イリアス様と相談を重ねた結果、次の目的地はグランドールに定まった。
とある依頼を受けた関係で、道中いくらか寄り道をすることにはなったが、進路そのものに大きな変更はない。
本来であれば、ここから比較的近くに位置する四大国の一つ、サン・イリアへ向かう案も検討していた。
しかし最終的には、その向かうのは後回しでよいという結論に落ち着いた。
会談を終えてからしばらく経ったあと、サイバーナイトから詳しい話を聞き、慌てて介入する必要はないと判断したからだ。
現在のサン・イリアは、二つの勢力が拮抗し、ある程度は均衡を保っているという。
一つは、淫魔族の祖にして六祖の一人、魅凪と魔物たち。
ぺこによれば、魅凪は修行に明け暮れる格闘家気質の人物らしい。かなりストイックで厳格な性格ではあるものの、無益な争いを好むタイプではなく、自ら戦乱を望んでいるわけでもないとのことだった。
もう一つは、七大天使の一人、ラファエラが率いる天使たち。
多少、性癖に難があるという話だが、それを差し引いても非常に優秀で、秩序を重んじる天使だという。ガブリエラと比べて外交面と知略で優れているらしく、こちらも力による制圧より、対話によって問題を解決しようとする傾向が強いそうだ。
また、サン・イリアは知っての通り、イリアス信仰の都である。
そのため、特異点世界に居た人間たちは自然と天使の庇護下にあるという。
この二つの勢力が互いを牽制し合っていることで、国全体としては小康状態が保たれているらしい。
個人間での小競り合いや局地的な衝突が皆無というわけではないが、国家規模の大きな争いに発展する兆しは見られないとのことだった。
そのため、現時点では比較的安全な状態にあると判断できる。
サイバーナイトを派遣する余裕があるほどなのだから、しばらくは様子見でも問題ないだろう――そうイリアス様は結論づけた。そしてその判断には、俺も同意した。
「熱き拳を持つアイシスよ! 健闘を祈るぞ!!」
「おう! お互い、力の限りを尽くそうぜ! ブラディも力の同盟のこと、よろしくなっ!」
二人は言葉を交わすと同時に、乾いた音を響かせながら、軽やかにハイタッチを交わした。
「見送りに感謝しましょう、影紬」
「陛下、ご武運を……」
「エヴァ、あんまり問題を起こすなよ。ハインリヒに迷惑かけないようにな」
「ふふん。問題なんて起こすわけないじゃない。この私が!」
――ハインリヒが率いる勇者パーティーと、イリアス様がリーダーを務めるグループ。
二つの一行は、サバサの正門を前にして、それぞれ異なる道へと進むために立ち止まっていた。
「じゃあ、僕たちは先に発つよ。ヴェーク、イリアス様のことを任せたよ」
「違いますよ、ハインリヒ。この無鉄砲な冒険家のことを、私が面倒を見ているのです」
「……うーん、そうかもしれません」
短いやり取りに、場の空気がわずかに和らぐ。
「ふふ。──それじゃあ、みんなで力を合わせて、この世界を救おう! また、いつか!」
溌剌とした声とともに、ハインリヒは高く手を上げた。
その仕草一つで、周囲の空気が一段、明るくなる。
やはりハインリヒは伝説の勇者だ。たった一言の号令で、人の心をここまで奮い立たせることができる。その様子を見て、イリアス様もまた、どこか穏やかな微笑みを浮かべていた。
「ではな、アイシス。我らも旅の無事を祈っているぞ」
「アイシスさん! また一緒に冒険しましょうね!」
「みんな~! 元気でね~!」
「わんわん!」
それぞれが思い思いの言葉を投げかける中、ハインリヒ一行は門をくぐり、ゆっくりと遠ざかっていく。
勇者、魔王、格闘家、遊び人──奇妙な取り合わせの四人組だ。しかし、その後ろ姿は、不思議とちぐはぐさを感じさせず、新たな英雄譚の挿絵を思わせるものだった。
俺たちは彼らの姿が見えなくなるまで視線を送り、それから向きを変える。
「じゃあ、そろそろ俺たちも出発しましょうか」
「私たちも負けずに邁進せねばなりませんね。聞いていますか、ウラギリエラ」
「はい……。肩をお揉みしましょうか? それとも、一発芸でもしましょうか?」
「なんでこう、最近のあなたは小物チックなことしかしないんですか? マッサージはプルエルとイヌエルにやってもらうので結構です」
そう言い放たれてもなお、ガブリエラは引き下がらなかった。
両手を擦り合わせ、媚びるような笑みを浮かべながら、イリアス様の顔色を窺っている。その仕草には、かつての尊大さや矜持の名残はほとんど見受けられない。
プライドはどこかへ置き忘れてきたのか、それとも自ら切り捨てたのか。
生殺与奪の権を他人に握られている以上、下手に出るのは理屈としては正しい選択なのだろう。だが、それを差し引いても、今のガブリエラはあまりに卑小だった。
少し離れた場所から様子を窺っていたリファイールは、言葉にしがたい表情を浮かべている。
憐れみとも失望ともつかない、微妙な歪みを帯びた顔だ。
「行ってくるよ。ヴェペリア、ぺこをよろしくな」
「はい! 父上! 影紬にブラディ、気を付けて」
「ええ。まあ、はい。……それなりに楽しかったですよ、あなたとの姉妹ごっこ」
「うむ! では、サーバーの管理、しばし任せておくぞ!」
「早く戻って来るのだぞ。お前が居ないと、我は寂しいからな」
俺は言葉を重ねる代わりに、固くハグを交わす。
寂しいのは、向こうだけじゃない。むしろ、俺も同じくらい――いや、それ以上かもしれなかった。
だからこそ、早く解決策を見つけなければならない。
この状況を終わらせ、影紬とヴェペリアが、何の制約もなく並んで外を歩けるようにするためにも。
「じゃあ、行ってくる!」
「くえっー!!」
俺たちはガルダの背へと乗り込んだ。
力強く羽ばたくと同時に、視界がぐっと持ち上がる。緑に染まったサバサの街並みが足元に広がり、やがて遠ざかっていく。
胸に残る名残を振り切るように、俺たちは空へと舞い上がった。
・・・・・
俺たちが受けた依頼は、サバサ王から直々に託されたもので、その内容は二つあった。
一つ目は、グランドール北部に位置するサファル砂漠遺跡の状況確認だ。
遺跡からさらに北東にあるサルーンという村へ避難しようとしていた複数のサバサの民が、遺跡の方角から轟音とともに白い煙が立ち上るのを目撃したという。
そして二つ目が、サルーンの東にある管理者の塔の調査である。
こちらも様子がおかしいらしく、正体不明の黒い煙が上がっていたとの報告があった。加えて、塔そのものの色合いや放つ雰囲気が、これまでと明らかに違っているらしい。どれも放置できる話ではなかった。
「まずは、サファル砂漠遺跡を見に行くべきですね。あの辺りはサンドワーム娘も生息していますし、ただ機嫌が悪くて暴れているだけかもしれません」
「そうですね……」
俺はイリアス様の言葉に応じながら、ガルダの背から砂漠を見下ろした。
どこまでも続く砂の海は静まり返っているように見えるが、その下には何が潜んでいるかわからない。
サンドワーム娘は、この地方に生息する魔物の一種で、その巨体は常識外れ。
人を丸呑みにできるほどの大きさを誇り、ひとたび暴れれば、周囲一帯が地震に見舞われたかのように揺れ動く。果ての見えない砂漠という舞台も相まって、その異様な大きさはいっそう際立って見えたものだ。
俺もかつて一度、あわや飲み込まれかけたことがある。
巨大な口腔に引きずり込まれ、完全に捕食される寸前まで追い詰められたが、どうにか抗い、口内を火傷させることで脱出に成功した。
その流れで、暴れていたサンドワーム娘を力ずくでこらしめ、事態を沈静化させたこともある。ちょうど、今向かっているサファル砂漠遺跡での出来事だ。自身の住処である遺跡が壊されないか悩んでいた、土の精霊ノームからは、事が収まったあとに感謝の握手を受け取った。
そしてその礼として、土の精霊の力を授かることになった。
その出来事を思い返し、俺は頭に浮かんだ疑問を口にする。
「もしかして、ゴルド火山と同じように、天界と魔界の土の精霊も居るんでしょうか?」
「その可能性が高いでしょうね。一応言っておきますが、あなたはこれ以上精霊を宿すと、頭がおかしくなって死にそうなので、やめておきなさい。土の精霊たちには戦力として、こちらに合流できないか提案してみましょう」
イリアス様の言葉は容赦がないが、根拠のない忠告はしない。
話がひと段落したところで、俺はふと視線を横に流す。
そこには、穏やかな表情で、ガブリエラが眼下の景色を眺めている姿があった。
砂漠の広がりを追うその横顔は、先ほどまでの卑屈さや緊張を忘れたかのようで、どこか楽しげですらある。
その様子が、少しだけ意外に思えた。
「ふふ、こうして下僕の背に乗って、地を見下す……。なんと愉快なことでしょうか。ワインでも開けたい気分です」
「性格悪いですね、あなた」
「そちらに言われたくありませんよ、影紬。そういえば……あなたのサーカス、私も含めて誰も愉しんでいませんでしたよ」
「……性格悪いですね、あなた」
ガブリエラと影紬は並んだまま、軽口とも挑発ともつかない言葉を投げ合っている。
……大丈夫だろうか。そう思いつつも、今のところ実害はなさそうだと判断し、俺は視線を前方へ戻した。
「あの雲、パンケーキみたい!」
「わんわんっ、あっちはTボーンステーキ……」
「まあまあ、二匹とも実に可愛らしい。私はラファエラのようではありませんが、これは愛でたくなりますね……」
「その手で触らないでもらいましょうか、ウラギリエラ」
「わ、私はただ、頭を撫でたかっただけなのですが……」
間に入ったイリアス様にぴしりと拒まれた瞬間、ガブリエラの肩が目に見えて落ちた。
この天使、思っていたよりもずっとメンタルが弱いらしい。強気な言動や行動とは裏腹に、拒絶には驚くほど脆いのだ。
その落ち込む姿は、小さくなってしまった、どこかの女神様の姿を彷彿とさせた。
「じゃあ、あたしからナデナデしたげる!」
「わんっ!」
「ああ~」
落ち込んだガブリエラを、プルエルとイヌエルが挟み込むようにして頭を撫でる。
最初は戸惑っていたガブリエラも、次第に表情を緩め、身を委ねるようになっていった。
「ふふ、この調子で小イリアス様の側近に取り入り、ゆくゆくは──アツツツッッッ!?」
「その流れ、これで何回目ですか? 学習をしなさい、学習を」
ガブリエラに刻まれた紋章が熱を帯び、彼女は驚いた猫のようにぴょんと飛び跳ねた。
どうやら腹黒さは、そう簡単に矯正されそうにないらしい。
そんなやり取りをしているうちに、目的地であるサファル砂漠遺跡が視界に入ってきた。
上空から見た限りでは、特に大きな異変は感じられない。
ただ、合一の影響なのか、見覚えのない建造物がいくつも増えている。
だが、魔界も天界も、元々似たような遺跡と砂漠だったと聞く。ならば、あまり大きく変わってはいないのだろう。
「では、そろそろ降りてみましょうか。ガルダ、降下の準備を」
「くええっ!」
「さてさて、陽炎に包まれた謎の遺跡……。離れ離れになってしまった土の精霊たちは、果たして無事なのでしょうか。裏切りの天使を仲間に加えたイリアス一行は、一体何を目撃することになるのか──」
相変わらず、変なナレーションを入れてくる影紬。
場の空気を盛り上げようとしているのか、茶化しているのか、判断に困るところだ。
だが、影紬の言葉を否定する気にはなれなかった。
合一を経たこの遺跡に、いったい何が待ち受けているのか──それは、誰にもわからないのだから。
砂漠の熱気が揺らめく中、霞む遺跡は静かに佇んでいる。
その沈黙の奥に、未知と危険、そして可能性が眠っている気がしてならなかった。冒険者としての血が、久しぶりに強くざわめくのを感じながら、俺は降下に備えて気を引き締めるのだった。
・・・・・
「……魔界か、天界のサファル砂漠遺跡は、こんな感じになってたんですか?」
「ううむ、我には分からん!! こちらのサファル砂漠遺跡は、これが名物ではないのか!?」
「またこのやり取りをする気ですか? 答えはノーです。なんですか、この変わりようは……」
俺たちはサファル砂漠遺跡の手前に降り立ち、そこから徒歩で遺跡へと向かっていた。
サバサのように辺り一面が緑に覆われたわけではない。だが、近くでよく観察してみると、ここもまた、とてもとても大きな変貌を遂げていることが分かった。
遺跡の各所には、地下へと続く階段がいくつも設けられていた。
そのうちの一つを試しに降りてみた結果――そこに広がっていたのは、予想のはるか斜め上を行く光景だった。
「……温泉になってる……」
俺たちの目の前に広がっていたのは、湯気を立ち上らせる水路だった。
石灰岩で整えられた石畳が広がり、天井には柔らかな光を放つ光源が等間隔に設置されている。同じ石材で作られた湯船らしきものも、あちこちに点在していた。
「おおおぉぉぉ~!! 温泉!! 温泉!!」
「素晴らしいですね。私は植物ではありますが、温泉は好みなのですよ……。あら、こちらにあるのはサウナですね」
「これは、なかなかのこだわり……。ここを作ったのは、間違いなく熟練の職人ですよ。それも、情熱に溢れた……私と同じく、他人を楽しませることに心血を注ぐタイプの」
上機嫌な様子で、ガブリエラが石造りの建物の中を覗き込む。
木製の扉を開けた瞬間、中からむわっとした熱気が流れ出してきた。
それを見て、ブラディはなぜか一瞬だけテンションを落とし、心配そうな視線をガブリエラに向ける。
――が、その状態は長く続かなかった。
「おおおぉぉぉ~!! 二重扉!! 二重扉!!」
「先程からドラゴンが煩いのですが。ヴェーク、彼女を直してください」
「それは無理ですね、イリアス様。ブラディは生粋の温泉好きでして……。こうなってしまうと、なかなか元に戻りません」
俺は肩をすくめながら、そう報告する。
ブラディは、キチがつくほどの温泉狂いだ。彼女の住まう魔王城には、常軌を逸した豪華さの浴場が設けられており、それを自ら監修しているほどでもある。
先程から翼をばさばさと羽ばたかせ、手足をばたはたさせ、目をぎらぎらと輝かせている。
完全にスイッチがオンになっている状態だった。
「もっ、もう辛抱ならん!! 我は入る! 入るぞ!!」
「駄目に決まっているでしょう。まずはここの調査を行います」
「いやだあああぁぁぁ!!」
ブラディは地面に寝転がり、駄々をこねる子供のように暴れ出した。
翼を打ち鳴らし、尻尾を振り回し、全身で不満を主張している。
それを、イリアス様は一歩引いた位置から、冷めきった目で眺めていた。
温泉の湯気に包まれ、辺りは十分すぎるほど暖かいはずなのに――その視線だけは、キンキンに冷えた水風呂に放り込まれたかのような冷気を感じさせる。
「イリアス様! あたしも入りたいな~♪」
「あたしもあたしも!」
「……うっ。だ、駄目ですよ。プルエル、イヌエル……」
お供二人からの無邪気なおねだりに、今度はイリアス様の態度が目に見えて揺らぐ。
このままでは、なし崩し的に押し切られてしまいそうだ。
俺は軽く手を叩き、全員の注意をこちらに向ける。
「じゃあ、こうしよう。まずは、この温泉を一通り見て回って調査。それから、入るかどうかを決めよう」
「いやだあああぁぁぁ!!」
「まあまあ……。かなりの種類のお風呂があるみたいだしさ。先に目星をつける意味でも、見て回るのは悪くないだろ? それに、入浴中に邪魔が入ったら、せっかくの興も削がれるんじゃないか?」
「……その通りだな!! では、とっとと調査に乗り出すぞ! あとに続け、ヴェーク!!」
「ぐええっ!? 人違いで──」
そう言い放つなり、ブラディは勢いよく走り出してしまった。
ガブリエラの首根っこをしっかりと掴んで。
「あー、やっぱりこうなったか……」
「カフェでヴェペリアから、力の同盟の仲間の話はあらかた聞きましたが……。それにしても、本当に単純ですね、彼女」
「ま、まあ……そこがいいところだと思うぞ。たぶん、うん」
「いいとこ探しマキナですか、あなたは。ともかく、あとを追いましょう」
「はーい!」
この砂漠のど真ん中で、いったい誰が温泉など作ったというのか。
視界は白く霞み、湿った空気が鎧にまとわりつく。
湯気の向こうへと消えていく二名の背を追い、俺たちは謎の温泉の中へと足を踏み入れた。
・・・・・
進んでいくにつれて、実にさまざまな種類の風呂が目に入ってきた。
プールのように広々とした大浴場がいくつも並び、寝転んだまま浸かれる寝湯や、陶器で作られた壺風呂まで用意されている。地下空間であるにもかかわらず、その規模はちょっとした村ほどありそうだ。
「風呂の展覧会ですね、これは……」
「打たせ湯、露天風呂、水風呂……こっちは立ち湯ですね。深いので、落ちないように気をつけなさい」
「わん!」
イリアス様の言葉を聞きつつ、俺たちは慎重な足取りでさらに奥へと進んでいく。
見たところ、地上へと通じる階段も各所に設けられており、万が一の事態が起きても、逃走経路には困らなさそうだった。調査を進める上では、ありがたい構造と言える。
「ここはどうやら、岩盤を削って作られたようですね。しかし、切り出された石がこれまた見事……」
「見事? どういうことなんだ、影紬」
「断面が非常に滑らかで平坦なのですよ。これは高度なマキナを用いても、なかなか難しい加工のはずです」
影紬はそう言いながら、近くの湯船を軽くコンコンと叩いた。
正直、俺にはどこがどう凄いのかはよく分からない。だが、彼女がわざわざ言及する以上、相当に高度な技術なのだろう。
「私も、それについては同感です。ここまでの加工精度……一体、誰が手を加えたというのでしょうか」
「でも、そこまで警戒する必要はないかもしれませんね。温泉作りなんて、ずいぶん平和なことをしているくらいですし」
「戦争を仕掛けようとしていたブラディのことを、もう忘れましたか? 警戒は必要です」
そう言って、イリアス様は小さく鼻を鳴らした。
言われてみれば、その通りだった。
ついさっきまで温泉に浮かれていた、あの変なドラゴン――ブラディは、元々は侵略を企図していた存在だ。趣味や言動がいかに平和そうでも、その裏まで無害だと決めつけるのは、あまりに楽観的すぎる。
「──で──から──」
「────でね☆ ──ウチ──」
「……! イリアス様」
「私も聞こえています。イヌエル、プルエル、後ろに」
奥へと進んでいたそのとき、湯気の向こうから、断片的な話し声が聞こえてきた。
反響と蒸気に遮られて、内容までははっきりと掴めない。
だが、その声質は明らかに、ブラディやガブリエラのものではなかった。
温泉の賑やかさとは裏腹に、空気が一段階、張り詰めた。
気配を殺しながら、声のする方へと慎重に歩みを進める。
そこには──。
「……………………」
「……………………」
天井が大きく開け放たれ、その向こうに広がる空の光が、ひときわ大きな湯船を照らしていた。
その中央に浮かんでいたのは、水着姿の精霊が二人。
それぞれが巨大な浮き輪に身を預け、ぷかぷかと気ままに漂っている。
目には黒のサングラス、手にはトロピカルな赤い花を挿したコップ。水色の液体の中で、氷が揺れていた。
一人は、俺も面識のある土の精霊ノームだ。
もう一人は知らない顔だが、雰囲気や姿はノームによく似ている。おそらく、天界か魔界――そのいずれかに属していた土の精霊なのだろう。
「……はあ。こちらの苦労も知らず、ずいぶんとのんびりしていますね……。どうしました、ヴェーク?」
「……なんか、すごい波が来てるような……そんな感覚が……」
「……波? 私の集音器には、話し声しか──」
怪訝そうな表情を浮かべる影紬をよそに、俺は二人の土の精霊とは別の方向へと、自然と視線を向けていた。
そこにはまだ何の姿も見えない。
にもかかわらず、その奥から、名状しがたい“何か”が、確実にこちらへと迫ってきている――そんな感覚だけが、はっきりと存在していた。
やがて湯気が薄れ、音が、少しずつ輪郭を持って耳に届き始めた。
それは──言葉、言葉、言葉。
まるで言葉の大行進が、休むことなく、こちらへと押し寄せてくるかのようだった。
「──あらあら、そんな真面目な場面でノーパンになっちゃうなんて、おかしなことになったのね。でも、ドラゴンキューブって願いを聞いて、どうやって判断してるのかしらね? 確かに一番近くにいたのはシェーディちゃんだったけど、ギャルなんて世界には他にもいっぱいいるじゃない? そういえば、ギャルといえばこの前、ギャルエルフのミサミサちゃんとお話ししたんだけど、スマホっていうマキナが流行ってるみたいでね。私にもどうだろうっておすすめされちゃったの。それで、私も近くのお店に買いに行ったんだけど、どの端末がいいのか全然わからなくて、結局悩んでるうちに閉店時間になっちゃったのよね……」
「すごーい! ロアちゃんは機械に抵抗のないフレンドなんだね! ウチ、マキナ苦手だからよく分かんなくて、娘たちにぜーんぶ任せちゃってるの☆ それにさ、ウチらの住んでる混沌の奈落って、電波状況チョーベリー悪いから、通信機能アリ系のマキナって使い物にならないことが多いんだよね~! だから、娘と連絡するときは念話でやりとりすることにしたんだけど、全員がウチのこと着信拒否にしちゃってさ、チョー悲しいじゃんね! 一日四十時間もお喋りするのはしんどいから、やめてくれーって☆ ぴえん! 反抗期なのかなあー? ……あっ、そだそだ! 子育てといえばね、仲間の娘ちゃんにヴェペリアちゃんって子が居るんだけど、すっごく礼儀正しくてカッコいいの! 今度、一緒に畑を耕す約束しててさ、土と対話して、交流を深める予定なの☆」
「土と対話なんて……素敵ね! 土との対話って言うと、やっぱり陶芸か農業を思い浮かべるわよねぇ。そういえば私も前に、ガーデニングをやってみようと思ったことがあるの。でも、ほら、このあたりって砂漠じゃない? そうなると、自然と育てる植物がサボテンくらいしかなくなっちゃってね。でもサボテンって、そこら辺りに普通に生えてるし、ほとんど手入れもいらないでしょう? それで結局、やりがいが無くてやめちゃったの。しばらく離れてたんだけど、最近また挑戦したくなってね。今度はアンブロシアちゃんと一緒に、砂漠でも育てられる植物の種を見に行ったのよ。そしたら、間違ってまた趣味の悪い植物園に迷い込んじゃって。結局、具合が悪くなったアンブロシアちゃんの介抱で手一杯になっちゃって、種は買えなかったわ……。でもね、こうして私が誰かとお喋りするのも、ある意味では土との対話になるんじゃないかしらって思ったの。でもこれって、土との対話っていうより、土が対話してる、って言ったほうが正しいのかしらね?」
「うーん、とりまどっちでもいいじゃんね、楽しいから☆ はあー、会話って素敵! ウチのノム語ってみんなに聞こえないから、力の同盟の子たちに無口だって思われてるの! マジちゅらい! でもでも、この世界って混沌濃度が全体的に高いじゃんね? もしかしたら、聞こえるようになってるかもって思ってて☆ その点、ヌル語っていいよねぇ。会話の意味がわかんなくても、きゃわいい声で鳴いてるみたいに聞こえるらしいもんねぇ。きゅきゅ、きゅきゅきゅー。うーん、やっぱり母音の発音と声調が難しくて、なかなか話せるようにならないや☆ 理解はできるから、ネバギブ! それ考えるとさ、前に会った白兎ちゃん、ほんと凄かったんだよねぇ。ノム語もヌル語もイケるとか、トリリンガル超仕事人ってカンジ~! でも、あれだけ忙しそうだと、お勉強ができるのも大変なんだろうなあ~。……って思った、今日この日の兎餅☆」
「うふふ。お勉強ができると言えば、魔界だと玉藻様とアスタロト様が、真っ先に思い浮かぶかしら。やっぱり、頭脳明晰な方ほど苦労するのは、どの場所でも同じなのね。そういえば、玉藻様のお名前を出して思い出したけど……六祖の蛭蟲が、そんなに変わっているだなんて。驚き桃の木山椒の木、よ! あの方のせいで旅人が来なくなっちゃって、私、すっごく寂しかったの。でも、シェーディちゃんの言う通り、まん丸になってるなら、とっても嬉しいわねえ。そうそう、邪神城では、その話題で一時期、持ち切りだったんだから。だって、六祖の中でも一番恋愛に縁がなさそうな方から、そんな話が出るなんて……注目の的になるに決まってるでしょう? 聞いたところだと、邪神様もかなり気になさっていたみたいだし、これからどうなるのかしら!」
「逆にウチは尖ってるぺこちゃんを見たことがないから、不思議な感覚じゃんね! 昔はウチも結構ワルで、お転婆で、夜露死苦☆ ってカンジだったし、ちょっと親近感わいちゃうかも! まあ、さすがに国を食べたりはしなかったけどね~! ウチはいろんな世界を渡り歩いて、戦って、トレジャーハンターとしてお宝をたっくさん集めちゃった☆ でね、一番のお宝は~……太陽のコイン! 『太陽になりたい』っていう、世界を渡り歩くちょっと変わった戦士さんから貰ったコインで、友情の証なんだよ! 太陽を称えるポーズを教えてもらったり、溶岩を泳ぐメチャデカ百足娘を一緒に懲らしめたりしてさ~! 今ごろ、どこで何をしてるんだろうなあ……。うちのヴェークちゃんも、あれくらいでっかくて、熱い男になってほしいな☆ そうすれば、ぺこちゃんとも上手く行くからね☆ それはそうと、修羅世界で会ったオジイチャンが若い頃はこんな感じだったなんて──」
そこに居たのは、土の人形のような姿をした精霊と、シェーディだった。
二人とも水着姿で、木製のデッキチェアに腰掛けている。そして――理由は分からないが、シェーディらしき声が、はっきりと俺に聞こえていた。
俺は急に眠たくなり、ぼんやりと話を聞いていると、心の奥からダークフェニックスの声が響いた。
『ま、不味いわね……。自動翻訳機能を、オンにしたままだったわ。人間はノム語は理解するのに、脳の処理能力を1200%ほど使用するから、早く切らないと──』
珍しく、明らかに慌てた調子のダークフェニックス。
俺と世界は徐々に遠くなっていく。
『おお! ヴェークの心の中に勝手に増設した公園の池が、どんどん熱くなっていく!』
『ワーハッハッハ! ちょうど外の景色を見て、風呂に入りたくなってきたところだ! どちらがより長く、より熱い湯に留まれるか――勝負といこうではないか、サラマンダーよ!』
『あつい……あつい……』
次に押し寄せてきたのは、異様にテンションの高い火の精霊たちの声。
世界と俺との距離は、さらに広がっていく。
「──」
「話していたのは、ロアでしたか。お喋りになりすぎて、ついに一人で会話をするようになったのでしょうかね。それと、隣に居るあのふしぎないきものは──ヴェーク!? 耳から血が吹き出して──」
とんでもない情報の奔流に、俺は完全にキャパシティオーバーを起こしていた。
目の前でイリアス様が何かを叫んでいるはずなのに、その声はもはや音として認識できない。
俺の視界は、暗転したのだった。