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エルシーが死んでから、三年後の春。
十七になったウィルフレドは、旅立ちの前に、父セオドールの形見の剣を入念に磨いておく事にした。
父の死後、この作業は毎回ウィルフレドがやっている。
小さいエルシーにはとても任せられなかったし、気が確かだった頃の母は、戦場に関わる物には一切触ろうとしなかった。きっと見るのも嫌だったのだろう。
だから昔は母から隠れるように、こっそりやっていたが。何も言われなくなった今となっては、堂々としたものだ。
床に座り込んでから、慣れた手つきで長い包み布を広げる。
中からは形見の剣と、磨き布。そのほかに、もう一つ別の布切れがあった。
二つに折りたたまれた、小さな布切れだ。
小さい布切れの方はひとまず無視して、磨き布を取りあげ、ウィルフレドは納得いくまで剣を磨いた。
「……よし。これなら、きっとうまくやれるよな」
これからの事に自信を持てるように、大きめの独り言まで言った後。
ウィルフレドはようやく、小さい布切れの方に目を向けた。
今度は布切れを手に取り、それを両手でそっと広げ、中に挟まれていたものをじっと見つめる。
──なあぼうず、これが分かるか。これは女神の羽根だ。
いくら大事にしまっていたつもりでも、七年の歳月は長い。
渡された当時は間違いなく純白だったそれは、今でははっきりとしない薄灰色に萎びてしまっている。
──これは一点の穢れもない、天界の女神が落としたものなんだ。お前の親父は選ばれたんだ。
もう決して綺麗とは思えない羽根を見つつ、ウィルフレドが子供の時に言われた事を思い出していると、
「ねえ、あなた。それはなあに?」
背後から、無邪気な母の声。
「何でもないよ。母さんからしたら、こんなのただのゴミだ」
ウィルフレドは、振り返らずに答える。けれど言葉とは逆に、薄汚れた羽根は包んでいた布切れごと、大事に懐にしまい込んだ。
くじけそうになった時は、いつもこの羽根を見て、自分を奮い立たせてきた。
父と同じ傭兵になる今こそ、これは肌身離さず持っていたい。
自然とそう考えるほどには、『女神の羽根』はウィルフレドにとって、大きな意味を持っていたのだ。
☆☆☆
「それじゃあ母さん、俺行ってくるよ。お土産たくさん持って帰るから」
「おみやげ……? あのお花、持ってきてくれるの?」
ベッドで見送る母は相変わらず、普段と同じよく分からない事を言った。
「あれはもうちょっと先にならないと無理だよ。でも……、そうだな。花が咲く頃には一度戻ってくると思う。だから期待して待っていて」
「わかった。明日は早く帰ってきてね、あなたに伝えたい話があるのよ」
この三年間、少し外へ出かける度に聞かされた“セオドールへの話の続き”は、結局一度も聞いていない。きっとこれからも聞ける事はないのだろう。
なるべく早く帰るよ、とウィルフレドは答えて外へ出た。
形見の剣を腰に下げ、取り回しのきくナイフも、鞘ごとベルトに挟んだ。旅の荷物もちゃんと肩にひっかけている。
村を出る前に、これからも母の世話をしてくれるティルテと話しておこうと思っていたところ──
家の外へ出てすぐ、いきなりアンセルに話しかけられた。
「あー……。もういいのか? ウィル」
やや頬が紅潮し、息も上がっている様子。
ウィルフレドの家まで走ってきたらしい。
「おいちょっと待て、アンセルは──」
「俺か? もちろん準備バッチリだぜ! さあ、お前がいいなら即出発だ!」
などとやたら急かしてくるアンセルは、旅の荷物はおろか剣すら持っていない。
しかもウィルフレドの話も聞こうとしない。やる気に溢れすぎである。
落ち着けアンセル、なんだよまだなのかよウィル……。と二人でやり合っていると。
向こうからティルテが走ってやってきた。
「よかった、まだいた……」
息を整えるティルテに、すんと静かになるアンセル。
今なら言えると、すかさずウィルフレドが教えた。
「荷物忘れてるぞ、アンセル。あと剣も」
「うおっいけね。俺んちだ。……とってくるわ!」
「ちょっと……。アンセル、待って! 待ってってば──」
ティルテの呼びかけにも応じず、アンセルは猛ダッシュで去っていく。
後ろ姿を見送るティルテは、呆れているというか、珍しくやや怒っている様子だ。
「もう、勝手なんだから」
「アンセルと何か話してたのか?」
「あ、うん。そうなんだけど……。あんな調子でやっていけるのかな、アンセル」
ティルテは素直に心配な様子だが。
きっと大丈夫だよ、とはウィルフレドも安易には答えない。
友の猪突猛進ぶりは、自分も幼い頃から、痛いほどによく知っているからである。
「……ねえ。どうしても行っちゃうの?」
「悪いな。二人でとっくに決めた事だから」
「そう、だよね。……二人とも本当に勝手なんだから」
呟くティルテに、なんと返したものか迷うウィルフレド。
すぐに帰ってくるよ。そこまで危険な仕事じゃないから。……それともやっぱり、ぎりぎりまで内緒にしててごめん、だろうか。
結局何も言えないでいるうちに、ティルテの方が仕方なく諦めたらしい。
「でもウィルが一緒なら、大丈夫かな。アンセルが無茶しないよう、よろしくね」
「俺には無理だよ。……でも、努力はしてみるかな」
そんなやり取りをしているうちに、荷物と剣を持ったアンセルが戻ってきた。
ウィルフレドは改めて、ティルテに母の面倒を見てくれる礼を言い、アンセルと二人で村の外へ向かった。
☆☆☆
二人が目指すのは、ここから南の国境を抜けた先にある、隣国アルトリア。その北西部にあるという、オルーウェン要塞だ。
なんでも要塞付近の森林を伐採中に、魔物がたくさん現れたらしい。そいつらを殲滅させるため、人手が必要なのだそうだ。
ここらの畑に来た魔物なら、二人で何度か退治した事はある。
なにより人間が相手じゃないという部分が、気が楽でいい。
たぶん、そんなに悪い話じゃないだろう。という事で、二人ともこれを傭兵としての初仕事に決めた。
……もっとも、この辺りで他に傭兵が募集されている話なんて聞こえなかったので、そもそも選びようがなかったわけだが。
「けどここって今、クレルモンフェラン領なんだろ? 七年も前とはいえ、戦争やってた相手の国に傭兵いきます、ここ通してください、って……。よく見逃してくれるよな」
アンセルが知ったような事を言うが、実際はたぶん半分も分かっていない。
二人にこの傭兵の口を教えてくれた、行商のおっさんの受け売りだからである。
「出稼ぎに行く分には構わないんだろ。勝者の余裕、ってやつだな」
ウィルフレドの返事もまた、もう一人いたおっさんの話まんまである。ただ、アンセルよりはちゃんと理解できているはずだ、とは内心思っている。
とにかくおっさんの言った通り、こういった話は珍しい事ではないのだろう。
国境には、大して警備兵の姿もない。ウィルフレド達の身なりも明らかに貧乏な村から出てきたと、一目でわかるだろうに、アンセルが「俺たち冒険者っす」と言っただけで、すんなり通る事を許された。
☆☆☆
国境を越えてから、さらに数日後。
無事たどり着いたオルーウェン要塞は、想像以上に物々しい場所だった。
緩やかな傾斜が続いた先、人間の背丈の何倍もある石壁に、鉄がたくさん使われている立派な城門。槍を手に、来た者達をしっかり観察してくる門兵など……。
要塞自体、見るのも初めてなウィルフレドは、緊張でうまく喋れなかった。
同じく初めてなはずのアンセルが、二人まとめて傭兵志願者である事を堂々と門兵に告げたところ。しばらくしてから、「門を通ってすぐの中庭で待つように」と言われた。
指示通りに歩きつつ、
「……今の、雇ってくれるって事でいいんだよな?」
「ん? 何言ってんだウィル。じゃなきゃこんなあっさり通してくれねーだろ」
楽観的なアンセルにつられて、一度は落ち着いたウィルフレドだったが。
人でごった返した中庭に着いたところで、またすぐに緊張が戻ってきた。
「うわ、結構いっぱいいるな。これみんな、俺達と同じか?」
「……だろうな」
数十人ほどいる人間達の装備は、多種多様で、国から支給された物とは思えない。全員が傭兵とみて間違いないだろう。
ここにいる、全員が。
一緒に戦う仲間とも、報酬を巡るライバルとも言える者達なのだ。
しかし、最初は驚いたけど。落ち着いて彼らをよく見ると……
普段着に申しわけ程度の軽装備、といった者がかなり多い。武器も鋤や麦刈り用の鎌など……。手にしている者達の表情も、大半がウィルフレド以上に落ち着かない様子だ。
そんな周りの様子を、二人してきょろきょろ見ていると、
「けっ。またド素人かよ」
横から思いっきり馬鹿にしたような声が聞こえた。
大剣を持った、髭面の男だ。同じく軽装ではあるが、こっちは上から目線で言ってくるのも納得できるくらい、歴戦の傭兵といった風貌である。
アンセルと顔を見合わせた後、
「うん、やっぱそうだよな。お前ら剣握った事もないだろ、ってのがほとんどだろ? ……あのおっさん、見る目あるぜ」
「……やめろよアンセル、聞こえるだろ。それに今のは」
声を落としたつもりのアンセルよりさらに小声で、たしなめるウィルフレド。
髭面のおっさんからの視線を気づかないようにして、「間違いなく俺達も含められてるんだぞ」と言いかけたところで、口をつぐんだ。
中庭の奥の方から、二人の男が出てきたのだ。
ローブを着た、役人風の男。もう一人は見事な槍を手に持ち、これまた見事な鎧で身を固めた、貫禄たっぷりの戦士だ。
「今回はこれで全部か」
「そのようですな」
二人の男は、中庭の正面で立ち止まる。
全員の注目を集めた後。ローブの男が、先に口を開いた。
「よく集まってくれた。国のため、武器を手に取り立ち上がる勇敢な者が、こんなにも多くいる事、心より嬉しく思うぞ」
なんとなくだが、芝居がかった喋り方だとウィルフレドは思った。
髭面のおっさんが、焦れったそうに足をとんとんとやっている。
「ラングレイ殿下は、有能な者にチャンスを与えるのを惜しまないお方だ。お前達の働きようによっては、正式に兵士として取り立てられる事もあるだろう」
「んなモンいらねえよ。カネを増やせ、カネを」
髭面のおっさんがヤジを飛ばした。
『ラングレイ殿下』が誰なのかも知らないウィルフレド達はともかく、周りの人達はほとんどみんな、喜んでいるような声を漏らしていたのに。すごい胆力のおっさんである。
「……。もちろん、働き次第で雇い金の上乗せも約束しよう。皆、せいぜい励むように」
顔色を変えなかったローブの男は、最後に「後の話は、ここにいるヒューゴー傭兵士長から聞くといい」と言って、中庭の奥へと戻っていった。
貫禄のある戦士の方が、一息ついてから口を開く。よく通る声だ。
「最初に言っておく! 正規軍は、この討伐戦には参加しない」
ざわめきが静まるまで数秒待ってから、傭兵士長は短く続けた。
「これがどういう事か、分かるか?」
全体に話しかけているが。目線は明らかに、あのふてぶてしい髭面のおっさんの方を向いている。
「口だけ達者な奴らに、手柄を横取りされねえ。カネは全部俺達のモンだ」
髭面のおっさんの答えに、傭兵士長はにやりと笑ってみせた。
「その通りだ」
とたんに周囲がざわめく。
今度のはさっきと違って、不安ではなく、多分に熱狂を帯びたざわめきだ。
「野郎ども、金が欲しいか!」
傭兵士長が、腕を大きく振りあげて問いかける。
周りの力強い賛同の声に合わせて、ウィルフレドも頷く。
「なら魔物を倒せ! 倒した分だけ、報酬は全部お前達のものだ!」
これが、傭兵の世界なんだ。
父さんが見た景色と同じ場所に、俺も今、立っている。
アンセルと並んで、傭兵士長を敬慕のこもった視線で見るウィルフレドには、髭面のおっさんの小馬鹿にした顔など少しも目に入らない。
「単純な奴らだぜ」
という彼の呟きも、周りの熱狂の声にかき消され、聞き取る事はできなかった。
☆☆☆
魔物討伐作戦の内容は、以下の通りだ。
まずは、要塞周辺に張り巡らされている魔除けの結界のうち、問題の森に面している左側面部の、さらに一部分だけを壊す。これは傭兵じゃなく、要塞にもとからいる魔術師(あのうさんくさいローブの男だ)とその見習い数人がやるらしい。
次に、その結界がなくなった場所、つまりは要塞正面すぐ左脇の少しひらけたところで、あらかじめ捕っておいた鹿を殺す。
血の匂いに誘われ森から出てきた魔物共を、傭兵全員でやっつける。以上だ。
他にも、戦闘があらかた終わったところで結界をかけなおすとかなんとか、色々説明はされたけど。ややこしい事は考えなくてもいい、とも言われた。
とにかく向かってくる魔物を、ひたすら倒す。
ウィルフレド達がやる事は、それだけだ。
他の傭兵達と一緒に、勢い勇んで要塞の外に出たはいいものの。討伐戦の開始直後は、やはりどうしようもなく不安だった。
鹿はすでに血だまりの中だ。
魔物はいつ来るだろうか。どんな大きさの奴が、どれくらいの数で……
ウィルフレドは自分の懐の、『女神の羽根』がある場所をぎゅっと押さえていたし、
「大丈夫だウィル。俺達ならやれるって」
と話しかけるアンセルも言葉とは裏腹に、剣を握る手が少し震えていた。
しばらく後。森の奥から、いよいよ魔物共の影が見え始め──
最先頭にいる傭兵士長が声高に叫び、
「恐れるな、戦士達よ! 魔物を金づるだと思え!」
最初の一匹の突進をかわして、すれ違いざまに槍で薙ぎ払ったところまでは、記憶にあるのだが。
その後の事は、あまりよく覚えていない。
今までの人生で初めて対峙するような、人間の腰の辺りよりもさらに背が高く、興奮しきった魔物が、何匹もこっちに向かってきて、向こうの方では何人かが、襲いかかってきた魔物になすすべなく転ばされていて……
ウィルフレドは、とにかく必死で剣を振るった。
はじめは近くにいたアンセルも、別々の魔物と戦っているうち、いつの間にかはぐれてしまっていた。
他の人間の戦いぶりを、気にする余裕なんかなかった。意識にあるのは、人間の形をしていないものはすべて敵だ、という事だけだった。
ウィルフレドの記憶がはっきりしたのは、戦闘が終わった後からだ。
魔物の死体がそこら中に転がり、怪我をした人達も座り込んだり、寝転がったりしてうめき声をあげている光景。
やたらと血なまぐさい、そのただ中に立ち尽くし、我に返ってアンセルの姿を探したところで、ちょうど向こうから声をかけられた。
「ウィル……、おーいウィル! お前も無事かよお!」
アンセルの足取りは、やたらと重かった。
一瞬だけ、足をやられたのかと思ったけど。それが全く無駄な心配だった事は、すぐに分かった。
アンセルは両腕それぞれに、魔物の死体をまるごと抱えていた。抱えきれない大部分をずりずりと引きずらせながらも、ド根性全開で歩いていたのだった。
大注目を浴びたアンセルの奇行は、戦闘後みんなに声かけしていたヒューゴー傭兵士長によって止められた。
いわく、魔物を倒した事を証明するのに、魔物の死体全部を持ってくる必要はない。首だけを見せればいいし、こういう戦場なら、角や耳、足などの一部分だけを切り取って申告しても信用されるものだ。
傭兵士長は丁寧に教えてくれた。
「まじっすか!」
正直に驚くアンセルに、周囲では笑いが起こり、気が抜けたウィルフレドもついそれにつられてしまったが。
報告の間抜けさは自分も同じだったと、気づかされたのはそのすぐ後だ。
そりゃそうだろう。何匹の魔物を倒せたのか、自分でもはっきりと覚えてないのに、正確な申告なんてできるわけがない。
たぶんこいつと、こいつの二匹だ。
なんとなくで、足元付近に転がっていた魔物二匹分を自己申告した。
……もしかしたら三匹だったかもしれない。記憶を探るうち、だんだんとそう思えてきた時には、すでに本日分の報酬を渡された後だった。
魔物討伐は一日では終わらない。
明日からも場所を少しずつ変えて、似た事をやる。報酬は一日ごとの支払いだ。
☆☆☆
初日の戦闘での死者は、二人。
足の骨を折るなど、もう戦えないほどの怪我をした者は、その何倍もいた。
その一方で、ウィルフレドとアンセルは二人とも、大きな怪我はなし。
せいぜい自他ともに言うところの「唾つけときゃ治る」程度の、ごく浅い引っかき傷ができたくらいだった。
そのうえ、情けなく逃げ回っていたわけでもない。
お互いに魔物を二匹倒すという、結果もしっかり出した。
自分達と同じような他の“貧乏くさいド素人”は、大多数が不幸な結果に終わった中での事だ。
「やっぱ俺達、才能ありまくりなんじゃねえか?」
初日を乗り越えて、アンセルはさっそく調子づいた。
ウィルフレドは「運が良かっただけかもな」と思った事を正直に言ったけど、戦闘の前にはとても持てなかった自信がついた事も確かだ。
もちろん二人とも、防具一つもない状態でこのまま戦い続ける勇気はない。
その日得た報酬のうちそれぞれ魔物一匹分を、ちょうど怪我で戦場を去る人に渡し、引き換えに身に着けていた革製の胸当てや小手、すね当て等を譲ってもらった。
そうやって二日目を落ち着いて乗り切れた事で、さらに自信がついた。
今度はアンセルとはぐれなかったし、魔物を倒した数を忘れるというヘマもしなかった。昨日と同じくらいの大きさの魔物を、二人合わせて七匹も倒した。
四日目にはアンセルと、どちらが多く魔物を倒せるか、という勝負をするほどになっていた。
四日目の戦場は、いよいよ森の入口周辺付近まで進んだ。
木々の伐採もあまりされておらず、三日目までに比べると見通しはよくないが。ウィルフレド達にとっては、子供の頃から剣の特訓をしまくった、トゥルク村付近の森の中よりは戦いやすい環境だ。
木の根に足をとられる事もなく、この日も無事に切り抜けた。
★★★
そんな働きぶりが、評価されたらしい。
三日目の戦いが終わった後。ちょうど他の人の目がない時に、ヒューゴー傭兵士長に話しかけられた事もあった。
「お前達二人、名前は? その気があれば兵士になれるよう、私から進言してやってもいいぞ」
二人は思いきり、戸惑った。
アルトリアの人間じゃない者が、アルトリア兵士になれるわけがないからだ。
「どうした。嬉しくないのか」
「いやその……」
しどろもどろな二人をしばらく見た後。
今にもアンセルが「すみませんでした!」と白状しそうなところで、傭兵士長は笑みを浮かべて言った。
「そうか。ならばこの話は、なかった事にしておこう」
「へ? あの、いいんすか? 俺達、本当は──」
「アルトリアの者ではない。という事を言いたいのか?」
ずばり言い当てられてしまった。
周りに軽く視線をやってから、傭兵士長は二人に言う。
「珍しい事ではないからな。私も、つい数年前まではヴィルノアにいた」
聞いた事はある。
確かクレルモンフェランの西、縦に連なる山脈を挟んだ向こう側にある、大国の名前だ。
「えっと、それじゃ──」
「ただ、周りにはそのまま黙っていた方が賢明だろう。よそ者が外貨を稼ぐ事を、よく思わぬ者は多い。……特に、この辺りではな」
「ラングレイ殿下って、誰ですか?」
図々しく聞いたのはもちろんアンセルである。
ウィルフレドはちゃんと傭兵士長の忠告をありがたく聞いていた。
「しょうじき俺達、田舎から出てきたばかりで何も分かんないんです。やっぱり、知ってないとマズい人ですか?」
ウィルフレドは青くなったけど。
傭兵士長は快くアンセルの質問に答えてくれた。
『ラングレイ殿下』は、アルトリアの王子だ。
彼の持つ王位継承権は、異母弟のクリストフ王子に次ぐ、第二位。
現在はここから西の方角にあるエーデルレーヴェ城を居城としていて、当然、その支配下にあるここら一帯の領民で、彼の名前を知らない者はいないという──
ようするに『とても偉い人』である。
さらに補足すると、初日に『殿下』について話していたローブの男は、その殿下直属の配下の者。ヒューゴー傭兵士長も、彼に雇われている立場なのだとか。
「本当に何も知らないのだな。その様子では、ここまでたどり着くにも大変だったろう」
照れくさそうにアンセルが鼻をこすり、ウィルフレドが申し訳なさそうにする一方。
傭兵士長は、小さく呟いた。
「やはりな。お前達は、クレルモンフェランの民か──」
一瞬だけ暗い表情になったような気がしたので、気になったけど。
「なに、有望な若者を逃した事を残念に思ってな。傭兵としてこのまま私の下につく、という手もあるにはあるが……。気軽に隊を抜け出せない環境を、お前達は是とは思うまい」
ヒューゴー傭兵士長は尊敬できる、立派な戦士だ。
自分一人だけの人生だったら、喜んで「俺を仲間に加えてください」と言っただろう。けれど──
「すみません。せっかく目をかけてくれたのに」
「いやいい、帰る場所があるのはよい事だ。……アンセル、ウィルフレド。故郷の家族に、金のたっぷり詰まった袋を見せてやれ」
二人の肩を軽く叩いて、傭兵士長はその場を立ち去っていく。
かっこよさに痺れる純粋なアンセルの隣で、ウィルフレドは密かに、あるかもしれなかった自分の姿を思い描いていた。