左手の甲に令呪の「兆し」が宿って以来、桜と臓硯の時間は、より濃密で、そして静かな熱を帯びたものへと変わっていった。その姿はまるで、決戦を前にした司令官と、その懐刀たる副官が、二人きりで最後の作戦を練り上げる神聖な密議の時間のようだった。
その夜も、二人は臓硯の書斎にいた。窓の外では、冷たい夜風が屋敷の木々を揺らす音が聞こえる。暖炉の火が、ぱちぱちと静かに爆ぜ、壁一面の書物の背表紙をまるで生きているかのように揺らめかせていた。部屋には古い羊皮紙の匂いと、臓硯が好んで焚く白檀の香が厳かに満ちている。
そして机の上には、冬木市の古地図が広げられていた。その上には、川の流れや霊脈の位置が、朱色の線で複雑に書き込まれている。臓硯は、その地図を長い指でなぞりながら、静かに口を開いた。
「桜。今宵は、お前がこれから戦うことになる、敵について教えよう。聖杯戦争とは、七人のマスターと、七騎のサーヴァントが争う儀式。敵を知らずして、我らの大儀を成し遂げることはできぬ」
彼の声は、いつになく低く、そして重かった。
「サーヴァントとは、過去、あるいは未来の、伝説に謳われた英雄の魂が、この世に召喚されたものじゃ。彼らは、その功績に応じ、七つの『クラス』という名の器に割り振られる。お前は、この七つの刃の特性を、完全に理解せねばならん」
臓硯は、まず、地図の上に、三つの黒い石を置いた。
「セイバー、アーチャー、ランサー。この三つは、三騎士と呼ばれ、総じて高い能力を持つ。特にセイバーは、最優のクラスと謳われ、多くの者がこのクラスの召喚を望むじゃろう」
彼の口調には、どこか侮蔑の色が滲んでいた。
「セイバーの英雄とは、いわば『正義の顔』じゃ。その戦い方は、高潔で、実直で、そして、力強い。故に、最も読みやすい。彼らは、我らが歩むような、深淵の道を理解できぬ。真正面からぶつかることしか知らぬ、扱いやすいが、面白みのない駒よ」
次に、彼は、三つの白い石を置いた。
「ライダー、キャスター、アサシン。これらは、三騎士に比べて、より特殊で、戦略的な運用が求められる駒じゃ」
彼は、料亭や港など、地図上の特定の場所を指し示しながら、説明を続ける。
「ライダーは、その乗り物や、軍勢を率いるといった、強力無比な切り札(宝具)を持つことが多い。キャスターは、陣地を作成し、戦場そのものを己の法則で書き換える。アサシンは、その名の通り、マスターを直接狙う、暗殺の専門家じゃ。それぞれが、使い方次第では、三騎士をも凌駕する、鋭い刃となりうる。じゃが……」
彼は、そこで一度、言葉を切った。
「……彼らだけでは、戦争そのものには勝てぬ。彼らの力は、あまりに特殊で、限定的じゃ。我らが行うのは、ただの一度の暗殺でも、籠城戦でもない。この冬木全土を盤上とした、殲滅戦なのじゃからな」
そして、最後に。臓硯は、ひときわ大きく、そして血の色のように不吉な、赤い石を取り出した。彼は、それを、冬木市の中心、すなわち大聖杯が眠る円蔵山の麓に、ことり、と置いた。
「――そして、七つ目のクラス。バーサーカー」
その名を口にする時、臓硯の瞳の奥に、これまで見せたことのない、狂信的な光が宿った。
「理性と引き換えに、絶大な力を得る、狂戦士のクラスじゃ。多くの魔術師は、このクラスを、制御不能な危険物として、あるいは、最後の手段としてしか考えぬ。意思の疎通もできず、ただ破壊を撒き散らすだけの、暴走する道具。そう、侮ってな」
彼の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「じゃが、桜。その評価こそが、愚か者の証明なのじゃ。考えてみよ。我らがこれから行う大儀とは、すなわち、世界という狂った患者を治療する、神聖な狂気そのものではないのか? ならば、我らが振るうべき刃もまた、人の矮小な理性を超越した、絶対的な『力』の奔流であるべきではないのか?」
■
桜は、息を詰めて、それらの言葉に聞き入っていた。
「他のマスターどもは、英雄たちの、その伝説や、人格や、誇りといった、くだらぬ枷に縛られたサーヴァントを召喚するじゃろう。じゃが、我らは違う。我らが召喚するのは、純粋なる『災厄』そのもの。意思も、理性も、感情さえも捨て去り、ただ、マスターの命令に従い、敵を殲滅するためだけに存在する、歩く破壊の化身。それこそが、最も効率的に、最も圧倒的に、この戦争を終わらせるための、至高の一手。これこそが、新生間桐の、戦い方なのじゃ」
バーサーカー。その、恐ろしい響き。
だが、桜の心に、恐怖はなかった。むしろ、ぞくぞくとするような、戦慄にも似た興奮を感じていた。
そうだ。お爺様の言う通りだ。
世界の狂気を正すには、より大いなる狂気が必要なのだ。
中途半端な正義や、感傷に浸った英雄ごっこでは、何も救えない。
絶対的な力で以て、全ての病巣を、根こそぎ焼き払う。それこそが、自分たちが選んだ「深淵の道」に、最もふさわしい。
「しかし、お爺様」
桜は、初めて質問を口にした。
「理性を失ったバーサーカーを、本当に、私たちの戦略通りに動かすことができるのでしょうか?」
その問いに、臓硯は満足げに頷いた。
「それこそが、マスターの資質が問われる点じゃ、桜。そして、それ故に、この役目はお前にしか務まらぬのじゃ。並のマスターでは、バーサーカーの狂気に呑まれ、逆に喰われるのが関の山。じゃが、お前は違う。お前のその類まれなる魔術回路、お前のその強靭な精神、そして、聖杯がお前に与えるであろう、三度の絶対命令権。その全てが、この荒ぶる神を繋ぎ止める、最強の鎖となる」
彼は、そっと桜の肩に手を置いた。
「お前は、わしの最高傑作なのじゃ。お前に御せぬ駒など、この世には存在せぬわ」
その言葉は、桜の心に、絶対的な自信と、使命感を深く、深く刻み付けた。
■
講義は、終わった。机の上の地図は、もはやただの地図ではなかった。それは、七つの見えざる刃が、互いの喉元に切っ先を突きつけ合う、血塗られた戦場の盤面と化していた。
「今夜からの、お前の課題じゃ」
臓硯は、数冊の分厚い神話体系の書物を、桜の前に置いた。
「古今東西の、狂える英雄、あるいは、その強大な力故に、人に恐れられた神々の伝説を読み解け。そして、我らが振るうべき、この『究極の刃』に、最もふさわしい魂を見つけ出すのじゃ」
その夜、桜は自室に戻り、ランプの灯りの下、黙々と神話の書物を読みふけっていた。
ケルトの光の御子、ギリシャの大英雄、インドの破壊神。
そのページをめくる彼女の横顔は、もはや、ただの魔術の教え子ではない。
自らが率いる軍団の、最強の駒を選ぶ、若き将軍の顔つきだった。
聖杯戦争という名の、避けられぬ運命。その重圧が、少女の肩に確かな実感となって、のしかかり始めていた。