蟲の爺は人間の夢を見るか?   作:灯火011

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第十六話:執刀医の資格

 聖杯戦争という名の「大手術」の決行が、師弟の間の厳粛な誓いとなって以来、間桐の屋敷の空気は再びその色合いを変えた。桜が感じていた、家族のような穏やかな温もりは後退し、その場所を、決戦前の司令部のような、張り詰めた緊張感が占めるようになっていた。

 

 特に、彼らの道場での訓練は、その内容が一変した。

 

 これまでの訓練が、自らの内なる宇宙を探求し、美を形作る、いわば芸術家のそれであったとするならば、今の訓練は、敵の急所を寸分の狂いもなく、そして一片の情けもなく抉り出す、暗殺者、あるいは殺人者のそれだった。

 

「桜。我らがこれから臨む聖杯戦争は、どれだけ高説を述べたところで、結局は魔術師同士の殺し合いじゃ」

 

 桜に語りかける臓硯の口調は、もはや優しい師のものではなかった。

 

「彼らにとって、年若く、経験の浅いお前は獲物以外の何物でもない。世界を救う執刀医となる前に、まず、お前自身がこの冬木という森の食物連鎖の、頂点に立たねばならん」

 

 それは、百戦錬磨の将軍が、初陣を控えた兵士に、戦場の現実を叩き込む冷徹な響きを帯びていた。

 

 そして彼は、桜に、対魔術師戦闘のイロハを、徹底的に教え込み始めた。隠蔽、奇襲、結界術、そして何より「魔術師を殺すための魔術」を。

 

 

 ある程度、魔術師殺しの基礎を教え込み、桜の魔術が一つ上の段階に進んだころ、臓硯は一つの覚悟を持ってその日、一体の人間大のゴーレムを道場の中央に立たせた。その胸の中心には、擬似的な魔術回路が埋め込まれ、心臓のように、淡い光を明滅させている。

 

「お前の今日の課題は、この人形の身体を可能な限り傷つけることなく、内部にある『核』のみを、正確に破壊することじゃ。執刀医は、患者をむやみに切り刻んだりはせぬ。病巣だけを、正確に、そして速やかに、切除する。やってみよ」

 

 桜は、こくりと頷き、ゴーレムと向き合った。

 

(怖い……)

 

 本能が警鐘を鳴らす。だが、その迷いは『お前こそが、この世界に残された、ただ一つの希望なのじゃ』という臓硯の言葉で霧散する。

 

 そうだ。

 

 これは、必要なことなのだ。

 

 世界を救うという、気高い目的のために。

 

 桜は、瞳に宿った僅かな揺らぎを、鋼の意思で押し殺した。彼女が魔力を高めた瞬間、ゴーレムが反応し、岩のような拳を振り上げる。

 

「GYAAAAAAAA―――!!!!」

 

 一瞬で距離を詰め、桜を叩き潰そうとするゴーレム。だが、それを前にしても、桜はもう迷わない。

 

「――穿て」

 

 短い詠唱と共に、桜の手から放たれた黒い水の針は、ゴーレムの胸板を幻のようにすり抜け、内部の魔術回路を正確に貫いた。

 

「―A――――!!!……」

 

 ぎ、ぎぎ……、と痙攣したゴーレムは、やがて生命を失ったただの人形となり、どさり、と重い音を立ててその場に崩れ落ちた。

 

 桜は、息を詰めてその光景を見つめていた。胸の中に、高揚感はない。あるのは、ただ、課された任務を完遂したという、冷たい達成感だけだった。

 

「……おお……桜、見事じゃ」

 

 背後から、臓硯の静かな声がした。その声には、確かに満足の色が滲んでいた。

 

「その覚悟、その技量。今のお前ならば、資格は十分にあると言えよう」

 

「資格……?」

 

「うむ」

 

 と臓硯は頷き、そして、まるで遠くの音を聞くかのように、ふっと意識を外へと向けた。

 

 「……やはり、来たか。桜、よく聞け。たった今、この冬木のレイラインが、その様相を変えた。60年に一度の……いや、此度は10年ぶりの、星辰の時。我らが待ち望んだ、聖杯戦争の開幕が、聖杯自身によって宣言されたのじゃ。土地の魔力の高まりを、お前も感じるじゃろう?」

 

 聖杯戦争の、始まり。その言葉が、道場の張り詰めた空気をさらに震わせる。

 

 桜が、ゴクリと唾を飲んだ、その瞬間だった。

 

「……あっ」

 

 激痛ではない。だが、左の手の甲に、これまで感じたことのない、疼くような、むず痒いような、奇妙な熱が走った。

 

 桜が、はっとして自分の手の甲を見下ろす。紋様は、ない。

 

 だが、皮膚の下で、何かが確かに蠢いている。見間違いかと思うほど、ほんの一瞬、血管が淡い赤色の光を帯びて、複雑な模様を描き出したように見えた。だが、それはすぐに消え、後には、微かな熱感だけが残っている。

 

「お爺様、今、手が……」

 

「うむ。わしにも見えた」

 

 臓硯は、しかし慌ててはいなかった。むしろ、その現象を、待ち望んでいたかのように、厳粛な面持ちで見つめている。

 

「それじゃ。それこそが、お前が聖杯に『マスター候補』として、正式に選ばれたという証。令呪の『兆し』じゃよ」

 

「令呪の……兆し……」

 

「そうじゃ。まだ形を成しておらぬ、花開く前の蕾のようなものよ」

 

 臓硯は、桜の前に膝をつくと、その瞳をまっすぐに見つめた。

 

「だが、その蕾が開くかどうかは、これからの、お前自身にかかっておる。お前が、これから出会うであろう、過去の英雄の魂――サーヴァントを、真に召喚し、従えるに足るマスターとなったその時に。その聖痕は初めて、完成した姿でお前の手に刻まれるじゃろう」

 

 彼の言葉は、桜の心に新たな、そしてより重い意味を持つ覚悟を刻み付けた。自分は、まだ半人前なのだ。マスターとして選ばれる可能性を、聖杯に示されたに過ぎない。

 

「今日の日は、いわば、お前がそのための最終試験に合格した日ということじゃ」

 

 と臓硯は言った。

 

「『世界を救うための執刀医』となるための、仮免許が与えられた、とでも思えばよい」

 

 仮免許。その言葉が、桜の胸にすとんと落ちた。

 

 桜は、まだ微かな熱を帯びる自分の左手を見つめ、そして、固く、固く握りしめた。この疼きは、不安の印ではない。聖杯が私に、期待している証なのだ、と。

 いつかこの手に、本物の聖痕が刻まれるその日まで、自分はもっと強くならなければならない。お爺様の、そして聖杯の期待に、応えなければならない。

 

 彼女の瞳から、最後の甘えが消え去った。

 

 そこに宿るのは、自らの運命を、その両手で掴み取ろうとする、戦士の強い意志そのものだ。

 

 ―――そして、聖杯戦争の開幕は宣言された。

 

 一人の少女は、その身に「兆し」を宿し、真のマスターとなるための、最後の階段を、今、上り始めたのだった。

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