臓硯による「講義」とも言える説得は、桜の心に絶大な効果をもたらしていた。衛宮士郎という存在は、彼女の中で「理解不能な興味の対象」から、「哀れむべき、間違った理想の実例」へと、明確に再定義されたのだから。
その日から、桜は彼を見るたびに、彼の境遇を憐憫の情で見つめ始めていた。そして「彼と自分は違う」という、密やかな優越感が含まれるようになっていた。
それは、「お爺様」の教えに従い、彼を観察し、分析するという、新たな日課の始まりでもあった。
「衛宮先輩、最近調子良いですね」
「間桐さんの教え方が上手いんだよ。ありがとう」
「………いえ、先輩の筋が良いのだと思います」
「そうかな?」
だが、その「観察」は、結果的に桜が衛宮士郎という存在について考える時間を、以前よりも遥かに増やすことになっていた。
衛宮先輩は、弓道場で、彼が誰にも見られていない場所で、黙々と道場の床を雑巾がけしている姿を見る。
衛宮先輩は、頼まれもしないのに、壊れた備品を夜遅くまでかかって修理している姿を見る。
衛宮先輩は、誰かが失敗すれば、自分のことのように悔しがり、成功すれば、自分のことのように喜ぶ姿を見る。
衛宮先輩は、何も諦めない。出来るまで繰り返し繰り返し、愚直にやり直す。
……衛宮先輩は今日も、一番遅くまで残って弓を引いていた。
その一つ一つが、臓硯の教える「合理性」や「効率」とは、かけ離れていた。あまりに無防備で、あまりに愚直で、あまりにも諦めを知らない。だが、その愚直なまでの善意に触れるたびに、桜の心には、お爺様の教えだけでは割り切れない、謎の小さな波紋が広がっていくのだった。
「――衛宮先輩は、本日も愚直でした」
間桐家の静かな食卓で、桜は今日の「観察報告」を始めた。もはや、それは日課となっていた。
「雨漏りしている部室の屋根を、一人で直そうとして、案の定、足を滑らせてずぶ濡れになっていました。ですが、クラスの皆は、呆れながらも、彼に乾いたタオルを貸していました。彼は、それをとても嬉しそうに……」
「……そうか」
臓硯は、穏やかな表情で相槌を打つ。だが、桜の口から「衛宮」という名が出るたびに、彼が持つ漆塗りの箸の先端が、ぴくりと微かに震えるのを、桜は知らなかった。
(最近、お爺様は、衛宮先輩の話をする時の自分の言葉を、どこか値踏みするように、じっと聞いている気がする)
桜は、そんな漠然とした印象を抱いていた。
■
その夜、書斎で一人、臓硯は思考の海に沈んでいた。彼の目の前には、古いチェス盤が置かれている。彼は、駒に触れることなく、ただじっと盤面を睨みつけていた。
(なぜ、わしはこれほどまでに苛立つのだ……?)
自己問答が、頭の中で繰り返される。
(あの衛宮士郎という少年。あの程度の男、桜が歩む深淵の道の、道端の石ころにすらならぬ存在。計画における不確定要素としては、あまりに些末。ならば、この苛立ちは何じゃ?)
彼は、自分の感情に、合理的な名前を付けようと必死だった。
(そうだ。これは、師として当然の感情。わしが心血を注いで磨き上げる、完璧なる芸術品が、道端のガラクタに興味を示しておる。その歪みを正し、その目を曇らせる雑念を払うのは、師としての当然の務め……)
だが、と彼の魂の奥底で、もう一人の自分が囁く。
本当に、それだけか?
あの娘の関心が、あの娘の時間が、あの娘の思考が、このわし以外のものへと向かう。その事実そのものが、ただ、ひたすらに――不快だ、と。
(馬鹿な……)
臓硯は、かぶりを振った。
(五百年を生きたこのわしが。このマキリの魔術師であるワシが。鶴野を駒として使い、雁夜を切り捨て、人の情など、とうの昔に切り捨てたこのわしが、まるで……まるで、初めて玩具を取り上げられた、幼子のような……嫉妬、だと……?)
その感情は、あまりに人間的で、あまりに生々しく、臓硯が築き上げてきた老魔術師としてのプライドを、根底から揺るがした。
彼は、断じてそれを認めるわけにはいかなかった。この醜い感情もまた、制御し、利用し、桜を育てるための「道具」へと、昇華させねばならぬ。そうでなければ、この世全ての悪を消し去るなど、夢のまた夢であると、臓硯は心の中で何度も唱えていた。
■
翌日の道場は、空気が凍てついたかのように、張り詰めていた。
「桜」
臓硯の声は、いつもの穏やかさを完全に消し去り、鋼のような硬質さを帯びていた。
「今日のお前には、新たな課題を課す。水で、五つの異なる武具を同時に形作り、それぞれを寸分の狂いなく、精密に動かし続けてみせよ」
それは、これまでの訓練とは次元の違う、極めて高難度の複合魔術だった。
「……はい」
桜は、そのただならぬ雰囲気に気圧されながらも、静かに頷いた。
そして、その訓練は、熾烈を極めた。
剣を、槍を、斧を、盾を、そして弓を。桜は、必死で水の武具を形作る。だが、一つを完成させれば、もう一つが形を崩す。意識を五つに引き裂かれるような感覚に、何度も失敗を繰り返した。
そのたびに、臓硯の厳しい叱咤が飛ぶ。
「集中が足りぬ! お前の心には、まだ雑念が巣食っておる証拠じゃ!」
「そんな半端な精神で、我らの大願が成就できるとでも思うておるのか!」
「お前の目は、曇っておる! 衛宮という名の、くだらぬ幻影に!」
ついに衛宮士郎の名がはっきりと彼の口から放たれる。桜は、びくりと肩を震わせた。
(どうしてお爺様がそこまであの人のことを……?)
悔しさと、申し訳なさと、そして、なぜか分からないままに叱責される理不尽さに、桜の瞳に涙が浮かぶ。だが、桜は、その厳しい言葉の奥に、自分への失望ではない、何か別のものがあるのを感じ取っていた。
それは、『なぜ分からぬのだ』『お前はこんなものではないはずだ』という、もどかしいほどの熱い期待。
(お爺様は、私のことを信じてくれている。私が、もっと高みへ行けることを、誰よりも信じてくれているから……だから、こんなに厳しくしてくださるんだ!)
ある意味狂信とも言える臓硯へのその思いが、彼女の心を支えた。涙をぐっとこらえ、歯を食いしばり、再び水盤へと向き直る。負けたくない。この人の期待に、応えたい。そして何度も、何度も失敗を繰り返し、体内のオドが枯渇する寸前になった、その時だった。
桜の意識が、ふっと無我の境地へと達する。五つの武具が、まるで最初からそこに在ったかのように、完璧な形を保ち、静かに宙に浮かんでいた。
ぜえ、ぜえ、と肩で息をする桜。その姿を、臓硯は冷徹な目で見つめていた。
「……まだ、入り口に立ったに過ぎん。そのことを、ゆめ忘れるな」
彼は、それだけを言い残すと、桜に背を向け、道場を去っていった。
■
一人残された道場で、桜は、その場にへたり込んだ。身体は疲労困憊だったが、心は不思議な達成感と、師に応えられたという喜びで満たされていた。
一方、廊下を歩く臓硯の内心では、黒い炎が渦巻いていた。
(それでよい、桜。もっと強くなれ。もっと、もっとだ)
彼の思考は、もはや純粋な教育者のものではなかった。
(あのような半人前の、空虚な正義しか持たぬ男など、お前がその瞳に映す価値すらない、道端の塵なのだと思い知らせてやる。お前は、わしだけのものだ。わしと共に、この世の深淵を歩む、ただ一人の、最高の傑作なのじゃから……)
少女は、師の厳しさの中に深い愛情を見出す。桜だけに向けられた、歪んでいるモノと知りもせずに。そして、それに応えようとさらに深く、魔術の道を求めていく。
老人は、自らの内に芽生えた、醜く、そして人間的な嫉妬という感情を弟子への「師の愛」という名のより高度で、より支配的な教育へと巧みに転化させる。
二人の絆は、この奇妙で、そして哀しいすれ違いによって、さらに固く、もはや誰にも解きほぐすことのできないほど、深く、深く、結ばれていくのだった。