蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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幕間:そして、英雄になれなかった男

 海外の安宿で、インクと安煙草の匂いに塗れながら、間桐雁夜は生きていた。フリーランスのジャーナリストという、その日暮らしの不安定な身分。だが、魔術という名の呪われた血筋と、息の詰まるような家から逃げ出した彼にとって、その自由は何物にも代えがたいものだった。

 

 彼は時折、遠い日本の愛した女性のことを思った。人妻となり、二人の娘の母となった、葵のことを。彼女が幸せならば、それでいい。そう自分に言い聞かせ、彼は自らの恋心に蓋をし、ただ無力な傍観者であり続けることを選んだ。それが、彼なりの誠意だった。

 

 その、脆く、儚い平穏が、一本の国際電話によって粉々に砕け散ったのは、ある雨の日のことだった。遠い親戚から伝えられた、事務的な連絡。

 

『――遠坂家の次女、桜様が、正式に間桐家の養子となられました』

 

 その一言を理解した瞬間、雁夜の頭の中で、何かがぷつりと切れた。さくら、ちゃんが? あの、間桐の家に? あの、地獄の釜の底のような、蟲の巣窟に?

 

 なぜだ、時臣! なぜ、葵さん! あんたたちは、あんな場所に、自分の娘を売り渡したというのか!

 

 そして、臓硯。あの、人の形をした悪意そのもの。あの老獪な化け物が、桜ちゃんに何をするというのだ。想像するだけで、全身の血が逆流するような怒りと、内臓が凍り付くような恐怖が、雁夜を襲った。

 

 彼は、書きかけの原稿も、数少ない私物も、その全てを部屋に放り出したまま、空港へと走った。金も、計画も、勝算も、何一つない。ただ、一つの想いだけが、彼を突き動かしていた。

 

 ―――桜ちゃんを、助けなければ。

 

 たとえ、この身がどうなろうとも。

 

 

 息を切らし、雨に打たれながら、雁夜は憎悪と嫌悪の対象である、間桐の屋敷の門前に立っていた。何年ぶりだろうか。この、陰鬱な空気に満ちた場所は、寸分も変わっていない。

 

 彼は、ためらわなかった。門を叩き壊さんばかりの勢いで開け、玄関へと怒鳴り込む。

 

「臓硯! いるんだろう、このクソ爺! 出てこい!」

 

「……おお、おお。なんじゃ、この騒々しさは。雁夜ではないか」

 

 屋敷の奥から現れたのは、雁夜の記憶にある、あの魂まで腐り果てたような、醜悪な老人の姿ではなかった。そこにいたのは、上質な和装に身を包み、穏やかな、しかし底の知れない笑みを浮かべた、一人の「好々爺」だった。まるで若返ったようなその、あまりに予想外の姿に、雁夜の全身から、一瞬だけ力が抜けた。

 

「……その腐った性根を、その見せかけだけで隠すつもりか。とぼけるな! 桜ちゃんはどこだ! あの子に、何をするつもりだ!」

 

「桜、とな。ああ、遠坂から預かった、あの健気な娘のことか。何、心配は無用じゃよ。わしが、直々に、彼女の才能を伸ばしてやっておる」

 

「ふざけるな! 貴様の言う『教育』が、どんなものか、俺が知らないとでも思っているのか! あの子を、あの蟲蔵に……!」

 

「蟲蔵?」

 

 臓硯は、心底不思議そうに、小首を傾げた。

 

「ああ、あの旧時代の遺物か。不衛生で非効率なだけのガラクタの山じゃな。とうの昔に、綺麗に掃除したわい」

 

「……何、だと……?」

 

「百聞は一見に如かず、じゃろう。まあ、ついて来なさい。お前自身の目で、桜の現状を好きなだけ確かめるがよい」

 

 

 臓硯は、あまりに落ち着き払っていた。その態度が、逆に雁夜の警戒心を煽る。何かの罠だ。より悪質な、精神を破壊するような、新しい拷問でもしているに違いない。

 

 雁夜は、覚悟を決めて、臓硯の後をついていった。だが、彼が連れてこられたのは、地下の蟲蔵ではなかった。そこは、壁一面に本棚が並ぶ、広々とした書斎だった。

 

 そして、雁夜は、見た。

 

 小さな椅子に座り、子供向けの、しかし魔術の基礎が書かれた書物を、真剣な表情で読んでいた、桜の姿を。

 

 彼女は、痩せてはいたが、その身なりは清潔だった。記憶にある、天真爛漫な笑顔は消え、どこか影のある、物静かな表情をしていたが、少なくとも、雁夜が覚悟していたような、精神が壊れた者の虚ろな瞳ではなかった。

 

 桜は、二人の気配に気づくと、顔を上げた。そして、臓硯の姿を認めると、椅子から降りて、ぺこり、と小さな頭を下げた。

 

「……お爺様?」

 

 その一言が、雁夜の心臓を、冷たい刃で貫いた。お爺様、だと? この、化け物を?

 

「桜。紹介しよう。こいつは、雁夜。お前の、叔父のようなものじゃ」

 

「……雁夜、おじさま……?」

 

 桜は、不安そうな目で、見知らぬ男である雁夜を見上げた。その瞳には、助けを求める色はない。ただ、困惑があるだけだった。

 

「……桜ちゃん」

 

 雁夜は、か細い声で、その名を呼ぶことしかできなかった。彼が想像していた光景とは、何もかもが違っていた。助けを求める悲鳴も、拷問の痕跡も、絶望の涙も、どこにもない。

 

 あるのは、ただ、静かで、穏やかで、そして、どこまでも異様な、師弟の日常だけだった。

 

「さて、雁夜。話は、わしの部屋で聞こうかの」

 

 臓硯は、そう言って桜の頭を優しく撫でると、雁夜を別の部屋へと促した。

 

 

 二人きりになった部屋で、雁夜は、堰を切ったように臓硯に掴みかかった。

 

「貴様、あの子に何をした! 大人しく魔術を学んでいるなんて、洗脳でもしたのか!?」

 

 臓硯は、その手を、虫でも払うかのように、軽く、しかし抗いがたい力で振り払った。

 

「人聞きの悪いことを言うでない。わしは、ただ、あの子に『機会』を与えておるだけじゃ。彼女の父親が、才能を鑑み、捨て置くことしかできなかったのが桜じゃ。故に魔術師としての『正しい教育』の機会をな」

 

「正しい教育だと!? 貴様が行うことの、どこが正しいというんだ!」

 

「では、お前に聞こう、雁夜」

 

 臓硯の目が、すうっと細められた。その瞳の奥に、五百年の時を生きた、老獪な化け物の本質が、ちらりと覗く。

 

「お前は、あの子に何を与えられる? 魔術を捨て、ただ人の世を漂うだけのお前に。あの子の類まれなる才能をどう導いてやれるというのじゃ? お前は、あの子をこの家から連れ出して、どうするつもりじゃ? フリーランスのジャーナリストとやらが、あの子を養い、守り、育てられるとでも?そもそも、時計塔の魔術師から桜を守り切れるのか?」

 

「そ、それは……」

 

「できぬじゃろうて。お前には、金も、力も、そして何より覚悟もない。お前は、葵殿のこともそうやって、ただ見ていることしかできなんだ。彼女が、魔術師の妻として非情な選択をすることも止められなかった。そんなお前に、桜を救う資格など……決して、あるものか」

 

 臓硯の言葉の一つ一つが、雁夜の心を、容赦なく抉っていく。

 

「お前が、資格、などと語る事すら烏滸がましい」

 

 そうだ。自分には何もない。

 

 力も、金も、覚悟も。葵が時臣と結婚するのを、ただ指をくわえて見ていることしかできなかった。彼女と生涯関われたであろう、魔術師としての一生も捨てた。

 そして今また、桜が、この地獄に囚われているのを、ただ見ていることしかできないのか。

 

「わしは、あの子を、最高の魔術師として育て上げる。それは、あの子がその身に宿した、祝福であり、呪いでもある。その才能に対する、わしなりの誠意じゃ。お前の、感情に任せた、自己満足の『救済』ごっこなどより、よほどあの子のためになるわ」

 

「……黙れ……」

 

「お前がどう思おうが、どう行動しようが、どう喚こうが………わしを止める術はないじゃろうて。魔術師としても、人の親としても、お前は落伍者なのじゃからな」

 

 雁夜は、その場に、崩れ落ちそうになった。そうだ。その通りだ。自分は、魔術師でもなく、社会的地位も弱い。まぎれもない落伍者だ。

 

 正義も、怒りも、愛情も、絶対的な「力」と、揺るぎない「論理」の前には、あまりに無力だった。

 

 臓硯は、そんな雁夜を、冷ややかに見下ろした。

 

「とはいえ、お前はわしの身内。選択肢をやろう。せっかくこの家に、いやいやながらも顔を出したお前に見せる、わしの優しさだ」

 

「……何を」

 

「この家に残り、無力な亡霊として、桜が育っていく様を貴様の兄と一緒に指をくわえて見物するか。あるいは、二度とこの家の敷居を跨がず、全てを忘れて、元の生活に戻るのか……」

 

 その言葉は、雁夜にとって、死刑宣告にも等しかった。

 

「まあ、どちらを選んでも、お前は無力なままじゃがの」

 

 ここに残ることなど、できるはずがない。桜が、この化け物を「お爺様」と慕い、その歪んだ教育に染まっていく様を、間近で見続けるなど、拷問以外の何物でもない。

 

 かといって、去ったところで、何かが変わるわけでもない。

 

「さあ、好きな方を選ぶとよい。雁夜。何、命までは、とるまいて」

 

 雁夜の心にあった、最後の炎が、ふっと音を立てて消えた。彼は、聖杯戦争に参加する必要すらなかった。よしんば参加するとしても……彼が、その身を蟲に捧げ、命を賭して戦うべき「理由」そのものが、臓硯の、より狡猾で、より残酷な手によって、最初から奪い去られていたのだから。

 

 雁夜は、よろめくように立ち上がると、一言も発さずに、その部屋を後にした。

 

 屋敷を出て、雨の中に再び身を晒す。

 

 彼は、英雄になれなかった。いや、英雄になるための舞台に、上がることさえ、許されなかった。

 

 老獪な魔術師は、物理的な暴力ではなく、絶対的な論理と、冷徹な現実を突きつけることで、一人の男の魂を、完全に、そして静かに、蟲を使う事もなく殺してみせたのだ。

 

 間桐雁夜は、その日以来、二度と冬木の地を踏むことはなかった。彼はただ全てを失った、名もなき男として雑踏の中へと消えていった。

 

 彼の悲劇は、誰にも知られることなく、聖杯戦争という大きな物語の、ほんの僅かな幕間に、ひっそりと葬り去られたのだった。

 

 

 異物が消えた屋敷で、蟲の爺は静かに、しかし冷酷に、地脈の動きを感じ取っていた。それは、間違いなく聖杯戦争の始まりを告げるものであった。

 

 だが、蟲の爺は微動だにしない。それどころか、うっすらと笑みすら浮かんでいる。

 

「何。此度の聖杯戦争なぞは有象無象にくれてやる。我らが悲願は、わしが用意する最高の器にて成就されるのだからな」

 

 この瞬間に第四次聖杯戦争は、マキリ抜きで行われる事が決定した。

 

 つまりそれは、儀式の失敗を意味する物であった。

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