抱きしめて殺せ!   作:ぞんぞりもす

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☆八話

 プロデューサーは、経費で買うとき以外は基本的に現金を使わない。だから「レッスンウェアを新調しませんか?」という問いかけで始まったデートは、会計のときに一気に冷めてしまった。舞い上がり、あれもこれもと試着して選ばせたのは、特別な一着になるはずだった。それなのに。

 

「但し書きはいかがなさいますか?」という店員の声が耳障りだった。

「こちらで書くので大丈夫ですよ」と答えるプロデューサーの声も、先ほどまでの魔力を失っている。

 

 耳に産みつけられたセミの卵が一斉に孵化したみたいに、ショッピングモールの雑音が音量を上げた。

 頑張ってボリュームを絞ろうとしてもうまくいかない。つまみを操作する手がわたしの意識を離れている。

 

「そういった時期でもないと思うのですが、どうして経費が急に?」

「さぁ……実は俺も」

 

 プロデューサーの意識を店員から引き剥がしたくて、そんなことを言ってみる。でも、答えたあとすぐさまレジに向き直ってしまう。

 

 支払いは基本的にQRコードかクレジットカード。大学に進学するときに買ったという財布は折りたたみ式の有名ブランドのもので、カードでぱんぱん。お札を入れるスペースはレシートに占領されている。レシートの保存期間はたぶん二ヶ月で、それを過ぎたら捨ててしまうけれど、特に帳簿をつけているようには感じられない。意外とズボラなので。

 

 片付けが苦手なのかな? と前までは考えていたけれど、本棚にきっちり収められた心理学の本を見たときにひっくり返された。片付ける意識を持てば、ちゃんとできる人だ。まりちゃんのように魔法で片付けが終わるとは考えていないらしい。

 

 小銭入れはずっと昔に曾祖母が作ってくれたものを愛用しているらしく、昔の写真から取り出したみたいに色褪せている。新しいものと古いものとがごちゃごちゃに継ぎ接ぎされているのがこの人だった。

 

 テナントの一つから出て、吹き抜けになっているフロアを散歩する。プロデューサーはわたしを見た。手には受け取った紙袋がそのままぶら下がっている。

 

「他になにか買いたい物はありますか?」

 

 ぱっとは思いつかないけれど、となりを歩く人の思考をもうちょっとだけ占有していたいから、悩んでみる。でも思いつかない。時間を稼ぐのにも限度がある。

 

「もしも今いますぐ浮かばないのなら、取っておきますが」

「食材を買って帰りませんか?」

「構いませんが、経費では落ちないので高いものは買えませんよ」

「……半額じゃないお肉を食べたいと思いませんか?」

「冷凍すればだいたい同じ味なので、特に思いません。奮発しますか?」

「いえ……」

 

 プロデューサーは流されない。特に自分の生き方とか生活とかの話になると、鋼鉄の芯が一本体を貫いているように感じられる。外的な情報は増えていくのに内的な情報はちっとも増えていかなくて、わたしはプロデューサーの家の前で何日も夜を明かす羽目になっていた。

 

「靴は……どうでしょうか。ちょうどレッスンウェアと同じ時期に買っていたので、買い替えるなら、合わせて」

「見に行きましょう」

 

 あまり来ない場所なのだろう。プロデューサーはまっすぐ案内図に向かう。実はわたしはさっき案内や看板を見ていて場所の予測はついていたのだけれど、黙ってついて歩いた。

 じっと案内を見つめるプロデューサーの横顔は、パソコンと向き合っているときとまったく同じもので。デートなんて事実は頭のどこにもないのだろうな、と観察する。

 

「このあたりですか?」

 

 そうして場所を指さしたプロデューサーと、目が合う。わたしはごく自然に視線を動かして「はい」とほほえんだ。見ているなんてこの人はきっと気づかない。プロデューサーは目的物だけを見る。一心不乱に一意専心で。

 その視線の動かし方に、わたしは懐かしいものを感じていた。

 

 今だって、すれ違う人のファッションに目を向けるのに必死で、最短経路から外れた道へとそれてしまっている。……夢中なんじゃない。必死なんだ。そう思ったら、心臓がじくっと痛んだ。

 

「せっかく休みの日に出歩いているのですから、お昼ご飯は外で済ませましょう。夕ご飯はお家でゆっくりと」

「……そう、しますか」

 

 プロデューサーはほんの少し眉を動かした。したいことをこらえるときの仕草だ。大方わたしのプロデュースのことで、家に帰ってからやりたいことがあったのだろう。

 伝えてもらえたら向き合えるように準備は整えてある。でもプロデューサーはなかなか玄関を開けない。わたしはカーテンから漏れる寂しげな光を見つめ、ただ雨に降られることしかできない。

 

 プロデューサーの頭の中には、常にわたしがいる。とても喜ばしいことのはずだけれど、ちっとも嬉しくなかった。わたしの思う「わたしでいっぱいにしたい」とはかけ離れているように感じられるのだ。

 いつの日かそうなればいいと思うのだけれど、兎にも角にも、まずは夢の中のまりちゃんを下せる実力を安定させなければならない。わたしはそのあとにプロデューサーの問題と向き合う算段でいた。

 

 

 靴を見繕い――今度はレッスンウェアほど時間がかからなかった――わたしが希望したファミレスに入る。昼をだいぶ回っていたので待つ必要はなかった。

 

「みなさんお付き合いしているんでしょうか」

 

 店内にはカップルと思われる客が多く、フロアですれ違う人たちもまた同様であったことを思い出す。

 

「アイドルの恋愛を……」

 

 注文をしたはいいもののいまだ調理中のようで、手持ち無沙汰になったわたしはメニューを斜め読みする。

 自分なら何が作れるだろう。所要時間は。出来栄えは。できるだけ正確に脳内に描き出す。

 プロデューサーは何を好むだろう。ハンバーグにおろしポン酢を頼んだことはちゃんと心のノートに書き留めてある。あとはサイドで野菜も。でもそれは好きだからではなく、あまり悩みたくなかった結果無難な選択肢を口にした、という程度の言動に映った。

 

「どう思いますか、プロデューサー」

「……どうでしょう」

 

 手もとには色鮮やかな料理が所狭しと並んでいる。まるで余白があることを罪だと思っているみたいに、メニューはぎらぎらと発光している。ビル群のネオンから目を外すと、体は自然とオアシスを求めた。

 

 プロデューサーは「どうでしょう」と言ったきり、答えを返さない。駄目だと言わない? 彼は難しい顔でスマホを見つめたまま、彫像のようにじっとしている。きっと蚊が近くを飛んでも気にしない。

 

「プロデューサーは……いえ。幸福とはなんですか? あなたにとって」

 

 靴を買うのも、おしゃれするのも、好きな人がいるのも。普通のことなのに。アイドルはたいていの場合、一番最後だけが許されない。

 人を最も幸福にしてくれる感情を排除してステージに立ち続けなければならない。中にはそれが耐えられない人もいて、週刊誌に撃たれる。

 

 ありふれた幸福を感じるためには、ありふれた感性でなければならない。

 

 これはわたしが最近になって知ったことの一つだった。

 

「いきなり難しい話ですね。哲学ですか」

 

 プロデューサーはようやく顔を上げる。わたしの考えを読み取ろうとするみたいに、瞳を見つめた。

 わたしは話を繋いだ。

 

「猫にはコーヒーが毒になります。わたしたちもあるいは――と思いまして」

「幸せなんて人それぞれですからね。俺と美鈴さんのが違う場合だってあるでしょう」

 

 そういうことじゃないんだけどな、と思う。そっちではなくて、毒のほうをフィーチャーしてほしかった。でもプロデューサーはそれで終わりと考えたみたいで、再び視線を端末に戻す。わたしはなんとか意識を引っ張る。

 

「どうしますか? そうしたら」

「アイドルの理想像については美鈴さんの望む通りになるよう努めます」

「もっと欲深いことを言うのは」

「プロデューサーは……アイドルのお願いには全力で応えます。欲を叶えたいのであれば、俺以外の方を探してくださいとしか」

「駄目です。認めません。わたしのプロデューサーはあなただけなんですから」

 

 話を戻す機会を失ったわたしの前に、プレートが運ばれてくる。

 

 わたしのご飯のほうがおいしいんじゃないかな、なんて。傲慢だろうか。でもわたしには自負がある。大衆に好まれる味よりも、わたしはプロデューサーに特化した味つけをしている。

 

 高い壁に挑むように焦げ茶色の物体を睨む。

 

 ナイフで切ったハンバーグの断面から肉汁が垂れ落ち、プレートで跳ねて、フォークを持った手に当たる。わたしに現実を教えてくれるように、そっと、でも確実な痛みが心臓に伝わった。

 

 

「プロデューサーに趣味はありますか?」

 

 バックミラー越しに一瞬だけ視線が交差した。プロデューサーはすぐさま外の闇へと視線を戻す。

 

「昔はゲームとかしたんですけどね……少し。少しだけ」

 

 プロデューサーは罪を告白する罪人のように声を絞った。

 

「今はもう、大学の課題やら他アイドルの情報集めやら時事の収集やらで手いっぱいです」

「楽しいですか?」

「……今日の美鈴さんは、考え事が多いですね」

「いつものプロデューサーほどではありません」

 

 車の運転中はかなり返答が滞るし、内容も的はずれな場合が多い。でも、その中には普段感じられないプロデューサーが滲んでいて、だから好きだ。運転に理性と知性が割かれているからだと思う。押さえつけたものの欠片が少しだけ顔を覗かせてくれる。わたしはそれに貫かれたい。

 

 わたしは出会った当初から気になっていた疑問を、とうとう彼にぶつけた。

 

「あなたは……笑いませんから。気になって」

「確かに。いつからか笑わなくなりました」

 

 じゃあどうして、今はそんなに無邪気に笑うの。記憶にあるどの顔よりも愉快そうで、腹が立った。悲しかった。その顔をさせるのはわたし由来の感情であってほしかった。

 

「どうやって笑うんでしょうね。今みたいに」

「笑っている自覚はあったんですね」

「そりゃまあ。でもやり方は分かりません」

 

 楽しさを感じる頭も、寂しさを感じる頭も、幸福を感じる頭もきっとない。わたしが同情を向けたら煩わしいと思われるのだろう。

 

 

 楽しさなんてあとから付与する価値にすぎないのかもしれない。

 

 振り返ったとき、かけた時間や労力を虚無に感じないように、楽しいという感情を塗装する。塗装された果皮を剥くと、まっくろな不安と虚空とがとぐろを巻いている。食べようなんて思わなくても勝手に口に飛びこんでくる。味なんて言わずもがな。

 

「暗いです。そと」

 

 流れ星みたいに、光は一本の線になって窓を通り過ぎる。

 

「明るすぎますよ。ぎらぎら、ぎらぎら」

 

 楽しさというのは、上手に生きることのできる人たちが見つけ出した考え方で、そんなものなくたって生きていける人は存在する。

 

「寂しいです」

 

 去りゆくシャツの裾すら掴めない。

 

「それは……どうしてでしょうね」

 

 偏った目で社会を見ることでしか守れない聖域が、あるのだと思う。

 

 

 あさり先生がわたしに話しかけてきたのは、その翌日のことだった。

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