ほんの少しだけ、正義の味方の残滓が残っていたならば。
第一話:蟲蔵の代わりに
降りしきる雨が、世界の輪郭を滲ませていた。
アスファルトを叩く音、瓦を滑る音、そして、すぐ隣を歩く男の革靴が水たまりを撥ねる音。音だけがやけに鮮明で、景色は灰色の絵の具をぶちまけたように、どこまでも不鮮明だった。
幼い桜の手は、父親である男――遠坂時臣の、冷たい指先に固く引かれていた。
その手は、一度も振り返らない男の決意の固さそのものだった。なぜ、どこへ行くのか。その問いは、雨音に溶けて桜の喉の奥で消える。聞くことは許されない。そんな空気が、肌を粟立たせるほどに満ちていたからだ。
やがて、二人の目の前に、巨大な屋根を持つ古い日本家屋が姿を現した。
幾度もの風雨に耐えてきたのであろう黒い板塀が、どこまでも続いている。その威圧的な佇まいは、まるで街そのものから拒絶された孤島のようだった。重々しい門をくぐると、湿った土と苔の匂いが、桜の小さな肺を満たした。手入れはされているのだろうが、陽の光を忘れたような庭の木々は、まるで黒い影そのものが枝を伸ばしているように見える。
玄関の引き戸が、軋むような音を立てて開け放たれる。
そこに立っていたのは、一人の老人だった。
上質な和装に身を包み、背筋は老齢にしてはしゃんと伸びている。深く刻まれた皺の一つ一つが、彼が生きてきた永い年月を物語っていた。その貌には、穏やかとさえ言える笑みが浮かんでいる。
「――ようこそおいでくださった、時臣殿。待ちかねておりましたぞ」
朗々として、それでいてどこか粘りつくような声だった。時臣は、完璧な礼法で深々と頭を下げた。
「お待たせいたしました、臓硯翁。娘の桜にございます」
「うむ。聞き及んでおる」
老爺――間桐臓硯は、その視線をゆっくりと桜へと滑らせた。
桜は思わず父親の背中に隠れようとしたが、その肩を掴む時臣の手に、拒絶の力がこもる。前にいろ、ということらしかった。
臓硯の目が、桜を品定めするように、頭の先から爪先までをゆっくりと舐めるように見た。それは、市場で家畜の値踏みをするような、温度のない視線だった。だが、桜と目が合う瞬間、その瞳はふっと細められ、好々爺のそれへと変わる。
「おお、これはこれは。噂に違わぬ、愛らしいお嬢さんじゃ。さ、中へお入りくだされ。雨で身体が冷えてしまう」
臓硯に促され、三人は薄暗い屋敷の中へと足を踏み入れた。ひやりとした空気が肌を撫でる。外の湿気とは違う、澱んだ、時間が止まったかのような空気。上がり框に腰かけた臓硯が、ゆっくりと桜の顔を覗き込んだ。
「桜、といったかな。良い名じゃ。この冬木の地で、最も美しく咲く花の名じゃからのう」
優しい言葉とは裏腹に、桜の身体は恐怖で石のように固まっていた。この老人が、これから自分をどうするのだろう。父親は、自分をこの老人に売り渡したのだろうか。そんな考えが、幼い心を支配する。
時臣は、娘のそんな心中を察してか、あるいは単に用事を早く済ませたいだけなのか、事務的な口調で言った。
「臓硯翁。では、契約通り、この子を間桐の後継としてお預けいたします。以後、この子は間桐桜。我ら遠坂とは、一切の関係もございません」
「うむ。心得ておりますとも」
「何卒、良きようにご指導いただきたく」
「お任せくだされ。必ずや、大輪の花を咲かせてご覧にいれましょうぞ」
まるで取引だった。桜という名の、品物の。
時臣は、一度も桜の顔を見ることなく、臓硯に再び一礼すると、踵を返した。
「お待ちください、お父様!」
桜は、必死の思いで声を絞り出し、その背中に手を伸ばす。だが、その手は空を切り、父親の背中は雨の向こうへと無情に消えていった。玄関の引き戸が、ぎぃ、と音を立てて閉まる。それが、桜のこれまでの世界が終わった合図だった。
絶望に立ち尽くす桜の小さな肩に、そっと、乾いた手が置かれた。びくり、と身体が跳ねる。見上げると、臓硯が穏やかな目で桜を見下ろしていた。
「……さあ、行こうかの。桜。お前の新しい部屋と、これからお前が学ぶ場所を見せてやろう」
■
臓硯の歩みは、老齢に似合わずしっかりとしていた。きしり、きしりと鳴る床板の音が、静まり返った屋敷に響き渡る。長い廊下の壁には、古めかしい書画や壺が並んでいるが、どれも異様な気を放っているように感じられた。
桜は、ただ黙ってその後ろをついていくしかなかった。これから自分は、地下の暗い蔵にでも連れて行かれ、恐ろしい蟲の餌食にでもなるのだろうか。そんな想像が、恐怖を何倍にも増幅させる。
(――ふむ。素晴らしい)
前を歩く臓硯の内心は、その好々爺然とした貌とは全く異なっていた。
彼は桜の背後から、その魔術回路の質を、歩き方一つ、呼吸の深さ一つから正確に読み取っていた。
(遠坂の血か。いや、それだけではない。これは……属性が、極めて稀有なものじゃ。虚数。無に通じる道。なんと、なんと素晴らしい器か!)
時臣からの手紙で、桜の才能については聞き及んでいた。だが、これほどとは。臓硯の魂は、五百年ぶりに歓喜に打ち震えていた。これほどの素材、これほどの器があれば、あの忌々しいアインツベルンの出来損ないの聖杯に頼らずとも、第三魔法への道が開けるやもしれぬ、と。
(これを、あの蟲どもに与えるなど、愚の骨頂。非効率の極みじゃ)
臓硯の思考は、冷徹なまでに合理的だった。
蟲による調教は、被検体の精神を損ない、その機能を十全に発揮させるには向かない。抵抗する心を折り従属させるための、いわば野蛮な手法だ。だが、この少女は違う。恐怖に震えながらも、その瞳の奥にはまだ強い光が宿っている。この光を濁らせてはならぬ。
正しく導き、正しく育て上げ、その意思で以て力を振るわせる。その方が、より強力で、より精密な「奇跡」を起こせるはずだ。
「ここじゃよ」
臓硯が立ち止まったのは、地下へ続く階段の前ではなかった。間桐の屋敷でも特に重厚な、木の扉の前だった。彼が扉を開けると、そこは桜の想像とは全く違う空間だった。
壁一面に、天井まで届くほどの本棚。びっしりと並べられた、異国の言葉で書かれた分厚い書物。部屋の中央には、使い込まれたアンティークの大きな机と革張りの椅子。そして、ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の火が、部屋全体を暖かく照らしていた。
「……ここは?」
「わしの書斎じゃ。そして、明日からお前が魔術を学ぶ教室にもなる」
臓硯は桜を促し、暖炉の前の小さな椅子に座らせた。桜は、まだ警戒を解けずに身を固くしている。
やがて、彼はことことと音を立てて、小さなカップに温かい飲み物を注いでくれた。湯気と共に、ふわりと甘い花の香りが立つ。
「カモミールの茶じゃ。心が落ち着く。さあ、お飲み」
差し出されたカップを、桜はただ見つめることしかできない。臓硯はそれを咎めることなく、くつくつと喉で笑った。
「無理もあるまい。……桜よ。お前は今、自分がどうなるのかと、不安でいっぱいじゃろう」
図星を突かれ、桜の肩が小さく揺れた。
「お前は、捨てられたのではない。お前の父親は、お前の類まれなる才能を、このままでは腐らせてしまうと判断した。だから、その才能を最も正しく伸ばせる者の元へと、お前を託したに過ぎんのだ」
臓硯は、自身の椅子に深く腰かけると、その指を組んだ。
「桜。魔術とはな、決してお前が想像するような、おどろおどろしいものではない。いや、そういう側面もあるが、その本質は違う。なぜ星は巡るのか。なぜ魂は在るのか。なぜ人は生まれ、死ぬのか。その世界の理(ことわり)を解き明かさんとする、最も人間らしい知の営み。それが魔術の正体なのじゃよ」
その言葉は、まるで物語を語り聞かせるように、静かで、穏やかだった。今の桜にその意味は、ほとんど理解できていない。だが、その声の響きには、桜の心を縛り付けていた恐怖の鎖を、ほんの少しだけ緩めるような不思議な力があった。
「お前の中にはな、誰にも真似できぬ、特別な力が眠っておる。それは、夜空の星々のように美しく、深海のように深淵な力じゃ。わしは、その力の使い方を、お前に教えてやる師となる。それだけのことじゃよ」
臓硯は立ち上がると、本棚から一冊の古い本を取り出した。革の表紙には、奇妙な紋様が描かれている。
「これは、わしの一族……間桐の魔術の始まりの書じゃ。かつて、わしらの祖先は、この世のあらゆる悲しみをなくしたいと願った。そのための大いなる力として、魔術を求めた。途方もない、理想じゃった」
彼は、どこか遠い目をして、そう呟いた。その横顔は、桜が今まで見てきたどんな大人とも違って見えた。
■
「さ、今日はもうお休み。お前の部屋も用意してある」
臓硯に導かれ、桜は書斎の隣にある部屋へと案内された。そこは、簡素だが清潔な子供部屋だった。柔らかなベッドに、小さな木の机。窓の外では、まだ雨が降り続いている。
「明日から、ゆっくりと始めようかの。間桐の魔術を。そして、お前だけの魔術を」
そう言うと、臓硯は静かに扉を閉めて出ていった。
一人きりになった部屋で、桜はゆっくりと息を吐いた。
まだ、何も分からない。怖い。家に帰りたい。お母さんと、お姉ちゃんに会いたい。涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。だが、心の奥底で、ほんの小さな何かが変わろうとしていた。
あの老人は、自分を傷つけようとはしていないのかもしれない。あの書斎の暖炉の暖かさと、カモミールの甘い香りが、まだ身体の芯に残っている。
この日、間桐臓硯という老獪な魔術師は、最高の器を手に入れた。
そして少女、間桐桜の運命は、本来辿るはずだった陰惨な道から、ほんの僅かに、しかし決定的に、その軌道を変え始めたのだった。
歪んだ愛情という名の温室で、一輪の花を咲かせるための、永い永い育成計画が、静かに幕を開けた。