蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第十五話:聖杯戦争の序曲

 桜の瞳に、ユスティーツァという名の聖女の面影を見出して以来、臓硯の指導方針は、新たな段階へと移行していた。

 

 それはもはや、単なる魔術の技量を高めるための「訓練」ではなかった。彼の悲願を成就させるための、唯一無二の後継者、あるいは「聖女」を完成させるための、神聖な「儀式」そのものだった。

 

 書斎での講義の内容は、より深く、より根源的なテーマへと踏み込んでいった。

 

「桜。この世界はな、病んでおる」

 

 ある日の午後、臓硯は、新聞に掲載された、遠い国で起きた痛ましい事件の記事を指し示しながら、静かに語り始めた。

 

「この記事を見よ。理由もなき憎悪、尽きることのない欲望、そして、それらが引き起こす、無意味な死。これら全てが、この世界という名の巨大な生命体を蝕む、悪性の『病巣』なのじゃ」

 

 彼は、もはや魔術の理論だけを教えなかった。彼は、桜に「世界」を教え始めた。その光ではなく、彼が憎んでやまない、その深い、深い闇の部分を。

 

「人の心に巣食う『悪』。それこそが、我らマキリが五百年前に根絶を誓った、全ての苦しみの根源。我らがこれから行うことは、この病巣を、世界から完全に、そして永遠に、外科手術で以て切除することなのじゃ」

 

 外科手術。その言葉を、桜は真剣な表情で胸に刻む。お爺様の言う通りだと心の底から桜は思うようになっていた。

 

 ――この世界は、苦しみに満ちている。自分のように、家族に捨てられる子供がいる。理由もなく、命を奪われる人々がいる。

 

 その全てを無くす。

 

 それは、なんて気高く、そして正しい行いなのだろう。

 

 桜は、もはや臓硯の言葉に、一片の疑いも抱いていなかった。

 

 

 彼の語る理想は、彼女自身の理想となっていた。

 

 

 彼の見る世界は、彼女自身の見る世界となっていた。

 

 

 二人の魂は、師弟という関係を超え、一つの目的を共有する、完璧な「同志」として、融け合いつつあった。

 

 その変化は、桜の操る魔術にも、明確な進化をもたらしている。

 

 彼女の操る水は、もはや単なる物理的な液体ではなかった。それは、概念そのものに干渉する、虚数魔術の力を帯び始めていた。

 

 

 虚数魔術の兆しを認めた臓硯は、道場で一つの実験を行った。彼は、呪いを込めた古い短剣を、水盤の中に投げ入れた。その短剣は、持ち主の血を吸い怨念を宿した、紛れもない呪具であった。

 

「桜。この水の穢れを、祓ってみよ」

 

「はい」

 

 桜は、静かに頷くと、水盤に意識を集中させた。彼女は、水を物理的に動かし、短剣を洗い流そうとはしなかった。彼女は、水の持つ「浄化」という概念そのものを、極限まで増幅させたのだ。

 

 彼女の意思に応え、水盤の水は、その色も形も変えることなく、ただ、その「在り方」を変えた。水は、聖別された神域のそれのように、清浄な気を放ち始める。

 

 すると、水中の短剣から、黒い靄のようなものがゆらりと立ち上り、清浄な水に触れた瞬間、悲鳴のような音を立てて霧散していった。やがて、短剣を纏っていたおぞましい気配は完全に消え去り、ただの古い鉄の塊だけが水底に静かに横たわっていた。

 

 臓硯はそれを水の中から拾い上げる。そして、少しそれを確認した後に、口角を上げながら、桜にこう告げた。

 

「……見事じゃ」

 

 それは心の底からの、感嘆の声であった。

 

(これじゃ。これこそが、わしが求めていた力……!)

 

 ただ破壊するのではない。

 

 ただ浄化するのでもない。

 

 存在そのものの定義を書き換え、悪性のものを無価値なものへと「変質」させる力。これこそが、虚数魔術の一つの方向性であり、世界という巨大な患者を「治療」するために、必要不可欠な能力だった。

 

(もはや、疑う余地はない。この娘こそが、わしの、そしてマキリの、五百年の悲願を成就させる、唯一の希望……!あの汚染された聖杯すらも、この桜の力ならば……!)

 

 

 そして季節が流れ、桜が高校一年生になった春。臓硯は、ついに、その時が来たと判断した。

 

 その日、彼は桜を、道場でも書斎でもない、あの蟲蔵があった、今はがらんどうとなった地下の広大な空間へと連れて行った。そこは、かつての醜悪な過去と決別し、臓硯が新たな決意を固めた、始まりの場所だった。

 

 ひんやりとした、静寂に満ちた空間。中央に立つと、自分たちの声が聖堂のように厳かに響いた。

 

「桜」

 

 臓硯は、桜に向き直った。その表情は、これまでにないほど真剣で、そして、どこか神聖な光さえ宿しているように見えた。

 

「今日はお前に、我らがこれから行う、世界を救うための、最後の儀式について話しておかねばならん」

 

「最後の……儀式……」

 

「うむ。その名を――聖杯戦争という」

 

 聖杯戦争。桜は、その言葉を、静かに反芻した。臓硯は、ゆっくりと語り始めた。

 

「この冬木の地にはな、60年に一度、強大な魔力が満ちる時が来る。……ただ、此度はその限りではない。前回の聖杯戦争の最後に使用されなかった魔力が残っているのだ」

「前回の聖杯戦争……?」

「うむ。表向きには冬木の大災害として伝わっているものじゃ。約10年前の話じゃの」

 

 桜は驚きで、少しだけ目を見開いていた。まさか、大災害が魔術的な儀式だったなんて、と。臓硯は驚く桜を尻目に、言葉を続けた。

 

「ともかく、その力を利用し、七人の魔術師が、それぞれに過去の英雄の魂、『英霊』を使い魔として召喚し、互いに殺し合わせる。そして、最後まで勝ち残った一組だけが、あらゆる願いを叶えるという『聖杯』を手にすることができる。それが、表向きの聖杯戦争の姿じゃ」

 

 殺し合い。その言葉に、桜の眉が微かにひそめられる。だが、臓硯は静かに続けた。

 

「じゃが、桜。それは、本質を理解しておらぬ、愚か者たちのための見せかけの儀式に過ぎぬ。我らにとって、聖杯戦争とは、願いを叶えるための醜い争いではない」

 

 彼は、その空間全体を指し示すように、両腕を広げた。

 

「ここが、手術室じゃ。そして、聖杯戦争という儀式そのものが、我らが世界という名の患者にメスを入れるための、最高の『オペレーションテーブル』なのじゃよ」

 

 臓硯の言葉は、桜の心に、一つの壮大なビジョンを描き出した。

 

「他の六人のマスターと、そのサーヴァント。彼らは、我らの大儀を邪魔する障害物だ。あるいは、それ自体が世界を蝕む『病巣』の一部だ。我らは、彼ら全てを排除し、この冬木の地に満ちる全ての魔力を、完全に掌握する」

 

 少し興奮しているのだろう。臓硯は拳を握り、そして力説を続ける。

 

「――そして、その莫大な力と、お前のその類まれなる才能とを以て、聖杯を、我らの手で『真の願望機』へと作り変える。個人の矮小な願いを叶えるための装置ではない。この世全ての悪を根絶し、全ての苦しみを消し去るための、大いなる救済の装置へとな」

 

 桜は、息を呑んだ。なんと、壮大で、なんと気高い計画なのだろう。他の魔術師たちが、己の欲望のために殺し合うというのなら、それはまさしく、お爺様の言う「病巣」そのものだ。

 

 それを排除し、世界を救う。それこそが、自分たちが歩んできた「深淵の道」の、最終目的なのだ。

 

 恐怖はなかった。あるのは、身の引き締まるような、神聖な使命感だけだった。自分は、このために生まれてきた。このために、お爺様と出会い、その教えを受けてきたのだ。

 

「お爺様。私、戦います」

 

 桜は、顔を上げ、はっきりと宣言した。その瞳には、一点の曇りもない。

 

「お爺様の、そして、私たちの夢を叶えるために。この身がどうなろうとも、必ずや、この聖杯戦争を勝ち抜いてみせます」

 

 その、あまりに純粋で、揺るぎない覚悟。

 

 その姿は、かつて、自らの身を聖杯の礎とすることを、一片の迷いもなく受け入れた、聖女ユスティーツァの姿と完全に重なっていた。

 

「……うむ」

 

 臓硯は、満足げに、そして、どこか慈しむように深く頷いた。彼の計画の、最後のピースが、今、完璧に嵌まろうとしていた。

 

「よくぞ言った、桜。それでこそ、わしの弟子じゃ」

 

 臓硯は、桜の肩に手を置いた。

 

「じゃが、この大手術に臨むにあたり、お前にも最高の道具が必要となる。ただのメスではない。あらゆる病巣を、寸分の狂いもなく切り裂くことのできる、神の如き切れ味を持つ、最高の『執刀医の刃』がな」

 

「執刀医の刃……?」

 

「そうじゃ」

 

 臓硯は静かに告げた。

 

「お前自身の力で、この世で最も強力な魂を、過去の時代から呼び覚ますのじゃ。お前の右腕となり、我らの悲願を成就させるための、最強の使い魔――サーヴァントをな」

 

 聖杯戦争という名の、地獄の釜が開こうとしている。だが、二人は、それを地獄だとは微塵も思っていなかった。

 

 それは、世界を救うための、神聖で、偉大な儀式の始まり。

 

 少女は、自らが聖女となることを、疑いもしない。

 

 老人は、自らが神の代行者となることを、信じて疑わない。

 

 歪んだ師弟の絆は、今、一つの狂信となって、その最後の準備段階へと、静かに足を踏み入れたのだった。

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