俺は書斎の机に向かい、固くペンを握り締めていた。
次の冒険に旅立つ前に、どうしてももう一冊、新作を書き上げておきたかったのだ。
執筆を始めてから、すでに一週間が過ぎている。
だが、いまだに原稿の一枚目すら埋まっていない。書いては消し、言葉を選び直しては手が止まる。意味もなく空白を眺め、また最初に戻る――。その繰り返しに、さすがに疲れてきた。ついに堪えきれず、俺はペンを放り出し、そのまま机に突っ伏した。
「調子が悪いな……こりゃ」
俺は壁に掛けられた世界地図を、じっと見つめた。
この世界は、おもに三つの大陸で構成されている。
俺が今暮らしているのは、そのひとつ──『イリアス大陸』。この大陸では、イリアス教の影響力が非常に強く、以前まで女神イリアスは、この大陸にあるイリアス神殿に自ら降臨していたそうだ。
……女神本人は、自分の名前があちこちで使われていることに、何も思わなかったのだろうか? まあ、まさかとは思うが――案外、自分のことが大好きなタイプなのかもしれない。
他に、この大陸の特徴として挙げるなら、他の二大陸と比べて魔物の脅威が小さく、比較的平和な土地であるということだろう。
土地も肥沃だし、人間が住むには最適な場所だ。
二つ目は『セントラ大陸』。
世界でもっとも面積が広く、四つの強大な国家──通称『四大国』がそれぞれの方角に勢力を張る大陸だ。
南部を治めるのは、イリアス教を国教とする宗教国家『サン・イリア』。
西部には広大な砂漠を領地とする『サバサ』。豊かな自然に恵まれた東部には、芸術と文化が花開く『グランドノア』。そして北部には、技術と軍事力に長け、他国を圧倒する勢いを持つ『グランゴルド』が君臨している。
俺がもっとも多く冒険の舞台としたのは、このセントラ大陸だ。
妖精やエルフたちが共に暮らす、緑深き精霊の森。多くのスライムたちがのんびり暮らし、“スライムの故郷”とも呼ばれる、美しき水が溢れるウンディーネの泉。そして、強力なドラゴン娘たちが闊歩する灼熱のゴルド火山。
危険に満ちた土地ではあるが、それ以上に探検しがいのある場所が多く、何度訪れても飽きることはない。
行くたびに新しい発見と出会いが待っている。
エクレアとミクリの故郷も、このセントラ大陸に存在する。
エクレアはウンディーネの泉近くの大滝。一方のミクリは、北東のヤマタイ村の出身だ。
最後に、最北端に位置する『ヘルゴンド大陸』。
魔王が魔物の君主として君臨する土地であり、魔物たちの拠点地。他の二大陸と比べても、危険度は群を抜いて高く、不毛とまではいかないものの、過酷な環境が広がっているという。以前は人間の治める都市もあったそうだが、今はどうなっているか分からない。
この地について俺が知っているのは、本や噂話からかき集めた程度の情報に過ぎない。
一応、アイシスがこの大陸の出身で、しかも一時期は──あろうことか、魔王が鎮座する魔王城で働いていたらしい。聞けば、もっといろいろ教えてくれるのだろうが、俺はあえて行き方以外は聞かずにいる。
なぜなら、次の冒険の目的地として、この地を選んでいたからだ。
そのほかにも、三十年ほど前に突如として隆起し、いまだに詳細が明らかになっていない――雪と険しい山々に覆われた、謎めいた大陸。
また、世界樹と呼ばれる巨大な樹がそびえ立つ、神秘に満ちた島も存在しているらしい。ヘルゴンド大陸での旅を終えたあとは、次なる目的地として、そのどちらかに足を運んでみたいと思っている。
「──ああ、駄目だ駄目だ。次の冒険のことを考える前に、今回の原稿を完成させなきゃ」
「何を唸っている。さっさと昼飯を作れ。先程からよだれが止まらん」
「さっき食べただろ……」
ノックもなしに部屋に入ってきた、ぺこのよだれを拭きながら、俺はため息をついた。
・・・・・
早すぎる三時のおやつを済ませたあと、俺はぺこを連れて街へと繰り出した。
向かったのは書店だ。自分の本だけでなく、他人の作品を読むことで、刺激を得られるかもしれないと思ったのだ。
「本は食べ物じゃないからな。食べるのだけはやめてくれよ。あまあまだんごより高いんだから」
「善処はしてみる。……なんだ、あの集まりは」
目的地である書店の前に、人だかりが出来ている。
馬車の上に女商人が立っており、手には一冊の本を持っている。俺とぺこは群衆の最後尾に立ち、様子を見守った。ぺこが見えないと文句を言うので、俺は仕方なく彼女を肩車した。
女商人は意を決したように大きく息を吸い込むと、朗々とした声を張り上げた。
「今日はええ~お天気の中、集まってくれてありがとうな~!」
女商人が本を持っていない方の手をブンブン振り、笑顔で挨拶する。
どうやら
「今日は! 超! チョウ! ちょう! もん~のすごいもんを持ってきたで~! 偉大なる冒険家『ウォーク』のワールドウォーカー! 第一巻! それも! 初版本やでぇ~!!」
その言葉と同時に、本を高く掲げて見せた。
商品の正体を知った観衆は、ざわめきながらも困惑の声を上げる。そして俺もまた、自分の本がなぜか大々的に宣伝されていることに戸惑い、思わず眉をひそめた。
「おぉ~……珍しい本、だけどよ……」
「そんな大げさにして売るほどか?」
観衆はそれぞれまちまちの反応で、顔を見合わせて囁き合っている。
たしかに、俺の初版本はまあまあ希少だ。だが、出版社が初回からある程度は売れるだろうと見込んでいたため、印刷部数はそれなりに多い。熱心に探せば、大きな街や人口の多い村なら、何冊かは見つかるはずだ。
女商人はわざとらしく肩をすくめ、困ったように首を振ってみせた。
「ちっちっち! たしかに、初版だけやと大したことないな~! ほんならや! このページを見てみぃ!」
ババーンと口で効果音を付けながら、女商人が本の最後の方を開く。
そこには──俺の“サイン”が、はっきりと記されていた。
「うおおおお!? マジか!!」
「しっ、信じられん! ウォークはサイン会などしたことない覆面作家だぞ!?」
「すっげぇモンじゃねえのか!?」
観衆のどよめきは大きくなり、女商人はニヤリと笑ってサインの入ったページを見せて回る。
俺は目を凝らして、サインを確かめる。──本物だ。俺の字で間違いない。
「横には『この本を、可憐なあなたに贈ります』って書いてあるんや~! ファンならこの意味はわかるやろ~?」
「おいおい! それって!」
「第一巻に出てきた、村の少女のモチーフになった子のことじゃないかしら!?」
「マジか!? それならもっと価値が上がるぞ……!」
村の少女は、第一巻の内容において重要な役割を担っている。
というのも、小説内の構成では、冒険家ウォークがその少女に語りかける形で物語が進行していたからだ。これは、実際に俺がサキュバス村の少女に旅の話を聞かせたときの体験を、そのまま物語に落とし込んだのだ。
「ニセモンじゃねぇのか??」
「いーや! これは間違いなく本物や! 出版社にちゃんと見てもろうて、魔法鑑定書も出してもらってとるで~!」
「えぇ……そんな話、俺はまったく聞いてないぞ」
女商人の威勢のいい声に合わせて、観衆は一斉に沸き立った。
もはや、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。イリアスベルクでここまで盛り上がるのは、少し珍しい。最後にここまで騒がしかったのは、アイシスが酔っぱらって、上半身裸で噴水の中を踊り回ったとき以来だ。
……よく考えたら、三日前の出来事だった。
意外と頻繁に盛り上がってるな、この街。
「さあ! さあ! 欲しゅうなってきたやろ!? これを今日は特別に──競り売りにするで~!! まずはぁ~……十万ゴールドからスタートや!」
「十五万!! 十五万出すぞ~!」
「なあ、あれは我らにも儲けが入ってこないのか? そうすれば今日は夕飯を豪勢にできるのだが」
「あれは中古本って扱いになるから、俺に利益が入ってこないな。それと、毎日ひもじい思いをしてるみたいな言い方するんじゃない」
「やへよ、やへよ……」
俺はぺこの頬をぐにーんと引っ張りながら、競りの行方を眺めた。
・・・・・
競りはとんでもなく白熱し、なんと俺の本は──百万ゴールドで落札された。
落札したのは、通りすがりの高級そうな服を身にまとった女性。おそらく、たまたまサザーランドに滞在していた、どこかの“やんごとなき”お方なのだろう。……俺には、とある城で小さなメダルを集めては珍品と交換してくれる人に見えたが――たぶん気のせいだ。
「うひょひょひょ~い♪ これで、うちのお店がついに現実になるんやぁ~!」
仕事を終えた女商人は、上機嫌で鼻歌を口ずさみながら、荷物を馬車へと片付けていた。
競りが終わったあと、彼女は俺の本を大量に売りに出した。落札はできなかったものの、本をまた読みたくなった人が続出したのだ。そこへ、競りの前から用意していた在庫を手際よく売りさばく――まったく、抜け目のない商売上手である。
「なあ、少しいいか?」
「んん~? スマンけど、今日はもう店じまいやで」
「ああいや、本が欲しいわけじゃなくて。ちょっと聞きたいことがあってね」
女商人は振り返り、俺の顔をじっと見つめた。
どうやら少し怪しまれているらしい。彼女は今、大金を手にしたばかりだ。警戒されるのも仕方がないだろう。俺はなるべく丁寧な口調で、質問した。
「競りに出した本はどこで手に入れたんだ?」
俺は有無を言わせぬ険しい表情で女商人に詰め寄った。
今日オークションに出された本は、俺がサキュバス村の少女に“直接”手渡したものだ。……もしかすると、少女の手から盗み出されたものかもしれない。その可能性を考えると、見て見ぬふりはできなかった。
「……すまんなぁ、お兄さん。ウチは商売人。守秘義務ってヤツがあるんよ。顧客の情報を漏らすわけにはいかんのや」
女商人は困ったように笑みを浮かべた。
だが俺は引き下がらない。
「正直に言うと、あの本は盗品じゃないかと疑っている」
「……分かったで。お兄さん、ウチにいちゃもんつけて、金をせびろうって口やろ? やめといたほうがエエで~? ウチ、これでも結構やれるほうなんや♡」
おっきな胸をポヨンと弾ませながら、女商人は誇らしげに胸を張った。
それと同時に、挑発するような笑みを浮かべる。どうやら彼女は、俺のことをただの厄介者と勘違いしているらしい。そのとき、隣にいたぺこが、不意にぽそりと呟いた。
「今日は、魚が食べたい気分だな」
「──っ! お嬢ちゃん、ウチのこと脅しとるんかな? 水中やなくても、マーメイドは強いんやで?」
ぺこのつぶやきをきっかけに、女商人の表情が一変した。
顔立ちを見て、俺も予想はしていたが、やはり彼女は人間だと装って商売をする人魚娘だったらしい。この種族が陸に上がるのは、そう珍しいことではない。多少は弱体化するものの、足に魔法をかければ、海から離れた場所でも問題なく行動できるのだ。
女商人の口調は穏やかだが、その瞳には鋭い光が宿っている。
これは、あまり良くない流れだ。
「ぺこ、さっき俺のペンを盗み食いしただろ。出せ」
「嫌だ。もう二十分は何も食べていないからな」
「……今日の夕飯は高級寿司にする」
「──ぺっ」
俺がぺこに手を差し出すと、彼女はその上にペンを吐き出した。
とてもベトベトしている。女商人はドン引きしてこちらを見ていたが、俺は気にせずポケットから紙を取り出す。そして、その紙にあることを書き込み、女商人に見せた。
「俺が気になった理由は、これだ」
「なんやぁ~? ウチになにを見せようって──んなあっ!?!?」
女商人は声を上げて驚いた。
俺が紙に書いたのは、競りに出された本に書かれたサインとまったく同じ文章。彼女は商売柄、サインを見て確認することが多いだろう。鑑定まではできなくとも、筆跡を見分けるくらいは容易いはずだ。
「なっ、ななななな! あっ、あんたがあの!?」
「そうだ。あなたが信頼できる商売人だと確信して、俺は正体を明かした。このことは秘密にしてくれると助かるだが……」
「もっ、もちろんや! あんたとの約束破ったって知られたら、ファンに袋叩きにされてしまうわっ! あの、握手してもろてもええ?」
女商人は慌てて言いながら、手を差し出してきた。
俺はその手を握り返した瞬間、『しまった』と声を漏らす。気がつくと、彼女と俺の手のあいだには、ヌルヌルとした透明な橋がかかっていた。
・・・・・
俺とぺこは家に帰り、力の同盟全員で買ってきた寿司を食べていた。
「故郷の味とはちょっと違うけど、ここのお寿司も美味しい……。あっ、いなり寿司は全部もらいまーす……」
「コスいですわ! コスいですわ!」
「ほっほー、こりゃあ奮発したねぇ! ああ、それで、スランプはどうなったんだ?」
「それが──」
スランプは……おそらく治ったと思う。
まだ机に向かってはいないが、今ならきっとスラスラと文章が書けるはずだ。
あの本の真相は、なんともあっけないものだった。
俺のサイン入りの本はサキュバス村の少女本人──いや、本淫魔によって転売されていたのだ。
しかも、たった一つのショートケーキとの引き換えに。
大事な本を盗まれて涙を流す子はいなかったのだ。その代わりに、自分の本をぞんざいに扱われて、涙目になった成人男性はいたかもしれないが。
「今日あったことで、スランプの原因がぼんやり分かったんだよ」
「関係あったんですか……?」
「ああ。多分俺、気張りすぎてたんだと思う」
これが、俺の出した結論だ。
本が売れすぎて、無意識に自分にプレッシャーをかけていたのだろう。次に出す本は気軽に書けない、読者を楽しませなくてはいけない……なんて風に。
「前書いたやつはさ、もっと気楽に書いてたんだよ。旅した時のことをただ思い返しながら。それだけでいいのに、いつの間にか難しく考えすぎてた」
「今日の話とあまり関係がないように思えますわね」
「んーまあ……俺のこじつけっちゃこじつけだけどさ。本がケーキ一個と交換されたって話を聞いて、なんかこう『そんくらい気軽にポンと書いていいんだよな』って思えたんだ。……まあ、手を抜くつもりはないけどな」
「我としても本よりケーキの方が良いと思うぞ。もぐもぐ」
ぺこの無頓着な発言に苦笑しながらも、俺はようやく晴れやかな気持ちになれた気がした。
俺の本質は冒険家であり、自由を求めている。
そんな俺が、何かに縛られていたなんて、どうかしていたのだ。
「それはそれとして、勝手にプレゼントを売られたのは腹立つな。話を聞く限り、別に生活に困ってたってわけでもなさそうだったし」
「そりゃ腹が立つだろ! 同族として、アタシも今度会ったらお仕置きしてやる! で、なんて名前のサキュバスだったんだ?」
「あー、二回しか会ってないからさ、名前はちょっと覚えてなくて。黒髪で……なんかこう、発進しそうな兵器っぽい名前だった気がするんだけど……」