抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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☆六話

 美鈴は俺の話を遮ることなく、心の深海を見つめるように下を向いている。

 

 確かな実力に裏打ちされた自信は、周囲が傲慢に感じてしまうほどの余裕を生み出す。王者の風格、鷹揚な構え、悠々と空を泳ぐ鳥。

 だが実際のところ、美鈴はステージの奴隷だ。俺が苦しみから逃れることができないように、彼女は努力を手放せない。

 

「それと……ずっと不思議に思っていたんです」

 

 椅子から立ち上がると、その音に美鈴が顔を上げる。

 

「ソロライブでもユニットライブでも、美鈴さんの歌とステージには、押し隠された何かの気配がある。それを出したほうがあなたの歌はより魅力的になるのではないか。そのように考え、俺は歌唱力の強化を記載してあなたに渡しました」

「……わたしの反応まで、予想していましたか」

「俺は優秀と言われたことがないんです。面白いやつだ、と言われたことなら何度も」

 

 からからの喉に水を流し込んだ。

 冷蔵庫から水を二人分注いで寝室に戻っても、彼女は停止したままだった。

 

「ひとまず座って話しましょう」

 

 俺は一足先に奥のローテーブルへ向かう。冷たいリノリウムの質感が、短くあたたかいラグへと置き換わる。対面に座った美鈴は水に口をつけなかった。

 俺はもう一度水を飲んだ。

 

「あなたはなぜ人を甘やかしたいのですか? 俺にはそれが不思議でなりません」

 

 人を甘やかしたいと思う気持ちは、ひどく歪だ。親しい間柄ならともかく、友だちのお世話をしたい、という欲を俺は耳にしたことがない。

 その欲望は、怒りのように、おそらく二次的な感情であると推測された。

 

「真実ってわりと多段構造をしていると思いませんか」

 

 そんなふざけた言葉がとどめだった。

 

「プロデューサー」と言ったきり美鈴は俯き、ようやく顔を上げたかと思えば、ファイルが収まった本棚とは別方向にある本棚に目を向ける。そこにはマインドフルネスやアサーションを含む、臨床心理学の本が並べられていた。

 

 自分が自分であるためには、この方法しかなかった。

 

 

 沈黙が俺たちを満たした。やってはならないことをしでかしたのかもしれない、と思うころにはすでに空気が終わり散らしていて、胃が後悔に握り潰される。冷たいものが食道を駆け上る。思わず胸を押さえつけた。

 落ち着いてから脇腹をさすったところで、痛みは到底俺を離れない。

 

「シャワーを……浴びてきても?」

 

 ようやく絞り出したような雰囲気だけれど、美鈴の声音はいつも通りだった。

 

「軽く掃除しただけとはいえ、埃っぽくなってしまいましたから」

「気づかずにすみません……湯船には浸かりますか?」

 

 少し考え、美鈴は首を横に振った。しかし俺は自分が使うだろうなと考えたので、結局湯を沸かした。

 

 

 美鈴が上がってすぐ、疲れていた俺も風呂をいただくことにした。

 美鈴は気恥ずかしそうにした。

 

 浴室に満ちる甘い芳香に、あぁそういうことか、と感情にすらピントを合わせられずに思う。変なことをするつもりはなかったから、どうでもよかった。

 

 入浴が流れ作業にならないようにだけ、気をつける。

 

 少しでも気を抜けば、皿洗いをするみたいに機械的に体を洗ってしまい、疲れを取る行為が日常の溝に埋まってしまう。それを防ぐためには、ホテルや旅館といった非日常に飛び込むか、意識的な入浴をするほかない。

 

 ユニットバスの家を選ばなくてよかった、と思う。

 

 目を閉じるとすりガラス越しに脱衣所の明かりを感じる。ぼんやりした意識でシャワーが体に打ちつけられる感覚を味わった。気が向いたときに浴槽に身を滑らせた。

 経済的ではないけれど、毎日湯船に沈んでいる。

 

 その時間だけ迫る苦しみが足を止めてくれる感じがして、漠然と、自分のような人間でも世界から許されている――と思えるからだった。

 

 

「想像していたよりも、ずいぶんと長い入浴でした」

 

 リビングに戻ると、美鈴は開口一番にそう言った。示し合わせたように壁掛けの時計を見る。いつも通り一時間だったけれど、男性の入浴としては長いのかもしれない。

 

「浴槽まで洗ってきたので、そのせいかもしれません」

「……まさか、ご自分で洗ったのですか?」

「普段そうしてますからね」

 

 疲労の霧がいくらか晴れて、代わりに眠気が立ち込める。そんな頭だったから、いざ夕食を目にするまで気がつかなかった。「あ」とこぼして立ち止まった。

 美鈴は俺を見ない。

 

「少しだけ、冷えているかもしれません」

「すみません気がつかずに……荷物を置いたら戻ります」

 

 売れずに何年も経った芸人や漫画家の部屋みたいだった寝室は、見違えるほど綺麗になっている。努力がすっかり取り払われた寝室は、引っ越しのために空にしたアパートを思わせた。

 美鈴に悪気はないのだろう。彼女はリビングの椅子にちょこんと座っていた。

 

 夕食はおいしかったけれど、美鈴の言葉通りいくらか冷たくなっていて、後味が悪い。それは心理的なまずさだった。気遣いを無下にしたように思えたのだ。黒い雪が降り積もっていく光景が不快だった。

 

「プロデューサーの好きな料理は、なんですか?」

「さぁ……なんでしょうね。基本なんでも食べますから」

 

 曖昧な返答をごまかすために、少し間を置いて補足する。

 

「あぁでも、コンビニのおにぎりは好きです。海苔がぱりっとしているあれですね」

「具材は」

「うんと……具材とかではなくて、海苔と米が――いえ。俺にとってあれは……違うな。とにかく好きなんです。おいしくて」

 

 とってつけたような「おいしい」が、一つの拒絶の音として奏でられた。美鈴に感想を求められて伝えた言葉とまったく違うイントネーションであればいいな、と思った。

 

 

 美鈴の洗い物が終わったら寮に送ろう――なんて考えながら、思うように進まない作業に向き合う。

 寝室に入ってきた美鈴を見て腰を上げると、彼女は「もう少しだけ」と俺を制した。

 

「門限は大丈夫なんですか?」

 

 薄暗いほほえみが返ってくる。確かに俺たちには関係がないけれど……まぁ、美鈴ならうまくやるだろう。彼女に促されるままローテーブルにつくと、それきり沈黙が寝室を満たした。美鈴はコップを見つめていた。

 コップには話すべき内容が書かれていないけれど、心を落ち着ける効果があるらしい。

 

「わたしは……観客(ファン)の心を、わたしで埋め尽くしたいんです」

 

 美鈴が物理的に激突してくることは稀だ。しかし心は頻繁に激突してくる。

 

「わたしがいないと……生きていけないようにしたいです」

 

 だから人を甘やかすのか。告白を抱きとめ、咀嚼し、嚥下する。

 

 俺は「そうなんですね」とだけ言った。

「はい」と美鈴は頷いた。そっと、美鈴がコップに手を伸ばす。かわいらしい喉が上下する。

 

 コップを置いた音が消えぬうちに、俺は口を開いた。

 

「美鈴さんは自分を隠すのがうまい」

 

 歌を聞いた人が、穏やかでやすらかな心地になってほしい。甘やかにまどろむような心地になってほしい。

 そんな真実を一段掘り下げ、ようやく深層(真相)が顔を覗かせた。

 

「決して嘘とは言いませんが、ある程度の真実をまぜた言葉は、それ以上人を立ち入らせないベールになりますから、奥が見えませんでした」

 

 美鈴はきまり悪そうに横を見る。いつも横を歩いてもらっているのに、正面から見る横顔は新鮮だった。

 

「俺の前ではもっとぐちゃっとしていただいて構いません。寮までお送りしますよ」

 

 美鈴はごねることなく、ゆっくりと俺に続いた。

 

 

「プロデューサーも、お上手ですよ」

 

 別れ際に言い残し、美鈴は後部座席から出ていった。慌ててエンジンを切って飛び出すも、彼女の背中は小さくなるばかりで、会話そのものを拒んでいる。

 不幸な人も、幸福な人も、後ろ姿は似て見えるのだな、と思った。だから、彼女が何を考えているのかまったく分からなかった。

 

 やがて小柄な輪郭が闇に溶け、それでも俺は立ち尽くす。

 

 自分から吹っ掛ける会話なら、脳内で算段を立てることができるので、ある程度はやれる。だが本当は、会話という瞬発力を求められる類の国語がとても苦手だった。ただでさえ人よりも時間をかけて学ばなければならないのに、追加条件に速度を加えないでほしかった。

 

 空を仰ぐと月と目が合う。

 欠けるところのない月。怪しい月。人の心を満たす蠱惑的な輝き。

 

 歌を聞いた人の心を自分で満たして、周囲の人を自分がいないと駄目にするようにして。果たして責任が取れるのだろうか。

 赤の他人の人生を、人生観を、感性をめちゃくちゃにすることには、覚悟がつきまとう。覚悟なくして茨の道は歩けない。

 

 ちゃんと理解しているのだろうか。

 

 なんて。到底聞けなかった。残酷だと思った。プロデューサー(大人)は、アイドル(子ども)が描いた理想に現実を描き加えてはならない。

 

 

 本来は唯が当直だったのだが、雑談をしているうちにずるずると時間が過ぎ去り、ボーカルトレーナー(優歌)ビジュアルトレーナー(愛美)と三人で施錠をして回る、といういつものやつ。

「最近の美鈴ちゃんは伸びがすごい」ということが話題になったのは、生徒がみんな返ったあとのレッスン室でだった。

 

 唯は鏡張りのダンススタジオで軽く体を動かしながら、優歌と愛美の話に耳を傾ける。音源がなくとも体に動きが刻まれており、踊りに支障はなかった。

 美鈴を褒めちぎっていた二人は、どうして彼女が変わったのかを真剣に議論し始める。

 

「やっぱりプロデューサーちゃんのおかげじゃない? 中等部にいたころは誰もついていなかったし……なんていうか、最近の美鈴ちゃんは少し肩の力が抜けていていい感じよ」

「いつも穏やかなように見えますけど……」

「それはそうだけど! こう、あるじゃない。雰囲気が」

 

 夜の九時を回っているのに、女性二人には元気があふれている。「体の大きさに見合わぬエネルギーを毎日(生徒)から分けてもらっているのよ」と愛美は以前話していた。

 元気があふれていると言えば、こんな時間まで体を動かしている自分に当てはまるのかもしれない、と唯は思った。

 

 

 守るかどうかはともかくとして、ちゃんとレッスンメニューを相談して計画的に進めるようになったとか、クリアファイルを見ながら真剣に何かを考えているように見えるとか、美鈴の話は浮島を転々とする。

 

(あのプロデューサーだからな……)

 

 美鈴になんらかの変化が見られてもおかしくはない。それにしては早すぎるが。いや、生徒を見すぎている自分たちが鋭すぎるだけなのかもしれない。などと唯も話を受けて考えを深めていく。

 

 

 汗を拭いて、最後のダンススタジオの施錠を確認したとき、唯は不意に声を上げた。

 

「案外似た者同士だからな、あの二人は」

 

 ドアが開かないことを入念に確かめて振り返った唯は、きょとんとする優歌と愛美を見た。

 

 一瞬、時が止まった。

 

 再起動した優歌が「似ている……かしら?」と愛美を見る。愛美は「さぁ……?」と眉根を寄せて優歌を見る。

 顔を見合わせた二人の心の声が、唯には聞こえた気がした。そんなことはないんじゃないか、と。

 

「美鈴ちゃんのプロデューサーちゃんは……」

「俊だ」

「俊ちゃんは、かなりまじめって聞いているわよ? でも……」

「分かっている」

 

 唯は、これで話は終わりだというようなきっぱりした口調で答えた。そして首もとをタオルで拭い、制汗剤を使う。

 帰り支度をしようと唯が更衣に足を進めても、優歌と愛美はどこか不服そうだった。

 

「いや、私しか分からないのであれば、それでいい。これからも目を離せない注目の……問題児コンビだ。そういうことなんだ」

「俊ちゃん……って言うのよね? 自己紹介してくれたの?」

「まあ。呼びづらいと思ったからな。聞いたんだ」

「え~なにそれ。唯ちゃんだけ知っていそうでずるい」

 

 ずるい。ずるい? 聞き慣れない言葉に唯はたじろいだ。

 愛美が詰め寄り、すかさず優歌も一歩を踏み出す。

 

「そうですよ唯さん。情報共有をしておいたほうが、指導もスムーズにできると思いませんか?」

 

 興味なのか職務に忠実なのか曖昧な二人から迫られるも、唯は口を割らなかった。鬼すら返り討ちにしそう、というのは昔受け持った生徒の談で、それを思い出してなんとなく嫌になる。どちらかというと、衝突する勢いで近づく二人のほうが鬼の身ぐるみを剥いでしまいそうだ。

 

 公私混同をしない二人とは知っているが、それでもなんとなく、言わないほうがいい気がした。

 

(私は……言いたくないのかもしれないな)

 

 低い天井を見上げると、温度のない電灯が白く突き刺さる。深々と貫かれた気がし、嫌気が差してため息をついた。

 

「とにかく、今日はもう帰ろう。明日もあるんだからな」

「駄目よ! 一軒目にいくわよ♡ 今日は帰さないんだから覚悟してね♡」

「……二日酔いで仕事をするのはごめんだな。一軒目で終わってくれ」

「う~ん……唯さんが一軒目でお話してくれたら、もしかしたら……?」

 

 私は話さないからな、と唯は天井に向けて叫んだ。

 

 

 美鈴も俊も、ちゃんとした人への嗅覚を備えている。だから優歌や愛美とは距離を置こうとしているのかもしれない。彼女らは頼られたら全力で親身になってくれそうだから。逆に唯と話をするのは、つまるところそういうことだ。

 トレーナーにはいろいろな性格の人がいたほうがいい、という学園長の狙いは見事に功を奏したらしい。

 

 とはいっても、この二人がちゃんとしているのかぁ、とジョッキを叩きつけるみたいにして置く二人に対し、唯は疑惑の眼差しを向ける。

 最初は唯を詰める会などと称していたのだが――それも結婚できないとか彼氏ができないとかそういったことをちくちくちくちく刺してきやがって――今となっては、のんべんだらりと雑談を続けている。月が沈んだら忘れるような話ばかりだ。

 

 

 頼れる存在を忌避する感性を持った人が存在することを、唯は長年の経験から知っていた。特に自分よりも若い――唯自身もまだまだ若いつもりなのだが、高校生や大学生には敵わないので仕方なくこのように呼ぶことにしている――人たちは、親の影響なのかそういう人物が多い。

 最近になってから――ここ数年は最近と呼ぶよね――そういう子が増えた。

 

 頼り方を知らない、適切な場面で人を頼れない、と表現するのが正確だろうか。

 

 学園を名乗る以上、子どもを正しい方向に伸ばしてやる必要があった。

 自分とあまり年齢の変わらない大学生はどちらに入るのだろう、と唯は決まりきった考えを浮かべる。

 

 俊と美鈴の見ている世界は伝えたくない。二人が死守しているものだからだ。

 自分が板挟みにあうのは避けたいが、耐えるほかないのだろうか。どうすればいいんだろう。

 

「ゆいちゃ~ん、もういっけ~ん」

 

 どうすればいいんだろう、と唯は目の前の光景に頭が痛くなった。

 

「明日死んでても知らないからな……!」

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