桜が魂の熱病から回復して以降、間桐の屋敷の空気は、以前とは明らかに違う、穏やかなものに満たされるようになっていた。
桜は、あの数日間のつきっきりの看病を経て、臓硯に対して絶対的な信頼と、家族に対するそれに似た深い愛情を抱くようになっていた。
もはや彼女にとって、この老魔術師は恐怖の対象でも、単なる師でもない。守り、導き、そして時には厳しく、時にはどこまでも優しく自分を包んでくれる、世界でたった一人の「お爺様」だった。
その心の安定は、彼女の魔術にも如実に現れた。迷いをなくした彼女の操る水は、以前の精緻さに加え、しなやかな力強さを増していた。臓硯の出す課題を、桜は喜びと共に、そして期待に応えたい一心で次々とこなしていく。
その様子を、臓硯は満足げに見守っていた。桜の成長は、彼の予想を常に上回っていた。それは、最高の芸術品が日々その輝きを増していくのを眺める、創造主の喜びに似ていた。
そして、その喜びが大きくなればなるほど、臓硯は、自分が心の奥底に封じ込めてきた、ある「醜悪な過去」と向き合わねばならないと感じていた。桜という名の光が強まれば強まるほど、彼自身の内に巣食う闇が、その輪郭を明確にしていくかのようだった。
■
ある夜、桜が健やかな寝息を立てているのを確認すると、臓硯は一人、寝室を抜け出した。
向かう先は、この屋敷の最下層。桜には決してその存在を明かしたことのない、間桐家の本当の心臓部。
――あるいは、膿み溜まりとでも言うべき場所へ。
軋む階段を下り、湿り気を帯びた石の廊下を進む。その最奥にある、重い鉄の扉。臓硯が手を触れると、錆びついた錠が魔術的な音を立ててひとりでに開いた。
扉の向こうから、むわり、と濃密な腐臭と、無数の何かが蠢く音が溢れ出してくる。
そこが、間桐臓硯という魔術師が、五百年という永い時を生き永らえるために作り上げた、彼の命の源泉であり、そして、彼の魂の醜さを体現した場所。
蟲蔵、だった。
一歩足を踏み入れると、ぞわり、と空気が震えた。壁、床、天井。その全てが、おぞましい刻印蟲で埋め尽くされている。数千、数万、あるいはそれ以上か。一匹一匹が、臓硯の魔力を糧として生きる、彼の分身とも言える存在だ。
主の帰還を察知し、蟲たちは歓喜に打ち震えるように、一斉に蠢き始めた。ざわざわ、という音は次第に大きくなり、やがては波の音にも似た一つの大きなうねりとなる。彼らは飢えていた。臓硯の、より濃密で、より新鮮な魔力を求めて。
臓硯は、そのおぞましい光景を、何の感慨もなく、どこか他人事のように、冷徹な目で見下ろしていた。
「こいつらこそが、自分をここまで生かしてきた」
そして、当初の計画では、この蟲たちこそが、桜を最高の「聖杯の器」へと作り変えるための、重要な道具となるはずだった。
彼の脳裏に、当初の計画がよぎる。
この蟲の海に、あの少女を沈める。その柔らかな肌を食い破らせ、肉を啜らせ、血の一滴までを蟲の魔力で満たさせる。その精神を、快楽と苦痛の波で陵辱し、自我を壊し、ただ聖杯を降ろすためだけの、空っぽの器へと作り変える――。
「それが、最も手っ取り早く、最も確実な道だったはずなのだがのう?」
だが、その思考を追う臓硯の脳裏に、別の光景が、頑なに割り込んでくる。
蟲に嬲られ、絶叫する桜の姿ではない。
高熱にうなされ、苦しげに自分の名を呼んだ、か細い声。
失敗を許され、安堵の涙を浮かべながら、自分の袖を掴んだ、小さな手。
そして、全ての信頼を込めて、自分を「お爺様」と呼んだ、あの日の、あの響き。
健やかな寝顔。訓練中に見せる真剣な横顔。水を操り、初めて奇跡を起こした時の、驚きと喜びに満ちた輝く瞳。
「悪くはない」
蟲の醜悪な蠢きと、桜という存在が放つ、いびつだが確かに美しい輝き。その二つが、臓硯の頭の中で、天秤のように揺れ動く。
合理性……古い蟲による桜を従わせるという計画と、新たに芽生え、彼自身を蝕み始めた、名状しがたい感情……それは、育成の喜びか、はたまた庇護欲か。それとも、彼の魔術師としての根底にあった美学なのだろうか。
やがて、蟲たちの蠢きが、ひときわ激しくなった。彼らは、臓硯がその身に纏うようになった、桜の残香に気づいたのだ。そして、臓硯自身の魂に生じた、ほんの僅かな「人間的な感情の揺らぎ」という名の、極上の餌の匂いを嗅ぎつけたのだ。
それが、引き金となった。
臓硯の目が、すうっと細められる。その瞳から、一切の迷いが消えた。
彼は、足元で最も激しく蠢く蟲たちを、まるで汚物でも見るかのような目で見下ろすと、静かに、しかし、その場の全ての蟲の魂に届くほど明瞭に、宣言した。
「――旧時代の遺物よ」
その声は、絶対零度の冷たさを帯びていた。
「我が理想の器を、貴様らのような醜悪なもので汚すことは、―――
次の瞬間、臓硯が掲げた右の掌に、蒼白い炎が渦を巻いて現れた。それは、物理的な熱量を持つ炎ではない。生命の根源に直接作用し、その存在を概念レベルで消滅させる、呪いの炎。
彼は、その炎を、何の躊躇もなく、眼下の蟲の海へと解き放った。
「GYIIIIIIIIAAAAAAAAッッ!!!」
蟲たちの絶叫が、蟲蔵全体を揺るがした。
蒼白い炎に触れた蟲から、次々と黒い塵となって崩れていく。それは、臓硯自身の肉体の一部を切り離す行為にも等しい。激痛が、彼の全身を駆け巡る。だが、彼の表情は、微動だにしなかった。
自分の延命の歴史、醜い過去、そして、桜を汚す可能性があった、安易で非効率な未来。その全てを、彼はこの炎で以て、過去のものとして葬り去る。
これは、彼が過去の自分と決別するために行った、壮絶な儀式だった。
■
やがて、断末魔の叫びは途絶え、蟲蔵には、完全な静寂と、塵芥が舞う空間だけが残された。臓硯は、がらんどうになったその空間の中心に立ち、荒い息をつきながらも、満足げに目を細めた。
そして、自身の新たな計画を、確固たるものとして、魂に刻み付けた。
(そうだ。蟲などという、不確定で醜悪なものに頼る必要など、もはやない)
彼の脳裏には、聖杯戦争の盤面が、鮮やかに広がっていた。
(桜……。あの一人の魔術師を、このわしの手で、最高の芸術品として完成させる。そして、その力で以て、正々堂々と聖杯を勝ち取り、そして……。うむ。その方が、よほど合理的で、そして、何よりも……)
――美しいではないか。
彼の目的は、変わらない。それは、この世すべての悪の根絶。
だが、その手段が、この瞬間、醜悪な「破壊」から、最高の芸術品を創り上げるという、歪んだ「創造」へと、彼の美学に基づいて完全にシフトしたのだ。
■
臓硯が、地下から地上へと戻ると、廊下の先で、小さな人影が彼を待っていた。
「お爺様……。どこへ、行っていたのですか? 大きな音がしたから、心配で……」
桜は、不安そうな顔で駆け寄ってくる。臓硯は、その顔に、いつもの穏やかな好々爺の笑みを浮かべた。その内心で、壮絶な儀式を終えてきたことなど、おくびにも出さない。
「おお、桜か。すまぬ、起こしてしもうたか。少し、古いガラクタの掃除をしていただけじゃよ。もう、全て綺麗になった」
「掃除……?」
「うむ。これで、この家にはもう、お前を脅かすようなものは何一つなくなった。安心するがよい」
臓硯は、そう言って桜の頭を優しく撫でた。
そして、二人は並んで、月の光が差し込む長い廊下を、自室へと戻っていく。
何も知らず、ただ「お爺様」の優しさに安堵する少女。
その隣で、過去と決別し、彼女を主軸とした、壮大で、歪んだ新計画を胸に秘め、静かに歩む老魔術師。
間桐桜の物語は、この夜、一つの大きな章を終え、聖杯戦争への準備という名の、次なる舞台へと、その幕を静かに上げようとしていた。
ひとまずはココで一区切り。蟲の爺は蟲を捨て、虚の娘は支えを得ました。この先どうなるのかは、近いうちにまたいずれ。