鈴は不機嫌になって俺の髪をくしゃくしゃにした。
以前と同じように歩いて帰っていた雨の日、美鈴は俺にこう問いかけた。
「プロデューサーになったのは……お姉さんの影響ですか? 以前、約束が反故にならなかったらと言っていましたし、もしかしたら親しい間柄の人と交わしたなにかがあったのかな、などと思って」
学園から数分歩いただけで、駅まではいまだ少しの道のりがあった。背後を振り返ると、バスのヘッドライトが小雨を切り開いて俺たちに伸びている。バスの奥には暗闇を灯した学園が黒く佇んでいた。
バスが通り過ぎる瞬間、一瞬だけ傘を下にやった。美鈴は見透かしていたように俺にひっついた。
「残影に……取り憑かれているんです。それが俺に夢を、たとえ幻影だとしても、夢を追いかけ続けるように強く勧めるんです」
そのほうが、楽なりに苦しいから。道に思い悩む苦しみに足を止めなくてもいいから。
バスのテールランプが見えなくなっても、美鈴は俺の腕を抱いたままだった。引き剥がそうとするけれど、彼女の気持ちのようにかたい。
「わたしがあなたの望みを叶えてあげますよ」
「俺は……望みを叶えてほしいわけではないんです。ただ、選ぶことを選ばずにここまで来ただけで。すでに約束が無効になった現実を認識していながら、それが有効だと思い込んでいたほうがずっとずっと生きるのが楽になるから、そう思っているだけで」
「面倒くさいですね」と俺は話を締めくくった。
「プロデューサーが楽な道を選んでいるようには見えません」
「どうでしょうね」と俺は木々の暗さに本音を隠す。
人生は、苦痛の中にこそ存在していなければならない。楽しいだけの人生には何も残らない。足跡は透明な涙や煌めきなどではなく、赤い血であるべきだ。
振り返った瞬間の虚無感を想像しただけで身震いしてしまうから、後ろを振り返る暇がないくらいに自分を追い込まなければならなかった。
「美鈴さんはなぜ……アイドルを?」
「それは、志しているのか? という問いかけでしょうか。それとも、一度痛い目を見ているのに、なぜまだ諦めていないのですか? という問いかけでしょうか」
「前者です。俺が提供した情報はそっちでしたから」
美鈴は片手で口もとを覆う。
「実は……尋ねられればどちらもお答えするつもりでした。ですが今日は……プロデューサーに合わせてお答えしますね」
美鈴はいたずらが成功した子どもみたいに楽しげだった。「わたしは」という一歩は夜空に軽く弾んだ。小さな子どもが黄色い長靴で水たまりを跳ねるみたいに、雨の夜そのものの空気を楽しんでいる。
「歩いた先の高い場所で、あくびがしたいんです」