曇りの日は外で頭を悩ませ、雨の日は茶道室で頭を悩ませた。もちろん昼寝をすることもあった。
晴れの日は能天気に外でサボった。たぶん、プロデューサーの目に映る私をマイペースなままでいさせたかったのだと思う。
「そんなずっと外にいて、日焼けしないものなんですか?」
挨拶代わりの心地よい問いが、永遠に耳の奥で反響している。もちろん日焼け対策にお金をかけているから、あまり日焼けしないだけだ。去年と比べて、対策にお金をかける強度は増していた。
今日の空は曇っているから、その言葉を皮切りに会話が広がることはないだろう。だってそもそもプロデューサーはくたばっているはずだから。
以前、こっそり学校を抜け出してプロデューサーの家に行ったことがある。合鍵を回す音は宝箱の鍵が回る音だった。
寝室でぐったりしていたプロデューサーは、ベッドの上でなにかの書類を読む手を止めてわたしを見、不快を露わにした。その日だけはなんとかお世話させてもらったけれど、それ以来は注意している。
プロデューサーの中では、わたしが学校内に存在していること――ただしまじめに授業を受けているかどうかは問わない――が重要であるらしかった。放課後に彼の家へ向かったとき何も言われなかった経験から断定できた。
「秦谷美鈴さん……ですよね?」
話しかけてきたのは細身の女性だった。黒の名簿に指示棒を持っているあたり、教師なのだと推測できる。でも高等部の先生にこんな人はいなかったはずだ。
ありありとした困惑を滲ませるわたしに、女性は朗らかに笑いかける。プロデューサー科の先生を名乗った女性は、名前を根緒亜紗里といった。
「ちょっと……そうですね。おとなりいいですか?」
きょろきょろとあたりを見回してもちょうどいいスペースはない。人懐っこく、親しみやすく、人好きのする笑みを浮かべたあさりさんは、わたしのとなりに腰を下ろした。
「少し、お話があって」
曇りなんて似合わないような女性なのに見るからに重たい表情をしていて、本業の俳優と肩を並べられそうな演技力をしていると思った。あまりオシャレでない服すら圧倒的なビジュアルで着こなすモデルみたいに、あさりさんはすべてを実力でねじ伏せて納得させられる。
そんなことに意識を向けながら、ふわふわのボブって湿気が多い日は爆発して大変なんですよね、という変な同情に意識を割いた。
「俊くんのことで――」
「俊くん?」
わたしは即座に噛みついた。不快だった。
「どういったご関係で?」
わたしはほほえみを崩さぬまま、あさりさんを見つめる。
「答えていただけませんか?」
あさり先生は――あさりさんと呼ぼうとすると訂正してくるので――わたしの視線を軽く受け流して、「俊くんは
プロデューサーとずいぶん親しそうで、なおかつ若い。大人の余裕もある。強くアクセルを踏むみたいに警戒のメーターがぐっと上昇する。肉食獣が草むらからぬっとあらわれたみたいだ。
「へぇ……そうなんですね」
「えぇ。そうなんですよ?」
目には見えない火花が散る。わたしはきっとどす黒いオーラを放っていたし、あさり先生もほほえむにしては粘ついたオーラを放っている。
たったこれだけで、わたしたちが敵対する理由は明らかだった。あさり先生にだけは負けられない。
「なーんて。冗談ですよ」
握った拳をそっと開いて花を出すマジシャンみたいに、あさり先生はオーラを霧散させて笑いかけてくる。
このまま日が暮れるのかと思うほど長い時間だったのに、あっという間に覆された。わたしはいまだ泥沼みたいな空気から抜け出せずにいる。
あのままでもよかったとわたしは考えている。一歩でも引いたら負けると思った。だから、わたしはプロデューサーのとなりを歩く資格がある女なんです、ということを示すためには、目をそらすわけにはいかなかった。
いまだ半信半疑のわたしをよそに、あさり先生は話を進めた。
「俊くんのことでお伝えしたいことがあって。本来であれば、本人の口から直接伝えたほうがいいのかもしれませんが……」
慣れない呼び名が脳のしわにこびりついて、いくら水を流しても取れないような感じがする。
「きっと話すまでにはたくさんの時間がかかってしまうでしょうし、お二人の歩みをここで止めてほしくないんです。だから少しだけ、おせっかいをさせてください」
あさり先生は親しみやすい笑みを浮かべる。わたしはすでに彼女を敵と認定していたから、胃の底に粘ついた感情が滴り落ちるだけだった。
「おせっかいと分かっているんですね」
「もちろん。でもついしちゃうんです。秦谷さんにもそんな経験がありませんか?」
「……あります。何度も」
「そして俊くんは、それをことごとく流してしまう」
「……あります。何度も」
あさり先生は「ね」と間延びした相槌を打った。わたしは先生の悲しそうな表情に胸を突かれた。ぷかぷかと流れる雲を見ているのに、心は地の底を這っている。
「私のときもそうでした。かろうじて心療内科に行ってくれたくらいなんです」
当時を思い返し、あさり先生はほほえみを浮かべる。深い傷を追った動物が自分の命を諦めたときに浮かべるような、優しさと穏やかさに満ちていた。
「去年の秋」とあさり先生が言ったとき、そこにはきっと、過去問みたいに広げられるプロデューサーとの日常があったはずだ。それが欲しくてほしくて仕方ない。だからわたしは黙って聞いた。
あさり先生が口にした診断書の内容はいわゆる適応障害というやつで、心理学的な説明もまじえながら話してくれた。おかげでわたしは、手の中に収まったスマホの存在を完全に忘れていた。
「休学にあたって作成された診断書には、最後に、本人が話してくれた内容はごく一部でもっと抱えているだろう、とありました。それを先生は――この場合は病院の先生です――聞いてほしかったんだと思います」
「でもわたしは」とあさり先生は目を伏せた。視線の先で、二匹のアリが懸命にクッキーの欠片を運んでいた。力の限りを振り絞って、巣までひたすら。途中であさり先生のパンプスにぶつかって立ち往生してしまった。先生は、それに気づかない。
教えてあげると、あさり先生はすぐさま足をよせた。そしてわたしと同じように無言で二匹を見守った。
「お世話の難しい……花みたいですね」と私はこぼした。
あさり先生は静かに笑った。
「笑うことに……力がいるんだと思います。でも俊くんには、もうそんな力が残されていないんです」
「じゃあどうしてあんなに毎日……夜遅くまで」
わたしの呟きに、あさり先生は力なく笑ってみせる。ヒマワリにしろアジサイにしろ、それがどんな形であれ、あさり先生には笑顔が多い。プロデューサーとは対照的だった。
「直接聞いてみたことがあるんです。どうしてそんなに夜遅くまで残っているんですか、と。あの日はとても晴れていました。廊下の窓から見える夜空には、まるで金平糖をばらまいたみたいに星がきらめいていて」
先生は空から顔を戻し、曇天を吹き飛ばすような屈託のない笑みを浮かべる。
「そうしたらなんて答えたと思います? 俊くん」
答えに詰まった。わたしにはこの問いが、あなたはどれだけプロデューサーのことを分かっているんですか、という挑戦状に思えた。
生半可なことは言えない。でもじゃあなんて言っただろう? などと思考を巡らせているうち、タイムアップが訪れる。
「困ったような顔で、そりゃまぁ、って。俺はやるしかないんですよって。……それ以来、聞いてません」
わたしはつい、「どうしてこんなまねを?」と聞いてしまった。
あさり先生はどうやら誤解したらしく「気になるじゃないですか。大切な生徒が無理してるんですから」と太腿の上で重ね合わせた両手を見る。そこに若い色をした落ち葉がひらひらと乗った。
「わたしが言いたかったのは……どうしていま、わたしにこんな話をしたのですか? ということです。敵に塩を送っているんですよ」
「私は、もう敵じゃないですよ」
「え……?」
後悔が血管を押し広げて全身を駆け巡る一瞬の間があったけれど、わたしはどうにか「それって」と絞り出した。
「いろいろな事情があるんです」
わたしと同じくらい、あさり先生も凍えていた。「本当なら気にかけてあげたいですし、今だってその気持ちは変わりません。なんにも……嘘偽りなんてないんです」と先生は断言した。断言と呼ぶにはあまりにも儚い口調だった。
「私たちに、気にかける人を選ぶ権利があるように。気にかけてもらう人たちにも、気にかけてもらう人を選ぶ権利があります。どれだけわがままでも、気持ちを無視しちゃいけません」
淡く、いまにも空気中に溶け出してしまいそうな笑み。『ほほえみ』と検索したら一番上に出てきそうな、完璧な口角の上げ方。正直見ていられなかった。
「でもプロデューサーは……自分の気持ちを無視しているように見えます」
「ほんとそうなんですよ。困っちゃいますよね~」
初夏の風は、いまだに青い香りを漂わせている。真夏よりも心なしか明るい色をした梢の先には、同様に、もう少しだけ深まる余地のある葉が茂っていた。青空だって、秋や冬のように薄水色っぽくないだけで、完全に真夏の青かと問われればきっと違う。記憶の中には、プロデューサーとの夏がない。
一年の途上はわたしとプロデューサーとの関係で、先生と彼との関係は、おそらくすでに旬がすぎてしまったのだ。だから次の季節に芽吹きを託して、先生はここへやってきた。
夏は……すぐそこだ。と思いたい。わたしたちの関係には地球温暖化なんて影響がないけれど、うだるような暑さが少しでも進展を手助けしてくれたらいいと思う。
先生はわたしの髪飾りにそっと手を触れて「綺麗です」と言った。そう呟いた先生の表情のほうが、ずっとずっと、綺麗に思えた。
「あ……! すみません。つい」
「いえ。気に入っているんです」
ほほえみを交換し、わたしは「プロデューサーからは褒められたことがありません」と付け加える。
あさり先生は口もとに手を当てて「らしいですね」と言った。
「俊くんが人を選ぶなんて思いもしませんでした」
わたしも選ばれたわけではないのだけれど。いまとなっては……選ばれている。選んでもらえたのだと信じている。だからなにも言わなかった。何よりも、プロデューサーという唯一無二の呼び方が独占欲を満たしてくれるものだから、それをめちゃめちゃに引き裂こうなんて思えなかった。
「プロデューサーは……」わたしは迷い、意を決する。「
ふらふらと口先から転がり出た言葉はやわらかな空気に阻まれるほどに意志薄弱で、さまよい歩く人の不規則な足音みたいなメロディーを奏でる。
「そうですね~」とあさり先生は先生っぽく顎に手を当てた。
「年下の人にもたれかかるのが嫌なのかもしれませんし……唯さんと秦谷さんでは系統が違いますし……難しいですね。でも唯さんは、叱咤して俊くんのことを走らせてくれそうですよね~」
もう十分走っているのに。とあさり先生の瞳は物語っていた。同時に、そこが
「わたしたちは……だから気にかけてしまうんでしょうね」とわたしは言った。
あさり先生は仕方なさそうに頷いた。
苦痛の中にこそ人生が存在している。すべてが努力に集約されていく。ポジティブで貧乏な言葉で世間に迎合するのではなく、魂の奥底からふつふつと湧き上がる苦痛や憎悪の滲んだ言葉が、わたしの闇をちりちりと焼き焦がしてくれる。その感覚を味わわせてくれる人は珍しくて、気にかけてしまう。
「それにしてもまさか唯さんが」
あさり先生は遠くの青空を見た。
「私も頑張ったらワンチャンスあったのかもしれませんね――ってもう! そんな目で見ないでくださいよ! 冗談です!」
少し経ってから、「冗談にしか、できないんです」という呟きが地面にぽとりと落ちた。
先生は「何かあったらいつでも連絡してください」とラインを交換してくれた。その日の夜、わたしは一人部屋に帰ってすぐにメッセージを送った。内容はプロデューサーと唯さんの仲がいい件についてだ。
『ダンスできる人がいいんでしょうか? それとも、あんなふうに接してくれる人がいいんでしょうか?』
『俊くんはどちらかというと後者な気がしますけどね~』
すぐに返信が来て、あさり先生の言葉を咀嚼している間にも『でも、誰かの好みにアジャストするのは苦しいですよ』と続く。
『ほら、人魚ってダンスは不得意かもしれませんけど、魔性の歌声があったりするじゃないですか! そんなふうに、得意なことで……自然な自分で振り向いてもらったほうがいいんじゃないでしょうか』
恋愛は長期的な関係だ。相談なのか雑談なのか分からないラリーが続く。そのうちに通話が始まった。
学校の先生と通話をするのは、なんだか妙な気分だった。日常で顔を合わせている人が声だけの存在になる感覚は、特有なものな気がする。
「迫っても駄目なんです」
『……でしたらもっと迫ってみませんか?』
先生の声のトーンが下がる。今は夜なのだな、と思ってわたしはカーテンに目を向けた。うっすらと細目を開けて想像した夜空は明かりを忘れている。
『押して駄目なら引いてみろなんて言いますけど、引いたらもう後戻りできなくなりますよ。押して駄目ならもっと押せ、です。扉が壊れる寸前まで。それで壊しちゃうのは駄目ですけどね!』
最後にぱっと花が咲く。むりやり吹っ切るように笑うあさり先生が脳裏をよぎる。
『きっと美鈴さんなら大丈夫だと思います』
「……でもいまは、まりちゃんとのことがあって」
『そうですね。一つずつ着実に――がモットーでしたもんね』
まるでとなりで話を聞いてくれているお姉ちゃんみたいな口調。家族と離れて寮暮らしになってから、わたしは初めて、心が無防備に安心する感じを覚えた。長らく忘れていたにしては、久しぶりに取り出しても埃を払う必要がなかった。感情ってそういうものだ。
わたしは知らぬ間に張り詰めていたのかもしれない。だって中学のときからそうだったから。
たった一つだけの狭い室内、薄い壁、壊れた絆。ここがわたしのいまの居場所だ。
わたしはローテーブルに置いたスマホを持ち、這ってラグから移動する。ベッドの上で膝を抱えるルーティーンにほんの少しの安心が灯った。
『手遅れになる前に引き上げてくださいね……なんて。アイドルに頼むことではないと思うんですけど』
「アイドルだって……人ですから。そういうことも頼まれていいんです」
むしろわたしにしかできないのなら、とても嬉しい。
プロデューサーには、わたしだけを見ていてほしい。