「こちら、イリアスヴィル産のレタスを使用したシーザーサラダになります。イリアスベルクの自宅で自家栽培したトマトと玉ねぎを使ったスープ。それから、焼きたてクロワッサンです」
「おいしい……おいしい……」
「美味しいね~!」
「わふう、おかわり♪」
昨晩も思っていたことだが、女神様に料理を振る舞う日が来るとは、夢にも思わなかった。
自由気ままに冒険をしていた俺が、創世の女神と同じ食卓を囲んでいるのだから、つくづく人生とは分からないものだ。
この調子なら、近いうちに出版する予定の料理本も、悪くない売れ行きになるかもしれない。
俺の貯蓄はすでに危険水域に近づいている。とはいえ、世界がこの有様では、無事に出版まで漕ぎつけられるかどうかも怪しいのだが……。
「ふう……素晴らしいご馳走でした。ルカに料理を教えていただけありますね。蛭蟲が気に入るのも分かります」
イリアス様は満足そうに息をつき、サラダの皿を見つめる。
「それに、このサラダ……あの伝説の料理人アルフォンソの味にどこか似ていました。どこでレシピを覚えたのです?」
「俺が育った孤児院に残っていた、古いレシピのメモ束を参考にしたんです。伝説の料理人に似ていると言われると……光栄ですね」
空になった木皿を片付けながら、イリアス様とそんな会話を交わす。
外からは、ガルダの嬉しそうな鳴き声が響いていた。どうやらお口に合ったらしい。みんなが満足してくれたことに、素直に嬉しくなる。
――そのとき、ふと視線を感じた。
顔を上げると、椅子に座る影紬がこちらをじっと見ている。
無表情に近い顔に、わずかだが不機嫌そうな色が滲んでいた。口先がほんの少しだけ尖り、目が細められている。
「……美味しそうですね?」
抑えた声色だが、どこか棘がある。
「影紬も、食べられるようになるといいな。前の体には食事機能があっただろ? 好きな食べ物はあったのか?」
「食事を必要としないのに、摂取する必要がありますか? 私は人形遣いとして魔芸を磨き、陛下の覇業のために力を尽くすのみ。今も昔も変わりませんよ」
淡々とした口調。
そこに個人的な好みや感情が入り込む余地はなく、己の在り方を確認するかのような言葉だった。
話には聞いていたが、影紬は黒のアリスを心から慕っているようだ。
「アリスフィーズ8世──黒のアリスか。アイシスの上司だった……」
その名を口にした瞬間、影紬の身体がぴくりと揺れた。
ほんの僅かな反応だったが、無駄のない彼女の動きの中では、かえって目立つ。どうやらアイシスの名が、何かを刺激したらしい。
「かの高名なる炎氷将軍──陛下の腹心だった伝説のサキュバスですか。惜しいことですね。あなたが封印を解かなければ、人形にして陛下に献上できたというものを……」
「……もしかして、先に部下になったアイシスに嫉妬してるのか?」
俺は半ば冗談のつもりでそう言うと、影紬は一瞬だけ言葉に詰まった。
「そのようなことはありません。……そう言いたいところですが、おそらくそうなのでしょうね。陛下がアイシスについて語られるときは、いつも喜ばしげなものでした……」
それ以上は語らず、影紬は静かに窓の外へと目を向けた。
遠くを見つめるその横顔は、いつもの人形めいた無表情とは異なり、どこか寂しさを帯びているように見えた。
──黒のアリス。
影紬は“陛下”と呼び、今なお揺るぎない敬意を捧げ続けている。五百年前に君臨していた、歴代最強と名高い魔王であり、現在は第三の神として盤上を荒らし回ったとされる存在である。それと同時に、アイシスが芋以外のことで愚痴をこぼす数少ない要因。
俺は直接会ったことはない。
だが、黒のアリスについては妙に詳しい自覚がある。
理由は単純だ。
泥酔したアイシスが、こちらが聞いてもいないのに、よく語っていたからだ。
当時は『稚気な上司だ』とか『暗黒のアホだ』とか、ぼかした言い方しかしなかったし、名前も決して口にしなかった。だが今になって振り返ると、あれらはすべて黒のアリスについての愚痴だったのだろう。
いい年をしてゴスロリ趣味が痛いだの、コスプレ趣味が痛いだの。
私費を経費に混ぜ込もうとする悪癖に、恋愛方面の驚くほどのヘタレぶり――俺はそんな話を、酔ったアイシスから何度も聞かされてきた。
「『黒にサキュバス』という諺が残るほどです。忠誠心に溢れた人物だと、私は思っていたのですが……」
「アイシスは魔王と魔物の法に忠誠を誓ってるだけなんだよな。聞いた限り、黒のアリスとは腐れ縁の友人……って感じだと思うぞ」
主従というより、長年の付き合いで続いている厄介な縁。
少なくとも、アイシスの愚痴を聞く限りでは、上下関係の緊張感はほとんど感じられなかった。
「そうですか……。本来ならば、部下の一人として叱責を行いたいところですが、陛下は望まれないでしょうね……」
諦観を帯びたその言葉のあと、影紬は空になった木皿を抱えて洗い場へと向かった。
ぷくーっと膨らました頬が可愛らしい。
「イリアス様。その……“黒にサキュバス”って、どういう意味なんですか?」
「もしや……知らないと言えずに、見栄を張ったのですか?」
じとり、と冷ややかな視線が俺に向けられる。
「娘に浅学だって思われるのが怖くて……」
正直に答えると、イリアス様は小さくため息をつき、呆れたように眉をひそめた。
仕方ありませんね、といった様子で口を開く。
「黒にサキュバスとは、魔物の間で使われている諺です」
“黒色がサキュバスに似合っている”だとか、“組み合わせとして様になる”といった、軽い意味合いで使われているらしい。
だが、元々は別の意味を持つ言葉だった。
実力ある者に、強力で忠実な部下が付き従うことで、その存在はさらに完成度を増す――そういう意味の諺だという。
黒のアリスに忠誠を誓い、その傍らで力を振るったアイシスの存在が、まさにその象徴だった。
主と部下が揃って初めて“完成形”になる存在として、当時の魔物たちの間では広く知られていたらしい。
なるほど、と内心で頷く。
変な愚痴ばかり聞かされていたせいで忘れかけていたが、あの二人は本来、伝説として語られるほどの組み合わせ。普段のぐだ~っとしたアイシスを見ていると、その伝説的な評価が本当に同一人物のものなのか、首を傾げたくなってくるが。
「最近の言葉で言えば……ヤマタイ村発祥の『鬼に金棒』が、いちばん近いでしょうね」
「なるほど……ありがとうございます。でも、アイシスが聞いたら凄く嫌がるだろうな……」
嫌な虫でも目の前に現れたかのように、露骨に顔をしかめるアイシスの姿が目に浮かぶ。
彼女は今、どこに居るのだろうか。
「さて、雑談はここまでにして……今から、真面目な話をします」
「おでかけするの?」
「おさんぽ?」
「まあ……あながち間違いではありません。──この島を出たあと、どこへ向かうのかを決めねばなりません」
そう言って、イリアス様は机の上に地図を広げた。
・・・・・
イリアス様に話を聞いたところ、情報収集はあまり順調ではないそうだ。
各地の魔物たちが大幅に強化されており、イリアス様御一行だけでは対処しきれない場面も多かったらしい。立ち寄れたのはせいぜい小さな村々程度で、腰を落ち着けて話を聞く余裕もなく、小さな情報すら集めるのに相当苦労したとのこと。
原因は、各地の魔物に発生しているという三世界合一の影響――アポトーシス化現象とやららしい。
どうやら本来はただの魔物だった存在が、混沌に侵食されることで異常なまでに強化されているようだ。ただし、倒してしまえば混沌の力は散開し、魔物は元の状態へ戻るという。
つまり――力の同盟お得意の、暴力で解決してしまえばいい、という話になる。
ルシフィナさんの教えである『暴力は全てを解決する』というありがたいお言葉もあることだし、俺にとってはむしろ馴染み深い手段だ。実に分かりやすくて助かる。
「俺としては、力の同盟の仲間と合流したいですね。イリアス様、居場所に心当たりはありませんか?」
「三世界合一の際、中央以外のタルタロスから水が吹き出したようです。中に居るとは考えにくいでしょう。逆に聞きますが――緊急事態の際、あなた以外の者たちは、どういった対応を取ると思います?」
そう問われ、俺は無意識に自分の顎を撫でる。
もし、一応は司令塔だった俺が危機的な状況に陥り、どれだけ足掻いても事態を打開できず、パーティーが全滅に至りかねないと判断した場合。
そのときは――ぺことヴェペリアを除いた仲間たちに、二人を連れて即座に離脱するよう、あらかじめ伝えてある。
その指示だけは、迷わず実行するように、と。
あのときの状況は、まさにその条件にぴったりと当て嵌まる。
となれば、誰かが道の崩壊の最中、ハーピーの羽を使って脱出したと考えるのが自然だろう。
俺がそう推測を口にすると、イリアス様はすぐには答えず、悩ましげに小さく唸った。
「……ならば、各地に散り散りになった可能性が高いでしょうね。私たちも中央タルタロスから脱出する際、ハーピーの羽を使いましたが……。混沌の乱流に巻き込まれ、別の場所へと弾き出されました」
「……でも、ぺこは“合一した可能性が高い”と、イリアス様はおっしゃってましたよね?」
「あくまで予想です。あの魔物に宿る細胞の性質を考えると、同じ場所に――」
イリアス様は言葉の途中で、ハッと息を呑んだ。
そして、慌てた様子で口をつぐむ。
「ええと……女神の勘というやつです。信じなさい」
イリアス様はニッコリと笑ってそう言った。
「本当にそうなんで──」
「神に剣を向けるなかれ……。あなたは今、私に言葉という名の剣を向けています。神罰が下りますよ?」
「それは教えを曲解しすぎでは?」
「私が考えた五戒です。曲解するのは、ある意味当然でしょう。むしろ私がしなくて、誰がするというのです?」
「そうですか……」
イリアス様は腕を組み、いかにも満足げに胸を張った。
どう考えても話をはぐらかされた気がするが、これ以上突っ込めば本当に“神罰”とやらが飛んできそうだ。
あまり聞いてほしい話ではないようだし、藪を突いて蛇を出すわけにもいかない。
もっとも、ラミアでシスターなソロミさんのような、優しい蛇の魔物が出てきてくれるのなら話は別だが。
それと、ハーピーの羽は、現状では使える状態にないらしい。
三世界合一の影響で、街や村の位置そのものがズレてしまっているのが原因だ。離れ離れになった際にはイリアスベルクで合流する取り決めにしていたが、イリアス大陸以外に飛ばされてしまった場合、街へ辿り着くのは難しいだろう。
「……あっ」
「あっ、とはなんです? 何か思いつきましたか?」
「えっと、違うんですけど……。実は──」
俺はイリアス様に、言っていなかったことを話した。
修羅世界で知り合った何人かが、しばらくしたら俺の暮らしている特異点世界に遊びに来る、そんな約束をしていたのだ。
白天狐にアスカノミコト。
それから、こちらから呼んだ覚えはまったくないが……ブラディとベリアルも、おそらく顔を出すだろう。
俺が無人島で待機していた理由の一つが、それだった。
俺の位置を特定し、改良型どこでもテレポくんを使って世界間を移動してくる予定だったのだ。だからこそ、白天狐が来てくれさえすれば、助けてもらえると考えていた。
しかし、三世界合一という前代未聞の状況下では、座標そのものが狂っている可能性が高い。
おそらく、別の場所へワープしてしまうだろう。
「来られるかどうかも分かりませんし、その有象無象たちについては一旦置いておきましょう。一応、戦力になりそうなあなたも合流しましたし……大都市へ向かうのも、アリかもしれませんね。特に――サバサ辺りは」
「サバサに何かあるんですか?」
「ぺこが居る可能性が高いのですよ。魔界において、蛭蟲はサバサを領地とし、邪神から統治を任されていました。……もっとも、あれを“統治”と呼ぶのは、いささか無理がありますが」
「ああ……」
魔界での話は、俺も聞いている。
ぺこは任された領地の人々や魔物を、文字通り食べ尽くしてしまい、結果としてサバサそのものが、ぺこの体内に収まっていたという話だ。聞いただけで、俺の胃の辺りが重くなる。
「ともかく、サバサにぺこが居る可能性が高いでしょう」
「なら、決まりですね。ぺこと合流できれば、戦力としては最高ですから。燃費は……ちょっとアレですけど」
力の同盟で一番強いのは、おそらくシェーディだ。
できることなら、真っ先に合流したいところだが――彼女がどこにいるのかだけは、まったく見当がつかない。他の仲間たちなら、ある程度の行動は想像できるのだが。
アイシスは現状把握のために放浪するだろうし、エクレアは妹の様子を見に行くはず。
ミクリは故郷のヤマタイ村に向かうか……グランドールでスロットでもしているだろう。ヴェペリアはぺこと合流するために移動するはずだ。
本当を言えば、イリアスベルクに居る可能性が高い陽絹に頼りたかった。
だが、まずはもう少し、影紬と俺が打ち解けてからにしておきたい。
今の状態でも話はできるだろうが、良い結果になるとは──正直思えない。
「では、決まりですね。まずはサバサに向かい、ぺことの合流……いえ、説得を試みましょう」
こうして、俺たちの最初の行き先が決定した。
・・・・・
イリアス様御一行と初めて出会った、あの砂浜にて。
俺はいよいよ、この島から脱出することになった。
俺はいつもの全身鎧を装着し、動作確認を行う。
これで万事抜かりはない――気合も十分だ。
「イリアス様~! ヴェークさんの弓、お喋りできるんだよ~!」
「わんわん! 肉球みたいにぷにぷにしてておもしろーい!」
『ニンゲンクウ……。ニンゲンノチカラ、ホシイ……。ダカラ、クウ……』
「なんですか! その禍々しい弓は!?」
砂浜に置いた俺の弓を、イリアス様とイヌエルが木の棒でつつく。
最近は流暢によく喋るようになったので、もしかすると魔物化するのかもしれない。……おそらく、ぺこの影響を受けているので、魔物化すればよく食べる子になるだろう。辛い。
「どうだ、影紬? 俺の冒険家としての姿は」
「……なんですか、その禍々しい鎧は。大悪党にしか見えませんよ。勇者というより、狂戦士です。少し離れてもらっても?」
「おっと、俺の心はガラスだが……その言葉は言われ慣れてるからな。残念だが、効かないぞ」
「言われ慣れてるのですか。……この鎧の様式、あの女が考えていますね。なるほど、流石は三代目影紬と言ったところでしょうか。機能性とデザイン性は両立されている。――腹は立ちますが」
影紬は俺の鎧姿を、頭の先から足元までまじまじと眺め、そう評した。
その視線に悪意よりも確かな観察眼を感じて、俺はなんだか嬉しくなり、つい照れてしまう。
――その直後、大きな舌打ちが聞こえてきた。
辛い。
「ウォークは弓のみを使うと聞いていたのですが、それは……?」
「ああ、これはですね……」
俺は腰に下げた刀に手を伸ばし、その柄を静かに撫でる。
これは、修羅世界にいた別の俺が使っていた刀――“詠人不知”。
向こうのヤマタイ村にある、俺を祀る神社に安置されていたものだ。管理を任されていた白天狐から、『ぜひ使ってほしい』と言われ、ありがたく受け取った。
「刀の腕前は、あまり期待しないでください。一応、基礎はヴェペリアとミクリから教わったんですけど、完全に付け焼き刃なので……」
残念ながら、俺に刀の才能はあまりなかった。
刀は技量を問われる武器であるので、鍛錬の積み重ねが必要なのだ。
訓練中のヴェペリアは、かなり鬼教官寄りで、少しでも気を抜けば容赦なく“家族の平手打ち”が飛んできた。
そのおかげで基礎は身についたものの、アポトーシス化した魔物を相手にするとなると、不安な点は正直多い。
「それは残念ですね。しかし、その刀が名刀であることは間違いないのでしょう」
「……ふむ。確かに、ただの武器ではなさそうですね。興味があります。刀身を見せてもらっても?」
「おっ、影紬も刀が好きなのか? なら、存分に見てくれ!」
俺は柄を握り、刀身を鞘から引き抜いた。
──その瞬間、周囲に殺気が充満する。
『オオオォォォ……!! マモノゴロシ……!! ユルサヌ、ユルサヌゾォォォ……!!』
「わ~! 刀さんもお喋りなんだね!」
「あたしもそんな武器が欲しいなー!」
「なぜ持つ武器すべてが物騒なのです!! 早くしまいなさい!」
俺は渋々ながら、詠人不知を鞘へと納めた。
刃が収まると同時に濃密だった殺気は霧散し、砂浜には再び平穏が戻ってくる。
「こんなのが……私の父親ですか。ふふ、涙が出そうです」
「そ、そんなに言わなくてもいいじゃないか……。ほら、真っ黒なビームとか出せるんだぞ? ……白天狐とミクリは、大喜びしてたんだがなあ」
「ちなみに、その攻撃を受けると……どうなるのです?」
「全身の骨がぐちゃぐちゃに捻れるか……。もしくは、切られた傷口から血が噴き出します」
「そのビームは全面的に禁止します。いいですね?」
プルエルとイヌエル以外が、俺に冷たい視線を浴びせる。
やや遠くで待機するガルダも冷めた眼差しで俺を見つめており、心に刺さるものがあった。
「……ごほん! 先程の下りはもう忘れましょう。では──出発の準備はできましたか?」
「はい!」
「えっと、人参に玉ねぎにじゃがいも……全部持ったよ~♪」
「わんわんっ!」
「はてさて……小さくなった天使と様子のおかしい勇者──。この旅は、一体どうなりますことやら」
こうして俺は、慣れ親しんだ無人島を離れることになった。
混沌に覆われる世界を救うため――そして、散り散りになった仲間たちと再び合流するために。
先の見えない新たな旅路ではあるが、不思議と足取りは重くなかった。
・・・・・
「おー! これは凄いなー! あれ、ゴルド火山か! あっちのプランセクト村は……あんまり見ないようにしよう。変な電波とか思念が飛んでくるかもしれない」
「くぇぇぇ~!!」
イリアス様御一行と俺は、ガルダの背に乗り、遥か上空を飛んでいた。
旅の途中で空を飛ぶこと自体は、これまでも何度かあった。
だが、ここまでの高度は初めてだ。……よくよく思い返せば、ルシフィナさんとの訓練中、これと同じくらいの高さから投げられたことがあったような気もする。頭痛がしてきたので、深く思い出すのはやめておいた。
地上はまるで、精巧なミニチュア模型のように見える。
広大な海も、連なる山脈も、そのすべてを一望できた。これまで俺が歩き、駆け、戦ってきた道筋が一枚の絵のように視界に収まっている。それを見下ろしながら、俺は少しだけ、感慨深い気持ちになっていた。
「──おっと! 危ない危ない」
「気をつけなさい。落ちれば、ひとたまりもありません。まあ、あなたなら大丈夫かもしれませんが……」
ガルダの背は広いとはいえ、足元は少しぐらつく。
俺はバランスを取り、身体が落ちそうになるのを咄嗟に防いだ。
「ぬりぬり……ぬりぬり……」
「影紬さん、なにしてるのー? お絵かき?」
「いえいえ、ガルダにコーティングをですね。雨が降ったときのために、水を弾くオイルを少々……」
「何をしてるんだー? 影──なんだここは! 滑るぞ!!」
「影紬!! 一体何をしているのですか!?」
「わんわん!! ヴェークさんが落ちちゃったー!!」
足元のヌルヌルした何かを踏み抜いた瞬間、俺の身体はガルダの背から放り出された。
「──くえー!!」
反射的に、自分自身へスローの時魔法をかける。
ガルダが大きく旋回し、やや低空へと高度を落とした。そして、ゆっくりと落下する俺を、その背で正確に受け止める。
「し、死ぬかと思った……! あ、ありがとう、ガルダ……。お礼に今度、いっぱい料理を作るよ」
「くええっ♪」
ガルダは満足そうに鳴き、羽をひと振りする。
「影紬……誰があなたの体内にある爆弾のスイッチを持っているか、忘れてはいませんよね? 今度余計なことをしたら、口を縫い合わせるか――スイッチを押しますよ」
「カゲツムギヲイジメナイデ……」
イリアス様にほっぺをもちもちと抓まれ、影紬は情けない声を上げた。
どうやら、さっきのヌルヌルは彼女の仕業だったらしい。
「まったく、困ったいたずらっ子だな……。それにしても、こんなに高い場所から落ちたのは久しぶりだ……」
「危なかったねー、ヴェークさん! 前にも同じようなことがあったの?」
「修羅世界でな。五つ集めると願いが叶うっていう、伝説のドラゴンキューブを探していた最中に──」
話を途中まで言いかけた、その時だった。
プルエルと話している最中、ガルダの羽音とは明らかに異なる、鋭く空気を裂くような風切音が耳に届いた。
「イリアス様!! 何か来ます!!」
「……っ!! イヌエル、プルエル! 影紬を連れて後方に下がりなさい! ガルダは、このまま進むのです!」
イヌエルとプルエルが慌てて後方へ下がり、入れ替わるようにイリアス様が俺の隣へ立った。
その手には、淡く光を放つ杖。触れずとも、聖なる力が満ちているのが分かる。
あいにく、今飛んでいる空域は雲が多い。
確かに風切音は聞こえるのだが、雲に遮られて姿までは確認できない。
イリアス様の命令どおり、ガルダは速度を落とさず進む。
雲の合間を縫うように飛び抜け――やがて、視界が一気に開けた。
「あれって……ミニ、か……?」
「そのようですね。しかし、何か様子が――」
「あー!! イリアス様とガルダなのだ!! くぇっ! くぇっ!!」
「くぇ……?」
雲の向こうにいたのは――フェニックスのミニだった。
以前、森で迷子になっていたところを保護した、あの子だ。
だが……一目で分かるほど、違和感がある。
「なんか……成長してません?」
「……していますね。フェニックスと言えど、こんな短時間でここまで大きくなるのは……不自然です」
俺はイリアス様と顔を見合わせ、ミニの変化に驚いた。
以前見たときよりも一回り大きく成長していた。子供のような姿だったのが、すっかり大人のような姿になっている。
成長――という言葉で片付けていい変化ではなかった。
「ヴェーク! ヴェークも居るのだ! あたしとドンで、あちこち探したんだぞ!」
「あ、ああ……。話は聞いてるよ、ありがとう。心配かけたみたいで悪かったな……」
俺は並列して飛ぶミニに、ひとまず礼を言った。
だが、意識の大半は別のところに向いている。
ミニの身に纏う、ただならない気配。
以前感じたものとは、比べ物にならないほどの熱量とエネルギーが、はっきりと伝わってくる。
フェニックスは成長すれば、非常に強力な魔物になるらしい。
だが――ここまで強烈な力を放つものなのだろうか。
「あっ、それよりも助けてほしいのだ! ──ミニの両翼に封印されし、漆黒の力が目覚めそうなのだ!!」
「……なんて?」
「……この力は、まさか……!!」
ミニはパタパタと翼を振り、大きく体を動かして必死にアピールする。
その仕草は相変わらず無邪気だが、放たれる力の気配は冗談では済まされない。
――やはり、何かとんでもない事態が起きている。
「う、うう……封印が解けそうなのだ! ──また悪の限りを尽くしたくなってきたのだ!」
「それって、どういう──うわっ!?」
次の瞬間、ミニが俺の肩を両足でがっちりと掴んだ。
そして――そのまま、ガルダの背から引き剥がされる。
あまりに急な出来事だった。
反応する暇もなく、俺は無抵抗のまま空中へと放り出され、そのまま連れ去られていく。
「なぜ勇者が攫われているのです!! ガルダ! すぐに後を――」
イリアス様の声が、急速に遠ざかっていく。
必死にこちらへ手を伸ばす姿が見えたが、やがて雲と距離に遮られ、その姿も掻き消えた。
「ミニ!」
「こ、こんなことをしてる場合じゃないのに、体が勝手に動くのだ……! 今度は火山でまた遊びたくなってきたのだ!!」
ミニの鋭い爪が、俺の肩を深く捉えている。
力は尋常ではなく、振りほどこうとしてもびくともしない。
「くっ、どうすれば……」
俺は必死に思考を巡らせるが、ここははるか上空だ。
下手に抵抗してミニを刺激すれば、次の瞬間には地上か、あるいは海へと真っ逆さま――その結末が容易に想像できた。
結局、俺は抗う術もなく、されるがままミニに攫われてしまうのだった。