Fate/
に続く、彼らの物語です。
第十一話:弓道と魔術
歳月は、静かな川の流れのように、間桐の屋敷の周りを巡っていった。
桜があの重い門をくぐってから数年の時が流れ、かつて恐怖に震えていた幼い少女は今や、物静かながらも芯の通った、凛とした気品を漂わせる中学生へと成長していた。
その変化は、外見だけのものではない。彼女の内に流れる魔力は、もはや細い小川ではなく、深く、静かに、そして力強く流れる大河となっていた。臓硯の歪んだ、しかし魔術師の育成法としては限りなく「正しい」指導の下、桜の才能は、まるで一輪の孤高の花のように、見事にその才能を開花させていたのだ。
その日、放課後の澄み切った空気の中、桜は中学校の弓道場にいた。
ひんやりとした板張りの床、古びた木の匂い、そして、時折響き渡る、的に矢が突き刺さる小気味よい、しかし乾いた音。その静謐な空間は、桜にとって、屋敷の道場と同じくらいに、心が落ち着く場所となっていた。
桜は、ゆっくりとした、しかし芯が通っているような、水が流れるような優雅な所作で、射位へと進み出た。背筋をすっと伸ばし、的を見据える。二十八メートル先にある、霞的。それは、物理的な的であると同時に、彼女にとっては、自身の精神を映し出す鏡でもあった。
■
「学校の部活動、ですか?」
少し前にはなるが、桜が中学生になるのを前にして、臓硯に弓道部への入部を勧められた時、彼女は意外な顔でそう問い返した。
「うむ」
と、臓硯は縁側で茶をすすりながら、こともなげに言った。
「魔術師は、己の内に閉じてばかりではならん。人の世の理を学び、その中で己を律することもまた重要な修行なのじゃよ。そして、弓道という道は、その精神統一の手法や、体の所作など、魔術と通じる部分が、ことさらに多い」
彼は、湯呑を置くと、桜に向き直った。
「よいか、桜。弓を射るという行為は、八つの節で構成されておる。足踏み、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心。この一連の流れは、魔術の儀式における手順と何ら変わりはない。一つでも疎かにすれば、矢は決して的には当たらぬ」
「魔術と……同じ……」
「そうじゃ。特に、矢を放つ直前の『会』の状態。心身ともに最高に充実し、静まり返った、あの瞬間」
再び、湯のみを彼は手に取る。ただ、その手はその視線の高さまで掲げられていた。
「それは、魔術師が己のオドを練り上げ、世界に干渉する直前の精神状態と、全く同じものなのじゃ。弓は、お前の精神を鍛えるための、最も優れた道具となるじゃろう」
湯のみに残されていた茶が、水柱となって桜の目の前に現れる。それはまるで、矢のような鋭さを持っていた。
「そして、矢は、お前の意思そのものとなる」
その言葉を、桜は今、己の身体で以て体現していた。
桜はゆっくりと弓を引き絞っていく。体内のオドの流れを、呼吸と共に制御する。吸う息と共に力を溜め、吐く息と共に余分な力を抜いていく。それは、水を操る時と全く同じ感覚だった。
やがて、矢は満月のように引き絞られた弓の中心で、静止した。
――会
桜の世界から、全ての音が消える。道場のざわめきも、遠くで聞こえる運動部の掛け声も、全てが遠ざかっていく。彼女の意識にあるのは、ただ、的の中心、その一点のみ。それはもはや物理的な距離を超えた、意思と意思との繋がりだった。
――離れ
桜の指から、弦が滑り出る。それは、意思的な動作ではなかった。器に満ちた水が、自然に溢れ出すように。熟した果実が、枝から落ちるように。極限まで高まった精神が、必然として矢を解き放ったのだ。
パシュッ、という鋭い弦音と共に、矢は黒い一筋の線となって、空間を切り裂いた。
そして、パン!と心地よい音を立てて、紙が貼られた的の中心を正確に射抜く。
「……すごい。間桐さん、また真ん中だ」
「当たり前みたいにやるよね。静かだけど、射る時だけ、別人みたい……」
後輩の部員たちが、尊敬と、わずかな畏怖の念を込めて囁き合っている。
桜は、その声に意識を向けることなく、静かに「残心」の姿勢をとっていた。矢を放った後も、途切れることのない心の流れ。その余韻に身を浸す。
―――お爺様の言う通りだった。
弓は、魔術だ。
自分の意思を寸分の狂いもなく、世界に届けるための神聖な儀式。この心地よい緊張感と達成感は、桜の心を、より強く、より澄み渡らせていった。
■
部活動が終わり、ほとんどの生徒が帰り支度を始める中、桜は自主的に残って黙々と弓の手入れをしていた。
『道具の手入れも魔術師の基本と心得よ』
臓硯の教えは、桜の心の奥底までしっかりと浸透し、彼女を形作っている。弓はしっかりと拭き上げ、弦は解れや痛みが無いかを隅まで確認しまた拭き上げ、弓籠手は柔らかい布で丁寧に拭き上げ、そして、ギリ粉入れも拭き上げて中身を補充する。
「……よし」
時間をかけ、そして集中していたそれを終えた時。彼女の視界の隅に、まだ射位に立ち続けている一人の男子生徒の姿が映った。
桜と同じ、弓道部の生徒。だが、桜は彼とほとんど話したことがなかった。いつも一人で、誰よりも遅くまで、ひたむきに練習を続けている少年。
衛宮士郎。
それが、彼の名前だった。
桜は、弓を仕舞う手を止め、思わずその姿に見入ってしまった。彼の射形は、お世辞にも上手いとは言えなかった。身体の軸はぶれ、弓を引き絞る腕は震え、矢を放つタイミングも一定ではない。
彼が放つ矢は、面白いように的を外れ、時には安土にすら届かず、無様に地面に突き刺さることもあった。
周りの生徒たちは、彼のことを「努力家だけど、不器用な人」と、どこか憐れむような目で見ていた。
魔術師としての桜の目から見ても、彼のやり方は、あまりに非効率でどこか無駄が多かった。オドの流れは乱れ、意思は拡散し、身体の使い方も合理的ではない。これでは、いくら練習を重ねても、上達など望めないだろう。
(……どうして、あんなに無駄なことを)
桜は、純粋な疑問を感じた。お爺様ならきっとこう言うだろう。
『才能なき者が、闇雲に努力を重ねるのは、愚者のすることじゃ』
と。だが、桜は、衛宮士郎から目を離すことができなかった。兄の慎二とは違う、何かを感じ取っていたのだ。
的を外すたびに、彼は悔しそうに唇を噛みしめる。だが、その瞳から、諦めの色は少しも感じられない。彼は、すぐに次の矢をつがえると、まるで何かに取り憑かれたように、再び弓を構えるのだ。
その姿は、愚かしくもあったが、同時に、桜の心を奇妙に揺さぶった。
それは、桜がこれまで知らなかった、全く異質な「強さ」の形だった。魔術の才能にも、合理性にも裏打ちされていない。ただ、ひたむきな、あまりに純粋な「諦めない」という意思の力。
桜は、いつしかその手を止めて、道場の隅の暗がりに身を潜めるようにして、彼の練習を最後まで見つめていた。
陽が落ち、道場が夕闇に包まれても、衛宮士郎は練習をやめなかった。やがて、全ての根気を射尽くしたのか、彼は大きなため息をつくと、その場にへたり込んだ。その、疲れ果てた、しかしどこか満足げな横顔を、桜は、忘れることができないだろうと思った。
この時、桜の心に芽生えたのは、憐れみではなかった。優越感でもない。
それは、未知の生物を観察するような、純粋な好奇心と言える奇妙な気持ち。
そして、自分とは全く違う理で動く、その不器用で、まっすぐな魂に対する、名状しがたい微かな興味だった。
臓硯が作り上げた、完璧で、揺らぎのないはずだった桜の世界。
その世界に、衛宮士郎という名の、全く予測不能な変数が、この日、静かに投げ込まれた。それは、老獪な魔術師の計算を、僅かに、しかし確実に狂わせ始める、最初の小さな綻びとなることを、まだ誰も知らなかった。