朝食を終えたあと、俺はリビングの椅子に腰かけ、とあるノートをじっと睨んでいた。
ノートの表紙には“家計簿”と書かれている。俺は支出と収入の項目を見て、胸の奥から深海よりも深いため息をついた。
「どうしたんだ、ヴェークの旦那? ぺこが間違えてご近所さんを飲み込んだときみたいな顔してるぜ~?」
「──だ」
「ん~? なに言ってるのか聞こえねぇぞ?」
「今月! 完全に赤字なんだよぉぉぉ!!」
「ヴェーク、うるさい……」
「もぐもぐ……どうした、ヴェーク?」
俺は感情が抑えきれず、つい吠えてしまった。
今まではなんとかギリギリ黒字を維持していたのだ。しかし今回は赤字。それも、かなり深刻な額の赤字である。印税は月に一度、腕っぷしの強いケンタウロス娘が出版社から直接運んでくる。その運ばれてきたゴールドをすべて使い切っても、なお足りなかったのだ。
先月は、とにかくイレギュラーな出費が多すぎた。
ぺこが屋台でつまみ食いした分を払い、ミクリがサイコロ賭博で負けた金を肩代わりし、エクレアがサザーランドでうっかり壊した最高級ベッドを弁償し……。アイシスはというと、酒代をせびることはあるが、家の掃除や雑用をこなしているので、出費としてはカウントしていない。
ぺこは……まあ、仕方がない。
まったく良いことではないが、彼女を腹ペコのまま放っておくとロクなことにならない。それはもう身をもって経験している。だから、これは“必要経費”として受け入れるしかない。だが──ほか二人は別だ。
「ミクリ、そろそろ俺に金を返せ」
「うーん……ミクリも払う意思はあるんだけど……。なんで借りたお金を返す必要があるのかなって気持ちもあって……」
「最低選手権のエースでも狙ってるのか? じゃあ……エクレアはどうだ? たしか、『近所で草むしりをして稼いできますわ~』って言ってたの、ちゃんと覚えてるぞ?」
俺に背を向け、部屋の隅っこで黙々と懸垂をしていたエクレアに声を掛ける。
振り返った彼女の顔には、なぜか苦虫を噛み潰したような険しい表情が浮かんでいる。そして、ためらいがちに自分の体内から一枚の紙をゆっくりと引き出した。
「えぇ~っと……。そのぉ~……ワタクシもたまには失敗することもありますの。ね?」
俺は紙を受け取って、目を細めながら読んだ。
……最初の一語で、すべてを悟った。そこには、はっきりと“弁償”と書かれていた。
「草むしり中に、とてもとても大きな虫が飛んできましたの。それはもうビックリして……つい、溶解液をぶちまけてしまいましたわ」
俺は手元の紙に目を通していく。
どうやら、驚いたエクレアが溶解液を地面にばら撒いたせいで、畑の土壌が深刻なダメージを受けてしまったらしい。その影響で、別の場所から新たな土を運ぶ必要があり、その費用をこちらに請求したい──という内容だった。
「──■■■■■■■■!!」
「おぉ、ヴェークの表情がコロコロ変わっておるのう。我も初めて見る反応だ。これは怒ってるのか? それとも泣いておるのか?」
「あーあ。アタシは知らねぇぞ~」
俺の形なき悲鳴が部屋中に響き渡った。
・・・・・
俺は全員を連れて、イリアスヴィルの裏山にやってきていた。
ここは大勢のスライム娘たちが仲良く暮らしており、この大陸でも屈指に平和で癒やされる場所だ。とはいえ、たまにいたずら好きな子にちょっかいを出されることもあるが。
「わぁ~♪ ヴェークさんにお友達のみんな、来てくれてありがとう~♪」
「わーい! エクレアちゃんも久しぶり~♪」
「お久しぶりですわね、ぷるこにライム! 今日はワタクシが全身全霊でお手伝いをしますわ~!」
ここのスライムたちは近所の人たちから養鶏や農作の技術を教わり、自分たちで生活を営んでいる。
この場所にやってきたのは、その手伝いをしてお金を稼ぐためだ。あとは、心の薄汚れた狐娘が純粋なスライム娘たちに触れることで、彼女の魂がわずかでも浄化されればいいな、と俺は少しだけ期待していた。
「ブーメラン……ブーメラン……。そこそこ楽しいが……細かな作業は腹が減るな……」
「木くずは食べちゃだめだよー!」
ぺこには、売り物である畑の食べ物を見せないよう気をつけながら、木のブーメラン作りの作業をさせていた。
スライムはなぜかブーメランが好きな子が多く、こうして暇を見つけては作っていることが多い。意外なことに、ぺこは思いのほか集中して作業に取り組んでいた。削った木の欠片をポテトチップスみたいに食べているが、特に問題はないだろう。たぶん。
「あわわわわ、魚が逃げていきますわ~! ライム、なんとかしてくださいましっ!」
「わぁい、任せて~♪」
山の中腹にある泉で、エクレアは魚を捕まえようと懸命に手を伸ばしていた。
彼女は少し不器用なところがあるが、同じスライム族のライムがサポートしてくれるおかげで、仕事は順調に進んでいる。
「よっこいせ! よっこいせ……っと! ん~、こうやってスライムといっしょにいると、魔王城で働いてたときを思い出すなぁ~!」
「へぇ……魔王城にもスライムが?」
「そそ。地下に水路があってさ、そこでスライムがいっぱい暮らしてんだ。アタシはよく仕事をサボって、いっしょに遊んでたもんだよ! んで、たまに来る親戚の双子によく怒られてたなぁ~」
俺とアイシスは雑談を交わしながら、くわを片手に畑を耕していた。
今までスライムたちは自分たちの分を栽培し、余ったものをイリアスヴィルに持っていって販売していた。だが、これからは畑を徐々に拡大し、育てる品目を増やしながら販路も広げていきたいらしい。
ここのスライムは素朴で愛らしいながらも、しっかりものが多い。
最近では、畑を拡張した際に出た石を使って、彫刻の練習なんかもしているとか。どこかの博打好きな狐にも、ぜひ見習ってほしいものだ。
「俺も小さいときは、ここで小遣い稼ぎついでに遊んでたなあ……。今もそんな子はいる?」
「いるよ~♪ ルカとソニア! 最近は忙しいらしくて、前よりは来なくなっちゃったけど……」
「ああ、イリアスヴィルの……」
俺は額の汗をぬぐいながら、過去の記憶を思い返した。
イリアスヴィルに暮らすルカとソニア。二人の家族は俺が旅に出てしばらくしたあと、次々と帰らぬ人となってしまった。ソニアの両親は、救助活動中の事故で命を落とし、ルカの母親は病で亡くなった。そして父親は、村を出たきり戻らず、今も行方がわからないという。
俺にも両親はいないが、生まれたときから大人の記憶があった。
それに、前世でも両親という存在はいなかったから、最初から一人でいることに、特別な寂しさや苦痛は感じなかった。だが、あの二人は本当に純粋な子どもたちだ。親がいなくなったと聞いた彼らの心の痛みは、俺には想像もつかないほど深く、辛いものだったに違いない。
「師匠の……ルシフィナさんのことはあんまり思い出したくないなあ。全身針山みたいにされたし、たまに悪夢に出てくるし」
「名前負けしない、えらくおっかない人だったんだな!」
俺は短い期間ではあったが、ルカの母親、ルシフィナさんに弓術を教わったことがある。
きっかけは、偶然にも彼女がイリアスヴィルの郊外で、見事な弓の腕前で野生の獣を仕留めているところに出くわしたことだった。その技術に感動した俺は、どうしても教えてほしいと頭を下げたのだ。
ルシフィナさんの教えは厳しかった──いや、それ以上に恐ろしかった。
的を外すたび、彼女は俺に容赦なく矢を放ってくるのだ。もちろん、矢の先は丸められていたが、威力が尋常ではなく、大半が体に突き刺さって抜けなくなる。授業のたびに、俺は人間から二足歩行するハリネズミの魔物へと変貌していた。
いろんな苦難を乗り越え、なんとか学び終えたとき、ようやく授業は終了。
俺は自分が生き抜き、ここまで乗り越えられたことに、心の底からイリアス様へ感謝の念を抱いた。
「ううむ。なぜかその名前を聞くと、寒気がするのだが……」
「ぺこはもう終わったのか? ああ、そうだ。今日の帰り、お墓参りに行こうかな……」
「あっ、いたいたっ! ヴェークさーん! ちょっと相談したいことがあって~♪」
「私たち、世界一周旅行に憧れてて~♪」
「おっ、俺はその相談にはもってこいだぞ! よし、どんな場所を回りたいんだ?」
「えっと、まずは──」
イリアスヴィルの裏山は、今日も平和な空気に包まれていた……。
・・・・・
俺の目の前には、正座した狐娘が一人。
太い鎖で体を縛られ、頭には大きなたんこぶができた、見るに忍びない姿の──ミクリがいた。
「まったく、お前は悪魔か?」
「ミクリは狐で、忍者なんですけど……!」
「汚いなさすが忍者きたな──いや、本物の忍者に失礼だな。とにかく、俺は今から墓参りに行く。お前は一日中縛られたままで反省してろ。アイシス、あれを」
アイシスは無言のまま、木の看板をミクリの首にかけた。
ぶら下がった看板には、大きな文字でこう書かれていた。『私はスライムたちに悪い遊びを教えようとしました』と。
あろうことかミクリは、スライムたちに賭博を教えようとしていた。
それだけなら、遊びを覚えさせた程度の罪で済んだかもしれない。だが彼女は、さらに悪辣な行動に出た。──なんと、自らが胴元となり、儲けの一部を懐に流し込もうとしたのだ。その悪質な行為に対し、俺は断固たる罰を与えることに決めた。
「こっ、こんなに目立つ場所で縛られるのは……は、恥ずかしいんですけど……」
「本当に恥ずかしいのは、お前の心だよ!」
「今回ばかりは、アタシもちょっと怒ってるぞ? 素直に反省しとけ!」
「まったくもうっ! ワタクシの妹分たちになにを教えようとしてましたの! 下賤ですわ! 卑しいですわ!」
「我が作ったおさかなブーメランの的にちょうどよいな」
「ブーメランが汚れる。さっ、こいつは放っておいて、墓参りにいこう」
イリアスヴィルの入口にミクリを放置し、村の中へと足を踏み入れる。
村は今日も、いつも通りの穏やかな空気に包まれている。老人たちはゆったりと散歩を楽しみ、子どもたちは元気に笑いながら駆け回っていた。俺はこの村が大好きだ。まるで故郷のような、心が落ち着く安心感がある。
「宿は……やってるな。ルカくんは居るみたいだから、先に墓参りにいくか」
村の入り口近くにある、ルカが経営する宿の横を抜けて、道なりに歩いていく。
居住区から少し離れた場所に、柵で囲まれた村の共同墓地が静かに佇んでいた。
俺は迷うことなく、ルシフィナさんが眠る墓へと足を向けた。
「お久しぶりです。少ないですが、お供えものも持ってきました」
ルシフィナさんの墓前に、酒をそっと供えてから手を合わせる。
この酒は裏山のスライムたちから貰ったものだ。迷った商人を道案内した際、お礼に受け取ったらしい。俺が知る限り、ルシフィナさんは花やお菓子のような贈り物は好まない。肉か酒かツマミが良いだろう。そう思って、今回は酒を選んだ。
しばらく無言で手を合わせていたが、やがて立ち上がり、振り返った。
みんな、俺と同じように墓前に手を合わせていた。ぺこはなぜか時折、寒そうに身を震わせていた。ああ見えて、案外霊的なものに弱いのかもしれない。
ミクリは連れてこなくて良かった。
ルシフィナさんが一番キレそうなタイプだし、あの人なら冥府から舞い戻ってきてもおかしくない。まあ、それは流石にないだろうが。
「付き合ってくれてありがとう。今日は疲れただろうから、村の宿に泊まろう。予約は俺がしとくから、あとは各自、自由にしてくれ」
「では、ワタクシは神殿でノアとお茶会をしてきますわ!」
「アタシも神殿に行こうかな。地下で宴会でもしてねぇかな~?」
エクレアとアイシスは、イリアス神殿へと向かっていった。
俺は残ったぺこに目を向ける。この村に来た彼女は、イリアスヴィルの村人たちから食事をもらったり、近くの迷いの森で木の実を探して過ごすことが多い。
「ぺこはどうする?」
「うーむ、まだ腹を満たす気分ではないな。散歩にでも──」
ぺこが言葉の途中で止まり、俺の背後を見て首を傾げた。
何事かと怪訝に思い、俺もその視線の先を追う。
そこには、村の入口に縛って転がしておいたはずのミクリが、お墓へ手を合わせていた。
普段はデリカシーのかけらもないくせに、こういうところだけは律儀だ。
「鎖はどうした?」
「噛みちぎりました……忍者を舐めてもらっては困りますね……。さて、この村にはカードゲームがお好きな方がいらっしゃるようでして……。軍資金さえいただければ、ミクリが丸裸に──いたたたたっ、じょ、じょうだんでっ、いたたたっ……!」
俺はミクリの頬を引っ張った。
すると、まるでスライムのようにむにーんと伸びていく。同じように柔らかいのに、どうしてあの山のスライムみたいに、心まで綺麗には育たなかったのだろう。俺は少しだけ悲しくなった。