ヴァルキリープロファイル 咎人と死の使い   作:さけとば

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 傭兵セオドールも戦死した一連の戦争で、アルトリアとクレルモンフェランの領土争いには一通りの決着がつけられた。

 負けたアルトリア側は、国境の守備軍を大きく後退。敗戦の痛手がよほど響いたのか、これ以降は失った土地を取り戻すための戦争を起こす事もなく、年月が過ぎていった。

 

 小競り合い規模の戦いでさえ、以前のように頻繁には起こらない。

 クレルモンフェラン領になったトゥルク村とその周辺も、そこで暮らす者の状況や意思も関係なしに、争いのない日々が訪れる事になったのである。

 

 

 父セオドールが戦死してから、もともと裕福にはほど遠いウィルフレドの家の暮らしぶりは、さらに貧しさを増していった。

 

 去り際に傭兵ドュエインが「せめてこれを」と分けてくれたお金は、最初の冬を乗り超えた頃には底をつきかけていた。

 近隣の住民を頼って暮らす事もあまりできない。

 セオドールが生きていた頃は、傭兵の稼ぎで比較的余裕のあったウィルフレドの家の方が助けていたくらい、彼らもすでに貧しかったからだ。

 

 戦争続きで荒れ果てた農地が、争いが終わってすぐ、豊かな土地に変わるわけがない。十分な収穫が得られるようになるまで少なくとも数年はかかるというのに、まともに稼げる傭兵の口だけなくなり、働き盛りの村人の中には、戦争が終わった事を嘆く者も少なからずいたくらいだ。

 

 むろん村人達も薄情なわけではない。

 そのような状況の中でも、農作業を手伝った報酬として食糧を分けてくれるなど、彼らにできる範囲での手助けはしてくれる。

 

 母マルゴットは、毎日遅くまで働きに出た。

 妹のエルシーはお留守番だ。遊び相手は、近所に住んでいるウィルフレドと同い年の、ティルテという女の子がよくしてくれている。

 

 それまでと同じように、子供でもできるような仕事がある時はウィルフレドもこれまた近所の親友アンセルと一緒になって働いたが、やはり大人の母と同じようには働かせてもらえない。

 たいていは母よりもずっと早く家に帰り、家で大人しくしていたエルシーと一緒に、食事の用意をして母の帰りを待った。

 

 

 

「そっち行ったぞ、ウィル!」

 

「って、そんなこと言ったって……うわっ!」

 

 村はずれの森の中。

 野うさぎに足元すぐ横を通り抜けられ、バランスを崩したウィルフレドはすっ転んだ。

 

「あー……。もう何やってんだよウィル。今日こそいけたと思ったのに」

 

 とウィルフレドを責めるのは、近所の親友アンセルだ。

 年はウィルフレドよりも、半年分だけ上。

 今みたいにウィルフレドと二人でつるんでいる時はもちろん、ティルテとエルシーを合わせた四人で一緒に遊ぶ時も、いつも彼がリーダーとなって周りを引っ張っている。

 ここしばらく、暇さえあればウィルフレドを村はずれの森まで付き合わせている張本人でもある。

 

「ごめん、アンセル。……だけどさ」

 

「なんだよ?」

 

 捕まえ損ねたのはお互い様じゃないか? なんていう事は今さらなので口にしない。

 言いたいのは、もっと根本的な事だ。

 

「やっぱり無理があると思うんだ、こんなので獲物を仕留めるなんて。父さんじゃあるまいし」

 

 アンセルが持っているのは、村のじいさんから譲ってもらったお古の剣。大人用のものなので大きさが全く合っておらず、力いっぱいに振り回すのがやっとだ。

 ウィルフレドに至っては、ただの木の棒きれである。

 

 こんなの絶対正しい狩りのやり方じゃない。

 ウィルフレドとしてはもう「無駄にお腹すかせるのやめないか?」な気持ちが大部分なのだが、やはりアンセルは変わらずやる気のようだ。

 

「あのなあ、親父さんだって最初からできてたわけじゃないんだ。なのに俺達がこんなすぐ諦めてどうする。そういう弱気がいけないんだぞ、ウィル」

 

 “親父さん”の修行不足時代など見た事もないくせに、分かったような事を説いた後、アンセルはこんな事まで言ってきた。

 

「お前、親父さんみたいな立派な戦士になりたくないのかよ?」

 

 すぐには答えられず、黙り込むウィルフレド。

 父セオドールが生きていたら、答えに迷う事なんてなかった。

 大きくなったら俺も父さんみたいに、傭兵で稼いで、家族を助けたい。

 

 今もその気持ちは変わらない。どころか家に帰ってからも繕い仕事をしている母や、わがままをほとんど言わなくなったエルシーの事を思えば、その気持ちはいっそう強くなったとすら言える。

 だけど

 

 

 渡された“女神の羽根”は、母に見つからない場所に大事にしまってある。

 父の死を知らされた時の、母の慟哭。

 もしも自分が、父のように戦場から戻ってこられなかったら──

 

 

 地面に投げだしていた木の棒きれを拾いあげ、ため息をつく。

 父の形見の剣は家にある。大事な物だから気軽には持ち出せないし、なにより将来傭兵になるためにアンセルと剣の特訓をしているなんて事、母やエルシーには知られたくなかった。

 

「俺は……まだ分からないよ。そりゃ父さんくらい強ければ、食べ物には困らないんだろうけど」

 

 結局ウィルフレドは、アンセルにはまだでかすぎる剣の方を見つつ答えた。

 父親くらい強ければ、それはそれで戦乙女に連れ去られるのではないか──。などという話はしない。

 そんな心配は、まず考えるだけ馬鹿みたいだからだ。

 

「今のところ、そうなる前に無駄死にだろ?」

 

 アンセルも視線に気づいて、ぐうと唸る。

 この剣の前の持ち主は、村のじいさんの息子だ。

 ウィルフレドもアンセルも生まれる前、初めての戦場で死んだだけあって、それなりに年季が入ったものの割にはわりかし綺麗な状態の剣である。

 

「そうなるくらいなら、俺は傭兵にはならないかな」

 

「ば、ばか、それはお前……そうだ! じいさんの息子は若すぎたんだよ、確か十六……だったっけ? そんな若さで戦場になんか出るから」

 

 若いことは若いが、そこまで言われるほどの年ではない。確か父セオドールもそれくらいの年から戦場に出たはずである。

 それでも何も言わずに、ウィルフレドが一応聞くと、

 

「じゃあ、いくつならいいんだ?」

 

「十七だ! 十七になったら傭兵になる! これでどうだ!」

 

 そりゃ確かに、あまり悠長に年とるの待ってられないのはすごく分かるけど。

 

「……一年しか違わないじゃないか」

 

「一年も多い、だろ!」

 

「そもそも傭兵の仕事って、俺達が大人になる頃にあるのか? 周りの大人みんな、今度こそ戦争が終わったって言ってるけど」

 

「ぐ……、どっかにはあるだろどっかには。あれだけ戦争しまくってたんだから」

 

 などと前向きに、後ろ向きな事を言うアンセル。

 ついにウィルフレドが何も言い返さなくなったので、自分の剣を大事に置き、ずっと座ったままだったウィルフレドの手を引っぱって立ち上がらせた。

 

「とにかくだ。お前がやらなくても俺はやるからな! お前の親父さんの分も戦いまくって、ばーちゃんに楽させてやるんだ!」

 

 アンセルの今の武器は、ウィルフレドのと同じような木の棒きれだ。

 今日も狩りは失敗に終わっても、家に帰るのは遅くなりそうだ。

 将来の事はまだ分からないウィルフレドも、とりあえずやる気あふれるこの親友にならって、手に持った木の棒きれをしっかりと構え直した。

 

 どのみち傭兵にならなくても、強くなって損はないだろう。

 ごくまれに畑の方にまで迷い込んでくる野良魔物は一回を除いて、村の大人達だけでもなんとかなるような奴しかいなかったけど。

 どんな奴も軽く片づけていた父セオドールを、頼る事はもうできない。

 そうじゃない一回は、冒険者になけなしの報酬を払って、退治を頼むしかなかったのだ。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 アンセルとの特訓は、それからも度々行われた。

 一年、二年と、年月が経ち……。

 最初は子供のけんか遊びの延長でしかなかったものだが、やはり継続は力なり、といったところか。二人とも成長するにつれ、それまで出来なかった事が徐々にできるようになっていった。

 

 三年が経った頃には、初めて野うさぎを仕留められた。

 どころかそれを追いかけていた野良魔物までを一匹、その場の流れで倒した。

 

 家から持ち出したナイフを手にしていたウィルフレドの方は、両方まぐれもいいところな幸運だと思ったのだが。アンセルは「やっぱ俺達才能あるぜ!」とうかれまくった。

 小さかろうと弱かろうと魔物は魔物だ。俺達の年で、それもたった二人でこんな事やれる奴、親父さんの他にいるか? ……はてには「今すぐにでも傭兵になろうぜ!」とすら言いだしかねない様子だったくらいだ。

 

 ちょうどその頃、トゥルク村では久しぶりに傭兵募集の噂が流れていた。

 内容は、こことは全く別の国境近く、辺境の地に住まうわずかばかりの異教徒の改宗、および鎮圧。

 異教徒共を数でビビらせるのが仕事だから、それらしく立っていればいいらしい。それこそ傭兵になりたての奴でも楽に稼げそうな仕事だと、ウィルフレド達より少し年上の村の若者が、盛んに話し合っていた時期だった。

 

「なあアンセル、まさかとは思うけど」

 

「……わかってるよ。俺達にはまだ早いって言うんだろ」

 

 身長だけは大人に負けないくらい大きくなったアンセルも、力はまだ大の大人には到底かなわない。悔しそうに言ったアンセルに、ウィルフレドも安心する一方でまた、少なからず残念に思う気持ちもあった。

 

 突然降って湧いたような傭兵の仕事。これを逃したら次はいつになるかわからない。

 今年は特に麦が不作だった。

 まだ冬が来てもいないのに、お腹が満たされてる時なんてめったにない。

 父セオドールが生きていたら、迷う事なく戦場に行っただろう。

 

 もしもアンセルが反対を押し切ってくれたなら、きっと自分も引き止める母を説得して、一緒についていったのに……。

 

 全部思うだけで口には出さずに、ウィルフレドは久しぶりの戦場に向かう大人達の背中を見送った。

 母マルゴットは、傭兵になりたいと一言も言わなかった息子を「ああよかった、これでよかったの。あなたを傭兵になんて絶対させない。……生きてさえいればいいの。これからも家族三人で暮らしていくのよ、ウィル」と言って固く抱きしめた。

 

 今まで通り、ろくに収穫のない農地の仕事を一生懸命に手伝い、時に村のはずれでアンセルと特訓を続けた。

 ただでさえ人手が足りない時に、野良魔物が出て畑を食い荒らした。アンセルとウィルフレドがまぐれで倒した魔物よりも大きく、気性も荒い。村に残った大人達にもどうする事もできず、食糧と引き換えに依頼を出して冒険者に倒してもらった。

 

 その後、聞いた話では、神々の加護のおかげでその争いには勝ったらしい。

 五人ほどが出稼ぎに行ったトゥルク村では、いくらかの報酬を手に、やつれた顔の二人が戻ってきた。残りはいつまでも帰らなかった。

 

 

「やっぱり行かなくてよかったな」とは、ウィルフレドもアンセルも言わなかった。

 思う間もなく、長く厳しい冬がやってきていた。

 

 

 村人全員、それまでに多くを備えられなかった分、その年の冬を乗り切るのはいつも以上に厳しかった。

 なるべく動かないようにしていても、お腹は常に空いている。

 この時期はアンセルとの特訓も中止だ。一度しか捕れた事がない野うさぎを必死に追いかけるなどという行為は、考えるだけで馬鹿らしい。

 

 ひと月、ふた月が過ぎ……。

 冬の寒さが一段と酷くなった頃、栄養不足がたたって、たちの悪い風邪が村で流行った。

 こういう場合、体力のない年寄りや子供が、まっさきに命を落としていく。

 早世した両親に代わり、女手一つでアンセルを育ててきた「ばーちゃん」もその中の一人だった。

 

 ウィルフレドは、親友の不幸を存分に悲しんでやる事はできなかった。

 アンセルの祖母が亡くなっていくらかも経たないうちに、ウィルフレドの家にも不幸が起こったからだ。

 

 妹のエルシーは、わずか十歳でその短い生涯を閉じた。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 家の外へ出たウィルフレドを追いかけるように、アンセルもしばらくして来た。

 辺りを探すまでもなく、すぐ近くの壁にもたれて座っていたウィルフレドを発見し、アンセルもその隣に並んで立った。

 日ごと弱っていくエルシーを見て、薄々覚悟していたからか。ウィルフレドの目に涙はない。

 

「母さんは?」

 

「ティルテに任せてる。俺はそういうの、……無理だからな」

 

「……そうか」

 

 泣き乱れている母の声は、家の外まで聞こえてきている。

 ひたすらに戦乙女を呪う声だ。

 聞きたくないから外に出たのに、とぼんやり思いつつ。

 こういう時にティルテがいてくれて本当によかったと、アンセルの言う通りにも思う。

 

「なんつーかその、前向きな事しか言えねえし。……お袋さんはそんなの、絶対聞きたくねえだろ」

 

 確かにアンセルなら、きっとそうなのだろう。唯一の肉親である祖母を亡くしたというのに、その二日後にはすっかり立ち直っていたくらいだ。

 母はもちろん、自分にも絶対に無理だろうな、とも思う。

 

「……そうだろうな」

 

「なあウィル」

 

 早く家の中に入った方がいい、とアンセルは言いたげだ。

 そりゃそうだ。こんな真冬の外なんかに座り込んでいたら、自分までエルシーみたいにどうかしてしまう。早く戻らなくちゃいけないのは分かってる。

 だけど母の声はずっと聞こえている。

 

 

 戦乙女、戦乙女、どうしてあのひとを連れて行ったの? 私達が何をしたというの?

 そうよ、私だって頑張ったわ。私なりに一生懸命やったのよ、だけど……

 いきなり一番の働き手を奪われて、こんな、みじめな村で……! 暮らしていけるわけないじゃない!

 

 う、うう……。

 ……ごめんねエルシー、苦しかったろうね。ひもじかったね。ろくに食べさせてやれなくてごめんね。

 

 みんな、みんな戦乙女のせいよ。

 戦乙女があのひとを。あのひとさえ生きていてくれていたら。

 こんな事には──

 

 

「いい加減にしてくれ。もうたくさんだ」

 

 

 黙って聞いていられず、ウィルフレドは口に出した。

 母の言う事を否定したかったけど。

 全部、母の言う通りだとしか思えなかった。

 我慢してたはずなのに、気づけば涙がぽろぽろと流れていた。

 

「稼げてさえいれば、傭兵になっていれば。……エルシーは死ななかったんだ」

 

 悔しくて仕方なくて、拳を握りしめつつ、ウィルフレドは声を漏らした。

 

「そうなのかもな。ばーちゃんは年とってたから分かんねーけど」

 

 アンセルは悟ったような相槌だけを打つ。

 とてもアンセルのようには考えられないと、ウィルフレドは泣きながら思った。

 

 

 ☆☆☆

 

 

「あと三年だ。三年経って十七になったら、俺は傭兵になる」

 

 エルシーを埋葬した七日後。ウィルフレドがそう打ち明けた時には、アンセルは最初、少し戸惑ったような反応をした。

 

「いつまでも泣いてばかりじゃいられないだろ。……とは言っても今は、この冬を無事に生き延びる、くらいしかできる事ないけどな」

 

「けどウィル、お前は──」

 

「冬が終わったらまた特訓だ。大きくなったら傭兵になる。傭兵になって稼ぎまくって、母さんを、村のみんなを食わしてやって……」

 

 こういう言い方はずるいだろうという自覚だけはあったが、この時のウィルフレドに表面を取り繕う事など到底できない。

 自分の決心を、感情を、この親友には否定されたくない。それだけが彼の口を動かしていた。

 

「みんなアンセルが言ってた事だぞ。父さんみたいな傭兵になりたい、って」

 

 それは本当だ。

 

「俺もそうだ。父さんみたいな傭兵になりたい。その気持ちは昔と変わらない」

 

 それは嘘だ。

 黙って聞くアンセルを前に、聞こえのいい理由ばかり話す。

 

「満足に生きていくために傭兵になって、何がおかしいんだ?」

 

 とまで言ったところで、アンセルはようやく口を開いた。

 

「……分かったよ。つか俺も、ひとの事エラそうに言えねえしな」

 

 自分で引き入れた手前、観念したような顔になるアンセルに、「アンセルならそう言ってくれると思ったよ」と言いつつ内心ほっとするウィルフレド。

 男同士の握手を交わした後で、

 

「一応言っとくけど、母さんにはもちろん内緒だからな。それとティルテにも」

 

「はあ? ……なな、なんでそこで、ティルテの名前が」

 

「なんでって、ティルテは母さんとよく一緒にいるだろ? いくら幼馴染でもティルテはだめだ。あいつは母さんと同じ女だからな」

 

「じゃなくて、なんで俺がわざわざティルテにそんな事……だあーっ、違う! なんでもない!」

 

「なんだよアンセル、なんかヘンだぞ」

 

「そりゃそうだ、ティルテなんかに言うわけないだろ! 男の秘密だからな!」

 

 昔から面倒見のいい女の子だったティルテはここ最近、エルシーの死からずっと塞ぎ込んでいる母マルゴットの様子を、辛抱強く見に来てくれている。

 父親どころかエルシーもいなくなった家で二人きりの時、母との会話も最低限しかせず、ろくに顔も合わせなくなったウィルフレドよりもずっと、母の顔をまともに見ているんじゃないかと思うくらいだ。

 

 ともあれそんな心優しいティルテにも秘密がバレる事ないよう、なんかヘンなアンセルと再確認した後。二人ともまずは冬を生き延びる事を、改めて誓い合ったのだが。

 

 

 結局のところ、ティルテの方はともかく──

 母マルゴットに関しては、その心配は杞憂でしかなかった。

 

 

 アンセルと秘密の会話をしてから、何日か過ぎた後。

 心労が重なった母は、熱を出して寝込んだ。

 幸いエルシーのあとを追うような事にはならず、その数日後には自力で半身を起こせるくらいに回復したのだが──

 

 はじめに気づいたのは、ティルテだった。

 あるいはウィルフレドの方が先に気づいていたけど、ティルテに言われるまで、必死に気づかないふりをしていたのかもしれない。

 

「ねえウィル、おばさんの様子がおかしいの」

 

 水桶を持って外から帰ってきたウィルフレドに、心配そうな顔をしたティルテがそっと耳打ちする。

 ウィルフレドの姿を見て、母マルゴットは嬉しそうに喋り出した。

 

「お帰りなさい、あなた。──ねえ、この間あなたにもらったお花だけど、もう萎れてしまったのよ。ハンナばあちゃんの言う通りにやったのに……、どうもだめね私ったら、何やっても不器用で……」

 

 ここしばらく母に花をやった記憶など、ウィルフレドにはない。

 なにより“ハンナばあちゃん”は、ウィルフレドが物心つくかどうかの頃、ずっと昔に死んだ、村の物知り老婆の名前だった。

 

「花なんか、どうでもいいだろ。母さん。だけど──」

 

 悪夢なら覚めてくれ。

 途中まで言ってから、まるで年若い乙女のような傷ついた顔をする母を前に、ウィルフレドは否定する事を諦めた。

 

 これは夢じゃない。現実だ。

 ──なら今の母さんが“俺”に言ってほしい事は、これしかないじゃないか。

 

「そんなに気に入ったなら、暖かくなったらまた摘んでやるから。だから、過ぎた事を気に病むのはやめなさい」

 

 どうしても上ずってしまう声で、それでもなるべく感情を抑えた、優しい声色をできるだけ意識して、ウィルフレドは母マルゴットに話しかける。

 

 母マルゴットの虚ろな目に、息子の頬に光るものは映らない。

 青白い顔で、けれど女の顔をした母は、無邪気に笑いかけた。

 

「そう? ありがとう、嬉しい。楽しみに待っているわね、セオドール」

 

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