このVS学園には魔物が眠っている。
恐らく、DSはそれを狙っているんだと思う。
『ジャバウォック』……かつてその圧倒的な力で世界を震え上がらせたという、伝説のカード。
かつてVS学園のある場所に、そのカードが封印された。これが、お父様がひた隠しにしていた事実。そして恐らく、DSの狙いだ。
ジャバウォックは、単にカードとして強いだけではない。そのカードには、手にした者の攻撃性を増大させるという、邪悪な力が宿っていたそうだ。また、カードの側が使い手を選び、認められないまま使用した者には恐ろしい災いが起こったなど、様々な伝説がある。
本当かどうかは分からないけど。
使い手を選ぶ凶悪なカード。
しかし、逆に言えば使いこなせれば莫大な力を得る。悪の組織が狙う理由には、十分なものだと思う。
お父様も、そのカードは悪人に渡してはならないと、戒めるように度々口にしていた。
そうだ。
偽造カードやイカサマダイスを流し、学園を混乱に陥れた悪の組織、DS。そんな人たちに強大な力を持つカードなんて、渡せる訳がない。
私が守らなきゃ……
そんな風に考えながら、例の事件から日々を過ごしていた。でも、あの時のことが嘘のように、学園は平穏だった。
ともすれば、DSがこの学園から手を引いたんじゃないか、と思うほどに。
……あるいは、伊波先生のおかげなのかもしれない。
彼が三国くんを始めとした、DSに利用された生徒たちのイカサマを摘発したことで、偽造カードやイカサマダイスのほとんどを学園から駆逐した。
これはDSも想定外だったに違いない。学園を混乱させて、その内にジャバウォックの所在を探ったり、あるいは別の悪巧みをするつもりだったのかもしれないけど……それは伊波先生が素早く解決したおかげで防がれた。
伊波先生さえいてくれれば、きっとDSだってこのVS学園には手を出せないはず。
伊波先生は、私にとってお父様と同じくらい信頼できる人だ。ジャバウォックのことだって、彼以外、他に話した人はいない。
……そんなことを考えている自分の変わり身に、思わず笑ってしまう。
伊波先生と初めて会った時からしばらくは、あんなに敵視していたのに。伊波先生が、本当は優秀な教師で、しかもコネの使用も誤解だと最初から分かっていれば……もっと良好な関係を築けていたかもしれないのに。
良好な関係……か。
伊波先生には恋人などいるのだろうか。
左手の薬指に、指輪はしていない。結婚はしていなさそうだ。
でも、もしかしたら……恋人はいるかもしれない。いや、あれだけ優秀で格好良い人だ。むしろ、いない方がおかしいんじゃないかと思う。
実際、伊波先生は生徒からとても人気だ。
毎回、講義終わりには伊波先生の周りに質問に行く生徒が集まる。講義内容が面白いから、集まる生徒は男女両方いる。けど、女生徒の半分くらいは、伊波先生と話したいから質問に行っているように見える。
わ……私は違うけど。私は、ちゃんと講義内容についてより深い知見を得たいからだ。うん。
ともかく、そんな生徒たちから、たまに伊波先生にプライベートな質問がされることがある。でも、彼は私生活のことは全てはぐらかしてしまう。
彼の詳しいことは、さっぱり分からない。お父様の持っていた履歴書にも、ろくな情報が書いていなかった。履歴書の意味がない。
……あ。
そういえば。私が彼と初めて会った時、黒崎さんと一緒に学内を歩いていた。
しかも、彼女とは以前からの知り合いだと、確か言っていた気がする。
黒崎さんなら、伊波先生のことを何か知っているかもしれない。
本人に直接聞くのは恥ずかしいけど……黒崎さんに対してなら、聞ける、かも。
そう思うと、私は好奇心というか、伊波先生について知りたいという欲求が、お腹の底から湧き上がってくるのを感じた。手に入らないと思っていたものが、思いがけないところから手に入るかもしれない。そんな期待感。
私は、午前中の必修講義が終わった後、生徒たちが捌けるまで少し待ってから、会話を聞かれることもないと判断できたタイミングで黒崎さんに声をかけに行った。
「黒崎さん」
「……藤宮さん。私に何か?」
艶やかな長い黒髪。それに対して強いコントラストを持つ白い肌。人形のように綺麗な見た目の彼女は、入学当初からその優れた実力と美しい容姿で噂になっていた人物だった。
しかし、私たちの世代の誰もが通ることではあるのだけど……現序列1位の橘くんに圧倒され、しばらくすると学校を休むようになってしまった。
しばらくしてから復学した彼女は、以前と違いVSには消極的になったものの、友人も増え付き合いやすい人柄になっていた。
入学時から、彼女をライバル視していた私としては、少し残念だったけど……
そんな彼女に話しかけると、黒崎さんは怪訝そうな目を向けてきた。
当然だ。彼女に対して、私はライバルとして勝負を仕掛けようとすることが度々あり、そのたびに彼女はそれを断る。そんなやり取りが恒常化していた。
彼女に警戒されるのも仕方がない。
しかし、今回は試合の申し出ではない。私は臆さずに彼女に言葉を続けた。
「少し聞きたいことがあるんです。伊波先生についてなんですが——」
「伊波先生の?」
反応は劇的だった。これは……警戒されている?
「え、ええ。その。黒崎さんは伊波先生と以前からお知り合いなんですよね? 伊波先生って、ご自身のことを少しも話さないもので、気になって。何か先生の素性に関して、ご存知ではありませんか?」
「……いえ、私も伊波先生のことは詳しくは知りません。昔、近所に住んでいた顔見知り、という程度です」
顔見知り、か。
その割には、距離感はだいぶ近いように思えたけど……
「ああ、でも。伊波先生は、割と甘いものが好きなようですね」
「へえ……! それは初めて知りました」
「そうかもしれません。学校で食べているところなんて見ないでしょうし」
「なるほど……ありがとうございます、黒崎さん。今度、ぜひ昼食でもご馳走させてください」
これは、かなり有益な情報なんじゃないだろうか。
伊波先生が甘いものが好きだなんて、聞いたこともなかった。多分、黒崎さんしか知らない情報だ。
これは……活かさない手はない。
私は早速、その日の放課後、自宅でお菓子作りを始めた。
お菓子なんて作ったことないけど……大丈夫、やればできる。
私は、クッキーを焼くことにした。
しかし……初めてのことに、悪戦苦闘するハメになる。
「えっと、材料は薄力粉にバター、卵に砂糖……最初は常温に戻したバターと砂糖を混ぜて……」
「うーん、なんかべちゃべちゃになってるような……」
「あっ! 手順一個飛ばしちゃった……!」
「……う、あんまり美味しくない……なんかもさもさして粉っぽい感じ……?」
心が折れそうになりながらも、失敗を繰り返し……四度目でやっとそれなりの形にはなった。
「やった! 初めてでこれなら、上出来じゃないかしら」
試食してみると、ふんわりとした甘さが口の中に広がる。サクサクの食感も悪くない。
普段自分が食べているものとは比べものにならないクオリティのはずなのに、自分で作ったものだと思うと美味しく感じる。
「これなら、きっと伊波先生も驚いてくれるわ」
あとはこれを伊波先生に渡すだけだ。
◆
さすがに、人前でわざわざ手作りしたお菓子を渡すのは恥ずかしい。
クッキーをカバンの中に詰め込んで、私はチャンスを窺っていた。
伊波先生が一人になるタイミングを。
朝一番に、伊波先生の教室に行ってみようか。もちろん、開いていない可能性の方が高い。けど、私は胸の高鳴りが抑えきれなかった。
少しでも早く、私の想いを受け取って欲しい。そんな考えから、逸る私は第3棟に向かった。
しかし、案の定教室の扉は空いていなかった。仕方ない。出直そう。
その日の午前中、いや伊波先生の講義を受けている間も、私はそわそわしっぱなしだった。おかげで、講義も上の空。
「おいコラ、聞いてんのか藤宮」
「えっ!? ご、ごめんなさい! ボーッとしてました!」
くすくす、と周囲から笑い声が漏れる。うう……
「すみません、廊下に立ってます……」
「ああ? ちゃんと反省してんならンな無駄なことしなくていいんだよ。俺の講義を無駄にされる方がよほど腹立つから、座ってきっちり聞いとけ」
「は……はいっ」
「廊下に立つ、ねぇ。こういう罰則って、中々扱いが難しいところだよな。罰を強制しなきゃ反省しない奴もいれば、藤宮みたいに自ら省みる奴もいるからな。だがまあ、大抵の場合は強制ってのは嫌がられる。俺の講義でも『心理誘導』なんて言葉をよく使っているが、人は強制されるより誘導される方が気分良く乗ってくれるもんなんだよな」
わ、私の失敗から講義の内容に繋げられちゃった。アドリブが利くというか、なんというか……
「目指すべき誘導の形としては、相手の自由意志を歪めないのが望ましい」
「だからこそ、人間の心理の傾向を理解することが大切。伊波先生は良く口にされてますよね」
「そうだ。たとえば、人は選択肢が3つある中だと真ん中を選びやすいってデータがある。松竹梅の法則とか言われたりするが、定食屋で松竹梅どれを選ぶかってなった時にゃ松は高すぎ、しかし梅は安すぎる。なら真ん中を選ぼうってな。んで、実は竹のコースが一番利益率が高かったりするんだな、コレが」
「なるほど……! 真ん中に本命の要求を挟むと、それが通りやすくなるってことですね!」
「そういうこった。ただ、相手の自由意志を歪めないためっつっても、選択肢は3つ程度に留めておいた方がいい」
「えっと……自分で色々選択できた方が、その人の自由意思には沿っているのでは?」
「選択肢が多すぎると、却って意思決定が難しくなるという研究結果もあるんだ。いわゆるジャム理論というヤツだが、たとえば、好きなVSのカードを一枚くれてやる、と言われたとしようか。大喜びで選ぼうと思ったが、必ず手が止まるはずだ。なぜなら、VSのカードプールは膨大だからだ。種類は1000や2000じゃ効かないだろう。その中からたった1枚のカードをその場で選び抜くのは、大変労力を伴う。自分のデッキとの兼ね合いを考えたら何時間、下手したら数日がかりだ。が、全てのカードではなく、俺が50枚くらいテキトーに引っ張ってきた中から選べ、と言われれば、選択すること自体は途端に簡単になると思わないか?」
「そっか……確かに、元が多すぎると、どれを選んだらいいか考えるのも大変かも」
「その通り。ある研究によると、『選ばなくていい』ことは最も強い選択肢であり、人間はともすればそちらに流されがちだと言われている。人間、何も考えずに行動できるのが一番ラクってこったな。選択するってことは意外と負担なんだ。選択でなく決断、と言い換えると理解しやすいかもしれない」
確かに、決断。そう重大そうな響きで言われると、それを行うのに強い精神的な負担がかかるのが分かる。
「ジョ……じゃなくて、起業家や実業家の中には同じ服を何着も持ってずっとそれを着ることで、選択に使うリソースを仕事に回していた、なんて話もある。また——」
相変わらず、伊波先生の講義は新鮮で興味深い。毎日毎日、VSのことばかり聞いているからっていうのもあるかもしれないけど。
それに、聞いた理論を実践してみると、自分が賢くなったのではないかと錯覚しそうになる。
実際、VSの成績が良くなった生徒も多いみたいだし、やっぱり伊波先生は優秀な講師だ。
……講師がしたくてこの学園に来たわけじゃない、って本人は言ってたけど。本業っていうのは、一体なんなんだろう?
やっぱり、ミステリアスな人だ。
そんなことを考えていると、講義が終わる。
私はチャンスを待った。しかし……
「伊波先生ー!」
「見てみて、新しいVSギア! この間教わったドアインザフェイスでお父さんにおねだりして、買ってもらっちゃった!」
「先生、今度序列が上の生徒とVSするにあたり、このような内容で交渉しようと思っているんですが、契約内容を評価していただけませんか?」
伊波先生の元には生徒たちがどんどん集まってくる。
う……ま、まあ、いつも伊波先生は、次の講義に間に合わせるために5分くらいで質問を切り上げるし。そのくらい待てないことはない。
……と思っていたんだけど……
いつもの質問タイムが終わると、私が声をかける前に伊波先生はそそくさと教室を出て行ってしまった。
私もそれを追いかけようとしたけど、いつになく伊波先生の行動は早く、彼の背中は廊下から消えていた。
「もう、どこに行っちゃったのよ……」
このまま当てもなく探しに行っても仕方ない。教室で待っていれば、その内帰ってくるかな。
私は教室で、先生をじっと待つことにした。
しかし……昨日、慣れないお菓子作りなんてしたせいか、眠くなってしまった私は、机に突っ伏して寝てしまった。
目を覚ました頃には、すっかり暗くなっていた。
「い、いけない! 門限は……あー……」
お、お父様とお母様からすごい量のメッセージが来てる……
「うう……せめて、お説教は帰ってからにして……」
とりあえず心配はさせないように、学校で寝てしまったこと、無事であること、心配をかけてしまったのを謝りたいこと、そしてできればお説教は家で短めに、ということを綴ったメッセージを送る。
二人はすぐに、安心したという旨のメッセージを返してくれた。ふう……
もう、誰か起こしてくれても良いのに……
「……それにしても、夜の学校って不気味ね」
怪談なんて信じていないけど、確かに、夜の闇でよく知った景色が全く違う場所になったかのような雰囲気は、妙な怖気を感じさせる。
早く帰ろう。クッキーは明日にでも渡せるし。あ、いや。金曜日にならないと渡せないのか、伊波先生には。
「うー、失敗したなぁ」
とぼとぼと階段を降りて行く。
その途中。
ずぅん、と妙な揺れが、私の足元から響いてきた。
地震……?
私はスマホを開いて、地震に関するニュースを探った。けれど、その手の情報は出てこない。
しかし、気のせいと考えるには、今の揺れはあまりに大きかった。
「……まさか…………」
嫌な予感がして、私は階段を一気に駆け下り、
嫌な予感は当たった。
「……!!」
この第3棟の一階には、物置きと化した特別教室がある。そこには、地下への階段……ジャバウォックのカードを封じている部屋への扉が隠されていた。
その特別教室の扉。そして、棚の後ろに隠され、機械制御されていたはずの地下階段への開口部が開いている。
中からは埃っぽい階段が現れ、下へ下へと続いていた。
「まさか、ジャバウォックを……!?」
この下。学園の遥か地下に、そのカードは眠っている。
お父様が厳重に隠していたはずの、地下への入り口。一体、どうしてこれが……!
「とっ、とにかく、誰か……お父様と、警備員さん……!」
校門と東門、それぞれの守衛室に詰めている警備員さんなら、ここへ来るのには10分も掛からないはずだ。
守衛室の番号は、お父様からスマホの電話帳に入れられている。すぐにそこに掛けた。しかし。
「——ッ、なんでっ、繋がらないの……!?」
コールはされている。けど、誰も出ない。
出払っている……異変を聞きつけて、こちらに向かっているとか?
いや、それはいくらなんでも楽観視しすぎだ。
とにかく、繋がらないなら、お父様にかけるしかない。
お父様の方は、2コールもしない内に出てくれた。
『キョウカ?』
「お父様! 私っ、今学校に居て!」
『ああ、さっきメッセージを見たよ。寝てしまっていたんだろう? そのことはまた明日にでも——』
「そうじゃなくてっ! 第3棟の、地下への階段が開けられているの!!」
『……なんだと!? 分かった、すぐに向かう。キョウカは、今階段の前にいるのか? なら、見つからないよう離れた場所……上の階の教室にでも隠れなさい。犯人が戻ってくるやもしれん!』
——犯人。
そうだ、この下には、ジャバウォックを奪おうとする犯人がいるに違いない。
守衛さんたちに電話が繋がらなかったのは、もしかして……
「犯人……犯人を……!」
『きょっ、キョウカ! やめなさい! 絶対にダメだ、危険すぎる!! お前は離れた場所で隠れていろ!!』
「お父様ッ! でも、せめて犯人の顔くらい見ておかないと……!」
『やめろと言っている! 相手は確実に素人じゃない!!』
「……分かりました、離れます。お父様、ありがとう」
そう言って、通話を切る。
——ごめんなさいお父様。嘘を吐いて。でも、いくら私でも、物陰から犯人の顔を覗き見るくらいはできるハズ。
一応、ここには防犯カメラもあるけど……ここのセキュリティを突破できるくらいの犯人だし、多分壊されている。
私が、この目で確かめるしかない。
この暗さだ。物陰から見ても、犯人たちの顔は見えない。顔を見るためには、照明を点けるか、懐中電灯か何かで照らすか。
あるいは……外に出るまで待って、月明かりに頼るか。
うん、それがいい。
私は、第3棟の出入り口を見張ることのできる、植え込みの裏に隠れて待った。犯人たちが現れるのを。
……緊張が途切れないまま、時間が過ぎていく。一体どれくらい待ったのだろう。多分、2分くらい?
それでも、途方もなく長く感じた。
そいつらは前触れもなく現れた。
ぬっ、と。音もなく出てきたのは二人組だった。そして、私は失策を悟る。
二人は、顔を覆うフルフェイスのヘルメットをしていたのだ。
そうだ、馬鹿だ私は。強盗なんてするのに、顔を晒して行動するはずがないじゃないか。ドラマとかでも、銀行強盗なんかは目出し帽を被るものだ。
一人はやや背が低い上、どこか女性的な体のラインが薄っすらと見える。もう一人は背が高く、細身ながらがっしりしているようにも見える。けど、体型が分かったところで仕方ない。
どうしよう、逃げられる……なんの手掛かりもないまま!
そして——焦った私は、最悪のミスをする。
よりにもよって、一番中途半端な行動を。
立ち上がり飛びかかるでもなく、息を殺して身を潜めるでもなく、迷いから半端に動いてしまい。
ガサッ。
そんな音を植え込みから立ててしまった。
ヘルメットの二人組はそれを聞き逃すことなく、正確にこちらを振り返った。
私は両手で口元を押さえ、恐怖で震えるのを必死に堪えていた。
音もなく、ヘルメットの二人が近付いてくる。左右に分かれて、挟み込むように回り込むつもりだ。
見つかる。確実に。
私は、もう破れかぶれになっていた。
「わあああああああっ!!」
叫び、ヘルメットの一人に突喊する。
破れかぶれといっても、僅かな理性が働いていたらしい。私が狙ったのは、二人組の内、背の低い方だった。
全力で体当たり。闇の中、こちらからの不意打ちだからか、避けられることもなくヘルメットの一人は仰向けに倒れた。
その際、偶然にも。
「……ッ!?」
月明かりに照らされた、その顔は……
「新垣先生……ッ!?」
学園の講師。去年から着任し、その優秀さからお父様も高く評価していた、あの新垣先生だった。
次の学期からは必修講義の講師も任せたいと、そう言われるだけの人物だったのに。
「っつう……やれやれ、藤宮くんは意外と肉体派なのだねぇ。油断したよ……」
「馬鹿、ヘルメットのバックル付けとけって言ったろ。ツラがバレたじゃねえか」
「きゃっ!?」
もう一人が私の腕を掴み、引っ張り上げる。凄い力。とても振り払えない。
まずい、まずいまずいまずい……絶望がじわじわと、私の足元から這い上がってくる。
顔を見ることが目的だった。でも、それを知ったことが、この人たちに知られたら。
「……おい、どうなってる。校門、東門はお前たちが抑えているはずだろう。なぜ子供が侵入している。突破されたのか? ……元から居たのではないか、だと?」
後ろの人は、まだ仲間がいるのか、誰かに連絡している様子だった。通話先の声は、ヘルメット越しだと聞こえない。
新垣先生がゆったりと起き上がる。
私はできるかぎり暴れて離れようとするけど、通話している最中でも強い腕力で拘束してくるヘルメットの男は、それを許さない。全く離れられる気配がない。
どうしよう。
私……このままどうなっちゃうの……?
今更になって、私の中の蛮勇は消え失せ、心を支配したのは恐怖の一色だった。
ああ、お父様の言うことに、ちゃんと従っていれば!
「いやぁッ! 助けて、伊波先生ぇッ!!」
思わず、私は好きな人の、最も頼りになる人の名前を叫んだ。
けど、それも一言だけ。すぐにヘルメットの男が、手のひらで私の口を押さえ付けた。
「むー! むー!!」
声が篭って、叫ぶこともできない。
私は恐怖で動けなくなった。いや、元々、力で押さえ込まれて動くことなんてできない。私の恐怖なんて、関係ないんだ。
そんな私の姿を見て……新垣先生は、小さく震えていた。
「ふっ! ふふふふふっ! こらこら。あまり笑わせないでおくれよ、藤宮くん」
彼女は、いつもの理知的な瞳とは違う、狂気的な瞳で私を……いや。私の後ろの、ヘルメットの男を見た。
「おい……」
「君の王子様は助けに来ないよ」
つかつかと、新垣先生は私の目の前まで歩み寄り、手を伸ばす。
思わず目を瞑ってしまう。けど、触れたのは、私に対してではなかった。
パチン、と。私の頭のすぐ後ろで、何かが外れる音がする。
そして、何かがコンクリートの地面に落ちる、硬質な音がした。
「ちょっ、マジで何してんの? お前」
「どうせ
「いやいや……ちょっと呑まれてんだろ、例のカードに。勘弁してくれよ」
——その声は。
ヘルメットに篭って、上手く聞き取れていなかったその声は。
それが外れたことで、明瞭になった。
初めは嫌っていた、それがその内、尊敬に変わっていた声。
私と同じく、コネだ、特別扱いだと後ろ指を指されて。それを全て実力で捩じ伏せた人の声だった。
「嘘……」
怖い。
振り返るのが怖い。
振り返れば、私の中の何かが、修復できないほどに崩れ去ってしまう。
はぁ、と、彼はため息を吐いた。
「嘘じゃない」
彼は無理やり、私の肩を掴んで、無理やり視線を自分の方に向けた。
私が誰よりも尊敬する先生が、夜のように冷たい瞳で私を見ていた。
「伊波、先生」