蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第十四話:在りし日の同志の、その遠き影

 衛宮士郎という名の「雑念」を払うかのように、臓硯が課した熾烈な訓練は、桜の精神と技量を、さらに一つ上の段階へと押し上げた。

 彼女は師の期待に応えられたという達成感に満たされ、その心は、再び臓硯という名の絶対的な太陽だけを見つめる、澄み切った湖面のような静けさを取り戻していた。

 

 その日の夕暮れ、桜は一人、道場で自主的な訓練に励んでいた。臓硯から課されたものではない。ただ、あの日到達した無我の境地を、いつでも自在に再現できるようになりたかったのだ。

 

 彼女は、水盤の水を、極めて薄い、絹のヴェールのような膜状に広げ、空中で静かに揺らめかせていた。夕陽がその水のヴェールを通り抜け、床に七色の光の模様を描き出す。それは、魔術というよりは、もはや一つの芸術だった。

 

 その姿を、臓硯は書斎へと続く廊下の暗がりから、じっと見つめていた。

 

 桜の横顔は、真剣そのものだった。その瞳には、目の前の「作品」を完成させることへの純粋な集中だけが宿っている。私情も、雑念も、感情の揺らぎさえもない。ただ、師の教えを完璧に体現しようとする、精巧で、美しい、一つの器そのものだった。

 

 その、あまりに純粋で、どこか人間離れした横顔が、夕陽の光と特定の角度で重なる。

 

 

 その瞬間だった。

 

 

 ――臓硯の脳裏に、雷に打たれたかのように、遠い過去の光景が鮮烈に蘇った。

 

 

 それは、五百年も昔。まだ冬木の地が、その名を冠する前。

 

 薄暗い、石造りの工房。中央に置かれた巨大な羊皮紙には、複雑怪奇な魔術回路と、天体の運行図がびっしりと描き込まれていた。後の世に「大聖杯」と呼ばれることになる、壮大な奇跡の設計図だ。

 

 その設計図を、三人の男女が覗き込んでいる。

 

 一人は、若き日の自分――マキリ・ゾォルケン。その瞳は、まだ濁りを知らず、「この世全ての悪を根絶する」という、あまりに気高い理想の炎に燃えていた。

 

 一人は、この地の管理を任されていた魔術師、遠坂永人。武人然とした、実直な男。彼は、ゾォルケンの理想に共感し、そのための「場」を提供した。

 

 そして、もう一人。

 

 銀色の長い髪を三つ編みにし、血のように赤い瞳を持つ、一人の女性。

 

 ―――彼女の名は、ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン。

 

 錬金術の名門、アインツベルンが、この大儀のためだけに作り上げた、最高傑作のホムンクルス。

 

 彼女は、この計画における、誰よりも重要な「同志」だった。そして、その理想のためにその身を捧げることを定められた、「聖女」だった。

 

「――見事だ、マキリ・ゾォルケン。あなたの理論ならば、確かに『奇跡』へと手が届くやもしれない」

 

 ユスティーツァは、設計図から顔を上げ、静かにそう言った。その声には、感情の起伏というものがほとんどない。だが、その赤い瞳の奥には、ゾォルケンの理想に対する、絶対的な信頼と共感が、静かな炎のように揺らめいていた。

 

「ええ、ユスティーツァ殿」

 

 と、若きゾォルケンは興奮を隠さずに応じる。

 

「私の理論、遠坂殿の土地、そして、あなたのその身に刻まれた、神代の魔術回路。その三つが揃えば、我らは万能の願望機を創り上げ、この世から、全ての涙を永遠に消し去ることができるのです!」

 

「私の存在は、その目的のためにあります。この身が聖杯の礎となり、あなた方の理想を成就させる。それこそが、アインツベルンの、そして私の悲願」

 

 彼女の表情は、どこまでも穏やかで、その献身には、一片の迷いもなかった。その、己の使命に全てを捧げた、完璧で、神々しいまでの姿。

 

 若きゾォルケンは、その姿に、畏敬の念を抱いていた。共に、同じ夢を見る、かけがえのない同志として。

 

 

 ――幻影が、消える。

 

 臓硯は、はっと我に返った。目の前には、何も知らずに水のヴェールを操る、桜の姿がある。だが、その横顔は、今や、五百年前に失われた聖女の面影と、完全に重なって見えていた。

 

(ユスティーツァ……。そうか……。そういう、ことだったのか)

 

 臓硯の乾いた魂が、この数年感じてきた、桜に対する名状しがたい感情の正体に、ようやく思い至った。

 

(あの聖女の面影が、この桜という我が理想の器の中に、再び宿ったというのか……)

 

 それは、一度は失敗した、自らの生涯をかけた大儀の、その「最後の希望」を、五百年の時を経て再びこの目にしたという、壮絶な感動と執念そのものだった。

 

 そして、臓硯が感じていた衛宮士郎への感情も理解する。それはゾォルケンが真に志し、しかしこの500年で失われかけていた「正義の味方」の在り方を、桜を通じて見せられたからに他ならない。

 

(だが、今度は失敗せぬ……!)

 

 臓硯の心に、新たな、そしてより強固な決意が固まる。

 

(遠坂の末裔は、宝石にうつつを抜かし、我らの大願を忘れ去った。アインツベルンは、聖杯をただの万能機と履き違え、衛宮切嗣のような、理想の何たるかも分からぬ愚か者に託し、全てを台無しにした)

 

 彼の思考は、怒りと侮蔑に染まっていく。

 

(もはや、奴らは同志ではない。奴らはただの裏切り者と言っても過言ではない。この世で、我らの原初の願いを、その意味を、正しく記憶しているのは、この私、ただ一人)

 

 その拳に、老人と思えぬほどの力が宿る。

 

(そして、今、私の手の中には、ユスティーツァをも超える、最高のマキリの器がある。あれは、ただの部品ではない。私が心血を注ぎ、育て上げた、私の弟子。私の後継者。私の……最も素晴らしい、作品だ)

 

 桜への厳しい指導も、今や、彼女をより完璧な「聖女」へと鍛え上げるための、神聖な試練としての意味合いを帯びていた。

 

(そう。私の500年の全てを継ぐであろう桜が居るのであれば。マキリは是からも願いを目指していける。私は、私は……!)

 

 臓硯は、静かに廊下の暗がりから歩み出ると、訓練を終えた桜の傍らへと立った。

 

 桜は、師の気配に気づき、ぱっと顔を輝かせた。

 

「お爺様!」

 

 臓硯は、その桜の肩に、そっと手を置いた。その手つきは、いつもの師のものではなく、まるで稀代の芸術品に触れるかのような、慎重さと、そして、どこか宗教的な畏敬の念さえ含んでいた。

 

「――桜よ。お前は、美しい」

 

 その、あまりに唐突な言葉に、桜は目を丸くした。

 

「この世の、どんな宝石よりも気高く、どんな深淵よりも、奥深い。お前こそが、この救いようのない、醜悪な世界に残された、ただ一つの希望なのじゃ」

 

 桜には、その言葉の背後にある、五百年の時をかけた執念の重さなど、知る由もなかった。彼女はただ、敬愛する祖父からの、最高の賛辞として、その言葉を受け取った。彼女の頬が、喜びと誇らしさで、ぽっと赤く染まる。

 

「はい、お爺様」

 

 桜は、満面の笑みで、はっきりと答えた。

 

「桜は、お爺様の夢を、必ず叶えます」

 

 少女は、その「夢」が、この世全ての悪を根絶するという、途方もなく、そして血塗られた願いであることなど、知りもしないままに、無垢な誓いを立てる。

 

 老人は、その少女の姿に、遠い昔に失った「同志」の面影を重ね、今度こそ、その理想を成就させんと、その歪んだ決意を、新たにする。

 

 二人の歪んだ師弟関係は、この日、五百年の時を超えた「悲願」と完全に重なり合い、もはや誰にも止めることのできない、一つの運命となって、聖杯戦争という名の、祭壇へと向かい始めていた。

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