イリアスシェルター内部、天使長の私室。
ウリエラの側近であるちょこが、勢いよく移動式の黒板を押しながら入ってきた。彼女は腰のチョコクッキー型ポーチからメガネを取り出し、きゅっと掛けると、得意げな笑みを浮かべてチョークを構える。
「天使長の側近たるこの私──ちょこが! 分かりやすくこの世界の歴史を解説いたしましょう!」
宣言と同時に、ちょこは勢いよく黒板にチョークを走らせようとする――が。
「んー! んんーっ!」
「……」
「…………」
精一杯背伸びをしても、黒板の上部にはまったく届かない。
ぴょんぴょん跳ねながらチョークを走らせようとする姿は、どこか小動物のようだ。やがて彼女は涙目になりながら、部屋の隅にあった椅子をずるずると引きずってきて、その上に乗り直す。
「……こほんっ。かつて、空に浮かぶ天界にいらっしゃった女神イリアス様が、生物の進化を促すため──」
「なあ、悪いんだけどさ……。多分、そこから話し始めたら、アタシたちの寿命が尽きるぜ?」
「……はっ! そ、それもそうですね。では、最初の人間の男女が──」
「それもずいぶん昔の話ではないか。もっと我らに関係する、最近の話をせよ」
「……むう。では、千年前に勃発した──聖魔戦争についてから始めましょうか」
俺からすれば、千年前が“最近”に分類されるのは、どうにも感覚が狂っている気がする。
だが、それを指摘すると年齢の話になり、間違いなく不毛な争いが始まる。俺は口を閉じておくことにした。
……よく考えれば“年齢”という尺度自体、俺にはあまり意味がないのかもしれない。
今でこそ人間の姿をしているが、俺の魂はこの世界が生まれる以前の世界から流れ着いたものだ。
漂流中の記憶こそないものの、魂だけで存在していた時間を含めれば──。
俺は、この場でいちばん“古い”存在なのかもしれないのだ。
「イリアス様と邪神アリスフィーズが対立したことにより、この戦争は勃発しました。私たちは七大天使様の指揮のもと、六祖やその配下の魔物たちと激しく衝突したのです」
「……待て。七大天使とは何者だ? 我はそんな連中、聞いたこともないぞ」
「ええっ? そ、そんなはずは……」
ぺこの疑問に、ちょこはチョークを止め、困惑した表情を浮かべた。
俺もイリアス様の聖典を読んだことがあるが、そこに『七大天使』という言葉はなかったはずだ。記述が曖昧な部分も多く、確証は持てないが――確かにそんな存在は出てこなかった。
「……多分、アタシらの世界とは違うんだろうな。アタシのご先祖様、闘神シヴァ様が残した文献にも“七大天使”なんて単語は出てこなかったし」
「そもそも、六祖たる我が知らぬのだからな」
「ワタクシも聞いたことありませんわ~!」
「ミクリも知らない……。たまも様は“三人の熾天使”の話をしてくれたけど……」
「ウリエラ様と戦われた蛭蟲――いえ、ぺこさんがご存じないとなると……やはり、そちらの世界には存在しなかったのでしょうね」
ちょこは小さく咳払いをして、黒板に新たな文字を書き加える。
説明によれば、七大天使とは女神イリアス直属の七柱であり、戦闘能力において天界随一を誇った存在だという。
彼女たちは、邪神アリスフィーズが生み出した原初の六妖魔――“六祖”と互角に渡り合い、天地を揺るがすほどの戦いを繰り広げたのだそうだ。
「へえ……ぺこって、思ったよりすごい魔物だったんだな」
「ふん。すごいで済ませられるような存在ではないぞ、我は。もっと敬意を込めて称えるがいい」
「でもさあ、アタシのご先祖様の記録には『蛭蟲はヤバい奴だから近づくな』って書いてあったけど?」
「……あー、そのだな。我にもヤンチャな時代があったのだ。いや、しかし……それは過去の話だ」
「今も十分ヤンチャですわよ~!」
「常識人ぶるの、やめたほうがいいと思う……」
「…………」
シェーディが無言でぺこに肘を突き、他の面々が次々と突っ込みを入れる。
ぺこは顔をくしゃりと歪め、ふにゃふにゃになって項垂れた。俺は苦笑して肩をすくめ、ちょこに続きを促す。
「……七大天使様と六祖が衝突する中で、私たちもなぜそうなったのか分からないのですが、イリアス様と邪神アリスフィーズが――直接対峙される事態になりました。そこで……」
ちょこの声が、次第に静まっていく。
空気の色が変わるのを感じたそのとき、ウリエラがゆっくりと口を開いた。
「……俺の、一生の不覚だ。イリアス様は邪神と戦い――そして、相打ちになった」
その言葉に、部屋の温度が一瞬で下がったような気がした。
ウリエラの表情には深い悔恨が滲んでいる。
俺は、理解した。
なぜ、自分たちの世界と彼女たちの歴史が、これほどまでに違っているのかを。
・・・・・
「イリアス様と邪神アリスフィーズが衝突した結果、その激しい余波によって世界は荒廃してしまいました。天界は地上へと崩れ落ち、大地と海は裂け、世界そのものが傷を負ったのです」
「……神同士がぶつかれば、その程度で済む方が奇跡だろうな。むしろ、世界自体が生き残ったことを褒めるべきかもしれん。……邪神様は、倒されたのか」
その声には、わずかな震えが混じっていた。
ぺこは邪神から直接生み出された存在――言わば、親のような存在を失ったことになる。
たとえ別の世界の出来事でも、その事実は胸を抉るだろう。
俺は迷った末に、そっとぺこの肩に手を置いた。
「えーっと、ぺこ。そっちの世界じゃあ、どうなったんだ?」
「……我々の世界では、イリアスの要求を受け入れ、邪神様も六祖も封印されることになった」
ぺこは、自分たちの世界で起こった聖魔戦争の結末を語り始めた。
七大天使の存在しないので、戦局は終始、邪神側が優勢に進んでいたという。だが、イリアス様は最後の手段に出た。
――世界そのものを人質に取ったのだ。
女神と邪神が衝突すれば、すさまじい破壊によって世界が崩壊してしまう。
それを誰よりも理解していたイリアス様は、その理を逆手に取り、敵味方を問わず、すべての存在を脅迫の材料としたのだ。
結果、戦いは邪神側の降伏に等しい形で終結し、邪神と六祖は封印されることとなった。
ぺこがイリアス様を快く思っていない理由が、ようやく分かった。
話が真実なら俺だって、そんな女神を素直に敬うことはできない。
「えぇ……。そんなことがあったのかよ。アタシら、すげぇ話を聞いちまったんじゃねぇか?」
「そうだろうな……。イリアス様がそんなことをするなんて、正直、信じられない。……天使の前で言うのは、ちょっとマズいかもしれないけど」
「気にすんな! イリアス様はそういうお方だ! 策略家で、冷酷で……けど、それがあの方らしさってヤツさ! それに今じゃあ、イリアス様を称える天使の数もそう多くはねぇからな!」
「……天界の崩壊によって、天使たちは居場所を失い、絶え間ない困難に晒されました。その中で、お隠れになったイリアス様に対する信仰を保ち続けることは、あまりにも難しかったのです」
ウリエラが朗らかに笑う中、ちょこの顔には、どこか影が差していた。
「相打ちになってからは大変だったな! 俺は途中で離脱しちまって詳しい経緯までは知らねえが、六祖が全滅したのは確かだぜ!」
そう言って、ウリエラは当時、自身が経験した戦いの一幕を語り始めた。
彼女が相対したのは、六祖のうち二人――華音と蛭蟲。
「華音のヤツ、滅茶苦茶巨大化してきやがってな! ま、俺からすりゃ的がデカくなってラッキーだったけどよ!」
「……緑竜か」
「ああ、そんな技名だったな! あの時は華音が大地を覆い尽くしてさ~。けど俺は、自慢の武器で何とか叩き伏せたんだ。そしたら今度は――お前が、華音の亡骸を喰って巨大化して襲いかかってきたんだよ!」
「……ふむ。戦略としては悪くない。緑竜で蓄えた力は肉体に宿る。死してもなお残った力……我がそれを吸収しようと考えるのは道理だ。だが……この世界の我は、よほど追い詰められていたのだろうな。そのような真似をするなど……」
ぺこは腕を組み、目を伏せた。
六祖の一人、華音は植物族の魔物であり、“緑竜”と呼ばれる技によって肉体を周囲の植物と同化させ、巨大な竜の姿へと変じる力を持っていたという。その姿は山よりも高く、口から放たれる光弾は一撃で都市を容易に消し飛ばすほどだったらしい。
ウリエラは変身した華音と単身で戦った。
蛭蟲は開戦早々に傷を負い、後方へ退いたため、戦場は一対一の決闘と化した。そして、満身創痍になりながらもウリエラは勝利を収めた。
だが戦いは終わらない。
戻ってきた蛭蟲が華音の亡骸を吸収し、その肉体を肥大化させたのだ。
ウリエラは一度、わざと飲み込まれる。
巨大な蛭蟲の体内に身を投じ、手持ちの武器が全て壊れることも厭わず、体内で攻撃を放ち――内側から焼き尽くしたのだという。
「俺が勝利の余韻に浸ってたらよ、急に後ろから玉藻がざっくりいきやがった! 攻撃してきたのは分かったんだけどさ、ダメージが蓄積しすぎてて、回避は不可能だったんだよなあ……」
「ふん……あの性悪狐がやりそうなことだ」
「えっ……。玉藻って……」
「ミクリ、お前が頭の中で思い浮かべている魔物で違いない。たまもは我と同じ六祖、妖狐の祖にあたる」
「そうだったんだ……。今度からオババじゃなくて、“大ババ”って呼ぶようにしないと……」
「くく、そうしてやれ……」
ぺこは喉の奥で笑いながら、瞳を細めた。
俺はたまも様のことを只者ではないと感じてはいたが、思っていたよりも大物だったようだ。
・・・・・
「ともかく、俺は玉藻の一撃で肉体がスリープ状態になった。機械だからな! んで、他の天使に見つかるまでは、ここの裏山に埋まってたわけさ! 目覚めたのは、百年くらい前だな!」
「おー、そりゃ大変だったな! アタシも似たような体験をしたから、よく分かるぜ!」
「そうか! アイシスって言ったな! 俺と気が合いそうだ! 今度、一緒にトレーニングでも──」
「す、すいません。天使長、続きを話しても?」
「おっと、すまねえな! ついはしゃいじまった!」
ウリエラは頭をかきながら、カラッと笑ってちょこに謝った。
その屈託のない笑顔に、場の空気が少し柔らかくなる。
こういう人柄だからこそ、多くの天使たちに慕われているのだろう。
そんなことを、ふと俺は思った。
「イリアス様が倒れたあとも、戦いは続きました。その過程は詳しく分かっていませんが、六祖は全滅。七大天使様も……その、お二人を残して……」
ちょこは言いにくそうに唇を噛み、足をもじもじとすり合わせた。
その視線の先は、ウリエラだった。
「……いいって。あいつが当時、七大天使の一角だったのはちげーねぇしよお。にしてもムカつくな。あいつがやったのは撤退じゃねえ。逃亡だ。天使の恥さらしだぜ」
ウリエラは眉間にシワを寄せ、吐き捨てるように言い放った。
どうやら、七大天使はウリエラのほかにもう一人、生き残りがいるらしい。だが、その口ぶりからして、今は良好な関係ではないことがありありと伝わってくる。
「我々はイリアス様を失い、二つの集団に分かれることになりました。イリアス様の側仕えであられた熾天使、エデン様に付いたものと、当時最後まで七大天使として生き残ったとされていた、ガブリエラに従ったものの二つです」
「……エデン、か」
「ぺこ、知り合いか?」
「まあ、そうだな……」
ぺこはわずかに目を伏せ、歯切れの悪い返事をした。
彼女は魔物側の存在だ。ならば、名の挙がったエデンという天使とは、かつて刃を交えた間柄だろう。もしかすると、深い因縁があるのかもしれない。
「天使の暮らす、天界が落下した場所が最悪でした。魔物たちの巣窟、ヘルゴンド大陸のすぐ真横に墜落してしまったのです」
「そりゃあ、大変ってモンじゃなかっただろうな……」
アイシスはそう言って唸る。
俺も同じ考えだった。戦争している同士が、隣人のような距離になってしまったのだ。これ以上ない最悪の状況と言っていい。
「エデン様が天使たちをまとめ上げ、すぐさま天界の放棄を決断されました。私たちは多くの負傷者を抱えたまま海を渡り、南方を目指すことになったのです。七大天使様と合流できると、そう信じていました」
「だけど、残ってたのは、ガブリエラって天使だけだったのか」
「はい……。ですが、ガブリエラは部下を置き去りにして、どこかへ逃亡してしまったのです。代わりに、エデン様が初代天使長として各地に散った天使たちをまとめ上げられました」
「性根が腐ってやがる! 慈愛がどうのこうの言ってたくせによお、ムカつく野郎だぜ!」
「て、天使長……落ち着いてください……」
ウリエラは憤慨した様子で腕を組み、天井を睨みつけた。
・・・・・
「天使にとって幸いと言えたのは、七大天使様が六祖を滅ぼしてくださったことです。そのおかげで魔物たちは統率を失い、異なる種族同士での争いが始まりました。その結果、天使だけ狙われることがなくなったのです」
「んで、千年経った今でも争いが続いてるってワケだ。俺としては戦いが楽しめて何よりなんだが……今は他にやることがあるからな!」
「エデン様は天使たちを率いて、このイリアス大陸まで到達し、拠点を築かれました。戦いに疲れた魔物や、力の弱い魔物も受け入れた結果、イリアスヴィルは少しずつ発展していったのです」
「魔物でもやる気のあるのは大歓迎だぜ!!」
俺の知る世界のイリアスヴィルとは、まるで成り立ちが違っていた。
人間が築いた村ではなく、天使と魔物が手を取り合って生まれた街――それなら、俺たちの世界と違っていて当然だ。
「あのエデンが魔物の手を……」
「エデン様は初代天使長として、イリアス大陸南部を平定されました。幾度となく他地域の魔物から襲撃を受けましたが、そのたびに撃破し、街を強化して防衛に適した構造へと改めていかれたのです」
「その工事の途中で、俺が見つかったんだよな! 復活させてもらったのはいいんだけど、エデンは“お前が天使長をやれー”って一方的に決めちまいやがった!」
「エデン様は現在、別の場所で隠遁生活を送られています」
「俺は戦いに行きまくりたくてウズウズしてんのによ……。守るモンを渡されちまったら、離れられねぇだろ! まったく、エデンも人が悪ぃぜ!」
ウリエラはぼやきながら、くしゃくしゃと髪をかき乱した。
この世界が辿った歴史を、大まかにではあるが理解できた。
俺たちの知る歴史との乖離は、想定をはるかに超えていた。
「防衛はバッチリですよ! 以前は川を越えて攻撃されることもありましたが、今はほとんどありません! イリアスシェルターの建築も二代目天使長がお決めになられたのですよ!」
「はははっ、もっと俺を褒めていいぜ!!」
「天使長すごい! 戦いの天才! 筋肉!」
「肩にデッケー丸太でも乗っけてんのか!」
「背中に鬼が宿ってますわ!」
「腹筋が板チョコみたい……!」
「…………」
唐突に、ウリエラを称える合唱が始まった。
俺とぺこ以外、全員がノリノリで讃辞を並べ立てる。ウリエラはその勢いを全身で受け止め、満面の笑みを浮かべたかと思うと、急に立ち上がって、見事なポージングを披露する。
「おい、ヴェーク。アホな脳筋が増えたぞ」
「まあ、いいんじゃないか、暗い雰囲気よりは。……あのランタン、あんな機能が付いてたんだな」
シェーディはランタンの光量を上げ、スポットライトのようにウリエラを照らし出した。
「背中に羽があるぜ!」
「仕上がってますわ!」
「プッシュムラムラ……!」
「…………」
「俺は強いから強いんだぜ! 全身兵器とは――まさに! この俺よ!」
ウリエラは両腕を広げ、大声で叫び始めた。
テンションが振り切れていて、もはやハイになっていると言っていい。
「ヴェーク……我、頭が痛いぞ」
「ああ……分かる」
おそらく、ウリエラは俺たちの力になってくれるだろう。
話を聞く限り、その実力は間違いなく本物だ。
だが、なぜだか胸の奥に、拭いきれない不安が残っていた。