未知の世界を旅しているというのに、胸の奥は不思議と静まり返っていた。
見覚えのある風景が荒れ果て、かつての面影を失っているのを見るたび、どうしようもない哀しさが込み上げてくる。そんな不安を見透かしたように、後ろで俺の腰に手を回していたぺこが、そっと触手で肩を叩く。
「悪いな、ぺこ」
「まあ、気持ちは分からんでもない。だが、ここは我らが暮らす世界とは違うのだろう?」
「そうだな。だけど、もしかしたら俺たちが暮らす世界もこうなるかもしれないんだ。そう思うと、責任重大だなって……」
「まあ、深く考えなくても良いのではないか? あのウサギの言葉を信じれば、何かを倒せば済むだけの話だろう」
「それくらい単純な問題だと良いんだけどな……」
俺はずっと、白兎の言葉について考えていた。
俺たちの暮らす世界が、別の並行世界の“何か”に目をつけられた──。そして、その原因は、俺がブラディに渡した一冊の本にあると白兎は語っていた。
一番気がかりなのは、“俺にとってかけがえのないもの”の存在だ。
白兎の話を信じる限り、俺という存在は他の世界にはいない可能性が高い。それなのに、なぜ俺に関係する何かが並行世界にあるのか──。
様々な疑問を頭の中で整理する。
だが、考えれば考えるほど、答えのない泥沼に沈んでいくような感覚だけが残った。
「うおー! マキナの力ってすげー!」
「ワタクシたちはバイク・シスターズですわ! バイク・シスターズ!!」
「ハンドルを右に……!!」
「…………」
悩む俺のことなどお構い無しに、前方から楽しそうな声が聞こえてくる。
シェーディもランタンと包丁を上に掲げ、風を楽しんでいるようだ。尻尾が元気いっぱいに揺れている。後方を見てみると、ぺこも髪を風になびかせ、心地よさそうにしていた。
「見えてきたな! あそこが俺たちの拠点、城郭都市イリアスヴィルだ!」
「……進む方向を考えれば、そんな気がしてたけど、これは予想外だな……」
「なんだあの壁は? あれがイリアスヴィルだと?」
しばらく進むと、ボムボムが声を張り上げた。
予想はしていたが、彼女たちの拠点はやはりイリアスヴィルだった。
──ただし、俺の知っている“村”とはまるで別物だ。
まず目に飛び込んできたのは、途方もなく長く伸びる巨大な城壁だった。
裏山の方まで連なり、大きなブロック状の岩を幾重にも積み上げて築かれている。高さは数階建ての建物ほどもあり、まるで山そのものが城の一部になったかのようだった。
「村の位置が山の方に移動してるのか。いや、こうなると村じゃなくて街って言ったほうがいいか」
「イリアスヴィルの地下で巨大な金鉱脈でも見つかったか? そうでもなければ、あの素朴な村がここまで繁栄する理由が我には思い浮かばん」
「どうだろうな……。おっ、門が見えて──」
「ほう。これは……」
金属製の巨大な城門の脇には、数名の門番が立っていた。
フルフェイスの鉄兜に覆われた顔、鍛え上げられた肉体——それだけでも十分な威圧感がある。だが、何より目を奪われたのは、その背に生えた四枚の翼だった。
そう、門を守っていたのは“天使”だったのだ。
ボムボムが速度を落とし、門番の隣でバイクを止める。
俺たちもそれに倣い、ゆっくりとブレーキをかけて停止した。
「ボムボム、巡回ご苦労。……後ろに乗せているのは?」
「このご時世に冒険家だってさ! 南の方から来たみたいでな、イリアスヴィルには寄ってねぇみたいなんだ。んで、姉御に報告しなきゃと思って連れてきたんだ」
「“姉御”ではなく、“天使長”と呼べ……まったく」
「イリアスヴィルの長である天使長から許可を得るまでは、ボムボムが監視役を務める。勝手な行動は慎むように、旅人よ」
「ああ、もちろんそうさせてもらうよ」
俺は門番の天使にそう答えた。
彼女はわずかに頷くと、片手を上げて合図を送る。次の瞬間、重厚な金属音を響かせながら、城門がゆっくりと開き始めた。
「サビリエルちゃんに言われた通りに頼むぜ? 新しくできた友達を処分させられんのはイヤだからな!」
「もちろんだぜ! 親友!」
「あのイリアスヴィルがここまで発展を……。つまり、ワタクシの世界であの村を先に押さえておけば、ゆくゆくはこのような都市の支配者に……?」
「わあ……すごいね、筋肉……」
「ありがとう、小さな狐の子。君は聖素を纏っているのか? 珍しいな……」
「…………」
「それは包丁か? ふむ……持ち込んでも問題はない。ただし、ケースには入れておいてくれ」
門が開くまでのわずかな間、俺たちはエンジンを切り、門番の天使たちと軽く言葉を交わした。
彼女たちは“サビリエル”と呼ばれる天使で、イリアスヴィルでは門番や衛兵として街の防衛を担っているらしい。
「エリゴーラさん以外の天使を見られるなんてな……。それも、こんなにたくさん」
「我としては、不安だがな。天使は本来、女神イリアスに仕える存在。堕天使ならまだしも、これほど多くの天使が地上にいるのは──どう考えても異常だ」
「浮かれてて、あんまり考えなかったけど……確かに、言われてみればぺこの言う通りだ。この世界、何があったんだろうな」
「それにしても、天使長か……我の想像する天使でなければいいが」
ぺこはそう言って、口を閉じる。
天使長とは一体、どのような人物なのだろうか。俺は色々と考えながら、城門の向こう側へと進んでいった。
・・・・・
並行世界のイリアスヴィルは、驚きの変貌を遂げていた。
以前の素朴で温かな雰囲気は跡形もなく消え去り、街並みは整然とした秩序と静かな威圧感を漂わせている。石造りの建物が規則正しく並び、碁盤目状の道路が真っすぐに街の奥へと延びていた。
バイクを城門脇の駐車スペースに停めると、俺たちはいよいよ街の中へと足を踏み入れた。
広々とした大通りは活気に満ち、行き交う者たちの声や足音が絶え間なく響いている。
「いや、これは本当に驚いたな……!」
「ヴェーク、気が付いたか?」
「ああ……人が居ない」
俺の目に映る限り、そこにいるのは魔物と天使だけだった。
コック帽をかぶった小柄な天使が、魚をくわえたねこまたを追いかけている。
ベンチではメイド服姿の天使と吸血鬼が並んで笑い合い、通りには他にもさまざまな魔物や天使たちが思い思いに過ごしていた。
「街中でも鎧は外すな。なにがあるか分からないぞ」
「そうだな。……でも、今のところ大きな危険はなさそうだ」
前を歩く仲間たちは、珍しそうに目を輝かせながら周囲を見回していた。
ボムボムの背を追いながら、俺とぺこも街の様子をうかがう。
中心部へ進むにつれて、魔物と天使の数はどんどん増えていった。
しかし、いくら目を凝らしても、人間の姿だけは見当たらなかった。
「ここが街の中心部だぜ! 昔は神殿があったらしいけど、今は広場になってんだ!」
ボムボムがそう説明する。
自分たちの世界では、イリアス神殿が建っていた場所。だが、この並行世界では、その場所はただの広場に変わっていた。
広場の中央には大きな噴水があり、絶え間なく透き通った水が湧き出している。
陽光を受けてきらめく水面を見つめていると、その底に何かが沈んでいるのが見えた。
それは砕け、朽ち果てたイリアス像だった。
いくつも折れた腕や翼が、光の揺らめきの中で静かに横たわっている。
まるで、忘れ去られた信仰そのものが、水底で眠っているようだった。
「イリアス教はすっかり廃れたようだ。天使すら信仰を失っているとはな」
「神殿も無くなってるし……この世界は本当に何が起きたんだろうな」
ぺこと水面を覗き込みながら、俺は呟く。
自分たちの世界でもイリアス教は衰退していたが、完全に消え去ったわけではない。一方、この世界では、その痕跡すら、もはや風化しようとしているように見えた。
「そういえば、今はヨハネス歴何年になりますの?」
「ん? 今は1455年だぞ!」
「今年だね……」
「そうだな。アタシらの世界と同じ年だ。けど、全く違う歴史になってるみてえだな」
ボムボムにヨハネス歴を尋ねると、返ってきた答えは俺たちの世界と同じ年だった。
いったいどんな歴史の分岐を経て、ここまで変わってしまったのだろうか。疑問を胸の奥に沈めながら、俺たちは中央広場を後にした。
しばらく歩くと、裏山が見えてきた。
岩肌の一部には、巨大な金庫の扉のような構造物が埋め込まれている。
見た目こそ街の入口とは異なるが、同じように天使の門番が立ち、出入りする者たちを厳重に検査していた。
その門番たちは、どこか小柄で丸みを帯びた姿をしており、厳重な警備のわりには妙に愛らしい姿をしている。
「よお、ケーキにパフェ! 姉御に客を会わせてやりたいんだけど」
「むむっ、ボムボムか」
「天使長は先程、ちょこを連れて整備室に向かったところです」
「じゃあ、こいつらを連れて整備室に行くわ。……これから姉御とご対面になるけど、失礼のないようにな? 多分、大丈夫だと思うけどさ」
「ああ。みんなも気を付けてくれよ?」
俺は仲間たちに軽く注意を促すと、山の中へ足を踏み入れた。
・・・・・
この建物は、山の内部をくり抜いて造られているようだった。
トンネル状に整備された通路の天井には、いくつもの太いパイプが走り、壁も床も金属板で覆われている。
照明は一定の間隔で取り付けられ、白い光が壁面をまぶしく照らしている。
まるで軍事基地か、あるいは戦時下のシェルターのような無機質さだった。
「あの部屋はいったい、何に使われてますの?」
「植物工場だな。街の食糧の八割は、この『イリアスシェルター』で生産されてんだ」
「へえ、そうなのか」
「部屋ごとに育てる作物が違っててな。それぞれに合った温度や湿度に調整されてる。機械が全部制御してて、人の手はほとんどいらねぇ」
「はいてく……」
「…………」
通路の両脇には、等間隔で金属扉が並んでいた。
試しにひとつ覗いてみると、内部には整然と並んだ栽培棚があり、照明に照らされた青々とした植物が揺れていた。ほかにも、水の浄化装置や火力発電の設備らしき区画が点在している。
ボムボムの説明によれば、このシェルターの中だけで、生活に必要なあらゆる機能が完結しているという。
「……なんか、前世を思い出して、嫌な気持ちになるな」
「以前は、こんな場所で暮らしていたのか?」
「ああ。大規模な戦争が始まってからは、地上が住める状態じゃなくなってな。こういうシェルターの中で何年も暮らしてたんだ」
足音が金属の床に響くたび、胸の奥が妙にざらついた。
この場所の造りは、俺の記憶の中にあるシェルターと驚くほどよく似ている。無機質な壁、微かに漂うオイルの匂い、人工照明の白い光──どれもが、あの閉ざされた日々を思い起こさせた。
「ここが整備室だ。姉御ー! 客を連れてきたぜー!」
ボムボムが勢いよく扉を押し開ける。
中は広々としていて、組み立て途中のバイクや車が何台も並んでいた。作業台には工具が散乱し、油の匂いと金属の熱気が入り混じって鼻を刺す。壁一面には作業着やレンチが掛けられ、床には外された機械部品が転がっている。
「工場まで中にあるのか。これはもうシェルターって言うより、本格的に要塞って感じだな……」
「むう、我はあまり好きにはなれんな。要塞とはもっとこう……どっしりと構えるのではなく、機動性と攻撃力を重視すべきなのだ。実用性ばかりで、ロマンが薄い」
「そんなトンデモ要塞あったら見てみたいよ。さて、ここのボスはどこかな」
つなぎ姿の天使や魔物たちが慌ただしく動き回り、溶接の光がちらちらと瞬く。
俺たちはボムボムに先導され、車体と作業員の間を縫うようにして奥へと進んでいく。
やがて、部屋の奥で作業机に広げられた設計図に目を落としている天使の姿が見えた。
その周囲だけ、まるで喧騒が一歩引いているような静けさがある。
「いたいた! 姉御! 客を連れてきたぜ~!」
「おっ、珍しいな……。俺に客だなんて」
ゆるく顔を上げたその天使に、思わず息を呑んだ。
褐色の肌に燃えるような赤い瞳。顔と体には紋様のようなタトゥーが刻まれ、背には金と黒、対をなす二対の翼が広がっている。短く整えられた髪が彼女の精悍さを際立たせ、その頭上では淡く光を放つ輪が静かに浮かんでいた。
俺は彼女を見た瞬間、戦いの中で生きてきたものの気配を感じ取った。
「俺はウリエラ! ここの責任者を押し付けられて──って、蛭蟲じゃねえか!? お前も生きてたのか!?」
「……誰だ、お前は」
天使長であるウリエラは、ぺこを見て驚愕を露にする。
それに対し、ぺこは酷く嫌悪を滲ませた表情で彼女を見ていた。
・・・・・
力の同盟とウリエラは場所を移し、対話の場を設けることになった。
案内された部屋は、整備室よりも静かで、機械音の代わりに空調の低い唸りだけが響いている。
俺たちは並んで椅子に腰を下ろし、向かい側にはウリエラと、その隣にちょこんと座る小柄な天使がいた。
彼女は“ちょこ”と名乗り、ウリエラの側近の一人だという。
「ぷっ、くくく……ずいぶん小さくなってるじゃねえか、蛭蟲。最後に会ったときは、スッゲーデカかったのに」
「だから、我はお前のことなど知らないと何度も言っているだろう」
「……マジかよ。ほんとに覚えてねぇのか? 記憶喪失ってヤツか?」
「……」
ウリエラは何故か、ぺこのことを“蛭蟲”と呼ぶ。
対するぺこは、否定したり顔を背けるでもなく、ただ静かにその呼び名を受け止めている。
「あー、えっと……ウリエラ天使長?」
「堅苦しいのは嫌いだからな。呼び捨てでいいぜ」
「じゃあ、そうさせてもらう。ぺこはその……記憶喪失らしくて」
ウリエラは少しだけ眉を寄せ、顎に指を当てて考え込む。
数秒の沈黙ののち、鋭い視線をぺこに向けた。
「やっぱり、お前は蛭蟲だな。この街にとって、最悪の魔物だ。もし否定すんなら──」
「……はあ。このような形で我の名が漏れるとはな」
ぺこは小さく息を吐き、ゆるやかに視線を戻した。
その瞳に宿る光は、諦めとも、開き直りともつかない。
「そうだ、我の名は蛭蟲。偉大なる邪神様によって生み出された、六祖の一人だ」
ウリエラの言葉を遮るように、ぺこは自分の正体を明かした。
そして、ため息をつくと、不承不承といった様子で頬杖をついた。
「えっ、ぺこって……伝説の六祖だったのか!? アタシ、全然気づかなかったぜ……!」
「それって……おとぎ話に出てくる、あの六祖のこと……?」
「……記憶、戻ってたんだな」
俺がそう言うと、ぺこはわずかに目を伏せ、苦々しい表情を浮かべた。
「まあ、いつかは言おうと思っていた。我はその……好まれる魔物ではないからな。だが、まさかこんな形でバラされるとは……。しかも、よりにもよってこんな脳筋そうな天使に」
「おいおい、正体を隠してたのか? そりゃ悪いことをしちまったな! まあ、許してくれよ。俺にだって立場があるからさ。お前のこと確認しなきゃなんねぇ」
「まあ、それは理解できる。だが、お前のことを知らないのは本当のことだ。我らには少し事情があってな。ヴェーク、説明は任せた」
「えっと、俺たちは──」
俺はウリエラたちに、これまでの経緯を説明した。
自分たちは並行世界からやってきたこと。そして、この世界で何かを解決しなければ、自分たちの世界にも危機が及ぶということを。
ウリエラは信用出来そうな天使だと思い、包み隠さず話した。
こういった柄の人物というのは、腹を割って話したほうが良いと相場が決まっている。
ウリエラは時折頷きながら聞き入り、説明を終えると静かに目を瞑った。
眉間に皺を寄せ、難しそうな表情をしている。しばらく考え込むように黙っていたが、やがて瞼を開いた。
「どうやら、嘘じゃねえみたいだな。おとなしい蛭蟲なんて考えられねぇし。それによ、この世界の蛭蟲は確実に死んだはずだ」
「ほう? どうして我が死んだと断言できる?」
「千年前に、俺がこの手で一欠片も残さずに消し飛ばしてやったからな!」
「なるほど……。我と一度対峙しているからこそ、警戒をしていたのか」
「なかなか熱い戦いだったぜ! お前の体内、グロくてちょっと辟易したけどな!」
ウリエラは愉快そうに笑いながら、そう言った。
俺は冷や汗が頬を伝うのを感じていた。目の前の天使は恐ろしい力を持っていそうだ。それに加えて、この世界に居た蛭蟲……ぺこと敵対していたようだ。
俺の不安を見透かしたのか、ウリエラは満面の笑みを浮かべた。
「安心しろって! この街に危害を加えねぇ限りは、敵対するつもりはねえからさ!」
「我も以前と違い、みだりに喰らうことは控えておる。我のことを知っているなら信じられないかもしれないが、そう警戒する必要はない」
「ここで座って話せてる時点で、今のお前が脅威じゃないってのは分かってるぜ! はははっ、何だか変な感覚だけどな!」
「……とりあえず、歴史の違いをすり合わせた方がいいな。お互いの齟齬をなくすためにも」
「ん~、面倒だな! ちょこ! お前がやってくれ!」
「はい! お任せください! 天使長!」
こうして、俺たちはこの世界の歴史や現状を整理することになった。
少しずつだが、事態の全貌が見えてきたのだった。