野営地から逃げるようにして、走り去ったウィルフレドだったが。
夜の森をいくらか進んだところで、目の前にあの犬の魔物が現れた。
『待っていたわ、ご主人様』
頭の中に直接響く声はいかにも化け物らしい、低くこもった声。なのにやたらとはっきり聞き取れるせいで、嫌でもこれが現実なのだと理解させられてしまう。
『その様子だと、無事怪しまれずに済んだようね。些細な悶着はあったみたいだけど』
血のついたナイフを手に持ったままだったウィルフレドを見て、犬の魔物が言う。
それから目の前の地面にそっと、赤黒く染まった女神の羽根を置いた。
『預かっていたものを返すわ。あなたのお父様の、大事な形見。これからのあなたに、必要なものでもある──』
お前になんか会いたくなかったのに。
走ったところで、どうせ逃げられるわけもなかったのに。
ウィルフレドが立ち尽くしたまま、なかなか羽根を拾おうとしないので、
『どうしたの。とって食いはしないわよ? ──少なくとも、今はね』
と犬の魔物がからかうように聞いてきた。
「……お前は、なんなんだ。一体なにがしたいんだ」
聞き返す自分の声は、犬の魔物のそれとは正反対にはっきりしない。
これは本当に俺が喋っているんだろうか。なんでこんなやつと会話できているんだろう。アンセルが死んだのはこいつのせいなのに。
『なにって別に……、ただのお手伝い? ご主人様が復讐したいって言うから』
「嘘つけ。殺そうとしたくせに、何がご主人様だ」
『だってそういう契約だもの』
「信じられない。そんな契約、俺はそもそもした覚えもないんだ」
『あら、本当にそう? じゃあその女神の羽根は?』
「……それにしたって、お前が言ってるだけだろ。“契約”なんて大層な事言ったって、お前の気が変わればそれで全部おしまいじゃないか」
『契約は、安っぽい口約束とは全然別のものよ? 気分なんかで破れるわけないじゃない』
それでも犬の魔物を見るウィルフレドの、絶望的で懐疑的な目つきは少しも変わらない。
『疑り深いお方。それじゃあ、利害の一致というのはどう?』
と犬の魔物が言った。
「利害の一致?」
『そう。私も神界の犬が目障りなの。できれば消えてほしいと思っている』
「……」
『だからあなたと契約を結んだ。……そう言ってあげれば安心できるかしら? あなたにとっても悪い話ではないと思うけど』
たぶん、その話は本当なのだろう。なにせ天の神々と仲良しにはとても思えないこの見た目だ。
ウィルフレドの顔に、わずかながら納得の色が浮かぶ。
犬の魔物は付け加えてこんな事を言った。
『それでも復讐なんかしたくないというのなら、仕方ない。そちらからの契約破棄は、今ならまだ一応可能よ。ただその場合は──、あなたはその瞬間、私の元ご主人様になるわけだから……。分かるでしょう?』
この契約関係を続けるか、さもなくばここで死ぬか。
選択肢などあってないようなものだ。抵抗どころか考える気力すらない。
そんな抜け殻のようになっている彼の心に直接、犬の魔物は問いかけてきた。
『あなたはここで死んでいい人間なの? ──思い出して。あなたが犠牲にした、あのお友達の事を』
嫌だ。思い出したくない。
『何のために、あんな事をしたのか。それだけの理由があったはずでしょう?』
あんな事をした、理由。それは……なんでだ?
『戦乙女が、それほどに憎かったから。そうでしょう?』
……そう、なのか。
『復讐するまでは死んでも死にきれない。どんな手を使っても、たとえ親友を犠牲にしてでも生き延びたい。そう強く思うほどに、戦乙女が、憎くて憎くて仕方なかったから』
……ああ、そうなのか。
俺は、それほどまでに奴を
『だからあなたは女神の羽根の力を使った。生き延びて、戦乙女に復讐するために。その力のすべてを、憎い戦乙女に向けるために。──そうじゃない?』
……ああ、そうだ。
だから俺は、アンセルを犠牲にしたんだ。
戦乙女が憎かったから。だからアンセルは死んだんだ。
『あなたの大事なお友達は、復讐のために死んだも同然。なのに今さら、何をためらっているの? お友達の大事な犠牲を無駄にするのが、今のあなたの望みなの?』
そんなわけない。
アンセルの死を、無駄にしていいわけなんかない。
『それともあなたの復讐への思いは、そんなものだったの──?』
「──そんなわけが、ないだろう!」
最後の問いかけを、ウィルフレドはついに声に出して答えた。
「憎いさ! ガキの頃からずっと、憎くて憎くて仕方なかったッ! 父さんもエルシーも、あいつがいなけりゃ死ななかった! 母さんだって、頭がおかしくならずに済んだんだ! みんな、みんなあいつがっ……!」
自分が怒鳴っているのが、はっきりと分かる。
頭に上った血が、体中に駆け巡っていくのが分かる。
「そうだ、みんなあいつが悪いんだ。アンセルだって、みんな、みんなあいつが……」
そうだ。俺はまだ生きている。これは俺自身の怒りだ。
化け物にもてあそばれるだけの死人じゃない。この怒りを全部あいつにぶつけるために、あがいて、あがき抜いて、力の限りに生きるべきなんだ。死んだアンセルのためにも。
「この羽根の力さえあれば、戦乙女を──」
ウィルフレドは呟きながら、地面に置かれた女神の羽根に手を伸ばす。
犬の魔物は従順に頭を垂れ、彼自身の行動を見守った。
ウィルフレドが犬の魔物と交わした契約は、以下の通りだ。
──期間は今より一年の間。
ウィルフレドのすべき事は女神の羽根に与えられた力を使って、戦乙女を打ち倒せるほどの強大な力を身につけ、そして彼女を殺す事。
戦乙女を討つために必要な事であれば、女神の羽根以外の事でも、犬の魔物は力添えを惜しまずウィルフレドを全力でサポートする。
なお約束の一年が過ぎても、戦乙女を殺す事ができなかった場合。
ウィルフレドの魂は問答無用で冥界行き。転生も消滅も許されない大罪人として、未来永劫、地獄の責め苦を受け続ける事になるのだという──
「……たった一年だけか」
父さんだって、周りに頼られる強さになるまでには相当の時間を要しただろうに。
改めてろくでもない契約をしたものだな、とは自分でも思わないでもないが。
『ええそうよ。だから死ぬ気で頑張らなきゃね。見込みがない人間にいつまでも付き合ってあげられるほど、私もヒマではないわけだし』
「……お前。俺がやりとげられるって本当に思ってるのか?」
『さあ? でも今のあなたには特別な力があるわけだから。……それに今までだって別に、遊び暮らしていたってわけでもないんでしょう? もっと自分を信じなきゃ、ご主人様』
それでもこんなところで、無意味に食い殺されるよりはずっとマシだ。
それに一年経って、本当に戦乙女を殺せるくらいに自分が強くなったら。その時は目の前のこの化け物を返り討ちにしてやる事だって、できるんじゃないだろうか。
せいぜいそう考える事にして、ウィルフレドは弱気になりかけた心を無理やり奮い立たせた。
『ではご主人様、これから一年よろしくお願いし──』
あらかたの説明を終えた後、改めて頭を下げようとした犬の魔物だったが。
『……。これでは、契約にも支障があるんじゃなくて?』
ウィルフレドの警戒心に満ちた視線に気づき、困ったように言った。
『この姿がいけないのかしら。いかにも化け物らしくって萎縮してしまうものね』
……逆にこいつに気を許せる要素が、一つでもあっただろうか。
見た目もあるけどそれ以前の問題だろ。とウィルフレドが内心思う中。
『こういうのは形から入らないとね。主従関係なら主従関係らしく、と──』
犬の魔物は勝手に何かを思いついたらしい。
ひとりで楽しげにそう言ったかと思うと、犬の魔物の体全体が、いきなり真っ暗闇に包まれた。
「──!?」
最大級に驚き警戒しまくるウィルフレドの目の前で、暗闇の塊がうにょうにょと姿を変えていく。
最初は犬の形状だったそれは、どんどん縦方向に細く長く伸びていき──
最終的には人間の姿へと変わった。
「これは……」
暗闇がすっかり霧散した後。
ウィルフレドの目の前に現れたのは、なんと人間の女性だ。
……しかもなにか、妙な服装だ。もしかして貴族のお屋敷に仕える女性が着る、“メイド服”とかいうやつだろうか。形から入るとか言っていたし、あの犬。
「お前、本当にあの犬なのか……?」
思わずあっけにとられて聞いたウィルフレド。
目の前の女はつつましやかに微笑むと、丈の長いスカートをつまみ上品にお辞儀して言った。
「エーリス、とお呼びください。ご主人様」
声も普通の人間の女性と同じだ。頭に直接話しかけたりなんかしてこない。
悔しいながら本当に警戒心が少し薄らいでしまったウィルフレドを前に、メイド姿の女が言ってきた。
「これならばご主人様も、私に物事を、なんでも気楽に申しつけくださる気になれるでしょう?」
「……まあ、多少はな」
「それはなによりでございます」
……あくまでも犬の姿よりは怖くない、という意味での多少である。
見た目や態度をそれらしく整えただけ。こいつの本性は変わってないはずだ。そもそもアンセルが死んだのはこいつのせいでもある。あくまでも俺の復讐のために利用してやるだけなんだ。
警戒心を忘れないよう自分に言い聞かせるウィルフレド。
人に姿を変えた犬の魔物──エーリスは、礼儀正しくウィルフレドに聞いてくる。
「ご主人様の事は、なんとお呼びすればいいでしょうか?」
「……名前はウィルフレドだ」
「かしこまりました。それではウィルフレド様、これからよろしくお願い致しますね」
挨拶を終えたエーリスは、挑発的な笑みを浮かべて言った。
「──私と一緒に、復讐を果たしましょう」
☆★☆
トゥルク村はずれの森。予定になかった休息をとった、翌日。
目を覚ました戦乙女は、不死王とのあれこれについて、セオドール達に最低限の事を話した。
まっすぐすぎる性格なアンセルが、これから彼女の妹さんを助け出しにまたあの城に行くのだと、当然のように思っていたからである。
いわく、彼女の妹が囚われの身になったのは、もう何百年も昔の話だそうだ。
捕らえている不死王はあの通り、主神オーディンに匹敵するほどにとんでもなく強い奴なので、今日明日でどうこうできる問題ではない。先日あそこに行ったのは、あくまで別の用事があったからであり、……その後戦闘になったのも、あくまで彼の要望に応えただけである。
立場上、去り際にああいうやり取りはしたが。どうも妹は丁重に扱われてはいるようなので、すぐに取り戻す事は自分も実際考えていない。
なのでお前達もあそこで見聞きした事はきれいさっぱり忘れて、英霊として己の精進に励むようにしてほしい。
戦乙女はそんなふうに話をまとめた。
「きれいさっぱり忘れろ、って……」
「お前のためでもあるし、私のためでもある。分かってくれるな、アンセル?」
心情的には納得いかなそうだったアンセルも、結局は頷いた。
自分より遥かに強い戦乙女が勝てなかったのだから。またすぐ突入しても返り討ちにあうだけだし仕方ないと、さすがに気づいたのだろう。
アンセルが退く事の大事さを改めて理解してくれたのは、なによりだが、
「それじゃ俺が妹さんを助けられるくらい、めちゃくちゃ強くなったら──」
「心の中で思うだけにしろ。口には絶対に出すなよ」
察しの悪さの方はまだまだのようだ。
「それって、どういう?」
「……不死王の城に行った事が上にバレると、色々まずいからだと思うよ」
「え、でも、雑魚に顔覚えられるくらいにはすでに何回も行ってるんじゃ……」
「……だからまずいんじゃないか。神界とは休戦中のはずなんだから」
セオドールが耳打ちで教えたところで、少しは分かってくれたらしい。「うーんと、神様も色々大変なんだな?」と戦乙女を見て言ったのだった。
「よっしゃ、それじゃ何も見なかった事にするよ。任せとけって」
「……。村に用事はもうないか? いい加減ここを発ちたいのだが」
今回はあくまで特別だ。今後はしょっちゅうトゥルク村に戻れるわけではない事は、セオドールがすでに教えている。
最後に一応見ておきたいとアンセルが駆け出していった後。
後に続いて村に足を向ける前に、セオドールは戦乙女に言った。
「すみませんでした、妹さんの事。手の届くほど近くにいたのに、何もできなくて」
「それでいい。そもそもお前に解除できる封印ではないからな」
やはりあの時の「手を出すな」には、そういった意味も含まれていたらしい。
確認ついでに、さらに戦乙女に聞いてみると、
「気になったんですが。妹さんはなぜ、不死王の人質に? ……いやその、私にもどうも、彼はそういったやり方を好むような男には……」
「私に聞くな。姉にでも聞いてくれ」
「姉……?」
「四年経てば会える。その時にでも聞けばいいだろう。聞けるものならな」
投げやりに答える戦乙女は、これはこれで分かりやすい不機嫌ぶりである。
余計な質問をしてしまったセオドールとしては「お姉さんもいらっしゃったのですか」や「四年後といえば。あなたの後任の戦乙女というのは、もしかしてその?」など、余計に疑問が増えたわけだが。……これ以上の質問ができる様子ではない。
とっとと我が家に帰って、今は一人でいた妻の寝顔をひとしきり見た後。近所にある家から出てきたアンセルと一緒に、また戦乙女のところへ戻った。
二人が戻った頃には、戦乙女はもう普段通りの落ち着きようである。
その身に纏うのはやはり、いかにもそれらしい羽根兜に蒼穹の戦鎧。
戦乙女としての本来の仕事を再開すべく、彼女は二人を連れ、さっそくトゥルク村から遥か空へと飛び立った。
今回でChapter0および、書き溜め分の投稿終了です
とりあえずはここまでのお付き合い、ありがとうございました
次回更新はさっぱり未定です
まったり遅筆+Chapter1が全部できたら出したいなあ、って感じなので……