蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第十三話:師の“愛”

 臓硯による「講義」とも言える説得は、桜の心に絶大な効果をもたらしていた。衛宮士郎という存在は、彼女の中で「理解不能な興味の対象」から、「哀れむべき、間違った理想の実例」へと、明確に再定義されたのだから。

 

 その日から、桜は彼を見るたびに、彼の境遇を憐憫の情で見つめ始めていた。そして「彼と自分は違う」という、密やかな優越感が含まれるようになっていた。

 

 それは、「お爺様」の教えに従い、彼を観察し、分析するという、新たな日課の始まりでもあった。

 

「衛宮先輩、最近調子良いですね」

「間桐さんの教え方が上手いんだよ。ありがとう」

「………いえ、先輩の筋が良いのだと思います」

「そうかな?」

 

 だが、その「観察」は、結果的に桜が衛宮士郎という存在について考える時間を、以前よりも遥かに増やすことになっていた。

 

 衛宮先輩は、弓道場で、彼が誰にも見られていない場所で、黙々と道場の床を雑巾がけしている姿を見る。

 

 衛宮先輩は、頼まれもしないのに、壊れた備品を夜遅くまでかかって修理している姿を見る。

 

 衛宮先輩は、誰かが失敗すれば、自分のことのように悔しがり、成功すれば、自分のことのように喜ぶ姿を見る。

 

 衛宮先輩は、何も諦めない。出来るまで繰り返し繰り返し、愚直にやり直す。

 

 ……衛宮先輩は今日も、一番遅くまで残って弓を引いていた。

 

 その一つ一つが、臓硯の教える「合理性」や「効率」とは、かけ離れていた。あまりに無防備で、あまりに愚直で、あまりにも諦めを知らない。だが、その愚直なまでの善意に触れるたびに、桜の心には、お爺様の教えだけでは割り切れない、謎の小さな波紋が広がっていくのだった。

 

「――衛宮先輩は、本日も愚直でした」

 

 間桐家の静かな食卓で、桜は今日の「観察報告」を始めた。もはや、それは日課となっていた。

 

「雨漏りしている部室の屋根を、一人で直そうとして、案の定、足を滑らせてずぶ濡れになっていました。ですが、クラスの皆は、呆れながらも、彼に乾いたタオルを貸していました。彼は、それをとても嬉しそうに……」

 

「……そうか」

 

 臓硯は、穏やかな表情で相槌を打つ。だが、桜の口から「衛宮」という名が出るたびに、彼が持つ漆塗りの箸の先端が、ぴくりと微かに震えるのを、桜は知らなかった。

 

(最近、お爺様は、衛宮先輩の話をする時の自分の言葉を、どこか値踏みするように、じっと聞いている気がする)

 

 桜は、そんな漠然とした印象を抱いていた。

 

 

 その夜、書斎で一人、臓硯は思考の海に沈んでいた。彼の目の前には、古いチェス盤が置かれている。彼は、駒に触れることなく、ただじっと盤面を睨みつけていた。

 

(なぜ、わしはこれほどまでに苛立つのだ……?)

 

 自己問答が、頭の中で繰り返される。

 

(あの衛宮士郎という少年。あの程度の男、桜が歩む深淵の道の、道端の石ころにすらならぬ存在。計画における不確定要素としては、あまりに些末。ならば、この苛立ちは何じゃ?)

 

 彼は、自分の感情に、合理的な名前を付けようと必死だった。

 

(そうだ。これは、師として当然の感情。わしが心血を注いで磨き上げる、完璧なる芸術品が、道端のガラクタに興味を示しておる。その歪みを正し、その目を曇らせる雑念を払うのは、師としての当然の務め……)

 

 だが、と彼の魂の奥底で、もう一人の自分が囁く。

 

 本当に、それだけか?

 

 あの娘の関心が、あの娘の時間が、あの娘の思考が、このわし以外のものへと向かう。その事実そのものが、ただ、ひたすらに――不快だ、と。

 

(馬鹿な……)

 

 臓硯は、かぶりを振った。

 

(五百年を生きたこのわしが。このマキリの魔術師であるワシが。鶴野を駒として使い、雁夜を切り捨て、人の情など、とうの昔に切り捨てたこのわしが、まるで……まるで、初めて玩具を取り上げられた、幼子のような……嫉妬、だと……?)

 

 その感情は、あまりに人間的で、あまりに生々しく、臓硯が築き上げてきた老魔術師としてのプライドを、根底から揺るがした。

 

 彼は、断じてそれを認めるわけにはいかなかった。この醜い感情もまた、制御し、利用し、桜を育てるための「道具」へと、昇華させねばならぬ。そうでなければ、この世全ての悪を消し去るなど、夢のまた夢であると、臓硯は心の中で何度も唱えていた。

 

 

 翌日の道場は、空気が凍てついたかのように、張り詰めていた。

 

「桜」

 

 臓硯の声は、いつもの穏やかさを完全に消し去り、鋼のような硬質さを帯びていた。

 

「今日のお前には、新たな課題を課す。水で、五つの異なる武具を同時に形作り、それぞれを寸分の狂いなく、精密に動かし続けてみせよ」

 

 それは、これまでの訓練とは次元の違う、極めて高難度の複合魔術だった。

 

「……はい」

 

 桜は、そのただならぬ雰囲気に気圧されながらも、静かに頷いた。

 

 そして、その訓練は、熾烈を極めた。

 

 剣を、槍を、斧を、盾を、そして弓を。桜は、必死で水の武具を形作る。だが、一つを完成させれば、もう一つが形を崩す。意識を五つに引き裂かれるような感覚に、何度も失敗を繰り返した。

 

 そのたびに、臓硯の厳しい叱咤が飛ぶ。

 

「集中が足りぬ! お前の心には、まだ雑念が巣食っておる証拠じゃ!」

 

「そんな半端な精神で、我らの大願が成就できるとでも思うておるのか!」

 

「お前の目は、曇っておる! 衛宮という名の、くだらぬ幻影に!」

 

 ついに衛宮士郎の名がはっきりと彼の口から放たれる。桜は、びくりと肩を震わせた。

 

(どうしてお爺様がそこまであの人のことを……?)

 

 悔しさと、申し訳なさと、そして、なぜか分からないままに叱責される理不尽さに、桜の瞳に涙が浮かぶ。だが、桜は、その厳しい言葉の奥に、自分への失望ではない、何か別のものがあるのを感じ取っていた。

 

 それは、『なぜ分からぬのだ』『お前はこんなものではないはずだ』という、もどかしいほどの熱い期待。

 

(お爺様は、私のことを信じてくれている。私が、もっと高みへ行けることを、誰よりも信じてくれているから……だから、こんなに厳しくしてくださるんだ!)

 

 ある意味狂信とも言える臓硯へのその思いが、彼女の心を支えた。涙をぐっとこらえ、歯を食いしばり、再び水盤へと向き直る。負けたくない。この人の期待に、応えたい。そして何度も、何度も失敗を繰り返し、体内のオドが枯渇する寸前になった、その時だった。

 

 桜の意識が、ふっと無我の境地へと達する。五つの武具が、まるで最初からそこに在ったかのように、完璧な形を保ち、静かに宙に浮かんでいた。

 

 ぜえ、ぜえ、と肩で息をする桜。その姿を、臓硯は冷徹な目で見つめていた。

 

「……まだ、入り口に立ったに過ぎん。そのことを、ゆめ忘れるな」

 

 彼は、それだけを言い残すと、桜に背を向け、道場を去っていった。

 

 

 一人残された道場で、桜は、その場にへたり込んだ。身体は疲労困憊だったが、心は不思議な達成感と、師に応えられたという喜びで満たされていた。

 

 一方、廊下を歩く臓硯の内心では、黒い炎が渦巻いていた。

 

(それでよい、桜。もっと強くなれ。もっと、もっとだ)

 

 彼の思考は、もはや純粋な教育者のものではなかった。

 

(あのような半人前の、空虚な正義しか持たぬ男など、お前がその瞳に映す価値すらない、道端の塵なのだと思い知らせてやる。お前は、わしだけのものだ。わしと共に、この世の深淵を歩む、ただ一人の、最高の傑作なのじゃから……)

 

 少女は、師の厳しさの中に深い愛情を見出す。桜だけに向けられた、歪んでいるモノと知りもせずに。そして、それに応えようとさらに深く、魔術の道を求めていく。

 

 老人は、自らの内に芽生えた、醜く、そして人間的な嫉妬という感情を弟子への「師の愛」という名のより高度で、より支配的な教育へと巧みに転化させる。

 

 二人の絆は、この奇妙で、そして哀しいすれ違いによって、さらに固く、もはや誰にも解きほぐすことのできないほど、深く、深く、結ばれていくのだった。

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