衛宮士郎という少年は、桜にとって、解けない知恵の輪のような存在だった。
あの日以来、桜は弓道場で、彼の姿を目で追うことが半ば習慣となっていた。彼の射る矢は、相変わらず的を捉えることの方が少ない。
だが、やはり彼は決して諦めなかった。それはまるで、
そのひたむきさは、桜が臓硯から教えられてきた「合理性」や「効率」といった価値基準では、到底測ることのできないものだった。
ある日の放課後、自主練習を終えた桜が道場の片付けをしていると、まだ一人残って弓を引き絞っていた衛宮士郎の矢が、大きく的を外れて桜の足元近くまで転がってきた。
士郎は、しまったという顔で、慌てて駆け寄ってくる。
「わ、悪い、大丈夫だったか、間桐さん」
「……はい。大丈夫です、先輩」
桜は、静かに矢を拾い上げると、それを彼に手渡した。その時、初めて彼の顔を間近で見た。整っているとは言えないが、その瞳には、自分やお爺様とは違う、まっすぐな光が宿っているように思えた。
「ありがとう。助かる」
彼は、礼を言うと、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「なぁ、間桐さん。少し俺に弓を教えてくれないか?」
「私が、先輩に、ですか?」
「ああ」
衛宮士郎は無防備な笑顔を桜に向けて、言葉を続けた。
「いつも皆中に近いだろ?間桐さんに教えて貰えれば、俺ももう少し上手くなると思ってさ」
その、あまりに普通で、裏表のない反応に桜は少し戸惑う。
「もちろんいいですよ。衛宮先輩」
「本当か!?助かるよ!」
魔術師の世界では、これほど無防備な人間と接する機会など、ありはしないからだ。
「確か間桐さんは、小学生から弓を引いていたんだよな?」
「あ、はい。5年生からです。体が出来ていたので、人よりは早めに」
「なるほどな。俺は中学生になってからだ。本当はもっと前からやりたかったんだけど、士郎は体が出来てないからダメー!なんて止められててさ」
■
その日から、桜の日常報告の中に、ぽつり、ぽつりと「衛宮先輩」の名前が混じるようになった。
「お爺様。学校に、少し面白い方がいます」
夕食の席で、桜はそう切り出した。
「ほう。面白い、とは?」
臓硯は、表情を変えずに先を促す。
「衛宮先輩、という弓道部の先輩なのですが……。とても非効率なのです。自分の時間を削ってまで。練習も、誰よりも長く続けるのに、少しも上手くなりません」
桜は、それを一つの謎として、臓身に語った。自分には理解できない、不思議な生き物についての観察報告のように。
「でも、決して止めないのです。まるで、諦める事を知らない。それが当然であるかのように」
臓硯は、その報告を、ただ黙って聞いていた。だが、彼の水面のように静かな心の奥では、小さな、しかし確かな波紋が広がっていた。
その夜、臓硯は書斎で、古びた水晶玉を前にしていた。彼は、その水晶に自身の魔力を通わせると、使い魔との視線を同期させるために意識を集中させる。すると水晶の表面に、ぼんやりとした映像が浮かび上がった。それは、夜の校庭で、一人、跳躍の練習を繰り返す少年の姿――衛宮士郎だった。
(衛宮……。どこかで聞いた名じゃと思ったが……)
マキリが参加を見送った、第四次聖杯戦争により引き起こされた冬木の大火災。その地獄の中から、一人の男に救い出された、唯一の生存者。そして、その掬い上げた男の名は、衛宮切嗣。
第四次聖杯戦争における、セイバーのマスター。聖杯を求めながら、その実、聖杯を破壊した男。「魔術師殺し」の異名をとった、異端の魔術師だった。
「……なるほどのう。あの男の、忘れ形見か」
水晶の光が消え、書斎は再び静寂に包まれた。臓硯の口元に、冷ややかな、侮蔑とも言える笑みが浮かぶ。
衛宮切嗣。彼もまた、「世界の救済」という大それた理想を掲げた男だった。だが、その手法は、臓硯から見れば、あまりに稚拙で、場当たり的で、醜いものだった。彼からしてみれば、目的のためには手段を選ばず、ただ目の前のものを切り捨てていくだけの破壊者でしかない。
そして、その息子ともいえるこの少年もまた、父親の空虚な理想だけを受け継いだ、空っぽの人形に過ぎないと臓硯は見抜いていた。
「桜の話を総合するに……『誰かを助けたい』という想いからの行動じゃろう。力も、知恵も、大局を見通す目もないままにただ叫ぶだけの理想など、自己満足のオナニーに等しいわ」
臓硯にとって、この長い年月を生きるうちに忘れ去っていた、ひとつの感情が沸き起こる。
「―――だが。嗚呼。見ておれんな」
かつて、彼もまた、同じ理想を抱いた。マキリ・ゾォルケンとして、この世全ての悪を根絶するという、誰よりも気高い、純粋な理想を。
その理想のために、彼は全てを捨てた。家族も、人の心も、自らの人間性さえも。そして、アインツベルン、遠坂という志を同じくする「同志」たちと共に、大聖杯という緻密で、壮大な計画に全てを捧げたのだ。
それに比べて、この衛宮という親子の、なんと浅はかで、感情的なことか。
臓硯が桜と共に歩む「深淵の道」は、その気高い理想を、五百年の時をかけて練り上げ、寸分の狂いもなく実行するための、神聖な計画なのだ。その最高の器である桜が、あのような安っぽい模造品(フェイカー)に興味を示すこと自体が、彼の美学を汚す行為のように感じられた。
それは、同じ道を歩む者同士だからこそ感じる、嫌悪感であるという感情だった。
■
数日後、臓硯は桜を書斎に呼んだ。
「桜。お前が話していた、衛宮士郎という少年についてじゃが……少し調べてみた」
「え……」
桜は驚いた。お爺様が、一介の生徒のことを気にかけるなど、初めてのことだったからだ。臓硯は、まるで歴史の講義でもするかのように、静かに語り始めた。
「数年前に冬木の街に災害があったじゃろう」
「はい。今でも覚えています。街が炎で焼き尽くされていて。確か、原因不明の大規模な爆発が原因だった、と」
「うむ」
臓硯は頷き、更に言葉を続ける。
「あの少年はな、その時の唯一の生き残りよ。そして、いわば、理想の熱に突き動かされ、機械のように動く、哀れな病人のようなものじゃ」
「病人……?」
「うむ。かつて、彼の父親もまた、同じ病にかかっておった。多くの者を救うために、少数を切り捨てる。その果てに、何が待っておるかを知りもせずにな。結果、あの男は何も救えず、全てに裏切られ、犬死にした。そして、この息子は、父親の失敗から何も学ばず、より純度を増した、空っぽの正義を振りかざしておるだけよ」
臓硯は、ゆっくりと立ち上がると、桜の前に立った。
「よいか、桜。感情に任せて『誰かを助けたい』と願うのは、誰にでもできる。じゃが、それは真の救済ではない。ただの感傷であり、偽善じゃ。真に『この世全ての悪を根絶する』という我らの悲願は、そのような安っぽい感情で成し遂げられるものではない」
彼の言葉には、圧倒的な重みと、揺るぎない確信があった。
「我らの道は、巨大な外科手術のようなものじゃ。病巣を正確に見極め、寸分の狂いもなく切り取り、世界そのものを健康な姿に戻す。そのためには、冷徹なまでの知性と、絶対的な力、そして、いかなるものにも揺るがぬ、鋼の戦略が必要なのじゃ」
そして、桜の隣に立つと、囁くように、こう告げる。
「あの少年のような、感情に任せた場当たり的な善意は、むしろ病巣を広げるだけの、ただの雑菌に過ぎぬ」
桜は、その言葉を、一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しで聞いていた。
―――お爺様の言う通りだ。
桜の思考は、臓硯の教育の賜物で、実に魔術師めいていた。
衛宮先輩のやっていることは、確かに、何の計画性もない、ただの自己満足なのかもしれない。それに比べて、自分たちが歩もうとしている道は、なんて壮大で、知的で、そして、崇高なのだろう。
そして、臓硯の言葉は見事に、桜の中で、衛宮士郎への微かな興味を作り替えた。新たな感情へと再定義されたといってもいいだろう。
彼は、衛宮士郎は、興味深い観察対象であると同時に、「間違った理想」を抱いた、哀れむべき症例なのだ、と。その認識は、彼女の好奇心を消し去ることはなかったが、その上に明確な優越感と、ある種の憐憫の情を重ね合わせるものだった。
「あのような、中身のない理想に、心を惑わされるでないぞ、桜。お前は、もっと大きな、本当の理想をその身に宿しておるのだからな」
「……はい、お爺様」
臓硯は、彼の言葉を素直に吸収していく桜の姿を見て、満足げに頷いた。これで、あの計算外の駒が、桜の心に与える影響を制御下に置くことができる。
だが、彼は同時に、心の片隅に、一つの注釈を書き加えていた。
衛宮士郎。それは、取るに足らない盤面の外にいるはずの駒。
だが、その駒は今、忌々しいことに、自分の最も大切なクイーンのすぐ隣にいる。今はまだ害はない。だが、注意深く監視し続ける必要のある、不確定要素である、と。
老獪な魔術師の、完璧なはずだった計画盤面に、小さな、しかし無視できないノイズが走り始めていた。そのノイズは桜の力を高める物なのか、それとも、計画を台無しにするものなのか。今はまだ分からない。