森の中の、とある場所。
そこに住む魔物達が身を縮ませて、夜の暗闇に溶け込む“存在”を遠巻きに見ている。
二つの塊は、人以外の存在。
もう一つは、人の形をした存在だ。
雲の合間からわずかに月明かりが差し、またすぐ闇へと戻る。醜怪な二つの黒い塊は、その人の形をした存在に跪いていた。
「──退屈なお仕事。あなた達を置くだけなんて」
人の形をしたものから発されたのは、艶かしい女の声だ。
緩慢な手つきで、黒い塊を撫でつつ言う。
「確かに、こういう景色もたまにはね。でもこんなの、そこらの野良犬でもできる事だと思わない? 特別なお仕事というのは、もっとこう……」
なにやら拍子抜けしたような不満を口にしていた女は、途中でいきなり、口をつぐんだ。
かと思えば、
「いいえ、違うのです! 我が主の命を疑うなど、決して──!」
今度はいきなり弁明し始めた。
女の近くにある気配は、やはり二つの黒い塊だけ。けれど先ほどと違って、独り言ではない。誰かと会話しているかのような声の調子だ。
「ただ、私は……。切ないのでございます。この私ならもっと主のお役に立てるのに、立ちたいのに、主はこのような木っ端仕事しか私に与えてはくださらないのか、と」
うわべだけの誠意ではなく、心の底からしょんぼりとした声。
この場にいない“主”に向かって、
「私の心はこんなにも、主への愛で満たされているのに──」
と思いのたけを真正面から告げ、
「は。今、なんと……?」
それから困惑の声。
しばらくの沈黙の後、
「……まさか。この私の事を、そこまでお考えに?」
と驚嘆の声を漏らす。
やや時間を置いて、
「──ああ、我が主はなんと情の深いお方なのでしょう!」
今度は感動に打ち震えた声をあげた。
つい先ほどまでとは打って変わった、弾んだ声で
「ええ、ええ。もちろん我が主のお心遣い、大変嬉しく存じます。どれだけの土産話をお聞かせできるか、今から楽しみでなりません」
と興奮がちに話し、「それでは」と言って一息をついた。
夜の森の、深い闇の中。
上機嫌な女の鼻歌が聞こえる。
そばには変わらず、得体の知れない二つの黒い塊。
月の光がまた差し込み、それらの輪郭が照らし出された。
醜怪な二つの黒い塊から見えるのは、長く鋭い爪に禍々しい黒翼。
もう一つはやはり、人間の女の姿形をした存在。
けれど月明かりに照らされて伸びる巨大なその影は、他の二つと同じく、人の形ではなかった。
☆★☆
野営地は要塞のすぐ外だ。
配られた晩飯に文句を言う者。倒した魔物の大きさを自慢する者。それをやじる者。よそでは口喧嘩が本気の喧嘩に変わったりなど……
一日の仕事を終えた後の野営地は、初日より人がだいぶ減ったとはいえ、それでも騒々しい。
とっくに晩飯をおいしく平らげたウィルフレドとアンセルも、気分は立派にその中の一人だ。
今日の勝負が引き分けだった事を、どっちも納得いかなそうに話している。
「だいたい魔物が出てこないのが悪いんだよ。昨日ぐらい魔物がいりゃ、俺、お前より二匹は多くいけてたと思うぜ」
「そうか? 昨日の最後の一匹だって、とどめを刺したのは俺だぞ」
「俺がちゃんとひきつけてやったからだろ。あれは俺の手柄だ」
今日出た魔物の数は、昨日までと違ってあまり多くなかった。
全員でさんざん倒し続けた当然の結果というべきか。この付近の魔物自体が相当減っているのだろう。
討伐戦が終わりに近づいている。
それはつまり、この戦場ではもう稼げないという事でもある。
「はあ~。俺の小手、どうすっかなあ。なあウィル、まだ使えると思うかこれ」
「どうもこうも……使うしかないだろ。布でも巻き付ければなんとかなるんじゃないか」
譲ってもらった時から古臭かったアンセルの革の小手は、魔物に思いっきり噛みつかれてさらにボロボロになっている。アンセルほど無茶な戦い方をしないウィルフレドの装備も、似たり寄ったりだ。
初めて報酬をもらった時は二人とも、金額の大きさに目を輝かせて喜んだけど。
四日分の報酬を前に今思う事は、あの時とは全く別だ。
すなわち、命を張って金を稼ぐなら、なおさら金が要るのだと。
「しょっぺえ顔してやがんな、小僧ども。俺がいいモン恵んでやろうか?」
にやにやと話しかけてきたのは、髭面のおっさんだ。
初日のアンセルのおかげで、しっかりこっちの顔を覚えたらしい。今日まで残っている年若い傭兵という事もあいまって、ことある毎に、こうやってからかってくるのである。
「いらねー。どうせぼったくる気だろ」
「値段は相応だとも。そのはした金でも買える装備をお求めなんだろ?」
おっさんは、自分の腰に下げた袋をわざとらしくじゃらじゃら鳴らして、二人に見せつけた。
「まともなのが欲しけりゃ、せめてこれくらいは稼げねえとな」
ウィルフレド達二人の稼ぎを合わせても到底敵わない。そのさらに二、三倍は入ってそうな袋の膨らみ具合だ。
二人だって、ここにいる傭兵達の平均以上には、ばっちりと稼げているのに。
さすがに、上から目線で絡んでくるだけはある。
「ちぇっ、なんだよ自慢しやがって。稼ぎがいいからって……。ていうかそれ、ホントに実力か? しょうもねえ小物ばっか倒してかき集めたんじゃねえのかよ」
アンセルがせめてもの負け惜しみを言う。
これもどうせ上から目線で反論されるんだろうな。と、黙って聞いているウィルフレドが思っていると。
「ハァ? 小僧、お前まさか……、馬鹿正直に大物狙ってんのかよ!」
「な、なんだよその言い方。俺はただ、」
「図星だな? 図星なんだろ? こりゃウケるぜ!」
こういう方向で馬鹿にされるのは予想外だった。
かっとなるアンセルに、
「なんだよそれ……。おっさんこそきたねーぞ! まともに戦える腕があるくせに、強い敵から逃げてんなよ!」
「……。ほーうそうかね。ホントにそう思うかね」
おっさんは真面目くさった顔になり、ウィルフレドにも聞いてきた。
「そっちの無口も、このめでてえ馬鹿と同意見か?」
「俺は……まあ、どっちかというと」
アンセルほどムキにはならないけど。確かにこの人の実力なら、もっと積極的に強い魔物を倒しに行ったっていいのに、とは思う。手強い魔物の方が、報酬も当然多くもらえるからだ。
そんな二人の反応に、
「ナルホドね。お前ら魔物の怖さ知らねえんだな」
おっさんは呆れたように言った。
「人並みのでかさのくせして、平気で空ビュンビュン飛んでやがる怪鳥ハルピュイアってのは知ってるか? 急所を何度ぶち斬っても死なねえグールはどうだ? 甘い匂いで人間誘い出して、まるごと養分にしちまうマンドラゴラなんてのもいる」
おっさんの声は途中から、囁き声のように小さくなった。
思わず聞き入る二人に、おっさんはさらに痛ましい声色を作って言う。
「喋る奴なんか最悪だぜ。一見知性があるよーな振舞いで、話が通じると思わせてからの……コレよ」
おっさんは親指で首をかき切る仕草をした。
二人はもはや絶句である。
アンセルの方がようやく、唾を飲んでから聞くと、
「おっさんは、どうやってそんな奴らから生き延びたんだ?」
「俺か? 俺は……。そうさなあ、俺の場合は──」
そこまで神妙な顔つきだったおっさんは、いきなり吹き出した。
「ぶっ、ひゃひゃははぁ! お、お前らの顔……!」
「……っておい! またかよおっさん!」
遅れてからかわれた事に気づいた二人は、即座にむっとなる。
一通り笑ったあげく、おっさんはにやけたまま言った。
「いや、ヤベえ魔物がいるのは本当よ。お前らもグリフォンやらドラゴンやら、名前くらいは聞いたことあんだろ?」
言いようからすると、このおっさんも、さっき挙げた魔物達に出くわした事はないらしい。いかにも経験者、みたいな話しぶりだったくせに。
「それは……、そうだけどさ」
「魔物相手の仕事はピンキリすぎる、っつう事だな。ようするに」
言っている事は、このおっさんにしては正しいのだろうが。
なにか腑に落ちない気がする二人である。
「人間サマは可哀そうで斬れないけど、魔物ならヤレる! ……とかなんとか、ぬるいコト考えてるんならやめた方がいいぜ。──以上、今日で最後のお兄さんからの、ありがたい忠告でした」
「……最後? おっさん、もう帰るのか」
「先約があるんでね。ここらでお暇させてもらうわ」
とか言っているが。これ以上ここにいても良い稼ぎが見込めない、が本当のところだろう。このおっさんなら十分納得できる理由だ。
「寂しいか? おチビちゃん達」
「誰が。しつこいのがいなくなってせいせいするね」
そんなやり取りをした後、おっさんは二人から離れていった。
「じゃな、お前ら。退屈しのぎにはいい相手だったぜ」
後ろ姿を最後まで見送るはずもなく、会話を再開する二人。
話題はやはり、自分達の装備についてだ。
「しょーがねえな。しばらくはこれで我慢しとくか」
「新しいのは……ここを出てからの方がいいだろうな」
と声を落として話す。
ここは討伐戦の真っ最中の、要塞の中だ。値段さえ気にしなければ、さっきのおっさんみたいな傭兵や、出入りしている行商の人間から装備を買う事はできるが。やはり足元を見られるのは間違いないだろう。
「……お金、どれくらいトゥルク村に持って帰れるかな。あれだけカッコつけて出てきたのに、装備が多少マシになって帰ってきただけなんて、嫌だぞ俺」
ぶつぶつ呟くアンセルを黙って見た後。
ウィルフレドが提案した。
「なあアンセル。もう一仕事してから帰る、っていうのはどうかな。それなら金と装備、どっちももっと見栄を張れるだろ?」
南にしばらく行けば、多くの人が行きかう町があると、傭兵士長に教えてもらった。
適正価格で装備を売ってくれる店も、単発の傭兵仕事も、そこに行けば見つかるかもしれない。いや、きっと見つかるだろう。
なにより、わざわざ国境越えまでしたのなら、もっと懐を重たくしてから帰りたい。故郷トゥルク村に留まったままでは、次の傭兵仕事がいつできるか、到底分からないからだ。
──というのが、ウィルフレドの意見だ。
「なんとなくだけど、こっちの方が仕事、ありそうな気がするんだ。アンセルはどう思う?」
「んー……。ま、とりあえずはこの仕事の稼ぎ次第、ってとこかな」
結局は、今の仕事が終わった後に決めようという事で、話はまとまった。
あとは話し合いというより、勝手な願望を口に出すだけである。
「新しい装備かあ。俺、ヒューゴー隊長みたいなのがいいな。かっけえもん」
「ああいうのはすごく重いから、よっぽど体格がしっかりしてないとダメなんだぞ。細かい動きも苦手なんだって。父さんが言ってた」
「なら俺はいけるな。お前には、ムリだけどな」
「……じゃあそれでいいよ。でも、鎖かたびら、だっけ? 金属製のちゃんとしたやつ。ああいうのなら、俺も欲しいかも」
「そうだ。おっさんが持ってたような、でっけえ剣も欲しい。思いっきりぶん回すんだ。絶対爽快だろ、あんなの」
「確かに。ガキの頃、めちゃくちゃにぶん回してたよな。その剣。木に刺さって抜けなくなったりもしてさ。あの時のアンセルは、なんていうかキラキラしてて……すごく危険だった」
その場で寝入る直前まで、二人でそんな他愛のない話をした。
☆☆☆
討伐戦の最終日。二人は森の中にいた。
今までの作戦でおびき出されなかった魔物を見つけて、倒す。それが今日の作戦内容だが。今のところ、魔物は一匹も見つかっていない。
「アンセル、あんまり遠くに行っちゃダメだ。他の人の声が聞こえなくなるだろ」
「これくらい、へーきだって。ヤバいのが出てきたらケツまくって逃げりゃいいんだろ? ばかでかい声で、助けも呼びながらな」
森の探索にあたって、傭兵士長から出された指示は次の通りだ。
必ず二人以上で行動する事。魔物の巣穴を発見した場合、強い魔物に遭遇した場合などは、自分達だけで対処せず、近くの者にも応援を頼む事。
つまりは、もしもの時のために、他の人達から離れないよう気をつけなくてはならないはずなのだが。
アンセルは魔物を探すのに夢中だ。こんな事までウィルフレドに言ってきた。
「なんだよウィル、ビビってんのか? あのおっさんに言われた事、気にしてるんだろ」
「それは……」
「ここらの森にそんなのはいないって、隊長も言ってただろ。怪鳥が飛んでたら要塞からすぐに見えるし、グールなんかがいたらそれこそ魔術師が大慌てしてるはずだ、ってな」
あのおっさんには一杯食わされただけとは、ウィルフレドも思っている。
だけど傭兵士長はその後、笑いながらこうも言ったのだ。
──だからと言って油断はするな。今まで出てこなかった魔物が皆、怯え隠れていた奴ばかりとは限らんのだからな。
「それよりウィル、お前ももっとちゃんと探せよ。……くっそー、マジで一匹も見つかんねえ。もう全部倒しちまったんじゃねえのか、これ」
アンセルだって一緒に聞いていただろうに、ずっとこの調子だ。
確かに、このままじゃ少し稼ぎ足りないのは分かるけど。いないものは仕方ないだろう。
もうこの際、討伐参加の基本報酬だけで諦めないか? ──と、ウィルフレドが言おうとした時だった。
「あっ、魔物!……か? 今の」
アンセルが何かを発見したらしい。
遅れてウィルフレドがその方向に目をやると、黒い動物のような塊が、茂みの奥に入っていくのがほんの一瞬だけ見えた。
「どうだろう。ただの犬……のような気もするな」
「いーや、あれは絶対魔物だね。よしんば犬だったとしても、むちゃくちゃに凶暴で懸賞金もかけられてる野犬だ」
そんな無茶な、と言いかけたが。
先ほど見かけた場所より、もう少し奥の茂みの方。
黒い塊が、また姿を見せた。
「おいあれ! ……やっぱりな、あれは犬なんかじゃないぜ!」
今度はウィルフレドにもはっきり見えた。
確かに。一見しただけでは、ただの大きめな黒犬だが──よく見ると違う。
不自然に盛りあがった背中。鋭く伸びた爪。この数日間で倒しまくった犬型の魔物、ダイアウルフとも異なる外見だ。
ただそれが魔物である事は、もはや疑いようがなかった。
犬の形に似た魔物は、二人の方をちらとだけ見た後、さらに茂みの奥へ入っていったのだ。
「ああくそっ、逃げられる! 追いかけるぞウィル!」
立ちすくむウィルフレドの隣で、アンセルが言う。
「あ──。ま、待てアンセル! あれは……!」
声をかけたが、アンセルはどんどん先に行ってしまう。
ウィルフレドは真っ青になって後ろを追いかけた。
「待てないね、あれが最後の一稼ぎになるかもしれないんだからな」
「アンセル! ……アンセル! 戻ろう、先に行っちゃダメだ……!」
「魔物一匹倒すだけだって。そしたらすぐ戻るっつうの」
「違う! 目が合ったんだ! あれは……!」
これまで倒してきた魔物とは、全く違った。
血の匂いに興奮した目でも、狂気に囚われた目でもなかった。
こちらを窺うような目。
そこらの魔物とは真逆の、知性を持った──
「はあ……? 魔物の目が、なんだって?」
アンセルが立ち止まって、ウィルフレドの方を振り返る。
同時に、彼の背後の茂みががさりと動いた。
「あ──」
危ない、と声をかける時間などなかった。
ただアンセルの体を、とっさに手で横に押しのけていた。
間髪入れずに、あの魔物が茂みから飛び出してきた。
大きく開かれた口が、ウィルフレドの視界全体に広がる。鋭い爪の先端が、身に着けた革の胸当てに、もう触れている。
ナイフに手をかけようと思った時にはすでに、体が大きく後ろに傾いていた。
なすすべなく魔物に押し倒されたウィルフレドは、後頭部を思いきり地面に打ちつけた。
一瞬の出来事だった。
あいつに、のしかかられている。息も感じる。胸に爪を立てられている。
それ以外は何も分からない。
頭がとても痛い。
恐怖を感じるより先に、ウィルフレドの視界に暗闇が広がった。
……真っ暗闇の中に、大きな点が二つ。赤く光って見える。
あの化け物の目なのか。
認識できたと同時に、今度は目の前に、大きな裂け目が現れて蠢いた。
『愚かな人間。ねえ、どんな気分?』
化け物の口から発せられる声は、頭に直接響いて聞こえてくる。
どうも今の気分を問われているらしいが。
この暗闇の中での意識はひどく曖昧で、
“喋る奴は最悪だ。確かに……、その通りだな”
程度の事しか考えられない。
『それじゃつまらない。もっと深い絶望を、私に聞かせて』
なんでだ、と聞いた。
『お前の命はここで終わるの。悔しい?』
本当に? 俺は、死ぬのか。
『そう。私に喰い殺される』
……死? 嘘、だろ? こんなところで?
『無意味な人生。なにもできずに死んだ。さぞ未練があったでしょう』
胸に突きつけられた現実。
もう終わりなのか。ようやく傭兵になったのに。村を出たばかりなのに。全部、これから始まるところだったのに。
これ以上何も考えられなくなったところで、化け物の嘲笑う声が響いた。
『可哀そうに』
言われた瞬間。
胸の奥が、かっと熱くなった。
化け物に向かって、心の限りに喚いた。
全部の怒りをぶちまけた。
最初は大喜びで弄んでいた化け物も、次第に、興味深そうな声色に変わっていき……
『それじゃあ、今は殺さないであげる。その代わり……』
それを最後まで聞き終わらないうちに、視界と意識を覆っていた暗闇は、急速に晴れていった。
「……いい加減、離れろよぉ!」
アンセルが力の限りに振った剣は、本人の予想に反して、ただ何もない空間を横切った。
それまでのように見えない壁に弾かれる事もなく、またウィルフレドの上に乗っていた犬の魔物が、優雅な跳躍を見せて、いきなり彼から離れたためである。
「おわぁっ!」
空振りの勢いですっ転ぶアンセル。
少し離れた場所に着地した犬の魔物は、フンと鼻を鳴らすと、さっさと茂みの中へ戻っていった。
「二度と来んな、バカヤロー! ……おいウィル、返事しろよウィル!」
体勢をろくに整えもせず、アンセルが話しかけた。
その顔色は蒼白で、今にも泣きだしそうな様子ですらあった。
「アンセル……? 俺、生きてるのか?」
「ウィル……! ああ、そうだよ、もちろん死んでねえよ。生きてるって!」
未だはっきりしない頭で返事しつつ、半身を起こす。
頭がじんじんする。
犬の魔物にいきなり襲われて、転んだところまでは覚えているけど。その後がよく分からない。たぶん頭を打って、気を失っていたのだろう。
そういえば、なにか夢を見たような気がする……
「大丈夫か? どっかやられてねえか?」
「たぶん……どこも。頭は打ったけど」
聞かれたので、自分の体をぺたぺた触って確認する。
打った頭以外は無事なようだが、革の胸当てにいくつか穴が空いてしまっていた。
あの犬の魔物が、爪を立てていた箇所だ。防具を身に着けていなかったらと思うと、ぞっとする光景である。
着崩れを直しているところで、懐からある物が落ちた。
「あ。これは──」
「親父さんの、お守りか?」
布切れに包まれたままの、女神の羽根。
アンセルにも何度か見せた事はある。
常に大事にしまってある事だけはアンセルも知っていたから、そういう考え方に行き着くのも無理はない。だけど……
「あっそうか。だから奴は、お前に傷をつけられなかったんだ!」
「……傷を、つけられなかった?」
「あいつ、お前を押し倒した後、だいぶ長いことお前の事じーっと見てたんだぜ。でも結局何もしなかった。できなかったんだ。……なんたってお前には、『女神の羽根』の加護があったんだからな!」
その羽根、本当にすごいやつだったんだな。さすがお前の親父さんだぜ!……
一人で盛り上がっているアンセルを無視して、羽根が包まれた布切れに目を落とす。アンセルの言い分に、納得など到底できそうにない。
──冗談はよしてくれ。これは、聖なるお守りなんかじゃない。
まっ先にそう思ったのもさる事ながら、それと関連して、何かとても大事な事が記憶から抜け落ちているような気がしたからだ。
「とにかくウィル。無事でよかったけど……ほんっとうに俺が悪かった! すまん! この通りだ! あのままお前が目を覚まさなかったら俺、後悔で頭がどうにかなっちまうとこだった」
「……ああ。それは別に、かまわないけど」
胸騒ぎがする。
うわの空でアンセルに返事しつつ、手に持った布切れを、そっと広げる。
嫌な予感が、確信に変わった。
女神の羽根はもう、見慣れた薄灰色をしていなかった。
血が幾重にも染み込んだような、どす黒い赤色。
あの化け物と会話した漆黒の暗闇。その中でただ二つ禍々しく光り、自分を見つめていた、あの目を思い起こさせるような──
「早くみんなのトコに戻ろうぜ。……ほら、立てるか? 歩けるか?」
アンセルの声が遠くに聞こえる。
心臓の鼓動が速くなる。
近くの木々が、がさりと鳴った。