ブラディの宣戦布告があった次の日。
力の同盟はウリエラの案内で、とある森へと足を踏み入れていた。
「この森は、あんまり変わってないな……」
「レムズ海岸で野営の練習をしたのも、もうずいぶん前のことのように感じるな」
「この世界じゃあ、魚も貝も採れねえんだろ?」
「そうだな! 肉しか食わねぇ俺としちゃ、悲しい限りだぜ!」
「人魚は居ませんの?」
「でっけぇのしか居ねぇなあ。他はみーんな川か陸生活だな。噂じゃ深海に少し残ってるらしいが……ま、そこに行って帰ってきたやつがいねぇから、ホントかは分からねぇな!」
森の奥へ進むにつれ、湿った土の匂いと草木のざわめきが濃くなっていく。
俺たちがやってきたのは迷いの森と呼ばれる場所。
イリアスヴィルの近くにある広大な森だ。自分たちの世界にもある森で、修羅世界だと貴重な森林なのだそうだ。
ウリエラはこの森を歩き慣れているようで、迷いのない足取りで森を進んでいく。
「俺たちの世界だと、エンリカっていう隠れ里があるんだが……この世界にもあるのか?」
「んー。名前は知らねぇけど、イリアスヴィルが完成するまでは、小さな里があったな。みんな引っ越して、今は偏屈な天使が一人、暮らしてるだけだぜ!」
「あっ……! 見えてきた……!」
ミクリが指を差した。
木々の隙間から、古びた木造の家々が姿を現す。風にきしむ柵はところどころ崩れ、村の輪郭だけがかろうじて残っていた。
「廃村にしか見えませんわね! 本当にこの場所で暮らしていますの?」
「ここに居るぜ! まあ、たまに狩りで留守にしてることも──おっ、いたいた!」
崩れかけた家屋と、幹の太い木々の間を抜けながら、ウリエラは迷いなく進んでいく。
前を歩いていたぺこがそっと足を緩め、俺の背に隠れるように位置を変えた。木々のざわめきに混じって、地面を均す音が聞こえる。
ウリエラが手を振り、整えられた畑で作業をしている天使に声をかけた。
「おーい! エデン! 俺が来たぜ! 歓迎してくれよー!」
「……はあ、何の用ですか?」
低くため息をつきながら、エデンと呼ばれた天使がフードを脱いだ。
陽の光を受けて、その顔に刻まれた一本の太い傷跡が浮かび上がる。片眉をわずかに上げたその表情には、疲労と諦めが入り混じっていたが、どこか威厳を帯びた気配がある。
「おー、今日も畑仕事か? 俺が手伝ってやろうか?」
「あなたが手伝うと、ろくなことになりません。お気持ちだけで結構です。……それで、後ろの方々は?」
ウリエラはウキウキと楽しげに畑へと駆け寄った。
しかし、エデンはそれを制止し、持っていた鍬を地面に突き刺す。そして、俺たちを見て首を傾げた。
「へへっ、今日は友達を連れてきたんだ! ヴェークにアイシス、エクレアにミクリと……驚け! エデンも知ってるヤツも居るぞ!」
「おい、下ろせ脳筋……。久しぶりだな、エデン」
「──なっ!? ひ、蛭蟲!? ウリエラ!! これは一体どういうことですか!!」
ウリエラはぺこの腋の下に手を差し入れ、まるで子猫でも持ち上げるように、ひょいと抱え上げた。
ぺこは小さく呻きながら宙にぶら下がり、ウリエラがニヤニヤと笑いながらエデンへと差し出す。
「ん~、話すと長くなるから……ぺこ、お前が自分で話せ!」
「投げやりが過ぎるぞ……。それよりも、早く我を降ろせ」
「……詳しく話を聞く必要がありそうですね。私の家に来てください」
エデンは短くそう言うと、畑の奥にある家へと歩き出した。
外壁はところどころ傷んでいたが、板の継ぎ目には新しい釘が光っている。手入れの跡が随所にあり、静かな暮らしぶりが感じられた。
「……どうぞ」
「おう、邪魔するぜ!」
「…………」
ウリエラとエデンが先に中へ入り、俺たちは一拍置いてから続いた。
家の中は古い木の匂いに包まれている。長年使われた家具や壁は少し色あせていたが、どこも清潔で、整った空気が漂っていた。
窓辺には花が小さな壺に活けられ、部屋の片隅には場違いなほど輝く石像が置かれている。
女神イリアスの像――丁寧に磨き上げられ、新しく作られたような状態で鎮座していた。
「まさか、あなたを家に招くことになるとは……」
「我も驚きだ。あのエデンに茶を出される日が来るとはな」
エデンは戸棚からティーセットを取り出し、人数分の紅茶を淹れる。
丁寧な手付きで準備が行われ、木椅子に腰掛けた俺たちの前にカップが並べられる。
その隙に、ウリエラはちゃっかりと戸棚を開け、焼き菓子をつまみ上げている。
それを見たエデンはため息をつきながらも、咎める様子はない。
やがてエデンは俺たちの正面に腰を下ろし、紅茶を一口含んでから口を開いた。
「それで、何のようです? 死んだはずの存在を連れてきて……」
「それは、俺から説明をさせてもらう」
湯気が静かに揺れる中──。
俺はこれまでの出来事、そして今この世界で起こっていることを、順を追って語り始めた。
・・・・・
「なるほど、そういった話ですか。信じられませんね。あの連中が、一時とはいえ手を組むとは……」
「俺だって最初に報告を聞いたときは、すっげー疑ったけどな! ヤツら、本気で並行世界を獲りに行く気らしいぜ?」
エデンは片目を瞑って、ウリエラの言葉を吟味するように聞いていた。
紅茶に何度か口をつけ、今度は俺の方へ視線を向けて口を開く。
「ウリエラの言いたいことは分かっています。この私に助力を求めたいのでしょう。ですが、私の槍はとうに錆びつき、もはや力を振るうことは叶いません」
「マジか! だったらイリアスヴィルで研磨剤を買ってくるぜ!」
「……そういう意味ではありませんよ、ウリエラ」
「協力が欲しければ、私の槍を磨けってこと……?」
「おいおい! 大人しげな顔しておいて、なかなか好き者じゃねえか!」
「…………」
「そ、そういう意味でもありません! まったく……」
エデンはこほんと咳払いを一つして、乱れた姿勢を正した。
一拍置いてから、再び言葉を紡ぐ。
「ともかく、私が力になることは出来ないでしょう」
「何言ってんだよ。昔は、ちゃんと天使長として頑張ってたじゃねえか。俺なんて、今でも毎日ヒーヒー言いながらこなしてんだぜ?」
「あなたがこなせているのなら、それで良いではないですか。あのときは、ただ適任がいなかっただけ。仕方なく、私が務めていただけのことです。本来、私は天使長の器などではありません」
「うーん……でもよお……」
ウリエラとエデンのやり取りは、平行線のまま交わることがなかった。
ウリエラはどうしてもエデンに力を貸してほしい。だが、エデンは――もう戦いたくはないのだ。
俺の勝手な推測だが、エデンは気力を失っているのだろう。
かつて戦争で家族を失った人間を見たことがある。エデンの雰囲気は、そのときの彼らとよく似ていた。
イリアスヴィルが完成するまでは、目の前のことに追われ、考える暇もなかったのかもしれない。
だが今は、静かな隠遁生活。時間ができれば、どうしても思い出してしまう。押し込めていた痛みが、再び底から浮かび上がってきて、心を侵食してしまったのだろう。
「ふん……見るに堪えん。今のお前を見ても、我の食指はびくりとも動かんわ。あの気高き魂は、いったいどこへ消えた?」
「蛭蟲……」
「聞くところによれば、この世界でも我とお前は衝突したそうではないか。この世界の我は、死んでおいて正解だったな。――今のお前のような腑抜けた熾天使を喰らっても、腹を壊すだけだ」
「……あなたに、何がわかるのですか! この私の――苦しみが!!」
エデンは椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がり、ぺこの胸ぐらを掴んで持ち上げた。
俺たちは咄嗟に止めようと身を乗り出すが、ぺこが片手を軽く振って制する。
「道化もいいところです……! イリアス様をお守りすると言っておきながら――私は、何を出来なかった……!」
ぺこは掴まれたまま、沈黙を守っていた。
「挙句の果てには……二人の姉は私を庇って……。イリアス様も守れない……最愛の姉も救えない……! こんなもの……生き恥です……」
その言葉とともに、ぺこの体がゆっくりと床へ下ろされた。
エデンは震える手を握りしめたまま、俺たちに背を向ける。
「……お前の気持ちを、真に理解することは我には出来ん。だが、我は末っ子だからな。姉や母を失う痛みがどれほどのものか……想像できぬわけではない」
「……」
「辛かっただろう。身を裂かれるような思いをしたのだろう。しかし、それでも──我は知っている。お前は弱くなどない。どんな強敵の前でも、最後には立ち上がってみせた。それがエデンという天使だ」
エデンは俯いたまま、ぺこの言葉にじっと耳を傾けていた。
ぺこの声はいつも通りの淡々とした調子だったが、そこには微かに、温もりのようなものが含まれていた。
「……まあ、我の言葉など、お前の心には届かんだろうな。我は先にイリアスヴィルに帰るぞ」
ぺこはそれだけ言うと、紅茶を一息に飲み干して家を出ていってしまった。
「す、すいません、エデンさん。ぺこが失礼な態度を取って……」
「……いえ、気にしていません。私の今の姿を見れば、そう思うのも当然でしょう。ですが……もう、疲れ果てたのです」
風が抜けるような声で、エデンは呟く。
「ウリエラ、話を持ってきてくれたことには感謝します。けれど……私を戦場に立たせるのは、諦めてください」
「……無理強いしてもしょうがねぇか。紅茶、ありがとな!」
ウリエラは手を軽く上げ、振り返らずに家を出ていった。
エデンは最後まで背を向けたままだった。残った俺たちは互いに顔を見合わせ、静かに家をあとにするのだった。
・・・・・
ウリエラは頭の後ろで腕を組み、ぶらぶらと歩き出した。
困ったような笑みを浮かべ、どこか遠い空を仰いでいる。
「あーあ、アテが外れちまったな。エデンのヤツ、見ないうちにあんなことになってたなんてなぁ」
「家族を失った悲しみは、時間が経ってから悪化することも珍しくない。……仕方ないさ」
そう言いながら、俺はウリエラと肩を並べて歩く。
戦う意思を失った者を、無理に引っ張り出してもいい結果にはならない。かえって心の傷を広げ、全体の足を引っ張るだけだ。
そんな中、エクレアは何度も立ち止まっては振り返った。
彼女の視線の先には、エデンの家がある。
「本当に良かったのですの? エデンさんが作ったイリアスヴィルを……守るための戦いですのに」
「ん~、アタシはまだちょっと期待してるぜ。錆びてたけど、折れてるわけじゃなさそうだったからな~」
「アイシスがまたカッコつけてる……」
「うるせっ! ウチのぺこが励ましたんだぞ? 元気になってもらわねぇと困るだろ!」
「そういえば、ぺこはどこまで行ったんだ?」
「…………」
周囲を見渡してみるが、先に出たはずのぺこの姿はどこにもなかった。
もしかすると、もう迷いの森に入ってしまったのかもしれない。
俺は村の入り口へと視線を向けた。
そこに、ぺこが立っていた。
「ああ、居た居た。おーい──」
ぺこを呼ぶ途中、俺はあることに気が付いた。
ぺこはいつもホルダーに入れている包丁を手に持っているのだ。それが意味をするのは──武器を使わないと対処が出来ない相手が居るということ。
「行くぞ!」
俺の言葉を聞き、力の同盟とウリエラは走り出す。
俺たちはぺこの背後に集結し、その包丁の先が向けられた方角へと視線を向ける。
そこに立っていたのは――。
「ふふっ……今日はずいぶんと懐かしい顔に出会える日ですね」
「てめぇ……!! 何しに来やがった!!」
植物を思わせる羽が風に揺れ、瞳は森そのもののような深い緑を湛えている。
そこに立っていたのは間違いなく、先日のヴィジョンに写っていた──ガブリエラだ。
「落ち着いてください、ウリエラ。まだ開戦前です。そちらが手を出さなければ、こちらも何もしませんよ」
「んなもん関係あるかよ!? お前は俺の領土に忍び込んでる時点で、極刑モンなんだよ!!」
「そうですか。そちらがやる気なら、こちらも合わせても良いのですが……本当にここで始めますか?」
ガブリエラは背後を振り返り、ゆっくりと手を掲げた。
次の瞬間、森が唸り声を上げるように揺れた。木々が軋みながらねじれ、枝が牙のように伸び、草が刃のように鋭く尖っていく。まるで森そのものが、彼女の意志に従っているかのようだった。
「良い森ですね。空気も澄んでいるし、光の入り方も申し分ない。……ニセ天使長を斃した暁には、この森に私の城を移転しても良いかもしれませんね」
「ニセモンはてめぇの方だろ! それと、あのデケぇ木を持ってくんじゃねぇ!」
「粗暴な方ですね。あの城の美しさを理解できないとは残念です。私の慈愛の加護の下に住まう部下たちは、皆とても満ち足りた顔をしているのですよ?」
ガブリエラは妖艶な笑みを浮かべ、ウリエラから視線を外した。
その目が細く細められ、ぺこを見据える。
「蛭蟲……ずいぶんと小さくなりましたね。ウリエラに滅ぼされたと思っていましたが、匿われていたのですか。戦力が必要とはいえ、六祖の手を取るなんて――七大天使の面汚しです」
「うんざりだ……お前の息は臭すぎる。口を開けば、不愉快な言葉しか出てこないな」
「なんと粗暴な……白百合たるこの私に、そんな口を利くとは。良いのですか? 後ろには何とも愉快なお仲間がいらっしゃるようですが……ここでは、私が圧倒的に有利ですよ?」
ガブリエラの背後で、森がざわめいた。
木々の幹がうねり、蔦が蛇のように地を這い、花々が毒々しい光を放つ。やがてそれらは異形の兵の形を成し、静かに彼女の背後に控えた。
――植物を自在に操る力。
もしそうだとすれば、この場所は最悪だ。迷いの森そのものが、彼女の軍勢ということになるのだから。
・・・・・
「……そこまでにしてもらいましょう」
「あら、ようやくお出ましですか。お久しぶりですね、エデン?」
俺たちがどうするか考えていると、背後から声が聞こえた。
振り返ると、ボロボロになった槍を持ったエデンがこちらに向かって歩いてきていた。
隣にはミクリが寄り添い、額の汗を拭いながらも、どこか安堵したような表情を浮かべていた。
どうやら、彼女がエデンを呼んだらしい。
「ここは私の住処です。いくらあなたと言えど、勝手な真似は控えてもらいましょうか」
「もちろんですよ、エデン。私はウリエラのような野蛮な天使ではありませんから」
「んだとコラァ!?」
「ふふ……その反応こそが証拠です。──さて、エデン。今日はあなたを勧誘しに来ました。私たちの同盟に加わりなさい。そうすれば、異なる世界へ飛び立つ道を開きましょう。あなたが、誰よりも愛してやまない“イリアス様”が生きている世界へ……ね」
ガブリエラはそう言って、大きく両腕を広げた。
自身の懐が広いと表現したいのだろうが、あまりにも胡散臭くて信用できない。しかし、イリアス様が生きている世界の存在を仄めかしたことで、エデンの表情が僅かに揺らいだ。
「どうです? 一度は同じ主君に仕えた身……また手を取り合って──」
その言葉の続きを、ガブリエラは口にすることができなかった。
風が一閃。
ガブリエラの頬に赤い線が走り、白い肌を伝って鮮やかな血が一滴、地へと落ちた。誰もが息を呑む中、槍を構えたエデンの瞳だけが揺るがなかった。
「私が仕えたのは──この世界のイリアス様のみ。異なる世界のイリアス様に敬意を示すことはあれど、私の忠誠はこの世界の方にのみ捧げたものです」
「エデン……」
その言葉を聞き、ぺこが口の端を上げる。
ガブリエラは心底がっかりした様子で、ため息をつく。
「……そうですか。では、今日はここまでにしておきましょう。次に会うときは──息のある状態であれば良いのですが」
ガブリエラは手の甲で血を拭い、指を鳴らす。
すると、森が元の姿に戻っていき、異形の草木は姿を消した。それと同時に、ガブリエラの周りに木の葉が舞い、彼女を包み込んだ。
「私の慈愛を拒んだこと……後悔なさらぬように」
その声が消えるのと同時に、ガブリエラの姿もまた霧散した。
残されたのは静まり返った森と、ただ冷たい風の音だけだった。
・・・・・
俺は弓を持った手を下げ、深く息を吐いた。
「はあ、心臓に悪い。敵の大将とばったり会うなんてな」
「助かったぜ、エデン! やっぱ頼りになる天使は違うな!」
「身にかかった火の粉を払っただけです。しかし……」
エデンはどこか悩ましげに、わずかに視線を上げた。
木々の隙間から射す光が、その横顔を淡く照らしている。
「気が変わったか? エデン?」
「……癪ですが、ガブリエラの言葉を聞いて、思うところがありました。このままでは──あなた方の世界のイリアス様にも、危害が及ぶかもしれません」
「正直に言うと……俺たちの世界のイリアス様も、今どうなっているのか分からないんだ。三十年ほど前から姿を見せていない」
「ですが、この世界のように、確実に亡くなっているとは言えないのでしょう?」
俺はこくりと頷く。
エデンは悩ましげに、しばらく沈黙したあと、顔を上げた。
その眼差しには、決意の色が宿っていた。
「罪滅ぼしのつもりはありませんが……異なる世界のイリアス様のためになるのなら、ひと肌脱ぎましょう」
「本当か!? 助かるぜ! イリアスヴィルに行ったら早速、俺の書類仕事を半分やってくれねえか!? すっげー溜まってるからよ!」
「それは自分でやってください」
「エデン、お前と肩を並べて戦えるとはな。何故かわからないが、我は高揚感に満ち溢れているぞ。……ちょっとだけ、足を舐めていいか?」
「駄目に決まっているでしょう。喰いたいと言い出さなくなっただけマシに──いえ、むしろ悪化しているような……」
「まあ、そこは置いとこうぜ! ほら!」
ぺことウリエラが同時に拳を突き出す。
エデンも力強く拳を合わせ、深く頷いた。ぶつかり合う拳に、確かな覚悟の鼓動が伝わった。